さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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 悪い奴らが世の中を騒がす出来事が多くなったからであろうか。ネット上ではハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」という概念についての言及に接する機会が増えたような気がする。

 私は、この概念について、少しばかりのひっかかりがある。第一に、「アイヒマンの悪」と「ヒトラーの悪」との関係、言ってみれば、二つの「悪」の間にある、断絶でも連続スペクトルでもない筈の何か、その構造のようなものについてアーレントはどのように考えていたのだろうか。

 これは私独自の素人判断かもしれないので、おそるおそる書くのではあるが、先ず、アーレントの「悪の陳腐さ」という概念は、1961年のアイヒマン裁判を傍聴して、彼の証言をもとに練り上げられたものではなく、それよりずっと以前に着想されていた。アーレントは、そのことに説得性を持たせるためにアイヒマン裁判を利用したのだと私は理解している。アーレントの論文集『パーリアとしてのユダヤ人』(寺島俊穂・藤原隆裕宣訳:未来社、1989)に収録されている『組織化された罪』(1944年11月)から引用しよう。

「行政的大量殺人」に対して人間の政治的理解力では太刀打ちできないように、それへの国民総動員に対して人間の正義への欲求などではどうにもならない。全員に罪があるなら、誰一人として究極的には裁き手にはなれない。というのは、この罪からはまさしく表面的に罪のあるふりをしたり、自分を偽ってでも責任をとろうという態度すら取り去られているからである。刑罰が犯罪者の定めである限り ー これは、二000年以上前から西洋人の正義感覚、法感覚の基礎である ー、罪には有罪だという意識が刑罰には人間は責任能力を持つはずだという確信が含まれている。このような意識が概してどうなっているか、アメリカの特派員がある話の中でうまく描き出している。その問答のやりとりは、偉大な詩人の想像力と創作力に匹敵するであろう。

問 あなたは収容所で人を殺しましたか。
答 はい。
問 毒ガスで殺しましたか。
答 はい。
問 生き埋めにしましたか。
答 時々そういうこともありました。
問 犠牲者はヨーロッパのいたるところから連れてこられたのですか。
答 そうだと思います。
問 あなたは個人的に殺人の手助けをしましたか。
答 一度もしません。私は、収容所の主計官だっただけです。
問 あなたは、行われていたことに対してどう思いましたか。
答 最初は悪いことだと思いましたが、われわれは慣れてしまいました。
問 あなたは、ロシア人があなた方を絞首刑にするいっているのを知っていますか。
答 (泣き出して)なぜですか。私が何をしたというのですか。
  (1944年11月12日、日曜、午後)

 彼は実際何もしていなかった ー 彼は命令を実行しただけである。いつから命令を遂行することが犯罪になったのか。いつから反抗することが徳になったのか。いつから自分の生命を賭けなければ誠実でありえなくなったのか。つまり、一体彼は何をしたのか。

 この後、ハインリッヒ・ヒムラーについての言及があるが、家庭にあっては平凡な良き父親であったヒムラーがナチズムに取り込まれて巨大な悪をなしたという構図は、後にアイヒマンに向けられた評価と本質的には同じである。

 この論文を読むと「悪の陳腐さ」という概念は既に1944年時点で完成されていたと見ることができるが、アーレントにしては論理の展開が伝聞に基づいているところなどがあって、根拠に乏しい筋立てとなっている。『ニューヨーカー』誌から特派員としてアイヒマンの裁判を傍聴しないかとの誘いがあった時、周囲の反対を押し切ってエルサレムに赴いたのは、既に答のある問題についての説得力のある論文を仕上げるまたとない機会が訪れたと思ったからに違いない。

 しかし、エルサレムでの裁判傍聴のレポートの仕方は適切なものであっただろうか。私の疑問が強くなったきっかけは、日本で映画『ハンナ・アーレント』の公開が始まった頃、山脇直司 @naoshiyさんの次の呟きに接したことにある。

(承前)去る1月にドイツ滞在中見逃したこの映画で特に印象的だったのが、ハンス・ヨナスのアーレント批判。彼の赤裸々なアーレント批判は、彼の回想記http://www.kinokuniya.co.jp/f/ の249-261頁で読むことができる。

承前)ヨナスのアーレント批判は「ずっとまえに上から停止が命じられていたときに、アイヒマンはたとえばハンガリーにおけるユダヤ人絶滅をその後も断行したということである。彼はこの仕事を最後まで遂行したかったのである。−ハンナはここでーひどく歪んだ像を描いた」(同書257頁)に尽きる。

(承前)このようなヨナスのアーレント批判にかかわらず、小生は、アイヒマン裁判をユダヤ人ジェノサイド問題を超えてどの国々でも起こりうる「悪の凡庸さ」「思考停止の責任」として描いたアーレントの洞察を、20世紀思想の古典の一つとして高く評価したいと思う。

 ここには、アイヒマンは上司の停止命令に逆らってユダヤ人虐殺を継続したという事実にかかわることと、そうだとしてもなお、アーレントの「悪の凡庸さ」のテーゼを「20世紀思想の古典の一つとして高く評価したい」との山脇さんの意思表明がある。これは一体どういうことだろう。

 『ハンス・ヨナス回想記』の第10章 「ニューヨークにおける交友と出会い」p.257には次のように書かれている。

 アイヒマンが結局は、自分が行ったことを正しく知ることはまったくなく、自分に課されたことをただ忠実に遂行しただけの罪のない人間であるかのように、「悪の陳腐さ」についてのテーゼを彼女はあとになってもなおも主張したので、私はいっそうそのことで彼女を許すことができなかった。彼女においては、そもそもアイヒマン自身の狂信は話題にならなかったのであり、むしろ彼女は彼の自己描写にひっかけられてしまったのである。しかし、彼の自己描写にもかかわらず、文書で明らかだったのは、すでにずっとまえから上から停止が命じられていたときに、アイヒマンはたとえばハンガリーにおけるユダヤ人絶滅をその後も続行したということである。彼は、この仕事を最後まで遂行したかったのである。彼は言っていた。「そして、もし私たちが戦争に負けるならば−私は一つのことを達成したいと思っている。ユダヤ人が絶滅されることを」。ハンナはここで、ユダヤ人の側についてもナチの側についても、ひどく歪んだ象を描いたのである。

 アイヒマンが上司の虐殺停止命令を無視したことは歴史家にとっては周知の事実らしく、ウィキペディアの「アドルフ・アイヒマン」の項にも「1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。」との記述がある。

 この事実は、ニュルンベルク裁判において既に明らかにされていたことであり、アーレントが傍聴した法廷においてもアイヒマンの罪状の一つとして数えられ、それゆえ彼は有罪となり死刑判決が下されたのではなかったのか。つまり、「上司の命令に従っただけ」とのアイヒマンの弁明は、裁判の過程で虚偽の証言として退けられている。たとえアーレントがこの事実を取材の過程では知ることができなかったとしても、その後のヨナスとの議論を通して知った筈だ。映画でもヨナスと激論を交わす中でこのことに触れる場面がある。

ヨナス:悪魔とは言わないよ。でも平凡な人間だって怪物になりうる。

アーレント:そう単純じゃない。今回分かったわ。彼はどこにでもいる人よ。怖いほど凡人なの。

ヨナス:国家保安本部ではユダヤ人課のトップだ。ただの凡人に務まるか?

アーレント:確かにね。でも彼は自分を国家の忠実な下僕と見てたの。 ”忠実こそ名誉” 総統の命令は法律よ。彼に罪の意識は全くない。法に従ったからよ。

ヨナス:ヒムラーが虐殺を禁止した後もアイヒマンは任務を続けてた。なぜだ? 任務を完遂したかったからだ。

ブルッヒャー:法律なんてすぐ逆手に取られるものさ。”汝 殺すなかれ” が ”汝 殺せ” になった。義務の遂行が良心より優先されたんだ。

ヨナス:じゃあ 誰にとっても責任はないってことか? 殺人が罪なのは明白だ。

アーレント:それが分からない人もいたけどね。

ヨナス:ハイデガーもな・・・

 ヨナスの問いにアーレントではなく夫のブルッヒャーが答えて議論は終わっている。いろいろ調べても、なぜだかアーレントの「悪の陳腐さ」のテーゼとアイヒマンが上司の虐殺停止命令を無視してまでジェノサイドを継続していったという事実との整合性を図る論考に接することができず、私の疑問はますます深まるばかりであった。例えば、百木漠さんと戸谷洋志さんによる「やっぱり知りたい!対話篇 ハンナ・アーレント × ハンス・ヨーナス」の第1回のレジュメ『ヨーナスと「誕生性」』で、戸谷さんは、「アーレントの『エルサレムのアイヒマン』(1963 年) をめぐって二人は一時的に意見を違わせますが、ほどなくして和解しています」と書いている。

 戸谷さんの3編のレジュメにはヨナス自身による『Erinnerungen(回想)』からの引用があるのだが、私がこだわるヨナスからの批判の核心部分についてはついぞ触れられることがない。しかもその回想記には「ほどなくして和解」したとはとても言えない深刻な対立が長らく続いたことが記されている。

『ハンス・ヨナス「回想記」』のP.252から引用する。

 しかし、のちに、私たちのあいだには大きな危機がもちあがった。しかも、『エルサレムのアイヒマン』という彼女の本をきっかけとしてなのである。この本は、およそ20年代から存在している、知的な野心をもった週刊誌である『ニューヨーカー』誌に連載された記事がもとになって生まれたものである。雑誌はアドルフ・アイヒマンに対する訴訟について報告するために、1961年に彼女を通信員としてエルサレムに送った。彼女の記事は、エルサレムから国際通信で送られ日報として公表されたのではなく、毎週彼女が帰ってきたあとで初めて文書として仕上げられた形で登場した。彼女はエルサレムで彼女固有の確信を展開していた。その確信は、たんに人格および犯罪者個人としてのアイヒマンに関するものではなく、とりわけユダヤ人絶滅のシステム全体に関するものであった。このシステムは、たしかにナチによって計画されはしたが、部分的にはユダヤ人によって黙認されていたのであり、言い換えれば、強制されたり、しばしば進んで行われたりもした協力によって同時に可能になっていたのである。彼女は、ふたたび戻ってきたとき、次のように言った。「私が思うには、こうなってしまっては、私は、報告しなければならないことのせいで、ユダヤ人陣営の中に大混乱を引き起こすことになるでしょう」。

 これに続けて、先に p. 257 から引用した文章を読むと、つまり、友情と思想・学説上の対立は両立するであろうから、後者の対立から一時的に前者をこじらせたはしたが、やがて友情の方だけは回復されたと理解される。アーレントへのユダヤ人社会からの激烈な批判的反応には、強制収容所への大量のユダヤ人移送を可能にしたのは、ゲットーで組織されたユダヤ人評議会が協力したためである等と主張したことも起因しているが、上記引用にあるように、ヨナスはこの点について同意しており、ただ一点、アイヒマンが上司の虐殺停止命令を無視してジェノサイドを継続していったという事実とアーレントの主張は整合しないと批判している。アーレントの良き理解者であった名のある哲学者のこの批判を、どうして皆が皆無視できるのか、私にはわからない。

 アイヒマンが上司の命令を無視して虐殺を継続したことは、不都合な真実として無視されたのではなかったか。仮にそうだとして、「アイヒマンの悪」を「ヒムラーの悪」に替えて、私の最初の疑問「ヒトラーの悪」と「ヒムラーの悪」の間に横たわる問題が彼女の中でもスルーされていること自体の問題性が残されるように思われる。それこそまさに「アイヒマンの悪」の問題ということになるであろう。そのことに関連して『組織化された罪』に次の記述があるのは絶望的である。

(ヒムラー)は、ゲッペルスのようなボヘミアンでも、シュトライヒャーのように性犯罪者でも、ヒトラーのような病的な狂信者でも、ゲーリングのような冒険家でもない。

 世の中の悪は、ヒトラーのような病的・狂信的な悪やその他諸々のどうしようもない人格的歪みからくる悪とヒムラーのような「陳腐な悪」だけからなるのではあるまい。「陳腐な悪」が存在し得る、あるいは、そういうものがはびこる背景は、単に自ら考えようとしない風潮だけではないような気もするのである。そう考えないと、自ら考えようとしない風潮がなぜ蔓延るのかという問題を解く緒がみつからない。そもそも、「思考停止」に警鐘を鳴らすことそれ自体は意義あることだとしても、それだけで終わってしまったら、精神論で乗り切ろうというようなお節介な励ましとなんら変わらない。

 私はこの方面の門外漢だから、理解不足からくる誤解に満ちたものである可能性の方が高いと自覚はしている。しかし、もしアーレントがそこにもちゃんと切り込んで向き合っていたのなら、アーレント研究者は、そのことをこそアーレントの功績として世の中に広めるべきだと思う。

 アーレントは、近代以降の「国民国家」という制度の中で、どの国の国民にもなれない人々に目を向け、この制度の限界を暴いた。アーレントが気になる理由はそこにあるが、私の中で、まだマルクスほどには魅力ある存在ではない。

書ききれていないので、余力があったら補足的な記事を上げたい。特にこの問題に関わっては、香月 恵里さんの論文『アイヒマンの悪における「陳腐さ」について』(pdf: 532 kB)は無視できないが、余力はあまりない。

 2011年の東電原発事故を契機に電力中央研究所(電中研)の中に設置された原子力リスク研究センター(NRRC)(pdf: 2.1 MB)というのがある。現在,このNRRCが主導して,原発の耐震安全性審査の手法を米国が採用しているSSHACと呼ばれる確率論的ハザード解析へ転換させようとする動きが活発で,四国電力の伊方原発をモデルケースとした模擬審査のようなものが昨年から開始されている。

 「伊方 SSHAC」で検索すると多数の報告書がヒットするが,私の知るかぎり,この動きは「21世紀政策研究所」主催の第109回シンポジウム「原子力安全規制の最適化に向けてー炉規制法改正を視野にー」(pdf: 2.6 MB/2014年8月28日)あたりから本格化したようだ。頻繁に登場するキーワードは「最適化」であるが,いくつかの報告書を読めば,規制を受ける側にとって「快適」な審査手法への法改正を目指したものであることがわかる。

 SSHACは,米国原子力規制委員会(USNRC)が採用している地震ハザード解析専門委員会(Senior Seismic Hazard Analysis Committee)の手順に基づく確率論的地震ハザード解析(PSHA)のこと。NRRCの取り組みは,これを日本の原発の耐震安全審査に導入しようとする動きと捉えることができる。最初のまとまった解説論文としては,NRRCの研究コーディネーターである酒井 俊朗氏による「確率論的地震動ハザード評価の高度化に関する 調査・分析 -米国 SSHAC ガイドラインの適用に向けて-」(pdf: 1.7 MB)がある。

 従来,日本の原発の耐震安全審査では,活断層や岩盤性状の評価をもとに最大の地震動を見積もり,また,海底地形や歴史記録などから津波の波高を見積もるなどして,具体的にどのような脅威があるかを明確にし,それへの備えが十分であるかどうかという観点からなされてきた。このような手法は,地震ハザードを科学的に明確に<認識>しようとする態度に根ざしていることから,「決定論的手法」,あるいは「認識論的手法」と呼ばれている。SSHACを推進する側がそのように呼称することを始めたようだ。

 これに対して,多数の専門家の様々に異なる見解を収集し,しかもどの見解も却下せずにそれら全てを集約し,確率論的リスク評価(PRA: Probabilistic Risk Assessment)へ変換するのがSSHACの手順で,米国USNRCではこれをもとに原発の設置・安全審査をおこなっている。その手順は,1)地震ハザードを構成する個々の指標(最大地震加速度など)の予測において異なる学説があったとき,意見が分かれる元となった複数の要因を分岐点に配置したツリー(酒井論文の図1)を設定し,2)多数の研究者による議論を通じてその分岐点で個々の学説毎に重み付けをおこない,3)ツリーの末端まで積算して該当指標の確率分布曲線を得る,というものである。

 分岐点での重みづけをどれくらい<熱心に>検討するかは,原発立地場所での地震ハザードの深刻さに応じて,レベル1からレベル4まで設定され,レベル3では3回の検討会(ワークショップ)を開催することになっている。現在,伊方原発を例に試行されているのはレベル3で,第一回のワークショップが昨年8月におこなわれ,第二回が本年3月下旬に予定されている。試行錯誤の結果,現在のSSHACの手順は「突飛な見解」に偏らずに学界における意見分布を「合理的,客観的に再現できる」ようになっているとされている。

 では何故今,日本における耐震安全審査を決定論的・認識論的手法から確率論的手法へ転換しようとしているのか。SSHACワークショップを電中研が主催していることから,電力業界がこの転換を望んでいることがわかる。したがってこれは,この転換を電力業界が望むのは何故かという問題になる。そもそも審査する側ではなく審査される側が牽引して審査手法を変えようとしている訳で,最初から問題含みである。そのことの問題性は素人でもわかることなので,酒井氏の論文では,「・・・我が国における SSHAC プロジェクトの実施は規制要求ではなく、事業者の自主的安全性向上活動として今後、PRA を活用していくための非常に意義深いものであり、・・・」と弁明されている。白々しいとしか言いようがない。これまでの原発における数々の事故隠し,活断層値切りをはじめとした,隠蔽・捏造体質をふりかえれば,「自主的安全性向上活動」など期待できる筈がない。

 日本が現在採用している決定論的・認識論的手法では,活断層一つをとっても専門家の間で見解の異なることが多く,個々に不確実性を内包しているのは確かであろう。具体的な審査では,それらの異なる見解に優劣をつけ,最も優れたどれか一つの見解,あるいは議論を通してまとめられた統一見解が正しい<認識>を示しているとして安全か危険かの二者択一を判断するという,困難な作業がなされてきた。その結果,却下された見解を持つ専門家の間には不満がくすぶり,審査が長引いたり,あるいは運転差し止め裁判が提訴されたりするのだと電力業界は考えているのであろう。100基もの原発を稼働させているアメリカのように審査がスムースになされるよう転換したいという訳だ。

 私には,この動きは次の二点において容認でない。
 第一にこれは科学の成果を確率の闇に葬り去ろうとする動きである。確率・統計は科学をなす上での重要な手法・手段であるが,科学そのものではない。近年,地震ハザードの予測を含め,いろいろなリスク評価にベイズ統計学を用いようとする動きが急速に進められている。ベイズ統計は,一般の頻度主義確率論とは異なり,主観確率を容認するベイズ主義に基づくもので,例えば,粘土で手作りした不格好なサイコロの目の出る確率は,単純な頻度主義確立論では導けないが,ベイズ統計では,実際にサイコロを振ってみて,回を重ねる毎に(経験によって)修正しながら「尤度(ゆうど)」やオッズを算出することが可能だ。このように,頻度主義で確率を求めるのが困難なある種の複雑系において,尤度という尺度での確率を出すのにベイズ統計は力を発揮する。しかし,NRRCが目指しているのは,個々の科学の成果そのものを単なる一つの「現象」として重みを付けて統計処理し,学界における既存の意見分布に合うような結論を出して危険度を確率的に評価しようとするもので,科学の愚弄に他ならない。

 第二に,一般にリスクと呼ばれるものは大別すれば二つの全く異なるカテゴリーのもの,つまり,何度起こっても個々に回復可能なリスクと,一度でもおこれば破滅してしまうリスクとに分けられるであろう。両者を数値に換算して比較することは,例え可能であっても容認できないとの立場があり得る。この立場は,科学ではなく倫理上のものである。ロシアンルーレットで,リボルバーの装填可能な弾数が6発は少なすぎていやだろうかから100発にしてやると言われても,ロシアンルーレットなど千分の一でも万分の一でも拒否する立場を認めるのが倫理にかなっている。

 もう一度原発のメルトダウン事故が起これば日本は破滅してしまうだろう。だから,交通事故で毎年何千人も亡くなっているからといって原発の事故と数値の上で比較することはできない。原発の安全審査を確率論でやろうとすることは,ロシアンルーレットを拒否するという選択肢(政策判断)があり得ることを後方へ追いやり,原発を未来永劫動かし続けることに道を開くものである。原発の地震ハザードの評価では,いろいろな学説の中で最も高い危険性を示す見解について検討し,それが完全には否定できないと判断されたら,それをもとに耐震性を評価すべきだ。リボルバーの弾が全て抜かれていることが確認できない限り,引き金を引くべきではない。


 気になったので、これ・・・

川内原発の許可取り消し求め 住民らが提訴 | NHKニュース www3.nhk.or.jp/news/html/2016… 何度目? あとこの人達に噴火は地上に放射性物質を供給しており、巨大噴火が起きた場合、殆どの場合福島の平均を超える放射性物質が供給されるって言ったらどんな反応するんだろうw
20:16 - 2016年6月9日

あ、計算ミスったかも。 100km3÷(2750kg/m3)=275,000,000,000,000kg (5mg/kg)×(1.2Bq/mg)=6Bq/kg なのでウラン鉱山が吹っ飛ばない上での最大は1650テラベクレルか。 ごめんねてへぺろ。
0:33 - 2016年6月10日

 まあ、人をひっかけて嘲笑する系なのだろうから、どうでもいいと言えばそうなのだけれど、この方の一連の Tweet にはいろいろと問題がありそうなので、この際ちょっと厳密に計算してみよう。

 まず火山噴出物の体積が 100 km3 に達するVEI(火山爆発指数)=7の噴出物の密度について。VEI は爆発的な噴火による噴出物の体積で定義され、静かに流れる溶岩流には適用されない。これに対して早川の噴火マグニチュードは質量で定義し、溶岩流にも適用される。典型的な破局噴火はほぼ火砕流であり、質量への換算密度は 1 g/cm3 が推奨されている(溶岩流では 2.5 g/cm3 )。上記の計算で密度を2.75としている根拠がわからないが、ここでは 1.5 g/cm3 を採用しよう。

 次に、火山噴出物に含まれる放射性核種について、

@CordwainersCat はははw 崩壊系列と放射線量に何の関係があるんですか? 巨大噴火時に放出される放射性物質の殆どはウランですよ。 量が膨大だから半減期が長いウランでも上回るのです あと何が釣れたかって? 専門用語の割に私が安定核種を上げても気付かなかったでしょう?
23:51 - 2016年6月9日

 かつてこの記事の脚注に書いたように、通常の岩石の放射能はウランよりカリウムの寄与が大きく、トリウムもウランとほぼ同じオーダーくらいはある。破局噴火に典型的な珪長質火成岩の代用として岩石標準試料の JG-1 を例にとれば、ウランが 3.47 ppm、トリウムが 13.2 ppm、カリウムが 3.34%含まれ、1 kg 中のそれぞれの放射能はウラン系列が 600 Bq、アクチニウム系列が 22 Bq、トリウム系列が 537 Bq、40K が 1,044 Bqとなる。

 lyiaseさんの計算式の (5mg/kg) から、ウランの重量濃度を 5 ppmと仮定していることがわかる。(1.2Bq/mg) は、単位が比放射能のそれで、238U 単体の値と思われるが、これは実際より一桁小さくなっている。また、系列核種の放射能も無視されている。ウラン系列とアクチニウム系列を合わせた実際の値は以下に示すように、これより二桁も大きい。

 ウランの平均原子量は 238.03 なので、ウラン238.03 g 中にアボガドロ数 = 6.022 × 10^23 個のウラン原子が存在する。1 mg 中だと 2.53 × 10^18 個となる。
その 99.27%が 238U で 2.51 × 10^18 個、0.72%が 235U で、1.82 × 10^16 個となる。
238U の半減期は T = 4.468 × 10^9 年なので、
壊変定数はλ= ln(2)/T = 1.551 × 10^-10 1/y となる。
従って1年間に崩壊する 238U の原子核の数は
(2.51 × 10^18) × (1.551 × 10^-10)=3.90 × 10^8 個となる。
これを1秒当たりに換算するとベクレルになる。
(3.90 × 10^8) ÷  (3.156 × 10^7)= 12.35 Bq
これは 1 mg あたりの値なので、 238U 単体 の比放射能は
12.35 Bq/mg = 12,350 Bq/g ということになる。(注1)

 天然ウラン中の 238U から出発するウラン系列は14回の放射壊変が永続平衡に達しているので、全体の放射能は、12.35 × 14 = 172.9 Bq となる。
同様に 235U から出発するアクチニウム系列について計算すると、6.3 Bq となり、天然ウラン 1 mg を含む物質の放射能は合計 179.2 Bq となる。5 ppm のウランを含む岩石1kg だと 875.3 Bq となる。

 ということで、岩石標準試料 JG-1 と同じ組成の火砕流 100 km3 の放射能を計算してみよう。
質量:(1.00 × 10^11 km3) × (1500 kg/m3) = 1.50 × 10^14 kg
放射能は
ウラン系列:600 × (1.50 × 10^14 kg) = 9.00 × 10^16 Bq
アクチニウム系列:22 × (1.50 × 10^14 kg) = 3.25 × 10^15 Bq
トリウム系列:537 × (1.50 × 10^14 kg) = 8.06 × 10^16 Bq
40K:1,044 × (1.50 × 10^14 kg) = 1.57 × 10^17 Bq
以上を合計すると、3.30 × 10^17 Bq (330 ペタベクレル)となり、lyiase さんの計算より二桁大きくなる。で、次の tweet、

@ishtarist @CordwainersCat さっき計算間違えました。 1650テラベクレル、ヨウ素131換算はウランの場合係数500として、825ペタベクレルとなります。 福島第一は810ペタベクレルですね。 そしてこの100km3と言うのは破局噴火で最も低い値です。
0:44 - 2016年6月10日

 これは国際原子力事象評価尺度(INES)の換算係数をもとに、238U をヨウ素131に換算したもの。このような換算は、放出された核種構成の大きく異なる事象を被曝影響の面から同一の尺度で比較する目的でおこなわれる。この場合は核種毎に換算して合計しなければならないが、238U だけでもレベル7の原発事故に相当するという次第。

 もちろんこれは単なるお遊びであって、日本列島の地殻は、もとよりこれと同じくらいの濃度の放射性物質を含んでいるので、この噴火によって空間線量が上昇するというようなことはおこらない。それを承知の上で「釣り」をしている訳だが、こんなことをして何が楽しいのだろう。

 ここでどうしても気になるのは、ウランの比放射能を 1.2 Bq/mg と一桁小さめに間違ったのはなぜか、さらに系列核種の放射能に思いが至らなかったのはなぜかということ。ここにも書いたが、うっかりミスにも、数値を多めに間違うのと少なめに間違うのとで、それぞれに異なる何らかの認知のバイアスが影響しているのではないか。

 ウランによる被曝影響を取るに足りないものとするような言説は、原子力村によってさんざん流布されてきたことである。だから、他国民の頭上に何百トンもの劣化ウランをばら撒いたり、大量のウラン残土を放置したり、数kg のウランを人がバケツで運んだりすることが平気でおこなわれる。そういう次第で、ミスを重ねつつウランの放射能の計算をやったところ、予想よりかなり小さすぎる値になってしまったので、健康影響の増加とは無関係なのにわざわざ INES のヨウ素131換算係数などを持ち出さなければならなくなった・・・なんだか、そんな気がする。

@ChouIsamu あーマントル付近だともっと高いですね、もちろん。 破局噴火なので元々の噴出量がとても多いんです。 VEI7の場合、重さにして1000億トンは最低が吹き飛びます。 ここにたった1Bq/kgでもあるとその量は100TBqになってしまうわけです。
0:57 - 2016年6月10日

 どうでもよいが、ウランはマントルにとって典型的な不適合元素で、マントル中では地殻中より二桁ほど濃度が小さい。トリウムもカリウムも同じ。

@ChouIsamu あ、それでもVEI7以上なので同じですね。 多分ですが、VEI7の後半でも川内原発は動くと思いますよ。 川内原発から見た場合、各火山から十分離れてますから、どの火山からも火砕流を受けるとは考えにくい。 火山灰は原発にはあまり影響しません。
1:06 - 2016年6月10日

前にも言ったけど原発って相対的には噴火に強いんだよね。 さすが火砕流やマグマには耐えられないかも知れないけど(高さで普通は到達しない)、基本閉鎖系なので、より広範囲に広がる火山ガスも火山灰も影響は火力より小さい。 あと川内原発の周辺に火砕流やマグマが到達するような火山は存在しない
20:42 - 2016年6月9日

 これは端的に言って間違い。鹿児島湾奥の姶良カルデラでは2万5千年ほど前の数ヶ月間に相次いで大噴火が発生し,合計の噴出量は 450 km3 に達した。その前駆的な活動である大隅降下軽石だけでも100 km3 である。私のこの記事にリンクした大隅降下軽石の写真は、その露頭位置を記事中図1に赤丸で示したが、噴出源からの距離が川内原発までの距離とほぼ等しいものをウェブ上で捜して選んでいる。写真の説明にあるように、この位置で「大隅降下軽石の層厚は約 5.5m,入戸火砕流堆積物の層厚は 15〜25m」である。

 図1には入戸火砕流(シラス)の分布も示されているが、これはあくまで侵食されずに残った部分で、かつては九州南半部一帯が厚さ数m〜150 m の火砕流堆積物で覆い尽くされていた。上記写真のものは下部が弱く溶結していることから、もとの厚さは 50 m 程度はあり、その下部は 300 ℃ 程度の高温になっていたと推定される。原発などひとたまりもない。ちなみに、450 km3 の噴出物が九州全土(36,749 km2)に均等に堆積したとすると、その厚さは12.2 m になる。

 もちろん、こうなったら九州人は絶滅の危機にさらされる訳だが、原発の過酷事故が重なれば四国人も本州人もタダではすまない。「原発震災」ならぬ「原発火山災害」である。かつて、このブログでも何度か触れたが、2001年3月におこった台湾第3 (馬鞍山) 原子力発電所の電源喪失事故は、塩害による高圧送電線のショートがきっかけだった。これまでがそうであったように、次の原発事故も、まったく新しい、これまで未経験の原因によっておこるだろう。たとえ10 cm の火山灰が降り積もるだけでも、未経験である以上、何がおこるか本当のことは誰にもわからないのだ。イチかバチか、洪水は我が亡き後に来たれという思想で原発は稼働されるのだが、推進側にはその自覚がない。

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注1)単位質量あたりの放射能(Bq/gなど)は比放射能と呼ばれ、ウィキペディアに解説がある。そこに、比放射能の逆数(g/Bq)がリストされていて、238U は 8.06 x10^-5 と書かれている。その逆数は 12407 Bq/g (= 12.407 Bq/mg)である。これは純粋な238U についての値であるが、私の計算は 238U を 99.27%含む天然ウランについてのもので、若干小さい値となっている。

 ウェブサイト放射性物質のベクレル値では、238U 単体は12,445 Bq/g と算出される。アボガドロ数の丸め誤差や年→秒への換算などに起因して微妙な差が出る。

 なお、天然ウラン中の 234U はウラン系列に含まれる中間娘核種の一つであり、永続平衡に達しているのでその放射能は 238U と等しいが、これを独立に計算してさらに加えるというミスをしばしば見かける。

タイトル中poohさんの名前の綴りを誤ってしまいました。
大変失礼しました。訂正し、お詫びいたします。

 前回の記事に対してpoohさんから下記の批判記事をトラックバックいただいていました。
 認識の異なる点が多々あると感じましたので、以下、お返事いたします。

1)「ニセ科学撲滅運動」とは
 山形大学の天羽さんによる「ニセ科学まとめ」にある「ニセ科学とは何か」に次の記述があります。

この「擬似科学」の代わりに、「ニセ科学」という用語が広まるきっかけになったのは、菊地誠の講義やネット上の文書による。ニセ科学関連文書のリストを見ると、「ニセ科学」という単語が登場するのは、2003/02/17の「大阪府研究職職員研修会講演」のレジュメのタイトルからである。それ以前の文書には「ニセ科学」という単語は登場しない。・・・

 その下には菊池誠さんによる定義のようなものが引用されていますが、私自身は、前回の記事に引用した「疑似科学」とはなにか(2008/6/23)の冒頭部分において、「『科学を装い、基本的な部分において虚偽の内容を主張するような科学に叛く行為』を、大阪大学の菊池誠氏の定義に従って『ニセ科学』と呼ぶことにしよう」と書いています。かなり端折った書き方になっているのは、この語の有用性に<多少の>疑問を持っていたからで、これ以降も「ニセ科学」について掘り下げるような考察はしていません。ちなみに、私のこの記事の一つ前のエントリー:「水からの伝言」のススメ(2008/5/29)には、「私は、これが『疑似科学』だからという理由で批判するのではない。これは詐欺だから批判するのだ。」と書いていて、ここでも、「ニセ科学」という語の使用を(意識的に)避けています。かと言って、「ニセ科学批判批判」に取り組んできたのでもありません。

 このような立ち位置の私にとって、「ニセ科学批判」とはつまり、「ニセ科学」という語を用いて何かを批判する行為のこと、というほかない訳です。「ニセ科学」と同じ意味で「偽科学」や「疑似科学」という語を用いる場合も含めて良いでしょう(私の中では「ニセ科学」と「疑似科学」は別物ですが)。

 では「ニセ科学撲滅運動」とは何か。「撲滅」とは、どんなに小さなものでもしらみつぶしにやっつける、というほどの意味で使いました。そう間違った用法ではないと思いますが、これをネガティヴな文脈で用いたのは、明らかに行き過ぎだと思われる例をいくつも見てきたからです。例えば、米のとぎ汁でこしらえた乳酸菌風呂を個人的に楽しんでいる方に対して、学術雑誌に論文を書いてからやれという、意味不明な批判を執拗にする人がいる。

 まあ、その他にもたまりかねるようなことがいろいろあって書いたのが、奇跡のトマト(追記あり)という記事です。案の定と言うべきか、同じ言葉を用いた批判をたくさんいただきました。その時に浮かんだ言葉が「運動」であった訳です。

団体戦?
 さて、poohさんは、
いくつかポイントがあって。まずはなぜか彼我を陣営に分け、団体戦に持ち込もうとすること(うちもコメントスクラムを喰らった)。「撲滅されるべき不正義な論者」は、論点が科学であるか、ニセ科学であるかにかかわらず、撲滅されるべきであると云う認識。

と書いていますが、この「コメントスクラム」にリンクされている記事を読んでも、なんのことか思い出せません。そこに寄せられた152件のコメントをざっと見渡したのですが、実際、私は一度もコメントしていません。「彼我を陣営に分け、団体戦に持ち込もうとする」ことの証拠として持ち出されたのでしょうが、私とは無関係なことですね。どのような意図でこれを持ち出されたのか理解に苦しみます。

 poohさんは、
ちなみにこの「ニセ科学撲滅運動クラスタ」はその後内部で小さな陣営に分裂し、互いに不正義を“撲滅”しあった結果として多くの論者は表舞台で発言しなくなり、その一部はそのまま「ニセ科学批判クラスタ」になんとなく紛れ込んだりしている。ただ、どこかで彼らはまた同様の行動を繰り返すのだろう、みたいに思ってぼくは見ていたりする。

とも書かれている訳ですが、そもそも多くの人は個別の問題で意見が一致することもあれば異なることもあるのが普通でしょう。「内部で小さな陣営に分裂し」の「内部」が、全ての問題で意見が一致していた筈の空想上の組織としてpoohさんの脳内に存在していたのだと読み解かれます。

メルトダウンについて
 poohさんは、菊池誠さんの「メルトダウンじゃないだす」発言をめぐる私の批判に対して、
5年も前の、しかも発言者本人がとうの昔に誤りを(なぜそう誤ったか、と云う説明を含めて)公式に認めている発言をあげつらうのも、まぁ目的が“撲滅”なので、本人的にはなんの違和感もないのだろう

と書かれていますが、これは、何が「誤り」なのかについて論点がずれています。菊池さんが認めたのは「崩壊熱ではメルトダウンしない」はメルトダウンの定義問題ではなく単なる「勘違い」であったということですね。当然ながら、単なる「勘違い」を「ニセ科学」と言ったのではありません。

 菊池さんがよく話題にする映画「チャイナシンドローム」の公開直後にTMIのメルトダウン事故がおこったのは有名な話ですが、既にその3年前に出版されていた武谷さんの『原子力発電』(岩波新書、1976)に、冷却ができなくなって「空焚き」になった商用原子炉の、メルトダウンと放射性物質の大規模放出に至る経過予測が詳しく書かれています。そもそも水を中性子の減速材とする一般の商用発電炉では、事故で冷却できなくなったとき、たとえ制御棒の挿入に失敗したとしても原子炉内の水位が下がって燃料棒が露出すると、その露出した部分では核分裂反応は停止するので、もっぱら崩壊熱と燃料棒ケースの水との反応熱によってメルトダウンがおこる。そうしたこともちゃんと説明されています。

 つまり、菊池さんは「崩壊熱でもメルトダウンすることがある」との考えに改められたようですが、東電原発事故のケースでは「メルトダウンはむしろ臨界を伴わずにおこる」と改めるべきでしたね。このことは、3.11の前から原発の危険性に関心を寄せて情報収集を続けてきた人々の間では周知のことであったようです。東電原発事故も実際にほぼ武谷さんの本に書かれている通りに進行しました。

 いずれにしても、菊池さんとして物理学者にあるまじき無知が露見したと自覚されたのなら、そこで黙ればよかっただけなのです。ところが、次々と議論を誤った方向へ誘導する行為にでられました。たとえば「melt downはずっとカジュアルな言葉だと知った」として、次のtweet

(2011-10-05 19:37:01)
melt downは、もともとアイスクリームでもチーズでもmelt downするという普通の言葉だという意味。崩壊熱で燃料が融け落ちても、もちろんmelt down。ただ、僕は3/15以前には「原子炉のメルトダウンとは臨界暴走だ」と思い込んでいたということ

 "melt down" はもちろん「融かす」や「駄目にする」の広い意味に用いられますが、ひと綴りの "meltdown" は  "melt down of core" の意味で用いられる(そこから転じて株価の大暴落などの破局的な崩壊現象に用いられることもある)言葉です。これをカタカナ語として訳したのがメルトダウンであり、その議論をしていた筈です。「メルトダウン」がいくらか幅のある使われ方をしていたとしても、燃料棒の融解を核とする一定の事象を表現した業界用語として流通していたことは明らかです。たとえ「炉心溶融」と表現したところで、いくらか幅のある使われ方をしていたという点では事情は同じです。

(2011-10-05 11:31:47)(時系列としてはこちらが先)
さらに、僕は「メルトダウン」とmelt downは指す範囲が違うと言っているのですが、もしかするとそれは翻訳をやったことがある人でないとなかなか同意してもらえないかもしれません。「青」とBlueは違うというような意味に近いですが、違いはもっと大きいと思います

 「青」が "blue" と違うのは、『青」は"blue"の訳語として作られたのではなく、元から日本語として存在していたからですね。東電は「メルトダウン」という語を使っていないというのも噓です。上杉さん叩きは歴史の捏造です。いちいちのつっこみはしませんが、とにかく、ほとんどのtweet がデタラメです。何故?

(2011-10-06 03:24:04)
僕が3/12頃に「メルトダウンしない」と言っているのは、臨界にならないという意味で、燃料が融けないという意味ではなかったということ。まあまあ、まいったたね

 この燃料の融解こそが、ベントが不可避になる時に大規模な放射性物質の放出へと繋がる最も憂慮すべき事象である訳で、それがおこる可能性があるとしたら事前に強い警告を発しなければならない性質のものです。多少とも知識のある人々にとっては、メルトダウンがおきたTMI事故を超えるような事態になるのかどうかが電源喪失の第一報が届いた時点での大きな心配事だったと思います。

 いくつかのマスコミは12日になって、1号機建屋が爆発するより前に「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉を使い始め、1号機が爆発すると、ほとんどのマスコミが「メルトダウン」を報じるようになります。識者の多くはTMI事故を超えたと確信したでしょう。枝野さんが13日の会見で「炉心溶融だがメルトダウンではない」と言ったのは、1号機ではなく3号機についてのものでしたが、既に信用されなくなっていたのではないでしょうか。

(2016-02-20 03:11:35)
いや、メルトダウンと炉心溶融は違いますよね
(2016-02-24 22:02:16)
炉心溶融じゃなくてメルトダウンと認めろ、と言ってたのは上杉隆なんだけどね
(2016-02-24 22:14:59)
「炉心溶融=メルトダウン」という共通認識になったのは、2011年5月の東電の記者会見だったかな。資料がすぐには出てこないけれども。東電側は「これこれこういう意味でメルトダウンと呼ぶなら、そうである」という感じの表現をしました。これは当時記者会見を見てた人は覚えてるはず

 今年になってからのこれらの tweet は一見支離滅裂ですが、言葉の定義問題に矮小化して少しでも自らの失地回復を果たそうとの努力としては一貫しています。菊池さんは科学者であり、ニセ科学批判の旗頭であった訳ですから、「科学を装う」どころではないですね。その方が「東電原発事故におけるメルトダウン問題」でデタラメを書き続けている訳ですから、これをニセ科学と言ったのです。

 私も含めて、この問題に多くの人々が拘りを持つのは、メルトダウンが何時の時点でどれくらい進行していたのか、ベントや水素爆発とのタイミングはどうだったのかといったことが、データーの不完全な初期の放射性物質の放出量の見積もり、転じて、初期被曝の見積もりにとって、さらに、既に再稼働し、あるいは今後再稼働されようとしている原発の事故時の避難計画の中身をどうすべきかという議論にとっても重要な意味を持つからです。

 東電原発事故の最大の特徴は、一度に三つの原子炉がメルトダウン事故をおこしたということにあるでしょう。事故時に炉心に蓄積されていた放射性核種の存在量(炉心インベントリー)は、三機を合わせるとチェルノブイリの1.9〜2.5倍に達するそうです。希ガスはほぼ100%放出されたとの見積もりですが、その他の核種の放出割合は、メルトダウンの規模や格納容器の破損の程度、ベントのタイミングなどによって大きく異なってきます。ヨウ素などの揮発性の高い元素の放出量は、場合によってはチェルノブイリを超えることだってあり得た訳ですが、最初期のデータが圧倒的に不足しています。

 このことは当然、福島での甲状腺癌のスクリーニングの結果をどう評価するかという問題とも絡んできます。東電としては、訴訟沙汰になるのを恐れて、被曝のせいで甲状腺癌が多発したとは認めたくないでしょう。これまでも散々「隠蔽」という手法で「ニセ科学」をおこなってきた東電が、放射能の放出量をできるだけ小さく見せようとするのは自然なことのように思えます。また、これまで散々放射能安全論をふりまいてきた論者にとっても、(予想外に)被曝の影響が大きいと分かるような事態は避けたいのだろうなと、東電の「ニセ科学」を弁護する菊池さんをみていてそう思います。

最後に
まぁ、科学を正義を意味する錦の御旗と捉える考え方には、ぼくも以前から何度も反論してきたけれど。でも、この方が今になって(しかも以前からのスタンスを変えないまま)それを標榜するのは、ぼくのヴォキャブラリーのなかでは「盗っ人猛々しい」ってのがいちばん適切なところかな。

 poohさんが私の「以前からのスタンス」をすっかり正しく理解していらっしゃることを前提に意味を持つ主張ですが、この「盗っ人猛々しい」という表現に、この方の強い正義感がにじみ出ていますね。

 ちなみに、原発は「ニセ科学」かという問題については、天羽さんによる「原発の問題がニセ科学の問題になりにくいわけ」という記事がありますが、論評は、今は控えておきましょう。

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 毎年3月11日になると、この日は東北の大震災で亡くなった大勢の方々を静かに悼む鎮魂の日なのだから、福島の原発事故のことをことさらに採りあげて反原発運動に利用するのはけしからん、みたいなことを言う人が湧いて出るようなのですが、そうした物謂いが、まるで原発の過酷事故などなかったかのような言葉を吐き続けるのを日課としている人々から発せられているのをみると、やはりそれは、被災者に寄り添ったフリをしているだけなのだと思わざるを得ません。直接的にせよ間接的にせよ現実におこった悲しい出来事に接して私達が涙するのは、その悲しみを我が身に引き寄せつつ、本当に寄り添うことなどできないと知ってもいるからでしょう。それでももしかしたら、同じ悲しみが再びこの地上を襲うことのないようにという願いを共有することだけはできるのかもしれません。

 「おのれの過去を正しく語り得ぬ者は、それをくり返すがごとく罰せられる」という西洋の諺を思い出します。いろいろな事で私達がくり返し罰せられているとしたら、それはまさしく、自らの過去を正しく語り得なかったからに違いありません。私達は何を間違ったのか、誤りの本質は何だったのか、一つ一つの事実をつぶさに検証し、再び同じ過ちをくり返さないように努めることだけが、残された者として寄り添うことを許される唯一の道なのではないかと思います。

 一つ一つの事実をつぶさに検証するということは、自然科学に限らず社会科学や人文科学も含めた意味での科学の最も基本的な作法であるでしょう。私は、「科学的」とは「証拠をもとに何事かを語ろうとする姿勢・態度のこと」と定義します。全く荒っぽい定義なのできっと反論が多いことと思いますが、もちろん、証拠なしに語られる言説など無意味だと言いたいのではありません。例えばウィトゲンシュタインは、「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定される、すべての原始命題である」と言ったそうで、私も、そこに哲学の真価があると考えています。ただ、証拠に基づかない、あるいは事実を蔑ろにするような物謂いは、「科学的」とはほど遠い態度であることだけは確かでしょう。

 この3月11日にこのようなことを書いているのは、他ならぬ「科学者」の中に、そうした科学に反する言説を流布している人々が少なからず居て、再び同じ過ちをくり返さないための努力に無視できない悪影響を及ぼしていると考えているからです。私がこの5年間をふり返って深くうなだれる出来事の一つが、まさに科学の啓蒙を率先して行ってきたグループの中に、そのような科学に反する潮流が生まれたことでした。この、科学の啓蒙を率先して行ってきたグループのことを「ニセ科学批判クラスタ」と呼ぶ人もいるようですが、彼らがおこなってきたことを、ここでは「ニセ科学撲滅運動」と呼ぶことにしましょう。

 正直に言えば、当初私はこのニセ科学撲滅運動を科学の啓蒙運動という側面から好意的に見ていました。その担い手達については、世にはびこる「科学を装った詐欺商法」と闘う正義の味方というほどの認識だったのです。私自身、実際に教え子や親類の中にそうした詐欺商法の餌食にされた者が出てきたので、現実問題として闘わざるを得ない局面もありました。ただしそれはあくまで詐欺商法との闘いであって、ニセ科学撲滅運動として取り組んだのではありません。スティーヴン・シェイピンの『科学革命とはなにか』(注1)を読んで、「社会の中で生かされている科学」という発想に拘りを持ち始めていた時期でした。その頃、このブログに疑似科学やニセ科学などについての雑感めいたものを書いたことがあり、それを読み返すと、この「運動」の中に何か危ういものを感じていたことを思い出します。

 このブログの「疑似科学」とはなにか」(2008年6月)に次のように書いています。

 そこで、「未科学」の段階にあるものに対していろいろな批判や助言がなされるが、中には、そうした批判や助言に耳をかさず、これで十分科学の域に達していると開き直るものがある。ここではそうした態度をとるものを「疑似科学」と呼ぶことにしよう。・・・・
 ・・・・
 ところで、こうしてみると、ある学説が単なる「未科学」であるのか「疑似科学」であるのかは、その外見だけから容易には判断できないことに気づくはずだ。その判断は、批判や助言にどのような態度で応じてくるかという視点から、その「行動」を通して次第に明らかになる性質のものである。科学と科学の成果を混同しないように注意しながら、科学は、静的存在ではなく、文化の一つの態様としての人の営為、もしくはある種の「態度」であるとの視点に立つなら、そう考えざるをえないのである。したがって、ある学説が「疑似科学」であるかどうかは第三者だけでいくら議論しても判らないことが多い。具体的な批判や助言はおおいになされる必要があるが、少なくとも特定の学説について第三者だけで議論する際には、「疑似科学」のレッテルを用いるに細心の注意が必要ということだ。・・・・

 そして最後を、「なお、ここでは「科学主義」を擁護する主張をしたが、そのうち「科学至上主義」を批判する論考をまとめる予定である」と書いて締めくくっています。そうしてまとめたのが、水俣病のこと(注2)でした。今まさに、水俣病の被害を拡大した過ちが、その過去を正しく語り得ぬ者達によって再びくり返されようとしているように思えます。

 私がニセ科学撲滅運動と決別するターニングポイントとなったのは、彼らの中から、福島の原発事故に際してSPEEDIが活用されなかったことを擁護する論調が一斉に湧き起こったときでした。SPEEDIの運用指針に反する行為を正当化する論拠の一つとして持ち出されたのがパニックを誘発するからというものでしたが、どのような証拠を基にそうしたことを主張しているのか、全く理解不能でした。

 前回の記事に書いたように、パニックを避けるために一番やってはいけないことが情報の秘匿や制限であることは、福島の原発事故がおこるよりずっと前からの、心理学の集団実験などをもとにした専門家の一致した見解です。静岡大学防災総合センターの小山真人さんが「パニック神話に踊らされる人々 福島原発災害にまつわる不当な情報制限」と題する記事を公開されていることを最近知りましたが、必読です。

 同じことはメルトダウンについての楽観論の流布についても当てはまります。事故直後、停止した原子炉に海水を注入して冷却する努力が続けられていて、それがどれくらい功を奏しているのかよく分からない段階で、外部の誰にも確実なことが言えなかったのは事実でしょう。しかし、メルトダウンが今そこにある危機であったことは、1979年のTMI事故のことを少しでも知っている者にとっては常識的なことだった筈です。にもかかわらず、このときもまたパニックを誘発することへの懸念が語られました。

 例の「メルトダウンじゃないだす」発言を巡るcavu311さんのこちらのTogetter を読むと、まさにこれは私の定義する「疑似科学」よりもタチの悪い、「ニセ科学」そのものです。科学にとって言葉の定義は一義的に重要で、危機的状況下で定義の曖昧な言葉を用いてならないのはなおさらでしょう。にもかかわらず、判断を誤ったことの言い訳として、定義のはっきりしない言葉だから云々というのですから、開いた口が塞がりません。今でも彼らは、「炉心溶融とメルトダウンとmeltdown は違う」と主張しているようですが、TMI 原発事故を総括 したアメリカの専門家に、これを英語でどう伝えるのか知りたいところです。

 福島では、大熊町、双葉町、浪江町を中心に帰還困難区域があり、その周囲には居住制限区域があり、さらに避難指示解除準備区域があり、今も全県で9.9万人ほどが避難生活を余儀なくされているとのことです。それはもちろん、原発事故によってばらまかれた放射性物質による被曝が人体に有害であり、危険であることがわかっているからで、そのことによって避難生活を余儀なくされていることは原発事故によるまぎれもない実害です。

 しかし、9.9万人の中には避難指示がなされなかった区域から自主的に避難している人々も含まれており、そうした人々に対するケアや保障はほとんどなされていないのが実情です。しかるに、現状を正当化して、本来不必要な避難であり、そうした不幸の一切は被曝の不安を煽って反原発運動に利用しようとしている勢力のせいであると主張している科学者達がいます。ほんとうにそうでしょうか。

 日本の放射線防護の法的根拠となっているICRP勧告の防護基準が、研究の進展とともに引き下げられてきた歴史を持つことは、古くは武谷三男編『原子力発電』(岩波新書、1976)にもまとめられている通りです。結果的に、現在の一般公衆の追加被曝の限度は医療被曝を除いて年1mSv と定められています。これは、科学の不確かさからくる安全率を見こんだ値と解すべきですが、だからといって、それを含めた全体が科学の成果である訳ですから、その安全率を取っ払って良いことにはなりません。福島の汚染地域に住む人々だけが、安全率が取っ払われた環境に甘んじなければならない科学的な根拠など存在しません。

 きれいに除染された場所の空間線量が自然の放射線レベルに下がったのを根拠に、気をつけて生活したら何も問題ないと、気をつけて生活することを強いていることに無頓着でいられるのもまた、寄り添ったフリをしているに過ぎないからなのでしょう。野生のイノシシの肉を食べたり、山野でキノコを採って食べたりした人の中にWBC検査で突出して高い内部被曝をした人がみつかったりしたのですが、ここで、宍戸俊則(shunsoku2002)さんのTwitterの、本年月5日の呟きから引用しておきます。

承前。 torii氏にとっては重要でないのかもしれないが、私にとって、そして多くの被害者にとって重要なことは「原状復帰が可能かどうか」だ。「原状」には、山野に分け入り山の幸を取ったり、「タラの芽」を栽培して収穫し、現金収入を得ることも含む。  

 さらに、「原状」には、中高年齢者の家に子どもが孫を遊びに連れてくることや、収穫した山の幸を「おすそ分け」と称して隣近所に配ったり、この家に行き、孫たちと一緒に山の幸を食べることも含まれる。 勿論、放射影物質の含有量計測などなしで、だ。 

 これは決して贅沢な要求などではなく、ごくまっとうな当然の願いであると思います。

 福島の原発事故をきっかけに、原発こそが最大のニセ科学であったことに気づいた人も多かったのではないでしょうか。ニセ科学撲滅運動がそのことを無視し続けてきたのは大変奇妙なことです。なぜだか私にもよくわからないのですが、「科学」というものはその内在的性質からして政治から無縁の特権的存在であるという幻想が彼らを支配しているように見えます。そのことを手がかりに、おそらく日本の科学史に残るであろう現在進行中の出来事を注視していきたいと思うようになりました。

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注1)原題は "The Scientific Revolution"(川田勝訳、1998年、白水社)。スティーヴン・シェイピン(Steven Shapin)はエジンバラ学派を代表する一人


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