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はじめに
「信仰」と対極にあるのが科学の営みであるという一般の了解があり、これに対するアンチテーゼとして「科学への信仰」の存在を指摘する議論がある。例えば科学の重要性を力説する言説を評して、それは「科学への信仰告白」であると主張する。
私は、それは「信仰」ではなく「信頼」であると応える。「信頼」と「信仰」とは、本質的に異なる心の動きを表現する言葉である。例えば自然科学の研究者である私の知人や恩師にも熱心なクリスチャンがいるが、彼女・彼らが科学へ向ける「篤い信頼」と、帰依している宗教へ向ける「信仰」とが、全く異なる<相>に属していることは、その信仰告白を具体的に聴けば明らかである。両者は異なる言葉を用いて表現されるべきものであり、そのこと自体は何も難しい議論ではない。
「信頼度」は定義できるが、「信仰」はそうではないだろう。また、「信頼度100%」イコール「信仰」ということでもない。心の動きとして、典型的な「信頼」と典型的な「信仰」という二つの端成分があるとき、その両者に共通する領域を表現しようとするなら、別の言葉を用いるべきなのだ。
この点では、科学の作法やその生態をかならずしも理解している訳ではない者が科学への「篤い信頼」を口にすることがあるとして、それは「信仰」と何が違うのかといった議論は意味があるかもしれない。つまり、「篤い信頼」の理由を問いただして、特定の宗教への信仰告白と同じ言葉を用いて返された時に、それは「信仰」であると言えるだろう。そうでない限り、むやみに「信仰」という言葉を用いるべきではない。
ところで、上記のような、「信仰」と「信頼」は<主体>と<対象>の観察を通した実体論的な整理によって識別できるとする立場に対して、それこそが科学の方法に依っているのであり、科学への信仰に根ざしているとする指摘がなされうる。この問題の本質はここにある。
まず、科学と信仰のそれぞれについて整理してみよう。
科学の定義と立場
「科学」とは、外的世界についての認識を深めようとしてなされる<文化的営み>であり、その手段として、外的世界に生起する<事実>を基礎に取り組もうとする<態度>のことである。
求められる認識の内容としては、外的世界の要素、その要素が造る構造、その構造を造ったり変化をもたらしたりするプロセス、および、そこに潜む法則などがあるだろう。これまで、「人々に共通する問題の解決を目指してなされる」と書いたこともあるが、このことは、科学の発祥に遡っての言及であり、定義上はかならずしも本質的なことではない。
ここで、「外的世界」を「客観的世界」と言い替えても良い。すなわち、「事実」とは「客観的事実」のことである。当然そこには、人類史的な哲学的課題であり続けた主観と客観の相互浸透という問題がつきまとう。科学および哲学にまつわるあらゆる問題はそのことに集約されると言っても過言ではない。
この点では、「客観的世界」が実在するという信念が正しいか否かにかかわらず、人々が独立に共通の事実認識を得る純粋意識の作用を明らかにしたフッサール現象学の立場が科学の拠り所を支えている。
この時、共通の事実認識が得られているというその認識そのものが主観にすぎないのではないかといったクレームもまたおこりうる。この主観と客観の相互浸透という問題は、本質的には科学の守備範囲外ではあるが、このことに無謀とも言える挑戦を続けることによって近代科学が成立したこともまた事実である。
すなわち近代科学は、基本的に「個人の(事実)認識」を信用しないという徹底した懐疑主義の立場に立つ。そのため、科学の学説は、証拠として採用される<事実>が任意の第三者に確認可能であることを保証しようとする体裁を整えた上で発表され(再現可能性)、しばしばその「保証書」にも疑いの眼差しが向けられる。
このような作法が哲学的に正当な解であるかどうかは、ここでの議論とは関係がないが、こうした科学の<生態>は、件の議論に少しだけ関係している。
信仰について
信仰ということで思い出されるのは、「比較音楽学」を確立して世界的な名声を得た小泉文夫(1927-1983)のことである。小泉は、もともと敬虔なクリスチャンであって、教会活動の中で加古三枝子氏と知り合い、結婚する。その後二十代後半より、世界各地の「未開の地」への命がけの音源採集の旅に出る。そのフィールドワークの途上で、世界の隅々に存在している多様な宗教に接し、そのことを契機として自らの信仰そのものを捨ててしまうことになる。多様な価値観と深い接触をくり返すことで、唯一絶対的・超越的な存在への帰依から脱して価値相対主義へと向かったのであろう。
小泉文夫のその後の活動を振り返れば、特定の宗教への信仰心を捨てるということと、宗教という存在そのものを人類に無用のものとして軽視したり排斥したりする発想とは別物であることに気づく。小泉は後者の態度をとることはなかった。逆に、宗教と音楽との結びつきが人類の文化を深く豊かなものにしているという確信から、世界の民族音楽の普及に命を削って尽くしたのである。両者の違いは、「信仰」という言葉の語法上の範囲にかかわって重要と思われる。「信仰」という言葉を用いるべき守備範囲とはどのようなものだろうか。
例えば、岩波の「広辞苑」(第二版補訂版)には次のように記されている。
信仰:信じたっとぶこと。宗教活動の意識的側面。神聖なもの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。
宗教:神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗的なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連鎖的体系。(以下省略)
信ず:(1)まことと思う。正しいとして疑わない。(2)信仰する。帰依(きえ)する。
帰依:神・仏などすぐれた者に服従し、すがること。帰投し依伏すること。
上記の記述が循環論法に陥っているのは、その世界が閉じていることの証でもある。すなわち、「信仰」とは、ある種の<超越的な存在>を、論理的な理由なしにまるごと信じて<疑わない>心の動きということであろう。このことは、先に整理したように、科学が基本的に懐疑主義の立場に立つことと対立する。そのため、冒頭で述べたように「信仰」を「科学」と疎遠なものと考える伝統的な理解が成立したのだと思う。
信仰の対象と主体
この問題では、科学者個人、科学者集団、特定の科学理論(学説)などを対象として「信仰」かどうかが議論になることもあるのかもしれないが、あまり本質的なこととは思われない。科学が基本的に、懐疑主義の立場にあることを理解する者であるなら、「信頼」という言葉で十分である。主要な問題は、科学という方法そのものへの信頼もしくは信仰である。
一般に、科学という方法、あるいは科学の定義そのものの認識が人によって異なっている。すなわち、自らがその時点で正しいと考えて採用している「定義」への態度という議論になる。この場合、自らの着想の正しさについての信念や確信を「信仰」と呼ぶべきでないことは、先に整理した「信仰」の定義上明らかである。この点では「信頼」との表現もなじまないと言われれば、その通りである。
一方で、科学の定義など考えたこともない者が、特定の科学者や、特定の学説、科学の営みや方法そのものを信頼するということがあるとして、この「信頼」は、「信仰」とどう違うのか。おそらく、そうした「信頼」は、経験的に獲得されたもので、場合によっては、簡単に突き崩すことさえできるものかもしれない。
冒頭で述べたことをくり返すと、「篤い信頼」の理由を問いただして、特定の宗教への信仰告白と同じ言葉を用いて返された時に、それを「信仰」と呼んでも良いだろう。「信頼」と「信仰」を識別するには、主体と対象の関係についての実体論的な観察を要するということであり、第三者だけでいくら議論してもわからないことが多い。
このように書くと、そうした発想こそが科学の方法に依拠しようとしているのであり、科学への信仰に根ざしたものだとの指摘がなされることがある。このような切り口の議論は、共通の言葉が適用可能な一つの土俵を超えるので、別の新しい言葉を用いてなされるべきである。それを敢えてしないのは、神の視点から問題を論じようとする態度に他ならい。宇宙論における「人間原理」も同じ問題をかかえている。
こうした発想が、論理的な議論を不能にすることは、ゲーデルの「不完全性定理」によって論証され、同じことを指してウィトゲンシュタインは、「語り得ぬものには口をつぐむべきである」と述べた。論理的には語り得ぬ議論にも多弁であって良いが、実りはない。
おわりに
こうした議論は、おそらく、現代科学が巨大化・細分化・高度化され、理解不能なものになっているという漠然とした不安が土壌としてあり、科学はしばしば出しゃばりすぎるとの反発心が契機となって湧き出てくるのだろう。「反科学主義」の台頭、スピリチュアルブームなども同根なのではないだろうか。
私は、科学に対するそうした誤解を解きたいと思う。そのことは、実は、全ての人々が、自ら科学の方法を用いて日々を暮らしているのであるとの自覚を広めることで成し遂げられると考えている。逆説的だが、科学の方法は、たとえ洗練されてはいなくとも、却って自覚を困難にするほど私たちの日々の暮らしの中に空気のように染み渡っているのである。
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