さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

科学と認識

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 ブログを放置しすぎるとぺんぺん草が生えたりするそうなので、映画を観て思ったことなど書いてみる。

 映画『劔岳 点の記』は、日本屈指の山岳地帯である立山連峰の中でもその険しさから人跡未踏とされていた剱岳(つるぎだけ)山頂(注1)、明治40年(1907年)、日本の地形測量最後の空白地点であったそこに三等三角点を設置するために挑んだ測量隊の物語。原作は新田次郎の同名小説で、実話に基づいている。「点の記(てんのき)」とは基準点の選定・設置・測量の一連の作業記録のことで、三等以上の基準点について作成・保存される(注2)。

 監督の木村大作氏は長年「黒沢組」でカメラマンを務め、『八甲田山』、『駅 STATION』、『火宅の人』、『鉄道員(ぽっぽや)』などの撮影にも参加、50本目にして初監督作品という。
 出演は、浅野忠信、香川照之、宮崎あおい、中村トオル、役所広司ほか。映画の公式サイトは下記。
http://www.tsurugidake.jp/

 6月20日封切だったが、予想外に好評とのことで、まだ上映中の所も多い。
http://theaters.toei.co.jp/TheaterList/?PROCID=02203

 この映画のキャッチコピーは「決して名誉のためでもなく、利のためでもない。仕事に誇りをもって挑む男たち。いま、わたしたちが失くしつつある、日本人の心の物語」とある。新田次郎の作品は読んだ事がないが、私の友人には熱心な読者も多い。彼らの話を聞く限りでは、新田の一貫したモチーフとして、一般にもそのように理解されているようだ。この「点の記」をタイトルに付した作品で新田が書きたかったことは、はたしてそうしたことなのだろうか。

 私がこの映画を観たいと思ったのは、富山市南部の山間部にある「大山歴史民俗資料館」で、この映画のメイキング映像に接したからである。山岳ガイドとして測量隊を案内し、「剱岳初登頂」を果たした宇治長次郎が旧大山村出身ということもあるが、富山県をあげてこの映画の宣伝に力を入れている。

 で、この資料館の展示に掲げられたキャッチコピーはちょっとニュアンスが違っていた。正確な文言は忘れたが、私が汲み取った意味をかなり端折って書くと、「そこに「空白」がある。それを埋めようとする情熱は尊いものである」というようなこと。こちらは、原作の意を汲んだものかも知れないが、映画の公式HPにあるキャッチコピーとは、その意味が、微妙に、もしかしたら本質的に異なっていると思った。これが妙に気に入ってしまったのだ。

 どちらのキャッチコピーがより的確であるかは主観によるだろう。だから、後者を由とするのも、私の思い入れが郷土資料館のスタッフならではの視点と波長があったということに過ぎない。ただし、このストーリーそのものはまぎれもない史実であり、そこに客観的な歴史的意味を付与することは可能である。

 データの空白と言えば、日本の地質図が思い浮かぶ。日本の地質図作成の任にあたる産業技術総合研究所地質調査総合センター(旧工業技術院地質調査所:以下GSJ)では最近になって全国の20万分の1地質図幅が完備したばかりで、これをもとに凡例を統一した全国のシームレス地質図がウェブ上で閲覧できるようになった。
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html

 個々の20万分の1地質図幅は、基本的には国土地理院発行の20万分の1地勢図と同じ範囲が一つの図葉として編集・発行されてきた。その基となるデータはGSJ発行の5万分の1地質図幅(注3)で、これが全国をカバーしていない、というより「空白」だらけなのである。
http://www.gsj.jp/Map/JP/5man.htm

 5万分の1地質図幅が空白となっているエリアについては、以下のデータが利用された。すなわち、国土交通省が刊行している「5万分の1表層地質図」(非売品)、各都道府県が発行している10万〜20万分の1地質図、学術論文として学会誌などに掲載されている地質図、GSJに蓄積されている独自のデータ等々である。それでも5万分の1の精度での空白域は無視できないほど広い。

 地質に関係した科学研究だけでなく、防災工事や道路建設など具体的に地質図を利用しようとする際には、20万分の1の精度では役に立たないことが多い。5万分の1の精度はそのための最低ラインと考えてよいが、それが完備していないのは自称先進国として恥ずべき事である。例えばお隣の韓国では既に1987年に全国の5万分の1地質図幅が完備されている。

 なぜだろうか。データの「空白」には、放置して良いものと是が非でも埋めなければならないものがある。例えば、科学研究のテーマを選定するに際して「誰も手をつけていないから」という理由は正当ではないというのが学界一般の風潮としてある。しかし、地質は地形とともに国土の最も基本的な自然的構成要素であり、そのデータに空白があってはならないと考える。その点、学界の理解も十分ではなく、そのことが国の施策にも反映された結果なのだろう。

 地質の空白域は、その学術的な意味が国内的な問題に過ぎないために長年放置されてきたという事情もあり、その地質図を完成させただけでは国際誌の論文にはならず、国内誌に掲載されれば良い方だ。そうした場合、国内の考古学論文同様、日本語で書くことに意味があるが、それでは自然科学研究者としての業績としてカウントされない。

 そのように、学術的な業績としては無視されながらも営々と続けられた膨大な調査・研究をとおして地質図は完成され、公表されている。ところが、研究のための地質図利用に際してそのことに敬意を表するどころか、まるで一般人が地形図を利用する時のように、図幅報告書や地質図を掲載した原著論文の引用さへ疎かにする者が後を絶たないのである。こうしたことは、特に学会発表の場で、最近の目立った傾向となっている。

 もし精度の良い地図がなかったらなし得ない研究が多いのと同様に、精度の良い地質図がなかったならなし得ない研究もある。そこが地質の空白域だからと、業績とは認められないのに労苦だけは多い地質図作成から着手する研究者は、このご時世、奇特と言わねばなるまい。特に、研究の入り口に立ったばかりの若い研究者にそれを求めるのは酷だとされ、結果、地質調査の技術も失われて行く。この例に限らず、科学研究においてはテーマを自由に選び得ているというのは幻想なのである。

 さて、このようにして、具体的な科学研究の営みは、殊にそのテーマ選定の段階において社会の価値観といったことにいろいろな制約を受けて展開される。「科学」について論ずる場合、理念としての科学と、実社会の中で具体的に生かされている科学の営みを存在論的に考察する場合とで、ひとまずは明確に分けて論じなければならない理由である。両者を混同した議論も散見されるので、この問題についてはまた槁を改めて書きたい。

最後に映画の感想を少し、
 やはり観て良かった。映像そのもので勝負しようとしており、当然だが、大スクリーンで観るべき。配役にも文句はない。欲を言えば、映画音楽が出しゃばりすぎるのは好みではない。風の音だけで通してほしかった場面も。まだ公開中なのでこれ以上は書くまい。
 山の測量にまつわる映画といえば、ヒュー・グラント主演の『ウエールズの山』が思い出される。この映画との接点は何もないが、なぜか鮮明な記憶が・・・

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注1)剱岳は標高 2999 mで、日本百名山の一つ。山体は花コウ岩とハンレイ岩からなり、急峻でガレ場も多く、山頂へたどり着くのに日本国内で最も困難な山とされている。毎年遭難事故が絶えず、最近9月20日にも59歳の女性が通称「蟹の横ばい」と呼ばれる難所で滑落し、死亡したばかり。この夏は映画の影響で登山者が急増しており、中にはハイキング気分で訪れる人も多く、富山県警は注意を呼びかけている。

注2)「点の記」は全国数万の三等以上の基準点の全てについて国土地理院に保管されており、まとめのページ1枚分がJpeg形式のファイルとしてウェブ上で公開されている。剱岳三等三角点の「点の記」を国土地理院のウェブサイトでみると、周辺地形図、基準点周囲のスケッチなどとともに、「選点、明治40年7月13日、選点者、柴崎芳太郎」の記述がある。設置が平成16年8月24日となっているのはなぜか。映画を観たらわかる。
http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2004/1028-2-4.jpg

注3)GSJ発行の「5万分の1地質図幅」も基本的には国土地理院発行の5万分の1地形図と同じ範囲となっている。これには、そこに産する個々の岩層の詳細と地質構造発達史を論じた報告書が添付されていて、一つの学術論文と見なされている。日本において、1970年代後半から始まる「コノドント革命」とプレートテクトニクスの受容、80年代前半の「放散虫革命」を経て地質の解釈が大きく変容してきたが、一旦地質図幅が発行されたエリアは原則として改訂されないことになっているらしい。この点は、日々改訂が続けられている国土地理院の地形図とは扱いが異なる。

 8月6日の記事、「科学原理主義」の弊害 (その2:水俣病の歴史)について、「はてなブックマーク」でコメントをいただいていますので、お応えしておきます。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33763869.html

 ここでは、特に、NATROMさんによる次のコメントが重要と思い、このことを中心に補足します。

「概ね正しいが、タイトルは「科学原理主義の弊害」ではなく、「疫学軽視の弊害」がふさわしいな。疫学は科学に含まれます。」

 「百丁森の一軒家(本館)」のnorth-pole さんからトラックバックいただいた下記の記事はここでの議論に大変有用です。ありがとうございました。
「水俣病と科学」
http://northpole587.blog17.fc2.com/blog-entry-63.html

それから、下記も
幕間(承前)
http://northpole587.blog17.fc2.com/blog-entry-65.html

 まず、「○○原理主義」と呼ばれるものは、「キリスト教原理主義」や「市場原理主義」のように、特定のアイデアに、あらゆるものに優先される価値を設定して行動規範とする態度のことで、この定義自体はごく一般的なものです。「科学原理主義」は、実社会の中での行動原理として、あらゆるものに優先して「理念としての科学」、あるいは「理想的な科学」をもってくる発想のことです。

 実社会において、科学の出番はいたるところにあります。そこで科学を追求すること自体は必要なことです。しかし、人命にかかわる一刻を争うような問題に直面しているときなど、科学の理想的な追求・展開を断念して、緊急に倫理的な価値判断を下さなければならないこともあります。そのような局面で、理想的な科学の追求自体が<目的の全て>と化してしまっているような態度で望むことを、ここでは「科学原理主義」と呼んでいます。

 現実には、本気でそのような主張をする科学者は、まずいないだろうと考えるのが、常識的な判断でしょう。ですから、「脚気の歴史」で書いた森鴎外のとった行動も「科学原理主義」ではなく、単なる「疫学軽視」とみることもできます。しかし、板倉さんの原文を読めばわかるように、彼が批判的に検討したことは、「現象論=疫学」の軽視と同時に、そこに現れる科学における「党派性」です。

 科学における「党派性」は、それが<無自覚になされるとき>、常識的な判断とは相容れない両極端の立場、「科学そのものの軽視」と「科学原理主義」の、どちらかの姿をして現れるように思えます。たぶん、「党派性」そのものが悪いのではなく、それに無自覚であることからくるのでしょう。

 さて、もちろん疫学は立派な科学です。そのことは、現象論の重要性として、「武谷三段階論」にふれながら、このブログで繰り返し述べてきたことです。そして、水俣病では、初期の段階において、その疫学を軽視するような批判がなされたことで被害の拡大を招いた訳ですから、そのこと自体は反批判しなければなりません。しかし、私が批判的に検討したかったことは別のところにあります。

 1958年頃までに蓄積されたあらゆるデータは、チッソの工場排水が限りなくクロに近いことを示していました。同年6月には、厚生省環境衛生部長がチッソの排水が原因と国会答弁し、通産省にチッソに対する指導を要請しています。もし、そこに何らの利害関係もなく、政治的対立もなかったなら、事態は間もなく解決へ向けて動き出したでしょう。しかし、その要請を通産省は拒否します。当時、チッソの納税額は水俣市の市税全体の45%に達していました。そうした状況下で、「原因物質の実体や、その生成メカニズムが未解明ではないか、そんなものは非科学的だ」との批判を浴びせる科学者達が現れました。

 その時に、「いや、疫学も立派な科学だ、結論の蓋然性は90%以上である」などと反論することは必要なことでした。しかし、それだけで事態が打開しないことは明らかです。もしここで、現場の科学者達が「疫学も立派な科学だ」と主張して、延々と科学論を闘わせるような行動をとったとしたら、私は、彼らもまた「科学原理主義」に陥っていると批判したでしょう。実際、当時、現場の医師たちの間で、そうした科学論が激しく闘わされていたことを聞いています。

 この頃の状況については、冒頭に引用した north-poleさんの記事中に、原田正純氏の著書からの引用があります。

「初期の現地の疫学的調査の精神がさらに受けつがれて進展していたならば、つまり、汚染された地区の住民が、臨床的にどのような健康障害を示しているかという問題が継続的に追及されていたならば、その後の水俣病の研究の発展も異なったものになったに違いない。しかしそういう作業は、水俣というチッソの城下町ではきわめて勇気のいることで、ほとんど不可能に近いことであったろう。原因をつきつけなくては責任をほおかぶりしようとしたチッソや行政に対抗する熊大研究班にとって、因果関係の究明こそまさに至上命令であったし。それこそが、患者救済につながる唯一の方法と考えられたのであった。」
(『水俣病』p.27〜28)

  結果的には、そのために、決着までに長期間を要することになり、被害の拡大を招いた訳ですが、さらなる疫学調査が「不可能に近い」中で、科学論を闘わせ続けていたとしたら、状況はもっと悪化していたでしょう。いずれにしても、そのような状況に追い込んだのは、「理念としての科学」を錦の御旗として批判した科学者達だったのです。彼等は、現象論を批判するために実体論を要求し、実体論を批判するために本質論を要求するというやり方で、最後の最後まで、現場の科学者達を批判し続けました。軽視されたのは疫学ばかりではなかったのです。

 そうした発想はどこから出てくるでしょうか。そこには、とりあえず今ある危険を回避しようとのリスク管理や予防原則的な発想がないように見えます。しかし、そのことは、二つの観点から検討を要することです。

 第一に、彼らは、企業の側にとっての「リスク管理」を発動したのかもしれないということ、第二に、リスク管理や予防原則は、科学に曖昧さの存在を認める立場からなされるので、必ず、どこで見切りをつけるかという「線引き問題」が議論になり、最後は、価値論において決断されるということ。Neanさんのブクマコメントにある「蓋然性の評価」という問題もこれに含まれます。線引きを、危険度70%でやるか80%でやるかという問題で、その危険度の数値を出すのは科学ですが、どこで線引きするかは、価値論です。そして、両方に共通した核としてあるのが、私が「党派性」と書いたことです。

 批判者側が、もし、国や企業から裏金を掴まされて故意に足を引っ張るようなことをやっていたという確たる証拠があるなら、こんな回りくどい反批判などやる必要もないことです。しかし、そんな証拠はない。常に、表向きのことであれ「理念としての科学」が持ち出され、隠れ蓑かもしれないけれど「純粋科学」が盾にされたのです。

 表向きのことであれ、「科学原理主義」の弊害のよってきたるところは、「純粋科学」の看板が党派性を覆い隠す隠れ蓑としての効果を発揮することにあるでしょう。歴史を振り返れば、そして、現在もなお、同じことが繰り返されています。今後同じことが繰り返されないためにはどうしたら良いでしょうか。

 リスク管理や予防原則の発動それ自体もまた、現実の<線引き>に顕われる「党派性」の問題をさけることができないとしたら、全ての科学者が、現実の「党派性」と無縁ではありえないことを自覚する必要があるでしょう。それがどのような「党派性」であるかは、自らの主張が社会にどのような影響を及ぼすことになるかを考えればわかることです。誰しも、自らの党派性を明らかにすれば、却って非常識的なことは言わなくなるものです。「原理と自明性についてのメモ」の最後に、次のように書いたことは、このことを意識したものです。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33493440.html

 「倫理的な問題についての議論が長引くのは、往々にして、明示されているのと異なる原理を立論の前提としていることに気づかない者や、それを故意に隠そうとする者などがいるためである場合が多いようだ。誰でも自分の価値観に基づいてその意見を主張する権利がある。それぞれがどのような「価値論的原理」を採用しているのかについて整理した上で明示することは、議論を有意義なものにするのに効果的だろう。」

追記:(その1)から続く一連のエントリに関連して、2013/9/22に補足記事をあげた。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/40920046.html


6.(1あたりの数)×(いくつ分)の重要性

 遠山は、かけ算を足し算の延長として教える明治以来のヨーロッパ式の算数教育のやりかたを根本的に改めるべきだとして、かけ算の新しい定義を提唱した。(注1)

「そのためには、たとえば、ウサギが何匹かならんでいる絵をかいて、まず、ウサギ1匹に耳が何本あるかを考えさせる。そうすると、“1匹分が2本”であることがすぐにわかるだろう。そして、たとえば、「3匹分の耳は何本か」と問い、それを、
 2×3
の意味だとするのである。つまり、かけ算は“1あたり”から“いくつ分”を求める計算(注2)と定義するのである。」(『量とは何か I 』 P 118)

  瀬戸さんが強調した(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)、という考え方がここで登場する。

 「かけ算をこのように定義すると、それに応じてわり算の定義も当然変わってくる。それはかけ算とはちょうど逆に、“いくつ分から1あたりを計算するのがわり算だ”とするのである。」(同上 P 119)

 このように、かけ算の教育で、(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)という考えかたは、わり算の等分除(1あたりの数を求める)、包含除(いくつ分を求める)や、内包量(速度や濃度など)の理解へ繋げるためにも重要であると説いたのは、実は遠山がその先駆者であった(注3)。

 その上で、先のウサギの耳の総数をもとめる問題で、右の耳が3本、左の耳が3本と考えて、
3×2=6 と計算することに、なんら問題はないと説いているのだ。ミカンを配るのに、トランプを配るときのように、一回に6個ずつ、4回に分けて配ると考えて 6×4=24 と計算するのも同様で、そういう子どもは、すべてかけ算の意味を正しくとらえているものと考えて良いからである。

 ところで、先のミカンを配るかけ算の問題で、「1回あたり6個」と考えた子どもは、「24個のミカンを6人に分けると一人あたり何個になるか」という割り算の問題に、一瞬とまどうかもしれない。逆に、「24個のミカンを4回に分けて6人に配るとき、一回あたり何個になるか」という問題にしたら、かけ算で「一人あたり4個」と考えた子どもの方がとまどうかもしれない。わり算でつまずいているように見えるのは、実は、教師の側の融通のきかない考えかたを押し付けたことに原因がある可能性が大きいだろう。最初から自由な発想を大切にする教え方に徹していれば、割り算の問題でも臨機応変に対応できる筈だ。

 遠山は、先の問題でミカンの個数を求めるのに、かけ算の順序に意味がないのは、教室の中に並べられている机の数を計算するのに、縦の列×横の列でも、横の列×縦の列でもどちらでも良いのと同様であると書いている。ミカンの個数を求める問題が、実は人そのものは無関係で、人の前に、縦6列・横4列に並べてあるミカンの個数を求める問題と同質であることを分からせることの重要性を説いているのだ。人は、その縦の列の前にラベルとして着いているに過ぎないと考えれば、それが人であろうと皿であろうと、問題の本質とは無関係であり、さらに、そのラベルが、縦の列にあろうと横の列にあろうと、ミカンの個数に変わりがないことに、その本質がある。

 遠山はまた、「交換法則はまだ教えていないから、それを使ったのはバツだなどというのは、教える側の得手勝手にすぎない。交換法則など子どもが自分で発見することはいくらでもあるのだ。」とも書いている。

 遠山のこの発想は、彼の「水道方式」に基づく、算数教育論からきている。少し長くなるが、『水道方式とはなにか』(太郎次郎社、1980)から、引用しよう。

7.「水道方式」とはなにか

「三ケタまでの数どうしのたし算の問題は全部で100万ある。この100万の問題を2年生でできるようにしてやるにはどうしたらよいか。(途中略) まず三ケタの数の計算ができるために、前提となるのはつぎの二つである。
1)位取りの原理
2)ケタの数のたし算
(途中略)
一ケタの足し算は準備として十分に習熟させておく。これは三ケタのたし算を組み立てているもっとも単純で基礎的な過程であるから、“素過程”とよんでおく。この素過程を組み合わした三ケタのたし算が“複合過程”なのである。つぎの大きな問題は複合過程をどのように分類し、配列するかという点であって、これが従来の常識と衝突するのである。それは、まずはじめにすべてのケタがそろっていて、0もなく、繰り上がりもないものからはじめることにしたのである。たとえば、
234
+512
-----
というような問題である。だから、
234
+ 52
-----
という問題は後になってでてくるのである。これが従来の常識を破っているところであって、反対者が批判するのもこの点である。
ところが、子どもにきいていみると、やはり、そのほうがいちばんやさしく、後の問題は、たいていの子どもはひとりで考えてできるのである。前の問題がもっとも一般的で典型的であって、後のは“型くずれ”になっているが、典型的なものの練習を最初に力を入れてやるわけである。“水道方式”という妙な名前もそこからでてきたのである。
典型的なものから枝分かれして、しだいに型くずれにうつっていく有様が、水源地からパイプで枝分かれしていって各家庭の台所に達している水道に似ているところから、“水道方式”と仮称していたのが、いつのまにか本名になってしまったのである。」(p9-10)

 つまり、より一般的で普遍性のある問題から特殊なものへ、という流れで教えることで、子どもは多様な問題への対応が容易になるという発想である。このことは、(その2)にも書いたように、抽象思考や概念理解の能力の生得性という遠山の信念にもとづいている。

 そもそも、子どもに抽象思考や概念理解の能力が全くないとしたら、特定の演算子の機能など教えようがない。100の問題があれば、100通りの解き方を教える以外にないからである。ところが、子どもはおどろく程の能力を発揮して、一つの問題でも様々な解き方を発見する。そのことに確信を得た遠山は、抽象的な概念を教えるには、最も一般的で普遍的な例を先に提示し、そのエッセンスを教えることが肝要であると悟ったのだ。

 「水道方式」の根底にあるこの発想は、現在の算数教育の、簡単な問題から複雑な問題へといった流れと根本的に異なっている。(その2)に示した大工の仕事量の問題のように、本当に具体的な問題というものは、抽象的な概念を基礎とする算数の世界では、却って難しく、混乱を引き起こすことになる。その点では、単に「簡単な問題」と思われることでも、子どもたちにとっては、抽象的な概念と結びつきにくく、難しい問題となることもあり、逆に、一般的で普遍的な問題が難しいとは限らない。遠山は、そうした数多くの実例について協力者とともに吟味し、「水道方式」にもとづく学習教材を作り、世に問うた。遠山が亡くなったのは、この指導法を普及する活動が軌道に乗りかかった頃(1978年)のことである。(注4)

 さて、「水道方式」の利点は、はじめに一般的・普遍的な問題を提示することで、演算子ひとつの学習においても、最初から自由で、多様な発想を促すという点にある。そのことを大切にしたかったからこそ、遠山は、かけ算の順序を固定することに強く反対したのである。

 「まず、算数は、小学校の1年から6年まで一つにつながった学問です。つまり、一つ一つの事実が全部つながっていて、ちょうど一つの大きな長編小説のようなものです。けっして短編小説の集まり、短編小説集ではないということです。」(『水道方式とはなにか』 p17-18)

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注1:遠山によると、ヨーロッパの言語の“かける”の意味には、英語の”multiply”のように、もともと“ふえる”という意味があって、かけ算をたし算の延長として教えるやりかたが自然に浸透した。一方、中国語にも日本語にも、“かける”に“ふえる”は含意されていない。例えば“8がけ”など、はじめから減ることを想定して使用されるなど、こちらのほうが算数教育の上では有利な言語状況なのだから、根本から改めた方が良い、ということらしい。その方が、0や分数や少数のかけ算も理解され易い。

注2:この文章の「“いくつ分”を求める」という表現は、この場合、「3匹分の総数を求める」という意味で、「“1あたり”と“いくつ分”から”全体“を求める」と同じ意味。
 なお、ウサギの数え方は“匹”ではなく、正しくは“羽”である。それを間違えても、算数においては何らの問題も生じない。そこに拘るのは、国語の問題であって、算数に国語の問題を持ち込んではいけないというのが、「助数詞廃止論」のもう一つの理由であった。ただし、遠山が廃止を主張したのは、式の記述中においてのもので、問題文から廃止することには拘っていなかった。

注3:この考え方は、『量とは何か』を読む限りでは、遠山のオリジナルであるらしいが、先駆者の有無については定かでない。いずれにしても、遠山を中心とした「数教協」の活動をとおして、戦後(1960年代?)、全国にひろまった。

注4:ほるぷ出版から発刊された「水道方式」にもとづく学習教材には、『さんすうだいすき 全10巻』(1972)と『数の探検 全9巻』(1973)があるが、いずれも絶版。タイルなどの付録も充実していて、その分、高額であった。遠山の死後、遺族との間で版権をめぐる問題が取りざたされたが、詳細については把握していない。
http://homepage.mac.com/kamenoseiji/Sansuu/index.html
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=8586

4.算数でつまずく要因はどこにあるか

 遠山の考えを理解するには、少し回り道が必要だ。遠山は、次のように書く。

「算数が子どもに役に立つとしたら、平凡で、やさしくて、当たり前な考えかたが一番、役に立つわけです。(中略)算数ができなかったら、よほど怠けているか、どこか教えかたがおかしいというふうに考えなければなりません。(『水道方式とはなにか』 p17)

 この考えの根底には、算数は人にとって生得的な能力の範囲内にあるという確信がある。フッサールが<理念>の生得性を説いたように、抽象思考そのものが生得的だと、遠山は考えていた。この抽象思考の能力を具体的な問題にあてはめて発揮できるように訓練するためには、そのことに相応しい問題を提供しなければならない。これは、具体的な問題から抽象思考へと発想する今の算数教育と正反対の考えである。そして、算数を難しくしている要因として、初等教育段階に相応しくない問題、ひねくれた問題や、不適切な文章表現の例をいくつか揚げている。例えば、

「1軒の家をたてるのに大工のAは40日かかり、Bは60日かかる。AとBがいっしょに働いたら、何日でできるか」

 この問題は、AとBの一日の仕事量をそれぞれa、bとして、二人が協力したときの一日の仕事量がa+bに等しくなるときはじめて解くことができる。ところが現実に則して考える子にとっては、そのことは自明ではない。二人の協力関係がうまくいけばa+bより大きくなるだろうし、非協力的ならa+bより小さくなるだろう。そう考える子は、この問題は解けないが、だからといって、その子の算数・数学の能力が劣っているということにはならない。

 瀬戸さんは次のような例を示した。

「「おはじきならわかるが、具体的なものだとわからない」とか、よく言われるのは「男の子5人、女の子3人、差は?」と言う問題で、「男の子からどうして女の子をひくことができるか」と真剣に悩む子がいるとかとか、、、」

 「おはじき」の例は、遠山が考えたように初等段階ではより抽象的なものの方が理解され易いことの一例と考えられる。
 「男の子5人、女の子3人、差は?」は、算数の設問としては文章表現が不完全すぎて、男の子と女の子の何の差を問うているのかわからない。もしかしたら腕力の差なのかもしれない。この場合、せめて「男の子5人と女の子3人の、人数の差は?」としなければならないだろう。問うているのが「二つの数の差」という抽象的なものに還元される緒を示してやれば、悩む子は減る筈だ。

5.算数教育における助数詞廃止論

 同様に、「5人の人に3枚の紙をくばると、何枚たりないか」、という問題はどうだろう。
 5人―3枚=2枚 としたら、人(人数)から紙(枚数)を引くとはどういうことか、混乱する子どもがいるだろう。これは、助数詞(注1)をまるで物理単位と同じように発想する教育の結果おこる混乱の例である。遠山は、次のように書いて「算数教育における助数詞廃止論」を主張した。

「子どもはそういう計算をやる段階になると、ネコ1匹と紙1枚というのは1対1対応がつくということをじゅうぶん知っているはずなのです。(中略) だから、これに枚とか匹という助数詞をつけることは、せっかく高まった子どもの考えかたを幼稚な段階にひきもどす結果になります。」(『水道方式とは何か』 p153)

 これを読んで気づくように、遠山は、助数詞を、いわゆる「単位」とはみなしていない。彼の助数詞廃止論の中に、単位の話はまったく出てこない。それどころか、助数詞に拘るのは「幼稚な段階」と言っているのである。

 この指摘に対して瀬戸さんは、助数詞は物理単位と同じ単位であり、算数から単位を廃止するとはとんでもない、という意味のコメントを残された。

 ここで、助数詞について少し整理しておこう。遠山が算数教育において廃止を主張したのは、具体物を数えるときの、「個」、「匹」、「枚」、など、一般名詞の数(分離量=離散量)に付ける接尾語としての助数詞である。これらは、「単位語」というくくりで、<単位に準ずる>扱いを受けるが、言語操作上も機能上も物理単位とは異質なものである。連続量に付ける物理単位は助数詞には含めないのが一般的(Wikipediaの「助数詞」参照)。

 助数詞は、「漢字圏」と呼ばれる国々の言語(中国語、ベトナム語、韓国語、日本語)および、南北アメリカ西海岸の土着言語など、環太平洋地域に特有のものとされ、印欧系の言語(サンスクリット語を含む)など、世界のほとんどの言語にはない。中国語では名詞の前に現れて、どのような性質のものを話題にするかを予告して、文の理解をスムーズにするはたらきがあるという。

 日本語の助数詞も中国語由来とされているが、ほとんどの助数詞は、機能上の役割が明らかでなく、そのため誤用も多く、それで大した不都合もない。少なくとも、物理的な意味は曖昧であり、算数教育でこれを廃止しても本質的な問題は生じない。もちろん、国語から廃止する訳にいかないのは当然である。

 特殊な助数詞として「回」や「倍」のように、動詞や形容詞、形容動詞を修飾するものがある。これに相当するものはどの言語にも存在し(英語の “times” )、これで受ける数を物理では無名数(単位のない数)として扱う。これを廃止する訳にいかないのは当然である。

 助数詞を廃すると、前掲二つの設問は、それぞれ
「男の子の数が5で女の子の数が3のとき、男の子と女の子の数の差はいくつか」
「人の数が5、紙の数が3であるとき、人に比べて紙はいくつたりないか」
と書き換えられる。こうすると、誤解の余地無く題意が伝わり、「単位の混乱」も回避できる。助数詞が、世界中のほとんどの言語には存在しないとすれば、ユニバーサルであるべき算数の世界において、これがなくてもなんら不都合はない筈である。だから、かけ算の勉強でも、「1あたりの数」と書く。「1人あたりの個数」などと助数詞をつけなくても十分理解されるからである。例えば、「人が5つ」、「紙が3つ」と、全て「つ」に統一したとしても誤解は生じない。要は、算数の問題では助数詞の前の数字だけが意味を持つということだ。

 一方、瀬戸さんは、ブログ記事のコメント欄で助数詞を物理単位と同様に見なす論を展開した。先のミカンの個数を求める問題を例に、次のように書く。
「「6人に4個ずつ」と言うことは、一人あたり4個だから、
4個/人×6人=24個となります。」
 これはまさしく、単位の計算である。どうやらこれが、今の算数教育の実態であるらしい。助数詞は単位ではないとの前提に基づく遠山の「廃止論」を知っていた私にとっては、青天の霹靂で、トンチンカンな質問をしてしまったほどである。

 ところで遠山は、「
ミカンを配るのに、トランプを配るときのやり方で配ると、1回分が6こ、それを4回配るのだから、それを思い浮かべる子どもは、むしろ、
 6×4=24 
という方式をたてるほうが合理的だといえる。」と主張した。
 私は、当然これは、「1(回)あたりの数」は6(個)で、「いくつ分」にあたるのは4(回)と考えて、(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)、という方式に当てはめたのだと考えた。敢えてこの場合の単位の計算をすると、6(個/回)×4(回)=24(個)、となる。

 これに対しての瀬戸さんのコメントは:

「私の場合は、
遠山啓の例のような場合に遭遇はしたことがないのですが、もし、そのように考える子がいたとしたら、
それはそれで、その子から聞き取りをして(と、言うか、いつも聞き取りをしています)、
その上で、かけ算の定義として最初に教えた「単位量×いくつ分」に立ち戻ります。
」

 つまり、その子が、単位量として「一人あたり4個」と考えたか、「一回あたり6個」と考えたか、あるいは、別の考え方をしたのかを聞き取りして採点に活かすということであろう。では、期待した通り、4×6=24 と解答した子にも聞き取りをするのであろうか。瀬戸さんの主張の文脈からすると、期待に反して、6×4=24 と解答した子だけに、その真意を聞き取りすると読み取れる。

 瀬戸さんの説明は一貫していて、この問題の場合、明らかに「1あたり」とは「一人あたり」でなければならない、その方が自然であるという発想に貫かれている。「回」は、具体物の数ではなく、普通は動作の数を表わしていて、英語では ”times” に相当し、物理学では無名数として扱う。だから、助数詞を単位とみなす以上、「1あたり」に相当するものとして「1回あたり」という発想は生まれにくいのかもしれない。

 しかし、助数詞は単位ではないという教育が徹底されていれば、子どもはもっと自由に発想できる筈である。いずれにしても、元の設問は、配り方を指定していないのであるから、遠山が想定したような配り方を排除しない。だから、遠山は、(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)という考え方を大切にしつつ、どちらが「1あたりの数」であるかは原理的に自明ではなく、計算の順序としてはどちらでも良いと主張したのだ。私は、遠山のこの指摘は正しいと思う。

 次回は、「水道方式」の立場から、「将来を見通した教育効果上の戦略」について、遠山がどのように考えていたかを整理し、その上であらためてかけ算の順序が自由であって良い理由をまとめる。
つづく

-----------
注1:「数助詞」とも称されるが、この呼び名は「格助詞」のような「助詞」の一種を連想させる表現なので、用いない方が良いと思う。

はじめに

 最近ウェブ上で議論されている「かけ算の順序」をめぐる議論にかかわって、遠山啓の考えを誤って伝えているものがあるのを見かけた。要約すると、小学校の算数の授業でかけ算の順序に拘った教え方をしているのは、数教協(数学教育協議会)の影響によるもので、これは、故遠山啓の「理論」の名残である、というもの。事実はどうかというと、遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた。

 そこで、遠山の思想や哲学(注1)について、今は述べることはできないが、せめて、彼が語った事の断片でも正しく伝えたいと思った。しかし、「かけ算の順序には意味がある」と主張する側の論理を、はっきりとは掴みかねてもいた。かけ算の順序に拘ることに反対の立場からエントリーを上げて、問題提起をされた積分定数さんのブログに寄せられたコメントを読んでも、今ひとつはっきりとしない。
http://daiba-suuri.at.webry.info/200906/article_1.html

 ところが、まもなくして、瀬戸智子さんのブログ「瀬戸智子の枕草子」に、かけ算の順序に意味ありとする記事がアップされ、これを読み、コメント欄で短い質問をした後で、私はやっと理解できた。
「かけ算の順番についてツラツラと考えました」
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/07/post-4df6.html

1.かけ算の順序に拘る理由

一例として、
「4人の人にみかんを3個ずつ配ります。みかんは全部で何個必要でしょうか。」

これを、ほとんどの小学校では、
3×4=12 --- 正解
4×3=12 --- 答えは正解だが、式は間違い
と採点するそうだ。

 これは、子供の発達段階を見通した教育上の戦略に基づくもので、この場合「一人あたり3個で、4人分必要」と考えて、
(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)
という式を立てるように指導していて、「1あたりの数」と「いくつ分」をきちんと理解しているかをチェックするために順番に拘っているのである。したがって、式としては、順番を逆にして
(いくつ分)×(1あたりの数)=(全体の数)
としても良いが、「1あたりの数」を先に書きなさいと指導しておけば、解答にそれが現れるのでチェックし易いというもの。

 また、これを理解しないまま次に進むと、割り算の等分除(「1あたりの数」を求める)、包含除(「いくつ分」を求める)や内包量(速度や濃度など)の勉強でつまずく、ということらしい。

これはこれで理屈は通っていると思う。ただし、明らかに不適切と思われる点がある。

2.設問の題意と採点基準の乖離

 後で述べるように、同様の議論は過去にも新聞紙上で大きく取り上げられたことがある。なぜ、このことが繰り返し問題になるかというと、設問への解答として 4×3=12 は決して間違いではないのに、これにバツを付けられたことへの反発があったからだ。これは簡単なことで、設問の文章から読み取れる題意と採点の基準が著しく乖離しているのである。もし、本当に瀬戸さんが言うように、「1あたりの数」と「いくつ分」の理解度をはかろうとして出題するのであれば、設問は、次のようにすべきだ。

「4人の人にみかんを3個ずつ配ります。みかんは全部で何個必要か、(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数) という式をたてて答えなさい。」

もっと直截に、「1あたりの数はいくつですか」と問うのが一番良い。

 もしこれが入試問題であって、文章から読み取れる題意と採点基準が著しく乖離していた場合、たちまちマスコミネタになってしまうだろう。なにより、遠山も強く主張していたのだが、これで教師不信、算数不信に陥る子供が出る可能性もある。算数・数学の問題では、題意を明示的に示すことは、大前提である筈だ。
 次に、かけ算の順序について遠山はどのように考えたかを述べよう。

3.遠山啓の主張

 彼は、著作集の中の『量とは何かI』(太郎次郎社、1978)の「II-外延量と内包量」の章に、「6×4、4×6論争にひそむ意味」(p114-120)という特別の節を設けて、この問題を6ページ半に渡り詳述している。同じ事は、『水道方式とはなにか』の卷においても繰り返し述べられている。それは、1972年1月29日の『朝日新聞』に、小学校のテストをめぐって、ここでの議論と同じ論争が載ったことがきっかけになっている。

 この時の問題は「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか」というもので、6×4=24 と書いた子どもが何人かいて、その答案は、答えの「24こ」にはマルがつけられ、式の「6×4」にはバツがつけられ、「4×6」に訂正されていた。これに疑問をいだいた親が、文部省にも質問状をだして論争がまきおこったとのことである。
遠山は次のように書いている。

 「この問題の答えとして、4×6 だけが正解であり、ほかを誤りとする理由はどこにもない。もともと算数の考え方は一通りしかないと思いこむのがおかしいので、多種多様な解き方があってよいのである。
ミカンを配るのに、トランプを配るときのやり方で配ると、1回分が6こ、それを4回配るのだから、それを思い浮かべる子どもは、むしろ、
 6×4=24 
という方式をたてるほうが合理的だといえる。」

 ここで遠山は、かけ算の交換法則のことを言っているのではない。つまり、そもそも、4と6のどちらを「1あたりの数」とするかは考え方次第であって、一方に固定できないと主張しているのである。別の例として、ウサギが3羽いる時の耳の総数をかけ算で求める時に、耳が1羽あたり2本ずつと考えても良いし、左耳が3本、右耳が3本と考えても良いとしているのも、「1あたりの数」を2としても3としても、どちらでも良い理由として書いている。

 実際には「左耳が3本、右耳が3本」と考える子どもは、いるとしてもごく少数であろう。しかし、それが、個々の問題でどのような割合になるかは、設問の言葉の表現にどのように<引きずられたか>の違いに過ぎないとみることもできる。

以上に述べた遠山の主張には、次の二つの観点から議論の余地がある。

1) 理論的なこととして、「1あたりの数」と「いくつ分」が、それぞれ、6と4のどちらに対応しているかは自明ではなく、どちらか一方に固定できないという遠山の主張は正しいか。

2) 「1あたりの数」と「いくつ分」を理解しないまま次に進むと、割り算の等分除や包含除、および内包量の勉強でつまずく、という、瀬戸さんの主張に比べて、遠山の主張には、将来を見通した教育効果上の戦略という視点が欠けているのではないか。

 これらの問題は、遠山の「算数における助数詞廃止論」と「水道方式」にそれぞれ関係しているが、両者はつながっている。そのことは、遠山にとっては、子どもの教育の実践をとおして得られた確信であった。
次には、特に第一の問題に拘わって「助数詞廃止論」を軸に述べてみたい。
(つづく)

----------------
注1:吉本隆明のいくつかの著作に、次のような記述があったことを思い出す(記憶に頼っているので不正確)。
 吉本は、戦中、東工大の化学コースへ進学したが、敗戦となって茫然自失におちいった。ほとんどの教員も学生も生きる目的を見失っていた。誰もいないと思われた大学へ行ってみると、廊下に遠山による張り紙があって、「量子力学の数学的基礎付け」についてセミナーをやるので、興味のある者は参集のこと、というようなことが書いてある。遠山は、何も見失っていなかった。吉本は、すがるように遠山の元へ通いつめた。

 遠山は、数学における直感というものを、生得的なものと考えていた。フッサールが、人に共通に備わる「理念」のつくる構造を足がかりに<認識の素過程>を明らかにする「現象学」を建設していったように、遠山は、無限に可能な数学の<体(てい)>の中から、ヒトが選び取ったただひとつのそれが自然の純粋な記述になり得ていることを足がかりに、人の理念のつくる構造が自然の写像となっている原理を明らかにしようとしていた。彼が、小学校の算数教育において量の概念の定着を目指す実践の中で掴み取った確信を出発点としているだろう。
 最近、かつさんの「遠方からの手紙」に、吉本にふれたエントリーがあがっている。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200908050000/

 私自身は、吉本の思想に魅かれるところと反発するところがあり、短い評論はついつい読んでしまうのだが、本格的なものは読んだことがない。

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