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今朝の毎日新聞(大阪本社版)に、遠山啓さんのことが一面から二面へ続く長い記事として掲載されていて、驚いた。
一面のタイトルは「学びの可能性信じ」、副題「算数指導「水道方式」遺志継ぐ」となっていて、武蔵野市の小笠毅(おがさたけし)さん主宰の私塾「遠山真学塾」のことが紹介されている。二面のタイトルは「問いの意味知ろう」で、中ほどに「困難抱える子の灯台に」との見出しがある。小笠さんと遠山さんの出会いや水道方式のこと、遠山さんが著書『競争原理を超えて』で何を伝えたかったのか、それを小笠さんがいかに受け継ぎ実践しているかについて、取材をもとに丁寧に書かれていて、大変興味深く読んだ。 記事を書いたのは東京科学環境部の須田桃子氏とのこと。2001年入社とあるので、若い人なのだろう。遠山さんの遺志を伝える良記事をまとめていただいたこと、また異例とも思える扱いで掲載していただいた編集部?にも、一ファンとして感謝したい。私と同じ想いでこの記事を読んだ読者も全国に大勢いただろうと思う。 ただ一点、水道方式について、「一般的・典型的な易しい問題を習得してから、特殊で難しい問題に進む」と書かれているが、これは正確さを欠く表現である。一般的・典型的な問題が易しいとは限らず、特殊な問題が難しいとは限らないからである。このことについては、『水道方式とはなにか』(太郎次郎社、1980)において詳述されているが、あくまで、典型的な問題から「型くずれ」な問題へという流れであって、決して易しい問題から難しい問題への流れではない。 さて、このブログでは、4年ほど前におこった「かけ算の順序論争」にかかわって遠山さんの考えが誤って流布されているとの想いから、以下の記事を三連投したことがある。 遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在) 遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その2:助数詞廃止論) 遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その3:水道方式) 上記(その1)の冒頭に書いたように、「遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた」ことを伝えたかったからである。実際、遠山さんは、その著書において繰り返し、かけ算の順序を固定してはならないと力説している。 私の記事では著書から引用しながらそのことを解説したのであるが、私のこの過疎ブログとしてはめずらしく多くの賛同を集めたものの、その後、東北大黒木玄さんの「かけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきである」と題する記事をきっかけに、「かけ算の順序に意味があるという主張が生まれた原因の一端は遠山啓にある」とする考えが広まったようだ。 黒木さんの記事はとても長いので、全体を再読する気力はないが、その記事内を「satsuki_327」で検索すると、私のブログ記事が2回にわたり引用されている。最初の引用は、「●2. 「1あたりの数」×「いくつ分」の順に書かないと誤りとするのは誤り」にある。ここでは、 この引用文を読む限りにおいて、遠山啓さんは
a×b という式を書くときには a は「1あたりの数」で b は「いくつ分」でなければいけない という特殊ルールを捨てていないようです。 と書いて、 遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める
努力をしていたでしょうか?もしもしていなかったとすれば、遠山啓もこの件では批判さ れなければいけない当事者の一人だということになると思いました。 算数教育の目標は上で述べたような特殊なルールを子どもに教え込むことではなく、 普遍的に通用する算数の考え方を子どもに身につけてもらうことです。 何度でも繰り返しますが、ここで問題になっている a×b という式において a は「1あたりの数」で b は「いくつ分」を意味する というルールは普遍的に通用する考え方ではありません。 このような特殊ルールを子どもに強制してはいけません。 それではこの偏狭さの原因はどこにあるのか? その原因のひとつは 「子どもの理解度を掛け算の式の順序の書き方を見て判定しようとすること」 にあるように思われます。 (実際には単なる誤解が原因の場合も多いようですが。) と結論されている。 要する、遠山さんは、「かけ算の順序を固定してはならない」とは主張したが、かけ算の順序に<意味がある>という考えを捨ててはいなかった事が指摘されている。私は、ここで述べられていることは遠山さんの考えとしては正確さを欠くものの、黒木さんの指摘そのものは正しく、私の記事に不足があると思い、一旦は補足エントリをあげようと考えた。その辺りのことについては、funaboristaさんのブログ『お花畑めざして』の「かけ算の順序」と題する記事とコメント欄を参照いただきたい。 また、黒木さんの記事にある「遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める努力をしていたでしょうか?」の部分については、遠山さんが1979年70歳にして志半ばで亡くなったことを考慮すべきだと考えていた。 ところでfunaboristaさんのブログ記事にコメントしていた頃、いろいろと気になることがあった。一つは、黒木さんの二つ目の引用(A12)において次のように書かれていることを巡っての問題である。 理解度を測るテストで 5×3 にバツを付けた教師は、子どもが
掛け算の順序をどのように書いたかで理解度を測っていることになります。 5×3 にバツを付けることが批判されているのはまさにその点なので 理解度を測るためのテストだから問題ないという反論は無意味です。 そのような意見を今頃述べている人はこの議論では周回遅れな感じです。 このQ&Aの上の方でも強調しておいたように、 子どもが掛け算の式の順序をどのように書いたかを見て 理解度を測ろうとすることがこの問題の根源なのです。 たとえば、さつきのブログ「科学と認識」では、 どちらの数を「1あたりの数」とするかは考え方によるので、 掛け算を「1あたりの数」×「いくつ分」の順序で書くルールのもとであっても、 式の順序を見ただけで、どちらが「1あたりの数」であるかを正しく理解しているか を判定することは不可能であるということが、 遠山啓を引用することによって指摘されています(2009年8月11日)。 ここでは遠山さんが、あたかも式の順序にまったく意味はないと主張しているかのように誤って受け取られかねない書き方になっていて、最初の引用にあった黒木さんの遠山評とはズレがあるように感じられる。実際はどうかというと、この「順序」と「意味」にかかわって遠山さんは二つのことを分けて考えていた。 A(順序):「交換法則はまだ教えていないから、それを使ったのはバツだなどというのは、教える側の得手勝手にすぎない。交換法則など子どもが自分で発見することはいくらでもあるのだ。」(『量とは何かI』、太郎次郎社、1978、p116) B(意味):かけ算を「1あたりの数」×「いくつ分」を求めるものと認識するとしても、どちらが「1あたりの数」になるかは考え方次第で、自明ではない。(同上、p114-120) この二つのことから、式の表現としては、意味と順序の組み合わに4通りあることが前提とされていることに気づく。 1)「1あたりの数 a」×「いくつ分 b」 2)「1あたりの数 b」×「いくつ分 a」 3)「いくつ分 a」×「1あたりの数 b」 4)「いくつ分 b」×「1あたりの数 a」 その上で遠山さんは、子どもが書いた式がそのどれであるかは自明ではなく、どれでも正解で良いのだと主張している。だから、教師が自分の考えた式の順序と違うからといってバツを付けるのは、教師不審・算数嫌いを招くものだときびしく批判してもいる。まずこの点はきちんとおさえておく必要がある。 一方で注意すべきは、「どれであるかは自明でない」は、「そのどれでもない」ということを意味する訳ではなく、ましてや「(順序に)意味がない」ということを意味する訳でもないという点である。遠山さんは、こどもが書いた式の順序にその子なりの論理があることを大切に考えていた。たとえば、あるかけ算の問題で、式を「4×6」と書いた子と「6×4」と書いた子の頭の中では、きっとなにがしかの異なる理路が辿られた筈だと、遠山さんは考えた。まさにこの点が遠山哲学の真骨頂なのである。そのことに気づかずに、安易に黒木さんの遠山批判に納得してしまったことを、今では恥じている。ファンだからといって、当人を良く理解しているとは限らないことの実例だ(だから、この記事も真に受けてはならない)。 そして、それぞれの理路を上記4つのどれかに関連付けてやることで割り算の理解が容易になると、遠山さんは考えた。特に、速度や濃度(内包量)を求める連続量の割り算とかけ算の関係を理解させるには欠かせないと考えていた。このことは私の過去記事の(その3)にも書いたが、おそらくこうした遠山さんの発想を受けて、「数教協」の中に意味と順序にこだわった教育法が広まったものと思われる。しかしそれが、式の順序が違うからといってバツをつけることに繋がっているとすれば、それは、遠山さんの<精神>とは全く相容れない教育法であると思う。私自身は「数教協」と何らのかかわりもないので、内情を知る由もなく、これ以上の論評はできない。 ともかくも、子どもの書いた式の順序には確かにその子なりの<意味>があり、教育上そのことを大切に考えるべきだと遠山さんが考えていたことは貴重だ。そのことこそが、私が遠山ファンであることを止めない理由と言ってもいい。私の過去記事(その1)にコメントいただいたシカゴ・ブルースさんのブログ記事「割り算から見た量(1)――内包量と外延量」に「表現された式には、子供や教師それぞれが頭の中でたどった個々の問題解決過程が反映される」と書かれている通りである。 また、毎日新聞の二面の記事のタイトル「問いの意味知ろう」もこのことを表現していて、遠山さんにふさわしい良く練られたタイトルだと思う。 という次第で、冒頭に引用した私の過去記事に特に訂正の必要性を感じなくなっていたのだが、今回の記事をもって補足としたい。 関連記事:数学は、ある種の言語についての学である (2009/1/13) ただしこれは、あまり深く考えずに書きつらねたもの 毎日新聞の記事にも引用されている『競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社、1976)は、今の時代にますます必要とされる考え方を指し示していている古典的名著だと思うので、ぜひ多くの方々に読んでいただきたい。 なお、「村野瀬玲奈の秘書課広報室」に、このブログとしては不思議と異色のエントリー「かけ算の順序 (ブログ「お花畑めざして」から) (訂正・追記あり)」が掲載されているが、村野瀬さんの(私として好ましい)個性だと思った次第。これ以上訂正を追記する必要はありません。 |
科学と認識
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前回の記事で触れた togetter:なぜ「無関係」と言い切るのか。(8/26)のコメント欄がどんどん伸びて、関連するまとめも次々とつくられている。 「uchida_kawasaki」さんのまとめ:
牧野さんの呟きを中心にまとめられたもので、ともに冒頭に引用したまとめにも収録されている。
「kazooooya」さんのまとめ:
コメント欄における多数派の意見(この「キリッ!」の使い方は自虐的?)。
「hindu_kush420」さんのまとめ:
「相関が弱いことを普通は「相関が弱い」と言う気がするけど、たぶん「普通」の意味がポイントなのかも。」by Geophysics
「emanon_uk」さんのまとめ:
私の前回の記事で触れた農地の汚染に対する保障問題への悪影響を心配する法律家の意見
このように議論が長引くのは、少なくともどちらか一方が、相手が何を言いたいのか理解できずにいるからなのだろう。それは、前回の記事で書いたように、科学とは何か、あるいはその境界みたいなものについての理解が違うからなのであって、その溝を埋めることはむずかしい。冒頭のまとめのコメント欄においては早野さんを支持する意見が多数のようであるが、それを目立つように赤色の太字にして(晒して)いるのは、Geophysics さんの「いじわる」なのだろうか。
一般論として言えば、天然現象から抽出されたデータ数が有限である以上、全く無関係と思われるようなパラメーターの組み合わせであっても、それらの相関係数がゼロになることはない。だから、相関係数がゼロでないことをもって相関があるとは言えない。一方、有限個のデーターの偶然の偏りから生じる相関係数の取り得る最大値を超えていると判定されるなら、「偶然ではかたづけられない相関がある」という結論になる。科学者であろうとするなら、その「事実」を大切にすべきである。全く無関係と思われるパラメーターの間に相関があるということになれば、そこから未知の現象についての新しい発見がもたらされると期待されるからだ。
この議論の場合逆に、期待されるよりも弱い相関しかなかったことと、その理由が(割と)はっきりしているとの観測があって問題をややこしくしている。早野さんの言いたかったことは、土壌と玄米中の放射性セシウム量の間に期待されるより弱い相関しか現れなかったのはカリウムの施肥量がセシウムの移行係数をコントロールしているからで、この知見は稲作農家にとって朗報である、といったところだろう。しかし早野さんは、「期待されるより弱い相関」と言うべきところを「無関係」と言ってしまったのである。問題の焦点は、この「言い換え」の当否にあると理解して良いと思う。
早野さんを支持する意見のほとんどは、本来、「期待されるより弱い相関」と言うべきところを、単に「弱い相関」と言ってしまっているのだが、単なる「強い」「弱い」は主観の紛れ込み易い言葉なので、この場合には使わない方が良いと思う。科学論文では「○○は重要である」と書くと査読ではねられることもある。それにも増して、「無関係」と言ってしまうのは、科学の立場から逸脱していることは明らかだ。
要するに、こういうこと
前回も書いたように、科学者としてではなく一人の市民として科学から逸脱した発言をすることは必ずしも悪いことでも恥ずべきことでもない。だから、「それは科学から逸脱しているよ」という指摘に対しては、自ずと返答の仕方は決まってくる筈なのだが、そうはなっていないので議論は収束しない。
で、相関を認めた先に何があるかというと、たとえばこういうこと
具体的に説明しよう。まず、この問題の発端となった福島県と農水省の報告書(以下、「農水省の報告書」)は本年1月に公表されたものだが、農作物へのセシウムの移行係数の研究は、既にチェルノブイリの前からなされており、たとえば、津村ほか(1984)は、カリウムを施肥すると、作物への放射性セシウムの移行係数が(見かけ上)小さくなることを明らかにしている。また、Tsukada et al. (2002) も、土壌中のK濃度が高いほどCs-137の作物への移行が少ない傾向にあることを明らかにしている。
さらに、土壌中の粘土鉱物は、セシウムを吸着して植物への移行を低減させる効果のあることも突き止められていた。これは、高レベル放射性廃棄物の地層処分のために続けられていた研究の応用であるが、東電原発事故の後は、農地の除染にも応用されようとしている。たとえば、、京都府立大の中尾淳さんによるプレゼン用資料「セシウムの土壌科学」(2012年3月14日)が分かりやすい。
原発事故がおこって、この問題に関心を寄せた者の多くは、そのメカニズムの概要が既に明らかにされていたことを、2011年のうちには認識していたであろう。農水省の報告書は、こうした先行研究を受けて、いろいろな濃度でカリを施肥した大規模な試験栽培をおこなった結果をまとめたもので、基本的には先行研究の成果を追試する内容となっている。したがって、農水省の報告書にある、カリウムの施肥によって放射性セシウムの玄米への移行が抑制されたという結果などは予め予想されていたことであり、そのこと自体には何らの新鮮味もない。
それでも、カリウムの施肥によって玄米中の放射性セシウム量が抑制されるということが福島の土壌環境で再現されたことには大きな意義があるのだから、これを朗報と喜ぶことは当然の感情であろう。だからこそ、そのことを、土壌中のセシウム量と玄米中のセシウム量が無関係であったと表現することには大きな違和感を抱くのである。なぜなら、福島県と農水省の試験研究が目指したものは、先行研究の追試の先にもあったみるべきであり、そうであるなら、本当に無関係なのかどうかは、極めて重要な意味を内包しているかもしれないからだ。
これまで続けられてきた研究の成果を概観すると、農作物への放射性セシウムの移行係数をコントロールする因子としては、主なものだけでも以下のようなものをあげることができるだろう。
1)土壌中のカリウム濃度:カリウムは生体必須元素であるが、多すぎると害があるらしく、生体中で一定の濃度にコントロールされている。そのため、カリウム不足の土壌ではカリウムの移行係数を上げるように生体調節され、このとき同族元素のセシウムの移行係数も大きくなる。これを防ぐためにはカリウムの施肥が有効であるが、ある濃度で飽和することも知られている。
2)カリウムの化学種・化学形態:土壌中のカリウムが間隙水に溶けた状態、あるいは易溶性の塩化物のような形態であれば吸収されやすいが、土壌中のケイ酸塩鉱物中に配位されている場合には吸収され難いので、土壌中の濃度が同じでも易溶性/難溶性の比によって結果は異なってくる。
3)放射性セシウムの化学種・化学形態:放射能プルームから直接降下したセシウムはもともと単体として存在していたものが水和物などの化学種となって存在していて吸収され易いが、時間が経って粘土鉱物中に内圏錯体として取り込まれていたり、そうしたものが周辺地域から流入して来ている場合には吸収され難い。
4)土壌中のセシウムの安定同位体(Cs-133)の濃度:普通の土壌には非放射性のセシウムが数十ppm程度含まれているが、セシウム移行係数が大きい条件でも(Cs-137+Cs-134)/Cs-133比が小さければ、実際に吸収されるセシウムの大部分は非放射性ということになる。
5)土壌中のセシウムの安定同位体(Cs-133)の化学種・化学形態:上記4)において、有効に作用するCs-133の量を決める。
6)ゼオライトや雲母・粘土鉱物の土壌中の濃度:これらはセシウムの吸着剤として知られているが、鉱物種によって、その吸着メカニズムや吸着後の挙動が異なるので、個々に独立変数として扱うべき。なお、農水省の報告書にはそれらの吸着メカニズムを説明する図があるが、これは先に引用した中尾敦さんのプレゼン用資料にある理解の方がより合理的かつ精緻である。
以上のようなパラメータを変化させたときに、土壌中のセシウム量と玄米中のセシウム量の関係はどうなるのかをさぐることで、移行係数をより効果的にコントロールする技術を確立しようとする研究にとっては、当然、両者の相関係数は最も注目すべき指標になるだろう。だから、「無関係」と切って捨てるような発言は、科学者のものとは認められないのである。
有るものを無いって言ったら科学の否定だよね、という単純な話を、こうも長々と書き連ねないと説明できない自分が悲しい。
ついでに書いておくと、植物を利用した除染、例えば、愛媛大学の榊原正幸さん等によるマツバイを用いた水田の放射性セシウム除去の試み は、農地除染の有力な手法になると期待されているが、粘土鉱物の存在はその妨害要素となる。特に、もともとカリウムを含むようなイライトやバーミキュライトだと、セシウムを内圏錯体として取り込んでしまい、その鉱物自体を取り除かない限り除染は不可能で、物理的半減期を待つ他なくなるので、悩みどころである。
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togetter:なぜ「無関係」と言い切るのか。のコメント欄を読んで、暗鬱な気分になる。これをまとめたgeophysicsさん同様、「油断しているとどこかに連れて行かれそう」な気分である。
こうした問題に臨む牧野さんの基本的な考えは、既に14年前、岩波の「科学」1999年2月号の「読者からの手紙」欄に掲載された下記記事に要約されている。
結論だけを引用しよう。
この、「科学者の提供できるものは,判断そのものではなく判断のための材料でしかない」に完全に同意する。同じことは私もここで、「線引きを、危険度70%でやるか80%でやるかという問題で、その危険度の数値を出すのは科学ですが、どこで線引きするかは、価値論です」と書いた。
牧野さんの「なにが望ましいかという判断は,不確実性からくるリスクも含めて,実際の当事者がするべきものなのだ」の部分にも同意するが、ここで問題を難しくしているのは、科学者そのものが「当事者」になってしまっているからなのだろう。実際、行政手続上のリスク判断を迫られる場合にも「有識者」として科学者が招集される機会は多い訳で、そこにその科学者自身の価値論が忍び込んでしまうことは不可避とも言えよう。早野さんのようにボランティアとして社会的問題の解決にコミットしている科学者にとっても、個別の科学の成果が目の前の現場にとって役に立つものであるかどうかの判断を優先することは当然のように考えられがちだ。
しかし、「現場にとって役に立つ」が、「現場の人々にとって役に立つ」を意味するとすれば、それは価値論的判断である。牧野さんが言うように科学にはそうした判断を下す能力はない。そうしたことをあまり考えたことのない人の中には、特定の科学の成果が社会に役に立つかどうかを科学的に判断することは可能だと誤解している人も多いのかもしれない。
やや古い記事を例に出して恐縮だが、例えば片瀬久美子さんの「warblerの日記」にある「科学についての概説」の冒頭に「科学の目標は「自然(nature)」を調査して理解し、そこで起こる出来事を説明し、そしてこれらの説明をみんなの役に立つ予測に用いることです。」とある。一方、末尾のまとめには、「◇科学では、美醜や道徳的な正しさなどの真偽の判定をすることはできません。◇社会において、科学者は判断の材料となる科学的な知見を提供しますが、最終的な社会的な判断は科学者のみでされるものではありません。」と書かれている。ここには、科学者らしからぬ不徹底が表出しているが、これが昨今の科学者の平均的な考え方なのかどうか、私にはわからない。
確かに、科学的な課題の追求にとって役に立つかどうかを科学的に吟味することは可能である。一方で、それが人々の役に立つかどうかが別問題であるのは、この社会を構成する人々の価値意識が多様だからである。相対多数の人々の役に立つことは、<ほぼ例外なく>、別の少数の人々の意に沿わないことになる。そこを調整する能力は科学にはない。それは政治の役割だ。この<ほぼ例外なく>の部分に納得しない人は、ほぼ例外なく少数の人々の権利を無自覚に侵害してしまいがちな人である。
件の問題に即して言えば、発端となった福島県と農水省の「放射性セシウム濃度の高い米が発生する要因とその対策について」と題する報告書の図4(土壌中の放射性セシウム濃度と玄米中の放射性セシウム濃度の関係)について、早野さんは、「全く相関しない」、「無関係」と書いた。そして、牧野さんから相関があるとの指摘があって話題になると、「平均値見たら若干相関あるんじゃないかと言っている向きもあるようだが,現場では役に立たない.本質を外した議論.平均から大きくハズレて,低汚染度の田んぼで高汚染米が出来るのは何故かの解明が大事(カリとの逆相関など)」と反論する。
要するに、相関はあっても、その相関から大きく外れているデータに注目することこそが稲作農業の現場にとって役に立つ視点であり、カリウム濃度との強い逆相関に比べれば無視しても良い程度だと言う訳でああろう。しかし、件のtogetterのコメントにもあるように、土壌中のセシウム濃度と玄米中のセシウム濃度は無関係と断言するなら、水田が放射性物質で汚染されたことに対して保障を求めようとする人々の権利を侵害しかねない。あるいは、そのような保障を求める権利があること自体を覆い隠してしまうよう作用しかねない。
科学の役割は、事実はどうなのかを徹底して明らかにすることに限られ、そこから逸脱した全ての価値判断は政治的なアピールに他ならない。牧野さんが、「これはすでに科学者であることを放棄して活動家か政治家かなにかになった、ということかなあ?」と呟いたのは、意地悪な挑発とも受け取れるが、「活動家や政治家」が貶めの言葉として有効である筈はない。早野さんとしては、自らの価値判断に自信があるなら、「政治的判断」であることを堂々と主張したら良かったのではなかろうか。
さて、社会にコミットしようとするあらゆる言説は政治的である。つまり、社会的問題の「当事者」になったとたん、科学者ではなく一人の政治的市民になっていることを自覚しないといけない筈なのだが、その自覚もないまま科学者面をして一つの判断を発信すると、科学やその成果そのものがねじ曲げられてしまうことだって起こり得る。そして、そのことが実際に起ころうとしていた訳である。
ところで、たとえ科学が判断のための材料しか提供しないものであっても、何かの判断のための材料を提供しようと意図してなされる場合には、その「何か」を<選択する>行為そのものは、個人的にせよ社会的にせよ、なんらかの価値判断によってなされていると考えてよい。社会の隅々まで政治によってコントロールされるようになった近代以降、科学もまた、その存在自体が政治的であると言ってよいかもしれない。
そのことは、もっぱら職業科学者(科学労働者)によって営まれている近代科学の現場で、個々のテーマがどのように選択されているかを考えればわかるだろう。端的に言えば、社会的に許されているテーマだけが科学の俎上に上がっている訳である。そしてまた、社会的要請の強い分野ほど、多額の予算が配分され、強力に推進されるということになる。逆にまた、社会的に不要とみなされた分野はお取りつぶしになることだってあり得る。そうした判断は常に政治的である。
この点は、先に引用した牧野さんの「科学」への手紙では触れられていない視点だが、やや関係すると思われる考察は「科学の発展の意味」に見ることができる。そこでは、「物理学の研究者の多くが持つ素朴な科学の発展のイメージは、相対主義からの批判に耐え得るものではない」としつつ、一方で、ラトゥールは科学の発展のプロセスについて時系列的な記述しかしていないとして、「科学の発展」のメカニズムを、ファイヤーアー ベントのように、もっと徹底して方法論の合理性以外のところに求めようとする試みがなされている。その辺りをベースに件のtogetterにおける牧野さんの主張を読み解けば、問題の本質が見えてくるだろう。
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毎日新聞の日曜日朝刊に連載されているコラムに『時代の風』というのがある。2010年7月から続いているが、2012年5月20日からは執筆陣に京都大学の山極寿一氏が加わり、翌週5月27日には、ジャック・アタリ氏が寄稿したりもして、充実した企画となっている。
私は、特に山極氏の論考を楽しみにしてきたのであるが、例えば昨年12月16日の「暴力で平和維持の誤解」と題したコラムでは、ご自身の専門である人類進化論「ゴリラ学」についての最新の知見をもとに、「戦うことは人間の本性であり、社会の秩序は戦いによって作られてきた」とするレイモンド・ダートやコンラート・ローレンツによって唱えられ20世紀の人類観に多大な影響を及ぼした学説の誤りが説かれていて、短いながらも大変読み応えがあった。
続いて注目したのは、同氏による本年5月5日の「作り手による『物語』」と題する論考である。「多様な視点から解釈を」という副題の付けられたこの論考は、次の書き出しで始まる。
そして、そうした見方に何の疑いも抱かずにいたのは、「私」が物語を作った側にいたからに過ぎないのであり、事実に照らして誤解を解き、別の側からの視点にたてば、全く異なった物語が見えてくると説き、次のように続ける。
そして最後は、次のように締めくくられる。
見事な論考だと、読み終えた直後は思ったものである。しかし、芥川版『桃太郎』で最も印象深い最後の場面の記憶がよみがえるにつれ、むしろ次第に違和感の方が強くなってきた。山極氏によると鬼ヶ島の鬼達は皆殺しにされたことになっているが、そうではないのである。芥川の『桃太郎』の最後は次のように書かれている。
大正13年に書かれた芥川版『桃太郎』の終章は、見事にこの21世紀の世界の状況を予言していて、唸ってしまうのだが、山極氏が『桃太郎』の中で最も重要とも思われるこの終わりの部分にふれなかったのはなぜだろう。
まず、山極氏は、その論考で鬼が「皆殺しにされてしま」ったと、不実の記述をしていることから、単なる字数制限の問題ではなく、故意に触れなかったものと推測される。鬼が皆殺しになっていればその後の顛末に触れなくてすむからだ。ではなぜ山極氏はそうまでして、この、最も重要な最後の場面に触れないようにしたのだろうか。
芥川はもちろん、山極氏が指摘するように、物語の作り手の側とは異なる視点、つまり「原作」とは逆の、鬼の視点に立って物語を再構築することで、この世界に全く異なった風景が現れることを示したかったに違いない。そのうえで、桃太郎の行動に託して権力者の横暴が描かれ、鬼の末裔達の行動に託して、権力者の横暴の、その理不尽さに応じた被抑圧者の抵抗のありようが、ある意味当然の成り行きであるかのように描かれている。
芥川は、テロリズムによって怨念をはらそうとする鬼ヶ島の末裔達の行動を、否定も肯定もしておらず、ただ淡々と、「当然、そうなるだろう」というふうに描いていて、そのことが、1世紀のスパンで世界の行く末を見抜いていたとの感嘆の念を呼び起こすのである。こう考えると、最後尾の八咫鴉(やたがらす)の登場する取って付けたような段落も、まるでこの世の掟でもあるかのような成り行きの、その「自然さ」を強調するために、実に周到に準備されたものとみることもできる。
こうした描写は、「ゴリラ学」の成果によって構築された山極氏の人類観と、一見、対立してしまう。冒頭に引用した、山極氏の昨年12月16日付の論考の方は、いわば「桃太郎論」の伏線となっていて、人類の祖先達を社会文化史の側面から科学的に研究した成果をもとに、かれらの本性が決して戦いを好むものではなかったことが論証され、それまでの人類観の誤りが指摘されている。その上で山極氏は、「物語を作り手の側から読むのではなく、ぜひ多様な側面や視点に立って解釈してほしい。新しい世界観を立ち上げる方法が見つかるはずである。」と結論するのである。
もともと山極氏の問題意識は、理不尽な加害行為がおこる根本的な原因であるところの「物語」をつくった首謀者の存在する背景などにはなく、そうした加害行為を容認し、荷担してしまう我々「庶民」の問題として、「物語」を作った側の視点から抜け出せずにいるのはなぜかというところにあり、その限りにおいて、山極氏の理路に本質的な齟齬は認められないし、むしろ頷けるところの多い論考である。
しかしここでひとつの疑問が生じる。ではもし逆に、ゴリラたちがかつて考えられていたように凶暴な猛獣であれば絶滅させてもかまわないという考えは正当化されるのであろうか。人類の祖先たちが戦いを好むものばかりであることが事実であったとしたら、山極氏の結論は無効になるであろうか。決してそうではない筈だ。ゴリラの本質がどうあろうと、人類の祖先がどうあろうと、それらについての科学の成果とは独立に、我々は倫理的な判断を下すことができなければならない筈だ。その際にはもちろん、ゴリラや人類の祖先達の文化史についての研究成果を参考にした方が良い場合もあろうが、それらは、こうした方面での結論にいたる優先的な条件ではない。
山極氏は、ネイティヴ・アメリカンが「理不尽」な誤解を受けたとしつつ、中東情勢については、いわば「どっちもどっち論」を展開していて、この点で芥川の『桃太郎』の描写とはすれ違いがある。山極氏の「どっちもどっち論」は、芥川が描いた非対称性を、単に一方の側からみた「物語」にすぎないと相対化し、無視することで成立する。このような引用の態度は芥川に大変失礼ではないかと思うのであるが、それは、論拠として科学の成果を最優先しようとした結果なのではないか。私がそう考えるのは、山極氏のあまりにも簡潔に過ぎる中東情勢の「どっちもどっち論」が、この方面について蓄積されてきた多くの社会学的、倫理学的な研究の成果をあっさりと無視してもいるからだ。
山極氏に限らず、多くの科学者たちの陥りやすい過誤は、まるで科学の成果こそが、倫理・道徳について議論し,人々の多様な価値観をすりあわせる際にもなにより優先されねばならない論拠になり得るかのごとく錯覚してしまうことであろう。私自身、そもそもこのことには、山極氏の昨年12月16日付の論考を読んだ時点で気づくべきことだったのだが、それができなかった。
世の中に生起する問題には、それにどう対処すべきかを考える際に科学的な論拠を必要としないものがある。逆にそこをまちがえると「科学」が悪用される場合さえあることを、科学者は肝に銘じる必要があるだろう。
Sivad氏の毎度の呟きは、そのことを端的に指摘している。
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『奇跡のリンゴ』という映画が公開されたらしいが、「ニセ科学批判」界隈ではなんだか盛り上がっているふうである。
さて私は、拙宅の「花壇」に隔年でトマトを一本だけ栽培しているが、完全無農薬だと説明しているので、近所では「奇跡のトマト」と呼ばれている(概要は以下の記事で紹介した)。
これらの記事を読んでもらっても、おそらく、枝長4mを超えるその1本のトマトの壮観な眺めは想像していただけないと思う。隔年にしているのは、家庭菜園のテキストに、連作障害の強い作物なので2年は空けるようにと説明されているからだ。それでも近所の人達に、今年もアレを見たいから是非植えてくれとせがまれて、なんとか工夫して一年おきに植えている。
昨年(2012)7月30日のトマト。この後どんどん伸びていきます。 昨年は普通の大玉トマトを、やはり1本だけ植えて、7月中旬から10月下旬までの間に30 kg 以上を収穫した。正確な収穫量については、7月18日から8月19日までのおよそ一ヶ月間の記録しかない。この間、78個・13.49 kgを収穫し、1個の平均重量は173 gであった。記録した中で最大のものは1個320 gで、当然のように不揃いである(1個100 g以下の小玉のものはカウントしていない)。安定した収穫が得られるようになったのは8月に入ってからなので、これ以降は一ヶ月に15 kgくらいの収量はあったと思う。したがって、面倒になって記録するのを止めた後の二ヶ月間に30 kgを追加して、実際には全部で40 kgを超えていたのではないかと思う。
完全無農薬というのは字義通りで、除虫・除草の目的で何かを処方するということは一切していない。樹勢があると雑草もあまり生えず、害虫が寄りつくこともないのである。ただ、真夏にカラフルな10 cmほどの何かの幼虫が葉を食い荒らしているのを何度か見かけて、手で駆除したことはあった。
肥料は堆肥がメインで、追肥として140円の家庭菜園用化成肥料を一袋だけ施す。ちなみに、「有機肥料」というのがあるが、一次栄養の植物が吸収するのはもっぱら無機塩なので、おかしな表現ではある。おそらく、有機物を腐食させて作る堆肥の中に含まれる栄養塩は、バランスが良く、植物に吸収されやすい化学種となっているために、肥料としての効果が大きいことが認識されているのだろう。
今年は連作できないのだが、やはり近所の人が「アレをやってくれ」とせがむので、仕方なしにプランターに一本植えた。考えてみると、ひと月に15 kgも収穫したら到底我が家で消費できない。知人や近所に配るのだが、それも面倒だ。プランターに植えたら土を替えれば毎年植えられるではないか。おそらく一本でちょうど良い収穫量になるだろう。これを試してみるのも一興ではある、という次第。5月の連休の初日に、イタリアントマトという種類の苗を1本(150円)買って、縦20 cm × 横50 cm × 深さ25 cmのプラスチック製プランターに植えた。既に沢山の実を付けているので、このペースだと例年より速い6月末には収穫が始まるだろう。
ところで、映画『奇跡のリンゴ』のモデルとなった木村秋則氏を批判する中で、農薬を過度に擁護する論調を目にすることが多くなって、ヤレヤレと思う。おそらくそれら批判者は、農業とは無縁な都会に住んでいる人々であるか、あるいは大量の農薬を散布することで何とか経営の成り立っている農業従事者とその関係者なのではないかと思う。
農水省のウェブサイトの中にある「農薬の使用に伴う事故及び被害の発生状況について」というページをみると、平成23年度で、8件・8人の死亡事故と28件・40人の中毒事案が発生している。気になるのはこれらの農薬被害が増加傾向にある(ようににみえる)ことだ。
この統計に表れている数値が氷山の一角であることは、中学の頃まで兼業農家に育った者としては常識的なことである。私の母も、大量の農薬を散布した後、高熱で寝込むこともしばしばであった。父はあまりそうしたことはなかったようなので、個人差も大きいのだろう。また、私が子供の頃は、この時期になるとヘリコプターによる水田への農薬散布が行われていて、やれ外に出るな、戸締まりをしっかりしろとうるさかったが、人体への害が大きいことが認識されて中止となった。害は何も人体に対してだけでもなかったろうにと思う。今も田園地帯に住んでいるので、風向きが悪いと農薬の匂いが室内まで入り込むことがある。幸い私の家族にアレルギー体質の者はいないので今のところ実害はないのであるが、喘息の子供のいる近所の方は大変お怒りの様子で、気の毒でもある。
農薬の中には毒・劇物に指定されている薬品もあって、大学であれば鍵のかかる薬品庫に厳重に保管して使用記録をとっておかねばならないものなのに、それが農薬扱いになったとたん、農家の納屋に無造作に大量保管することが許されてしまうのである。
農薬を擁護する面々はそうしたことをどう考えているのだろうと思っていたら、ここへ来て、農薬を使って育てたリンゴの方がアレルギー原となる「感染特異的タンパク質(PR-P)」の量が少ないという実験を「発掘」して、農薬漬けリンゴの方が健康に良いのだと主張する者まで多くなってきた。このことについては、既にかなり以前にバランスのとれた意見を書いているサイトがあるので紹介しておきたい。
このブログ主も書いているように、人類はずっと昔からPR-Pを普通にたくさん含む作物を食べてきた筈である。ところが、農薬が大量に使用されるようになって、現代人は知らぬ間にPR-Pの少ない食べ物ばかりを食べさせられるようになってしまった。そうした時代が一定期間続いた後に、我々現代人の体質はどのようにつくりかえられたのか、そのことの検証がないままに手放しで農薬漬リンゴのありがたさを説く言説に接し、「科学」の現場は「研究」ばかりで、もはや「学問」ではなくなってしまったと項垂れるのは私だけであろうか。
以下、追記(6月24日)
この記事を投稿した二日後、以前から指摘されていた、ミツバチの大量死・大量失踪の原因はネオニコチノイド系農薬にあるとの説が実験的に確かめられたとの報道があった。
毎日新聞 2013年06月17日 22時50分
これより以前、既に5月25日にはEU委員会がネオニコチノイド3剤について、ミツバチを誘引する作物および穀物における種子処理、粒剤処理、茎葉処理での使用を禁止する決定を下していた(2013年12月1日までに施行、2年以内に見直し) 。 これに対する住友化学による反論も5月27日付で公表されていた。
無農薬農法が成り立つのは周囲の農家が農薬を使ってせっせと地域全体の「害虫」を駆除してくれているお陰だと言う人がいる。それが事実であるかどうかの確たる証拠はないのに、いつもは厳密な「科学」を要求する人が、いとも簡単にそれを言ってしまうのは、まあ、「科学」の世界ではよくあることだ。それよりも私が問題だと思うのは、「害虫」なら絶滅させても良いと言わんばかりの短絡した思考回路にある。
農作物にとっては「害虫」であっても、生態系の維持にとっては何らかの積極的役割を担っているということはないのか、「害虫」でないものにも巻き添えをくらって人知れず絶滅しているようなものもいるのではないか、生態系は一度バランスを崩したら取り返しがつかなくなるのではないかといった視点の欠如。そうした視点からの研究は、長期にわたる息の長い努力を必要とし、短期の成果を求められる「職業科学者」には不可能になっているというこの現実への無批判。 |




