さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

科学と認識

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 前回のエントリーでは「水からの伝言」を批判する私の視点が「疑似科学」へ向けてのものではないと述べた。この例のように、「科学を装い、基本的な部分において虚偽の内容を主張するような科学に叛く行為」を、大阪大学の菊池誠氏の定義に従って「ニセ科学」と呼ぶことにしよう。「ニセ科学」の目的は、科学の社会的権威を利用して何らかの便益もしくは利益を得ようとするものであることが多い。一方、科学を志しながら科学の域に達していない段階にあるものを、ここでは「未科学」と呼ぶことにする。これもきっと誰かが既に定義しているに違いない。

 二十世紀初頭の「ウイーン教育研究所」の哲学教授であったビュラーが「現実の科学者は、まず先に解答を思いえがき、それからそれをささえる事実をさがし始める」と述べたように、この意味での「未科学」は、実は科学の世界にありふれている。一般論として言えば、「未科学」は、科学的でありたいとの反省を繰り返すことで、やがて科学へと成長し、科学としての成果を生みだす可能性を秘めている。「未科学」の中には、真に科学を志してなされているという意味において、本質的には既に科学であると言ってよいものもある。

 では「疑似科学」とは何だろう。字義からすると「科学に似ているが科学ではないもの」ということになる。ポパーは、反証可能性のないものを「疑似科学」としてこれを批判したが、本年5月の「『科学的』とはどういうことだろう」と題した一連のエントリーで明らかにしたように、反証可能性を科学の要件とすることはできない。それが科学であることの唯一の要件は、「外的世界に生起する事実に学説の基礎を置く」というものであり、反証可能性を重視することや論理性は科学の進歩を支える方法論であるに過ぎない。

 科学のコミュニティでは、それが科学であることを保証するために任意の第三者による<事実>の再現性が求められる。科学をなす者はその要求に応える義務があるとの暗黙のプレッシャーのもとで仕事をする。結果として科学の学説は、その基礎となる<事実>が再現可能であることを示す体裁を整えた上で公表・主張されることになる。「未科学」ではそれが不十分な段階にあるわけだ。また、<事実>の選択に明らかな恣意性が認められるもの、ある<事実>から出発してどこまで言えるかといった推論に、「可能性」を主張する以上の無理があるものなどを含めても良いだろう。そうした欠点が大きいと「事実に学説の基礎を置く」という科学の態度に実質的に反することになるからである。

 そこで、「未科学」の段階にあるものに対していろいろな批判や助言がなされるが、中には、そうした批判や助言に耳をかさず、これで十分科学の域に達していると開き直るものがある。ここではそうした態度をとるものを「疑似科学」と呼ぶことにしよう。SFのように科学に似せて語られるフィクションは、それが真の科学ではないことを暗黙のうちに自己申告しているという点において、ここで用いる「疑似科学」からは除外される。

 「疑似科学」の生態学的な特徴は、科学の権威を認めながら、その実、人の文化としての科学そのものの価値を軽んじ、科学を護り育てようとの意思が認められず、「科学的」とはどういうことであるかについて日々反省したりせず、結果的に科学の権威を貶める役割を果たしていることにある。このことは、「疑似科学」の目的が、科学の権威を利用して、その成果や波及効果や科学のポーズをとること自体に何らかの便益なり付加価値なりを期待することにあって、科学の営為そのものものではないことに由来する。その意味では「ニセ科学」に似ているが、「ニセ科学」がもっぱら虚偽の「事実」の提示をもってなされる点で異なる。

 科学に社会的権威の存在を認めることと、人の文化としての科学そのものの普遍的価値に信念を持つこととは全く別のことなのであるが、ネット上では両者を混同した議論が散見される。すなわち「疑似科学」や「ニセ科学」は、科学の権威に立脚してなされるという意味において「科学主義」の一つの亜流であるとの主張である。しかし「疑似科学」や「ニセ科学」は、より科学的であろうと苦闘し、もって、科学を護り育て、人の文化としての科学の普遍的価値を高めることに貢献しようとする意思を示すことはなく、むしろこれに叛く態度をとり続ける。結果として科学の権威を貶める役割を果たすという点で、科学にとって闘うべき敵であることは明白である。

 ところで、こうしてみると、ある学説が単なる「未科学」であるのか「疑似科学」であるのかは、その外見だけから容易には判断できないことに気づくはずだ。その判断は、批判や助言にどのような態度で応じてくるかという視点から、その「行動」を通して次第に明らかになる性質のものである。科学と科学の成果を混同しないように注意しながら、科学は、静的存在ではなく、文化の一つの態様としての人の営為、もしくはある種の「態度」であるとの視点に立つなら、そう考えざるをえないのである。したがって、ある学説が「疑似科学」であるかどうかは第三者だけでいくら議論しても判らないことが多い。具体的な批判や助言はおおいになされる必要があるが、少なくとも特定の学説について第三者だけで議論する際には、「疑似科学」のレッテルを用いるに細心の注意が必要ということだ。

 科学が一つの文化として社会の中で生かされている存在であることから、アマチュアであるか職業科学者であるかにかかわらず、科学を志す者は、常に「疑似科学」に堕ちる危険性と共にあることを自覚しなければならない。マルクスの言う「疎外」が人の文化にも不可避的に伴われるものであるとすれば、科学もまた例外ではありえない。その意味では、科学として出発しながら「疑似科学」へ変質したもの、変質しかかっているものなど、グレーゾンは案外広いのかもしれない。「病的科学」と称されるものもこうして「疑似科学」に一歩足を踏み入れていると言えるだろう。科学の歴史が、科学に反するものとの絶えざる闘いの歴史であったことを思い起こすとき、その闘いの場で「疑似科学」がどちらの側に与するものであるかは明らかである。科学を志す者としては、常にこれに対する警戒を怠ってはならない。

 なお、ここでは「科学主義」を擁護する主張をしたが、そのうち「科学至上主義」を批判する論考をまとめる予定である。

 タイトルにある「水からの伝言」(以下、「水伝」)は、「水をいれたビンに「ありがとう」や「平和」など「よい言葉」で声をかけたり文字を書いた紙を貼ったりして凍らせると美しい結晶ができ、「ばかやろう」や「戦争」など「悪い言葉」にすると汚い結晶になったり結晶をつくらなかったりする。また、水を入れた瓶に音楽を聴かせると曲によって結晶の形が変わる。」という「お話」で、波動ビジネスの「株式会社I.H.M」の江本勝氏が彼の著書を通じてひろめたものである。

 この「水伝」にまつわる議論がネット上のいくつかのサイトで延々と繰り広げられている。議論がわき起こったそもそもの原因は、これが、小学校の道徳の教材として使われたり、高額な健康機器を販売する際の宣伝材料に使われたり、あるいは、平和や共生・エコロジーを唱えるグループの中に広まって、一つのムーブメントになったりしているからである。

 この問題にかかわって興味深いのは、各人の哲学・世界観がぶつかり合うところまで議論が「深入り」している点にある。この問題の本質をどこに置くか、あるいは、そもそも何らかの「解決」を目指すべき性質のものであるのかといった論点も含め、科学論や認識論や疑似命題の正否やら「外縁」を巡って、議論は哲学の広大な深淵宇宙へと拡大していく。哲学の議論は知的興奮を覚え、時として楽しいものであるが、私には到底追随する忍耐も時間もないので、そうした議論に参加しようとは思わない。

 こういうズボラな私の「水伝」への立場(評価)は極めて単純・素朴である。そう、これは単に、波動ビジネスで人を騙して儲けるためにねつ造された、明々白々な虚言である。「株式会社I.H.M」やこれに関連するウェブサイトを閲覧してそのことがわからない者は哲学論議などしない方が良い。江本氏は、科学的な真性について問いつめられると、これは科学ではなくポエムやファンタジーであると逃げているが、それは通用しない。彼のサイトにはいっさいそうした記述はなく、科学であることが強調されている。私は、これが「疑似科学」だからという理由で批判するのではない。これは詐欺だから批判するのだ。

 I.H.Mの「ショッピング」のページをみると、コマーシャルフレーズとしては奇妙な日本語が目立つが、薬事法(医療・健康機器にも適用される)を気にした結果であることがはっきりとわかる。それでもなお、薬事法に抵触すると思われる表現が残されている(それにしても「希釈蒸留水」には思わず吹き出してしまった)。「水伝」はインチキ商品を売りつける悪徳商法の一貫として出てきたものであって、たとえ間接的であったとしても、これを宣伝する者はその悪事に加担することになると自覚すべきである。最近経産省が、別の波動ビジネスの「バイオシーパルス」に六ヶ月の取引停止命令を出した(ただし、特定商取引法によるもの)。また損害賠償請求もなされようとしている。「水伝」を学校教育の現場で肯定的な教材として使用するなど、「道徳」に反する暴挙である。

 それでも私は、これを学校教育の現場で教材として使ったら、かなり刺激的で実のある授業ができるのではないかと想像する。これを教材として用いることで、「理科」の授業なら、水はどんな物質か、結晶とは何か、氷の結晶の形にはどんな種類があって、その違いは何から生じるのか、そうした研究は誰が最初にやったのか、その研究にはどんな苦労があったのか、科学実験の目的は何か、実験はどのようになされるべきか、そもそも科学とは何かといった話題が学年に応じて工夫できるだろう。

 実際に再現実験をやるのはお勧めできない。なぜなら、この実験を科学的に意味のあるものとして遂行するのはかなり面倒で、大学の理系学部の実験室程度の設備は必要になるし、相当の回数をこなさねばならない。おざなりな実験をやるよりは、むしろその困難さを正しく教えることの方が重要であろう。

 「水伝」は正しいものと仮定した上で、その帰結としてどのようなことが導かれるかを推論したり、他にどんな実験が可能かを提案させたりするのも良いだろう。例えば、いろいろな方言や外国語を理解するか、誰かがどこかに書いていたと思うが、「SHINE」(日本語では「死ね」、英語だと「輝く、輝かせる」)と書いた紙を貼ったらどうなるか、水にお国柄や個性はあるのか、漫才を聞かせたらどうなるか、はたまた、水の「聴力」や「視力」はどの程度か、「色覚」はあるか、暗号を解く能力(知能)はあるか、漢字検定能力は何級程度か等々。

 書いているうちにだんだんアホらしくなってくるのであるが、ともかく、そうしたことを大まじめに考えさせるのである。それが科学であるのなら当然、この、天地がひっくり返るほどの「大発見」の後に続けるべき様々な実験がなされずに、なぜ長い間放置されたままなのかも考えさせたい。

 「道徳」の教材としては、「ありがとう」はそれだけで良い言葉と言えるか、逆に「ばかやろう」はそれだけで悪い言葉と言えるか、「美しい」とはどういった感情か、「美しさ」は万人にとって共通のものか、二つの異なる結晶形の写真を見て、どちらか一方が美しいと決めることができるか、それは好き嫌いではないのか、人間の美しさは外見だけではないと言われるが、結晶も内面の美しさの方が大事ではないか、といった批判的な視点から言及できるだろう。

 「水伝」は、科学としてはつくり話であるが、ポエムやファンタジーとして創作されたものであるとする立場からは、例えば宮沢賢治の作品と比較しながら、「水伝」がいかにつまらないポエム・ファンタジーであるかを実感させるのも良いかもしれない。そのつまらなさの本質が何に由来するのかを考えさせるのである。

 可能なら、そして最も重要なことではあるが、この「水伝」が、金儲けのためにあみだされたウソ、つまり詐欺商法の一貫としてのつくり話であること、多くの大人がこのウソを事実と思い込んで騙されていることなどを正確に伝え、なぜ人はこうした嘘に騙されるのか、騙されないようにするにはどういった心構えが必要なのかを教えるべきである。

 それにしても、ここまで低級な嘘におおぜいの大人達が騙されていることを、子供達にどのように伝えたら良いのか、相当な難問である。

科学と哲学の進歩

 カール・ポパーは、絶えざる進歩こそが科学の最も科学らしい特徴であると考えた。進歩は、一度否定された説が復活したりしないことで保証される。そこでポパーは、科学の進歩は、「誤りの明確な認識」をもとに、誤った説をキッパリと捨て去るという態度によってもたらされると考え、「反証可能性」のテーゼを提唱した。しかしポパーは、それが科学に進歩をもたらす方法論に過ぎないことを自覚せずに「科学」の定義にまで拡張しようとした。以上のことは、前回までのエントリーで述べたことである。

 なぜポパーによる科学の定義が受け入れ難く思われるのかと言えば、科学には、外的世界に生起する事象(事実の集合)に学説の基礎を置く(証拠として採用する)というもっと本質的な特徴があるからだ。近代的な学問の体系においては、自然の中に存在する事実に基礎を置くのが「自然科学」、社会に存在する事実に基礎を置くのが「社会科学」、人間の文化の中に存在する事実に基礎を置くのが「人文科学」などと分類・称されている。事実を基礎とせずにいろいろな問題を論じたり、未来を(勝手に)予測したりすることも普通に行なわれているが、そうしたものは「科学:science」とは呼ばないことが暗黙の了解事項となっている。

 私は、科学とそれ以外のいろいろな文化的営為(宗教や芸術など)との間での優劣を論じることはできないと考えている。しかし、外的世界に生起する具体的な問題に直面したとき、多くの者は、心の中で念じるだけではその問題が「我々」にとっての本質的な解決に至ることはないと、経験的に知っているだろう。また、「事実」について一言も触れずに外的世界(たとえば社会)の問題を論じることは、実際上不可能であることも知っている。特に、社会的な問題を再大多数の「参加者」のために正しく解決したり、未来に備えたりすることが求められる政治の世界においては、事実に基礎をおく「科学的」な態度が肝要であるとの認識が一般的なものであると思う。

 その時、「事実」とされたものが、本当に万人が認めることのできる実体のあるものであるかということは本質的に重要である。そこで近代的な科学では、それが科学であることを保証する手続きとして証拠の再現性(任意の第三者による検証可能性)を求めることになった。実際上、私は、科学であることの要件としてはこれ以外のことがらは不要であると考えている。

 科学に求められる「論理性」の問題も重要である。論理学そのものは事実に基礎を置く学問ではなく、それ自身は「科学」ではない。しかし、論理学や、ことにそのひとつの態様である数学は、古来より科学と寄り添い、科学を実行に移すための重要なツールとして発展してきた。そのため数学は、無限に可能なシステム(体(てい):body)の中から、外的世界を記述するのに都合の良いシステムを選びとり、一つの体系として発展させてきた。ほとんどの大学で「数学科」が他の自然科学の諸分野と同じ学部に配置されているのはそのことが意識されているからであろう。

 論理性そのものは、科学だけに求められるものではないが、無限に存在する「事実」の中から有限の「事実」を選びとる基準や、その有限の「事実」から推論がどこまで可能であるかの限界を定めたりすることは論理に頼る他はない。そこで、科学の持つ、「事実に基礎を置き論理的であろうとする態度」が守られている限り、結論実証の前段階としての、仮説そのものとしての正否の検討可能性がひらかれることになる。

 科学の仮説構築のプロセスにおいては、証拠の妥当性や論理性についての検討が繰りかえされ、誤りがただされ、完成へと導かれる。科学論文の査読過程においても同様の検討が複数の査読者によってなされ、その学説の仮説としての正否が判断される。その過程でなんらかの欠陥が発見された場合、多くは部分否定にとどまり、その誤りを修正することによって、その仮説をより「正しい」ものに近づけることができる。これは「進歩」の一形態である。繰り返すと、科学におけるこうした「進歩」は、それが、事実に基礎を置き論理的であろうとする態度に貫かれている限りにおいて享受される性質のものである。

 ところで、論理の正否は論理に頼って検討せざるを得ないという「同語反復」の罠によって、「事実に基づいて正しく推論したとしても間違った結論が導かれる可能性」も生じてくる。そこでラカトシュは、ポパーによる学説の「結論の反証可能性」を科学の定義として用いることはできないけれども、科学の進歩を保証するものとしての重要性は少しも殺がれないと考え、このアイデアを大切にして発展させようとしたのである。

 さて、以上のことを念頭に哲学について考えてみよう。哲学は「知を愛し」、個別諸科学によって得られた「知」を集大成して、世界のありようや人の生き方の指針のようなものを提示しようとして構築された体系であろう。そうした哲学の中にも外的世界に生起する事実に基礎をおいて展開されているものがあり、多くは論理性を重んじていると思う。もちろんそうではなく、思念的に構築されたものもあるし、具体的な証拠の再現性には拘ったりはしないのが哲学らしく思われてもいるようである。ウィトゲンシュタインが「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定される、すべての原始命題である」と語ったのも、哲学の独特の地位を表現していよう。

 しかし、事実に基礎をおき、論理性を重視しようとする態度に貫かれているものである限りにおいて、その哲学が「正しい」かどうかを検討することが可能になり、否定される可能性もあるということになるだろう。そして、哲学が広い分野の様々な学問の集大成として構築されたものであることから、その否定は、多くは部分否定にとどまり、そのことによって、その哲学の体系自体を進歩させることもまた可能になると考えられる。たとえば、「論理実証主義」の部分否定からポパーの「反証主義」へ、さらにラカトシュの「精緻化された反証主義」と帰納法の復権を経て、今日議論されている科学哲学の体系へ至る一連の歴史は、やはり、一つの進歩の歴史であったと考える。結果として、ポパーの学説も全否定された訳ではなく、その重要性は今日でも様々な局面で言及されている訳である。

 私は、マルクスの学説もまた事実に基礎をおき、論理性を重視して構築されたと考えているが、そうである限りにおいて、この学説もまた部分否定され、そのことを契機として進歩を続ける可能性があると考えている。もちろん、その基礎となる事実なり論理性なりが全否定される可能性もある。日本では社会主義体制の崩壊後、マルクス主義は全く不人気極まりないが、それでも、資本主義の矛盾に由来する様々な不幸の現実は、しばしばマルクスの学説を参照しながら語られ続けているのである。

 以下は、前回までに「「科学的」とはどういうことだろう」と題して(その1)から(その5)までアップしたシリーズの要点からなる二十世紀科学哲学の見取り図である。

「観察の知識(理論)負荷性」と帰納法の否定
 二十世紀初頭にウイーン学団によって構築された論理実証主義では、科学は、まず事実を収集し、既知の法則を適用した論理思考によってその事実の群れの中にある新たな法則性を導きだし、その新しい法則の正しさを別の観察事実によって実証する、というように、帰納と演繹の循環によって進歩すると考えられた。これに対してポパーは、観察という行為は、あらかじめ知識や理論がなければ行使できない演繹的な行為であり、しかも有限の事実を集めることによって法則を導きだすという帰納法は、そもそも方法論として誤っていると主張した。→ (その1-2)

「検証と反証の非対称性」
 ある学説が正しいことの証明(検証)は、その学説の帰結としての全ての事象についてもれなくテストしなければならないので事実上不可能である。一方、ある学説が間違いであることの証明(反証)は、その学悦の帰結の一つでも誤りであることがわかれば達成される。→ (その2-3)

「反証主義科学哲学」
 そこでポパーは、科学の進歩は、間違った学説をきっぱりと捨て去る消去法によってのみもたらされると考え、反証不能で間違いであることをチェックできないような学説は科学に進歩をもたらすことがないと主張した。ポパーは、ある学説が「科学的」なものであると言えるための要件は、間違いであることを明確に検証(つまり反証)する手だてがその説自身の中に明示されていること(反証可能性)であると結論し、これをもとに「科学」と「疑似科学」を識別できると考えた。この新しいアイデアは、ウイーン学団が築き上げて来た論理実証主義の体系を突き崩し、ポパーは一躍、科学哲学界の第一人者となった。→ (その2-3)

ラカトシュによる批判
 ポパーは結局、科学を後退させないための方法論的な原理に則していることを「科学的」であることと等価に扱ったが、ポパーの弟子であったラカトシュは、そうした語法には意味論的混乱があると批判し、ポパーの学説を「方法論的反証主義」と呼んで限定的なものに押しとどめた。→ (その2-4)

「精緻化された反証主義」
 ラカトシュはまた、「反証」の手続きそれ自体が科学の営みそのものであることから、反証テストそれ自体の能力を絶対視できないことに気が付いた。そこでラカトシュは、ひとつの科学理論は、主張の根幹である「中核部分」と、これを取り巻いて支える保護仮説、初期条件、実験技術や誤差論などの「保護帯」からなるとし、反証テストに際しては「中核部分」に変更を加えることなく「保護帯」の調整を可能な限り続けるべきであって、そうしてどのように「保護帯」をいじってもついにテストに耐えられなくなった時点で「中核部分」の反証が完了すると考えた。→ (その2-4)

ポパーによる歴史科学批判
 ポパーは、マルクス主義に代表される「歴史科学」は帰納法に頼って構築されたもので、反証可能性もなく、科学ではないと批判した。→ (その2-5)

ポパー理論の問題点
 一般に歴史科学のように、結論が過去形で語られる学説はタイムマシンでもないかぎり反証不能である。しかし、同じ歴史科学でも地質学が厳然として科学の地位を占めているのはなぜか。おそらく、ポパーの考察から漏れた論点があるだろう。→ (その3-6)

同語反復の罠
 「論理実証主義」を築いたウイーン学団の精神的支柱と目されていたウィトゲンシュタインは、数学的な証拠や論理的推論のみからなる学説は、どんなに精緻なものであっても単なる同語反復にすぎず、本質的に新しい発見をもたらすことがないことを論証していた。反証可能性が「科学」の定義であるかのように主張したポパーの学説に意味論的混乱を発見したラカトシュの批判は、結局、「科学」の定義に「科学」の営みである反証テストを基礎に置いたという同語反復のナンセンスへの批判であった。→ (その3-6)

科学の多様性
 ポパーは、出来合いの理論が科学的かどうかを論じたが、科学の行為としての理論構築のプロセスについては考察しなかった。「科学的」かどうかを論じるには、「科学」が人のなす行為である以上、そのいとなみそのものに目を向ける必要があるだろう。→ (その3-7)

フッサールの現象学と帰納法の本質
 歴史科学は、結果から原因を推定する手法としての「インバージョン」を意識的に追求することで近代化をなしとげた。外的世界の認識の理論を建設したフッサールの「現象学的還元」という手法もまた、「インバージョン」の一種である。フッサールが明らかにしたように、人は、言語化される以前の生の自然(外的世界)を観察することによって、新たな概念理解を生み出し、そこから新しい言葉も誕生した。この行為こそが帰納法の本質であり、ポパーによる帰納法の否定は誤りである。→ (その3-8)

現代科学における「科学」の要件
 現代科学を疫学的に検討すると、「科学的」とみなされるための要件としては、証拠の再現性(第三者による検証可能性)と推論の論理性以外になく、しかも、後者にはかなりの曖昧さもつきまとう。現代科学においても相変わらず帰納法は重要視されているのである。→ (その3-9)

武谷三男の「三段階論」と帰納法の復権
 理論物理学者であった武谷三男氏は、自然の法則的認識は、1)現象論、2)実体論、3)本質論の三段階を経て深化していくと考え、帰納法の段階である現象論的な研究の重要性を説いた。この認識論は、湯川秀樹による中間子理論の構築に貢献した。武谷氏はまた「(自分の信じる)一つの認識論を主張する人は、その認識論をあらゆる局面にわたって馬鹿正直に適用する」ことを求め、世の中に流布している認識論はその過程で淘汰されると主張した。→ (その3-10)

ポパーの功罪
 ポパーの理論は、武谷氏が求めたように、その理論をあらゆる局面でばか正直に適用してみると「使えなさ」が際立つ。しかしポパーは、私たちが、間違いであることがまだ発覚していないというだけで特定の学説にしがみつく存在であることに気づかせてくれた。さらにまた、正統な証拠に基づいて論理的に正しく推論された結果であっても間違った結論が導き出だされる可能性があるということにも気づかせてくれた。それはもちろん、「正統」だとか「正しい」だとかの判断を人がするものだからである。そうすると、論理性を「科学」であるかどうかの判断基準にできないことになる。結局、人の行為としての「科学」の定義としては、「証拠の再現性」を重視する行為手続き上の態度に基礎を置くほかない。→ (その3-11)

ポパーによるクーン批判
 ポパーに遅れて、クーンの「科学革命論」もまた二十世紀の科学論に一石を投じたが、その学説の克服にポパーの貢献があった。→ (その3-12)

曖昧な科学の合理性
 現代の科学論ではベイズ主義のように、科学に曖昧性を認めようとの立場が主流である。科学に曖昧さがつきものだとしたら、我々に求められるのは、その信頼性を客観的に評価する方法論である。なぜ、信頼性を評価する必要があるかと言えば、社会がその学説をどのように取り扱ったらよいかを判断するために必要だからである。そのことから、「合理性」という基準に接近せざるをえない。→ (その3-12)

 以上が、前回までに述べた二十世紀科学哲学の見取り図である。この後に続けるべきは、二十一世紀の科学哲学であるが、その前に私自信に残された課題があると感じている。それは、生きた言語の曖昧さの中にある「言語の謎」を解こうとしていたウィトゲンシュタインの問題意識が、科学の生態と関わっているという予想である。

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11. ポパーの失敗

 ポパーは、科学哲学界のアインシュタインになりたかった。そして、彼自身、実際にそうなれたと実感できた瞬間もあった。しかし、それが錯覚に過ぎなかったことは、ポパー理論が当の科学者達から忘れ去られようとしていること一つをとってみても明らかであろう。ポパーには、例えば、アインシュタインがニュートン力学に基づく宇宙観を根本的に転換したことは学界にも一般にも広く受け入れられているのに、実社会でのニュートン力学の有用性は相対性理論を上回っていて、その後もずっと、中・高等物理教育の基礎になってきたという事情が理解されなかった。このことは、原理的な正しさと実社会での意義や有用性とは別物であることを教えていよう。一方ポパーは、ウイーン学団の論理実証主義に基づく科学哲学上の成果だけでなく、人々が内面に抱えている経験主義的・素朴実在論的ないろいろなアイデアの全てを有害無益と否定し去ってしまった。

 私は、ポパーの失敗の第一の要因は、彼の科学哲学がマルクス主義の批判のためという、ある意味不純な動機に支えられて構築されたことにあると考えている。彼の中では、研究の結果得られる筈の結論がマルクス主義を原理的に否定し去る力を持つものである必要が、ことにあたる最初から要請されていた。とことん原理的であろうとしたそのために、マルクス主義をまるごと否定し去るのと道連れに社会にとって有用ないろいろなアイデアの全てを否定し去ってしまったのだ。

 しかし、前回までに述べた検討から、「科学」と「疑似科学」を原理的に選り分けようとしたポパーの試みは成功していないように思える。たとえ原理的には正しくても「使えない」ということでもあるだろう。その「使えなさ」は、武谷氏が求めたように「その認識論をあらゆる局面にわたって馬鹿正直に適用する」ことによっていっそう明瞭になり、その過程でポパー理論は淘汰されてしまったわけだ。逆説的だが、ポパーは、私たちが、間違いであることがまだ発覚していないというだけで特定の学説にしがみつく存在であることに気づかせてくれた。逆にまた、反証可能性の有無だけで「科学」、「疑似科学」とレッテルを貼ることはできても、どのような説が社会にとって意義あるものと認められるのかは全く別問題であるということにもなる。反証可能であってもなくても、まだ間違いが発覚していないに過ぎないという点では同格なのだ。

 このことを前提として、私が重要と考えることをあらためて指摘しておきたい。すなわち、正統な証拠に基づいて論理的に正しく推論したとしても間違った結論が導き出だされる可能性があるということ。なぜだろうか。それはもちろん、「正統」だとか「正しい」だとかの判断を人がするものだからである。そうすると、ある学説が「科学」と認められるための要件としては、その学説の基礎となる証拠の正統性を任意の第三者が確認できるかどうかということ(証拠の再現性)以外に求めることは無い物ねだりにすぎないということに気付く。学説の論理構造の欠陥の有無は、その学説の信頼性を左右するものではあるけれども、「科学」であるかどうかの線引きには使わない方が良いということだ。

 ポパーは、この世界にあやふやな「科学」が満ちあふれていることを知っていたからこそ、「科学」の唯一の美徳である「前進性」を保証するための方法論的な原理を提唱しようとした。しかしポパーは、それが方法論にすぎないことを自覚せずに、「科学」と「疑似科学」の線引きに使おうとした。ラカトシュがポパーの学説を「方法論的反証主義」と呼んだのは、ポパーのそうした無自覚的な勇み足に、弟子としてやんわりと「まった」をかけようとした訳である。あやふやな「科学」も「科学」として認めようとの視点に立てば、当然、反証テストのあやふやさにも気付くことになる。ラカトシュの仕事はそこから出発した。

 さて、あやふやで曖昧な「科学」も「科学」であることには違いないという立場を強調して誤解をうけるといけないのだが、世の中には、それでも<科学ですらない>ニセ科学や疑似科学が蔓延している。それらは、「科学」であることの唯一の要件である「証拠の再現性」をクリアーしていないのである。この問題はまた別の機会に論じることになるだろう。ここでは、「科学」の中にも「信頼のおける科学」や「信頼性に乏しい科学」が混在しているということを整理しておきたい。

12. 曖昧な科学の合理性

 最近の科学哲学は、現実を生きる科学の「生態」を疫学的に検討し、科学が、不可避的に、大なり小なりの曖昧さを含むものであることを受け入れることから出発しようとする傾向にあるようだ。結果として、「科学」と「疑似科学」との間に連続的で幅ひろいグレーゾーンのスペクトルを設けることになる(例えばベイズ主義)。このことはポパー理論が主導してきた科学哲学界に質的な転換がおこったことを意味する。それは、ポパーが立派な反面教師ぶりを発揮したためにおこったのである。その過程には、一種の相対主義(価値の相互依存性を主張する言説)であるトマス・クーン(1922 - 1996)の「科学革命論」の克服にポパーの貢献があったことも忘れてはならない。

 ここで簡単にクーンとポパーの関係について整理しておこう。まず、クーンは科学哲学の専門家ではないということ。クーンは、物理学専攻の院生時代にセミナーで科学史についての発表を行ったことをきっかけにこの分野にのめり込んで進路を変え、「科学史家」として名を成した。しかし、1962年に主著『科学革命の構造』を発表してこれが評判になると、たちまち、ポパーをはじめとした科学哲学の専門家達からいっせいに批判された。それはまさに激烈な総攻撃であって、そのためにクーンは精神に変調をきたしたと伝えられている。主な批判のポイントは三つあったと思う。

 第一に、彼の論文中で重要な役割を担うはずの用語が、意味論的に曖昧すぎて話にならないというもの。例えば、最も重要な「パラダイム」という用語でさえ、クーンの著作の中で21の用法があるという指摘もある。クーン自身も、この言葉に少なくとも二つの用法が混在していたことを認め、後に「パラダイム」に替えてdisciplinary matrix(「専門図式」、「専門母体」、私なりには「分野基質」)を用いるようになる。今となってはクーンの学説を「パラダイム論」と称してはいけないわけだ。

 第二に、クーンの科学史の整理は乱暴すぎるし間違っているとの批判である。これは科学哲学界のみならず、むしろ現場の科学者からの反発が大きかったように思う。クーンにとっては致命的な批判であるが、このことに触れると長くなるのでやめる。末尾の文献4を参照されたい。この本の中でシェイピンは、もともと「科学革命」という観念は18世紀のフランス啓蒙思想家達により生み出されたもので、産業革命を通して中世から近代へと移り変わるヨーロッパの学問の中心に居る者らが自らを正当化しようとしてねつ造したものであると断じている。

 第三に、クーンの言説は「相対主義」であるとの批判である。「相対主義」のレッテルが、すなわち批判になり得ているというのは変だと思われるかもしれない。しかし、なにごとにも厳密であろうとする科学哲学の立場からすると、相対主義者は、相対主義の立場から自説に固執してはいけないという自己矛盾に陥るので、ナンセンスということになる。クーンもこの批判には傷ついたらしく、熱心に反論している。すなわち、「科学」それ自体の価値を認めるし、「科学」は進歩するものであることも認めているという反論だ。しかし、『科学革命の構造』をどう読んでも、科学を進歩させる原理や、「革命」の前後で科学が進歩したと判断できる基準についてきちんと示されていないことに気付く。クーンが科学を擁護するのは、主観的な価値論に基づくものに過ぎないのだ。いずれにしても、クーンの学説は、現場の科学者にも、科学哲学界にも全く不人気であるということだけは確かだと思う。

 そこで問題となるのは、ポパーが、どのような学説であれ、それが正しいという証明は不可能なのだから後戻りの出来ない社会変革(革命)を目指すべきではないと主張した点である。しかし現実には、人類を月に送るような危険な実践が決断されてしまうように、「曖昧な科学」に基づく冒険的な事業が度々実行されてきた。

 ベイズ主義は、仮説の確からしさや信頼性をその仮説に対する信念の度合い(主観的確率)としてとらえ、この信念の度合いを確率論の公理に基づいて評価するのが合理的であると主張する。もちろんそれが「科学」であることを前提とするし、確立論で扱える限り「証拠の再現性」などの評価も加えられる。例えば、化石燃料の消費によって大気二酸化炭素が増え、そのために温暖化が進行したとする「温暖化の人為説」は、厳密には証明されていない。太陽活動に主因があるとする根強い異論もあり、長期的には地球は氷河期に向かっているという学説もあるほどである。にもかかわらず、この「人為説」に基づいて国連のIPCCの活動など国際的に大掛かりな取り組みがなされるのは、科学者の中の<圧倒的多数派>の<極めて強い>信念に基づいているという他ない。科学は多数決ではない、などといったツッコミをしばしば見聞きするが、野暮というもの。もちろん観念としての科学は多数決ではない。

 「合理的」というのは極めて社会的な性格を帯びた概念である。結果の予測が曖昧で、失敗した場合に回復不能な大きなツケを払わされることが予想される場合であっても、それを実行する価値があると決断される局面は社会的なリスク管理の問題であって、そうして革命的な社会変革もたびたび実行されてきた。そういう意味では、逆にポパーの「革命はダメ論」も社会的な意思決定のふるいにかけられる運命にあるわけだ。

参考文献
4)『科学革命とはなにか』(原題はThe Scientific Revolution)スティーヴン・シェイピン(Steven Shapin)著、川田勝訳、1998年、白水社


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