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1)ICRPの勧告は、全体として一つの科学の大系となっている
低線量被曝のリスクに「しきい値」があるかないかは科学的に未解明というのは、その通りである。そこで、低線量被曝によるリスクを心配する予防原則的な観点から「しきい値」はないというモデル(以下LNTモデル)で対処すべきという主張がなされ、一方、「風評被害」の拡大や心的ストレスの方を心配する側からは、「しきい値」があるという研究もあるので不安を煽るようなことは言わない方が良いという主張がなされている。
しかし、LNTモデルで対処しなければならない明確な理由がある。現在の政府の執っている防護対策が、LNTモデルを採用したICRPによる種々の勧告に従っている以上、LNTモデルに反した対策では科学的な整合性がとれないからである。
単に制度的な整合性を言っているのではない。また、低線量被爆の危険性を無視するなと言いたいのでもない。現に、ICRPの勧告に基づいて政府の執っているいろいろな防護策は、平常時の一般公衆の被曝限度量とされる1 mSv/年をかなり上まわる20 mSv程度の被曝をがまんして下さいとお願いする形となっているが、このことの是非とも無関係である。
前回の記事で整理した食品の暫定規制値の根拠として採用されている種々の数値は、LNTモデルの上に構築された一つの科学の体系を形作っている。LNTモデルは、「しきい値モデル」に比べて常に安全側へシフトするとの誤解があるが、必ずしもそうではない。
例えば、放射性ヨウ素を摂取するとその大部分が甲状腺に濃縮されるため、ヨウ素群による被曝への介入線量レベルとして、50 mSv/年の甲状腺等価線量が定められているが、組織荷重係数を0.04(ICRP2007年勧告値)として全身の実効線量に換算すると2 mSv/年に相当するとの説明がある(注1)。正確には「全身の実効線量を見積もるときの寄与は2 mSv/年になる」と言うべきであるが、非常時に年2 mSv程度ならLNTモデルでも許容できる範囲に収まるという訳である。 しかし、「しきい値モデル」を支持するなら、ヨウ素の濃縮した甲状腺においての50 mSvという値が甲状腺にとっての「しきい値」を超えるか超えないかが問題となる。「しきい値論」の理論的背景からして当然そう考えるべきである。
同様に、「しきい値モデル」を採用すると、今まであまり議論されてこなかったβ線による外部被曝の問題もクローズアップされる。ほとんどの核分裂生成物はβ崩壊するが、これまで外部被曝については、γ線だけの測定から換算される空間線量率を基に、いろいろな防護策が講じられてきた。しかし、汚染された地面などに皮膚が接近すると、当然 β線からの被曝も無視できなくなる。
皮膚の組織荷重係数は0.01と小さいので、全身の実効線量への寄与は小さいが、β線はもっぱら皮膚に吸収されるので、皮膚の吸収線量(グレイ:Gy = J/kg)は大変大な値となる。皮膚の遺伝子が集中的に傷つけられるとなると、皮膚にとっての「しきい値」を超えることが心配される。オゾンホールの問題にかかわって、紫外線の量が平常時の2倍にでもなったら皮膚ガンのリスクが大きくなると大騒ぎになることを思い起こすと、こうした発想自体を無視することはできない。
しかし、皮膚にとっての「しきい値」など誰にも分かっていないので、「しきい値モデル」の正当性を主張したところで、具体的な介入レベルの設定ができず、対処しようがないのである。
ICRPが、全身の実効線量を基礎として、LNTモデルを採用した防護指針をたてているのは、リスク評価がシンプルな確率論に基づいていてわかり易いという理由によるのかもしれない。いずれにしても、ICRPの防護指針が一つの科学の大系になっている以上、都合の良いところではICRPの勧告を持ち出し、都合が悪くなるとICRPの見解を否定するというようなことは、少なくとも防護対策を講ずる側としてはやってはならないことだ。 2)自然放射線レベルの「しきい値」なら、ないも同然
低線量被曝についての最も大規模で組織だった研究の成果として、米国科学アカデミーBEIR委員会がとりまとめた報告書(2005年発表、2006年出版)と、Cardis,et al. (2005) があるが、いずれもLNTモデルを支持している。 前者は、「何故しきい値モデルを否定するのか」について理論と研究成果について詳しく述べ、大人では見えにくくなっている低線量被曝の影響でも、感受性の強い胎児、幼児、子供だと、10-20 mSv程度であっても、発がんのリスクが有意に高くなっていることは明らかと主張し、LNTモデルを強く支持している(注2)。
後者は、15カ国、407,391人の原子力産業労働者の疫学調査をひとつにまとめて解析したものである。平均被曝量19.4mSv、24,158件の死亡例のうち固形癌死6,519件、白血病死196件で、BEIRが評価したリスクとほぼ等しくなっている。被曝線量の明らかな母集団の数量だけをとれば、これを凌駕する科学的知見は今のところないと言っても良いだろう。
また、100 mSv以下なら「安全」と主張して有名になった福島県放射線健康リスク管理アドバイザー山下俊一氏の学会講演「放射線の光と影:世界保健機関の戦略」の内容を論文化したものが下記にリンクしたサイトの2009171469にあるボタンからアクセスできるが、そこでは、10 mSv程度の低線量被爆の危険性、特に、諸外国に比べて高いとされる日本の医療被曝について警鐘が鳴らされている。
新たな研究が増えるにつれ、「しきい値」の存在可能なレベルはどんどん下がってきて、今では、あっても自然放射線のレベルと言ってもよい。結局のところ、実質的にはLNTモデルを採用した方が、防護策を講ずる上でも現実的であると言えよう。
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注1)例えば、「第375回食品安全委員会」の「資料1」として公開されている「放射性物質に関する緊急とりまとめ」と題する文書のp22。 注2)例えば、RESEARCHREVIEWED BY THE COMMITTEE の章の“ Why Has the Committee Not Accepted the View That Low Doses AreSubstantially Less Harmful Than Estimated by the Linear No-Threshold Model?”と題された節において、以下の記述がある。 “For example, the Oxford Survey of Childhood Cancer found a “40percent increase in the cancer rate among children up to [age] 15. Thisincrease was detected at radiation doses in the range of 10 to 20 mSv.” |
科学と認識
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交通事故で毎年何千人もの人が死んでいるのに車をなくせとは言わないで原発はあぶないからなくせというのはおかしいとの主張がある。
このような議論は、商業炉が稼働を始めた70年代からあった。当時は毎年1万5千人以上が交通事故で亡くなっていて、「交通戦争」という言葉も現実味を帯びていたし、原子力関連の事故で一般人に死者が出るということもなかったので、原発を擁護する文脈での、このような議論も幅をきかせていた。今も毎年5千人ほどが交通事故で亡くなっているので、同種の議論は絶えない。 もちろん、脱原発は、単に危険だからという理由だけによるものではないし、また、「この比較はまったくのナンセンスである。科学的には、技術も機械の仕組みも、また使用目的も全然ちがうものを比べて、どちらがどうのというのは、全然意味をもたない」(武谷三男著『科学大予言』、光文社・カッパブックス、1983)といった反批判で十分な筈でもある(注1)。 しかし、そこには、リスクの質や技術選択の主体といった事柄への無理解もあるように思われるので、ここではこの点について整理しておく。 さて、ある技術を運用する当事者にとって、事故は必ず想定外のこととしておこる。想定されておこったら事故ではなく事件である。人は神ではないので、想定外のことは必ずおこる。「事故は想定外であった」とは当たり前のことで、事故の本質について何も考えてこなかった者の言いぐさである。 事故に伴うリスクを最小にする予防的な工夫も想定外のことには通用しない。そこで、一般にはリスクの分散という発想が重要視される。1件の事故の想定不能なリスクを低減させる最も良い工夫は技術や生産の単位を小さなものにとどめおくことである。しかし、社会がかかえるリスク全体としてみればそう簡単な話ではない。 もし、単純に「1件の事故による被害のサイズ × 事故の発生確率」をリスクと定義するなら、巨大な被害サイズが想定される場合であっても、その発生確率を限りなく小さく押さえれば良いという発想が生まれる。これが、これまで原発を初めとした巨大技術を推進してきた側の論理である。この論理に押されて技術の際限のない巨大化が許容されてきた。大型化するほどコストが低減されるからである。 そこには、「大きな発生確率の小さな被害」と「小さな発生確率の大きな被害」との間にある、リスクの質的な違いへの無理解がある。前者は車の事故、後者は原発の事故に比較できよう。 たびたびおこる小規模な事故が社会全体におよぼす影響は、そのつど修復可能である。しかし、めったに起こらない大事故では、その規模がある「しきい値」を超えると、社会の基盤構造そのものがダメージを受け、いろいろな波及効果により、修復不可能なくらいに拡大・増殖し、結果、一つの社会や国家が破綻をきたすといったことがおこり得る。 我々が、巨大技術に対して抱く漠然とした不安は、人が社会的な生き物として進化してきたことから、そうした人類社会全体に破局をもたらすリスクを嗅ぎ取る生得的な能力が発揮されて生起するのかもしれない。1万人乗りの航空機ができたらどうか。漠然とした不安であっても、善く善く考えてみるとばかにはできないことがわかる。 この度の「原発震災」が、この先日本にどのような影響を及ぼすのか私にはわからないが、同規模の原発事故が遠くない将来に再びおこれば、間違いなく日本は破綻するだろう。しかも、次の原発事故は世界のどこでおこるかと問えば、世界の大地震の10% 以上が集中する日本において再びおこる確率が一番高いと答えざるを得ないのである。このような、国家破綻の「しきい値」を超えるようなリスクを背負い込むべきではない。 車社会のリスクを許容することと、原発事故のリスクを許容することの間には、もう一つ決定的な違いがある。リスクに備えての保険料を誰が払うか考えれば明らかだ。 車の場合は、車を利用することを選択した個人が自賠責や民間の任意保険に加入し、保険料を支払う。一方、原発の場合に原子力損害賠償責任保険の保険料は原子力事業者が支払う。しかも、民間保険会社では対応できない大事故に備えて、原子力事業者と政府との間の補償契約により行われる政府補償も準備されている。 つまり、いろいろな交通手段の中から車の利用を選択するのは個人の責任で行われるが、いろいろな発電手段の中から原発を選択するのは地域独占の電力会社や国家である。 「原発反対と言いながら原発で発電された電気を使うのはけしからん」などと言う人がいる。もし電力会社がそのようなことを言おうものなら、我が家に引き込んだ電線に原発で発電した電気を勝手に混ぜるなと言いたい。原発で発電した電力を押し売りしているのは電力会社であり、日本国国民には、発電手段を選択する道は実質的に閉ざされている。 車を選択することと原発を選択することを比較することがいかに愚かなことであるか、良く考えてほしいものである。 ----------------------------------- 注1)同書において武谷氏は、「確率論に支えられた安全神話の正体」として、次のように書いている 「たとえば、ここに何か新しい薬が大量に売られることになったとする。しかし、何億錠も生産したその薬の中に、どういうわけか1錠だけ毒薬が混じってしまった(アメリカでは意図的に毒物が混入され、多くの死者を出した事件があった)。 これを確率でいうなら、その1錠の毒薬に当たって死ぬのは、何億分の1である。しかし、この事態に対して、それは何億分の1なのだから売ってもいい、と言えるであろうか。何億分の1の確率でだれかがかならず死ぬのである。」 |
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5月12日の東電の発表によって、福島第一原発1号機で炉心の全溶融がおこっていたのらしいことが明らかにされた。東電のHPにおいて日々公開されていた原子炉の圧力、温度、水位のデーターには信頼性がないということになった訳だが、これを注視してきた者としては、やはりそうかと思わざるを得ない。既に書いたように、密閉された圧力容器に注入できる水量は限られているが、現在までに圧力容器の容量の何倍もの水が注入されている。先日の東電の発表では、格納容器内の水位もそれほど上がっておらず、注水された1万トンのうち、少なくとも4000トン以上の水がどこへ行ったかわからないという(注1)。
5月9日には、4号機の建屋で3月15日におこった爆発と火災は、使用済み核燃料プールから発生した水素によるものではない可能性が高くなったが、爆発の原因は不明と発表された。 行方不明だとか、出所不明だとか、原因不明だとか、核種の同定ミスだとか、そんな話のオンパレードである。このブログの3月12日の記事で「こりゃダメだ、誰もこの事態に対処する能力はないな・・・」と書いたのは、取り巻きの専門家達を含めてのことであるが、正直言ってここまで無残なことになるとは思っていなかった。いかに「想定外」とは言え、震災に伴う長時間の電源喪失状態に陥ればどうなるか、どうすれば良いか、ある程度の想定があってシミュレーションもなされているに違いないと考えていた。その危険性が認識されていたからこそ、原子力発電所は、本当に電力を必要とする大都市圏から何百キロも離れた過疎地ばかりに建造されることになった筈だ。 3月12日の午後3時36分、第一原発1号機で最初の水素爆発がおこった時、福島中央テレビでは煙を上げる1号機の様子を生中継して、アナウンサーが興奮した声で爆発のニュースを伝えていたらしい。その頃私は、NHK総合の特番を観ていたが、かなり遅れて「午後4時頃1号機の原子炉建屋から爆発音」という情報が伝えられたので、水素爆発がおこったのだと確信した。 改めてその時のNHK特番の録画を見直した。解説は東京大学の関村直人氏である。背景には望遠カメラから撮った第一原発の午後4時半頃の映像が挿入されていて、骨組みだけになった1号機原子炉建屋の無残な姿が映し出されている。アナウンサーがその異常に気づいたのはおよそ10分後である。やがて、1号機建屋で爆発があってけが人が出たとの情報が伝えられる。その後40分間、関村氏は、ついに一言も水素爆発という言葉を発しなかったが、そのことにずっとひっかかりを覚えていた。 この時のビデオを何度か見直して、私は、関村氏はあの時点で水素爆発が起こることを全く予想していなかったのではないかと強く疑うようになった。 最近、学内において、相次いで東電原発事故に関する講演会や学習会が開催され、何人かの専門家の話を聞く機会があった。おそらく全国の大学でも同様の催しが活発になされていることと思う。その中で共通して力説されたことは、電源喪失になったまま放置すれば水素爆発が起こるということは「専門家としては、常識中の常識」ということ。それから、原子力発電は実用化とはほど遠い未熟な技術であるということであった。六ヶ所村の再処理施設についても、技術的な問題が全く解決されておらず、2010年10月竣工という当初の計画は延期され、実質的には頓挫したままであるという。テレビの解説に引っ張り出される専門家達とのこの落差はなんだろう。たまたま私の身近にいる専門家達が「反原発」の立場にあったということだろうか。 このブログで度々言及する武谷三男さんは、原子核・素粒子論の専門家であり、「原子力資料情報室」の初代代表であった(注2)。その武谷三男編による岩波新書『原子力発電』(1976)は、原子力発電の歴史・構造・問題点を、被爆線量の捉え方を含めて包括的に整理したもので、今日でも通用する名著である。これを読めば原子力発電がいかにダメダメな技術であるかがよく分かる(注3)。序文では、原子力発電が日本に導入される政治的な背景や当時の科学者達の主張、立ち回りなどがやや詳しく書かれていて、今日の情況が準備された経緯を知ることができる。その一端は、別の視点から「噺の話」に紹介されているので参照されたい。そこでは、かつて「日本地球化学会」の会長をされたこともある三宅泰雄さんによる『死の灰と闘う科学者』(岩波新書、1972年)からの引用がある。 少なくとも導入当初、核物理や放射化学の専門家達の多数派は、武谷さんが訴えたのとほぼ同じ考えであったと思う。その後、早くから「原発震災」の危険性を訴え続けてきた石橋克彦さんや、茂木清夫さんのような反原発の立場を鮮明にする地震学者達も現れた。マルクスの疎外論を持ち出すまでもなく、人の世は多数の人々の思いとは異なる方へふらふらと彷徨い、やがてそれが既成事実と化してしまう。導入当初は明確な「反原発」であった人々も、しまいには「脱原発」といった聞こえの良い言葉を不本意ながら口にせざるを得なくなった。 国民の多くは、それならなぜ、専門家達は原発の危険性をもっとはっきりと教えてくれなかったのかと言うかもしれない。確かに、一般への啓蒙という点では不十分な面はあったと思う。一方で、原子力発電の危険性を訴える専門家による書籍は無数に出版されているし、原発の事故がある度にその危険性は指摘されてもきた。小出裕章さんに限らず、そうした活動を担ってきた専門家達は、今回のように多数の一般住民に甚大な被害が及ぶような大事故がおこるまで、大多数の人々が聞く耳を持たなかったという想いと言葉の無力さに苛まれているに違いない。 議論のさなか、政治的な思惑によって見切り発車してしまった原子力発電は、やがて経済を下支えするまで肥大化し、多くの国民がその恩恵に与ることとなった。そうなると、「日本の科学技術は世界一」との国民的幻想にも支えられて、度重なる「もんじゅ」の事故があっても、東海村JCO臨界事故があっても、柏崎刈羽原発の事故があっても、これらの事故を教訓に、この先ちゃんとやっていける筈だとの、巨大な<共同幻想>が構築された。 そうした<共同幻想>は、原子力工学が専門ではない、他の分野の科学者達をも覆い尽くしていることは、この間のネット言論で、素人が非科学的な議論をすることへ突っ込みを入れるその姿勢をみれば明らかである。デマ狩りには熱心でも、地震の多い日本でも安全な原子力発電は可能だとの最大のデマには口をつぐんだままであったりする。日本原子力文化振興財団が発行する「原子力文化」という冊子があるが、真の「原子力文化」とは、結局のところ、巨大なデマを覆い隠すために枝葉末節な技術論に終始したり、安全だと宣伝する一方で過疎地に押しやったり、拝金主義がはびこったり、耐震偽装工事をやったり、再処理も最終処分も、その目処もたたないうちに見切り発車したりするということではないか。 武谷さんが訴え続けたことは、原子力工学上の問題も、放射線の危険性についても、科学的に未解明の問題が山積している領域では、価値論的判断が優先されなければならないこともあるということであった。事故から2ヶ月以上が過ぎた今なお制御不能に陥ってることをみれば、原子力発電がいかにダメダメな技術であったかが分かる筈だ。これまで大事故にならなかったのは偶然であって、日本国民は「うたかたの夢」の中に居たということである。 ---------------------- 注1:この原稿をほぼ書き終えた直後の本日(5月14日)夕刻、原子炉建屋の地下で、1号機から漏れ出したと思われる大量の高濃度汚染水が見つかったと発表された。 注2:「原子力資料情報室」を立ち上げたのは故高木仁三郎さんであったが、彼の追悼サイトの年譜 高木仁三郎が歩いた道には、「1975年、・・・9月、原子力資料情報室が設立され(武谷三男代表)、専従世話人となる。」と記されている。しかし、Wikipediaの「武谷三男」にも、「原子力資料情報室」にも、その事は書かれていない。 注3:武谷さんは、特に商業炉は経済性のために必然的に大型化せざるを得ず、そのことによって「空焚き」の危険性が最大の驚異になることを、崩壊熱をもとにシミュレーションしている。この過程での水素発生についても言及されているが、水素爆発については触れられていない。水素爆発が常識となるのは、TMIとチェルノブイリの原発事故の経験によるらしい。 低線量被爆の影響が確定していない段階では、下限はないという前提に立ち、価値論に基づく「がまん量」として線引きする他ないという「武谷説」が、最終的にICRP勧告に影響を与えることになったという点は重要で、別の機会に言及したい。 |
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訂正:文中、厚労省主催の「原爆症認定の在り方に関する検討会」の開催年を「確認書が交わされた年」すなわち2009年と記述していましたが、正しくは2007年でした。訂正してお詫びいたします。(5月16日)
前回書いたように、現在の食品衛生法の安全基準は、ある時ある産地に2000 Bq/kgのヨウ素131を含む野菜が見つかったとして、同じ産地で8日後に収穫されるものはおよそ1000 Bq/kgへ、16日後に収穫されるものは500 Bq/kgへと減っている筈であるという前提のもと導出されている。このように、汚染量は半減期に従って減り続ける筈であるという前提のもと年間の内部被曝線量を積算したときに、最初に食べようとするものについて、2000 Bq/kg以下であれば、これは安全であるという意味である。
2000 Bq/kgの野菜を毎日食べたら年間の内部被曝線量は安全基準値を大きく上回ることは明らかなのに、汚染量は将来減る筈であるから安全だというのは国民を馬鹿にした欺瞞である。実際、今回の事故後のヨウ素131の濃度は多くの地域で3月15日と16日に大きなピークを示した後で一旦減り続けたものの、3月21に跳ね上がって3月22日に最大のピークを迎えている(財団法人日本分析センターによる千葉市におけるデータ)。この時点で安全基準導出の前提は崩れ去っているのだから、これ以降同じ安全基準を適用することはできない。 これを知った産総研の岸本さんは、コラムで「非常に驚いた」と書かれた、「専門家の説明のほとんどが間違っていることも分かった」とも書かれた。原子力を取り巻く学問の世界には、平気でこのような欺瞞に満ちた安全基準を作り上げる者、その欺瞞を覆い隠した形で国民に嘘の説明をする者と、これを糾そうとする者が居るということである。もちろん、欺瞞に気づかずに誤った説明をしている不用意な専門家も居るであろう。 今回の東電原発事故(kojitakenさんの主張に倣って、こう呼ぶことにした)は、私たちに実にいろいろな事を教えてくれた。かつて『原発ありがとう』(小原良子・日高六郎・柳田耕一共著、径書房、1988)という本が出版されたが、チェルノブイリ原発事故をきっかけに、原発というものの存在がこの社会の仕組みや実態についていろいろと目を見開かせてくれたことに対して「ありがとう」と言っている訳である。しかし、著者の一人で長年水俣病問題に取り組んできた柳田耕一氏にとっては、この社会の実相は既に見えていたことであろう。「水俣」が忘れ去られようとしている時に、同根の事件や事故が起こる度に、例え皮肉を込めての言葉であっても、繰り返し「ありがとう」と言わねばならないとしたら、何とも悲しい。 放射能の環境汚染に伴う低線量被曝と将来にわたる健康被害にかかわる多くの問題についても、例えば長年にわたる原爆症認定集団訴訟を通して、国と原告団との間で討わされてきたことである。結果として、19の地裁・高裁で連続して国側敗訴の判決が出されるに及び、国は自らの主張の誤りを認め、2009年8月6日に原告の被団協と麻生太郎首相(当時)との間で「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」が交わされることになった。 この裁判の過程で、被告国側の証人となったのが、最近内閣官房参与を辞任して話題となった小佐古敏荘・東大原子力研究総合センター助教授(当時)である。この小佐古氏の証言内容については例えばこちらに概要が記してある。 この時の主要な争点の一つに、入市被爆者に顕れた脱毛や白血球減少などの急性症状と、DS86と呼ばれる原爆による被曝線量を見積もるモデルから推測される残留放射能との乖離の問題があった。このDS86は、やがてDS02に改訂されることになるが、両者の精神は同じで、中性子線とγ線の空間線量率に基づき外部被爆線量を推定するモデルとなっており、これを元に原爆症の認定業務が行われてきた。
小佐古氏は専門家の立場からこのDS86を擁護する証言を行ったために、原告被団協は、これを凌駕する科学的知見を提示する必要に迫られた。それは困難を極めるかに思われたが、そうではなかった。既に多数の研究が積み重ねられていて、完結はしていないがDS86の非合理性を論証するに十分な成果がそろっており、それらの知見を証言する専門家達も現れた。また、小佐古氏自身、被爆地の残留放射能を具体的に推定する研究や既存データの吟味など、ほとんど行っていないことも明らかとなった。そのため彼は、既に改訂版としてのDS02が完成間近であったのに、DS86を擁護したのであった。結果、あっさりとDS86の非合理性が認識され、判決が下された全ての裁判所において国側が敗訴することとなったのである。 「 東電原発事故の現状や今後にかかわっては、次の二点が重要と思われる。 1)核分裂生成物が皮膚に与える線量はγ線よりβ線の方が数十倍高い(静間委員による報告資料の p37)。原爆の場合は中性子線により放射化された誘導放射能成分が問題となるが、この成分のβ線の寄与は地上2.5 cmでも15%増に過ぎない(同上資料 p33)。しかし、東電原発事故では核分裂生成物とそれらの系列核種だけが問題となり、ほとんどがβ崩壊するので、主として地上高1 mにおけるγ線によって見積もられている空間線量率を過信することは大変危険である。 2)旧ソ連核実験場セミパラチンスク近郊の被曝線量と健康影響に関する調査結果から、外部線量と内部線量は同程度の値を示していることが明らかにされた(同上資料 p38)。つまり、飲料水や食物などの全てに渡る環境汚染が起こっているところで生活を続けるなら、空間線量率の2倍程度の被曝を覚悟しなければならないということである。 多数の入市被爆者に脱毛や白血球の減少などの急性症状が観察されたことから、爆心地から1 kmの地点に数週間滞在したとして、少なくとも500 mSv以上の被曝をしたと推定された(鎌田委員による報告資料)。あるいは長崎に限れば、当日爆心地から1 km以内に入市した場合の平均残留被曝線量は、爆心地から1200 mにおける初期被曝線量に相当する1.5 Gyになると推定された(沢田委員による報告資料)。中性子線とγ線の空間線量率を基礎に被曝線量を見積もるDS86やDS02のモデルに基づけばそのような急性症状が現れることは全く考えられないが、このモデルは、被曝の実態を反映していないと結論されたのである。 東電原発事故による被曝線量についての議論の多くは、かつての原爆による残留放射能被爆の見積もりと同じ過ちを犯しているのではないかと思われてならない。
さて、ネガティブなことばかりをあげつらったが、東電原発事故による汚染地域の今後について、明るい見通しに繋がる材料もある。それは、原爆被爆地の残留放射能が、被爆1年後には、ほとんどの地域で自然放射能のレベル近くにまで低下したことである。半減期が30年と長いことから長期にわたる汚染源として心配されているセシウム137も、私が原爆の残留放射能の問題に関心を抱き始めた1980年頃、既に米ソなどの核実験によるフォールアウトのノイズにかき消されるほどの濃度に低下していた(注1)。雨に洗われて海へ流されたり地中深く染みこんだりしたと考えられるが、逆にそのため、正確な原爆の放射線量を推定するための新たな研究は困難を極めていたのである。 私たちは、少なくとも私たち日本人は、原爆による惨禍とその後の復興を通して、放射能汚染についての豊富な知識と経験を持っている筈である。そうした蓄積に照らして、現在政府が行っている汚染対策や健康被害についての住民への説明などは何とも心許ない。いまさら、「原発ありがとう」などとは言うまい。 ------------- 注1)最新の研究によると広島に落とされたリトルボーイで核分裂したウラン235は912 g と見積もられている。セシウム137の核分裂収率を6%と仮定し、爆心地から半径20 kmの範囲に均等にばらまかれたと仮定した時のセシウム137の放射能はおよそ |
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(わかり易くするため、後半の文章を若干変更しました:4/30 8:30)
原田正純さんは水俣病にかかわって「環境汚染」という視点の重要性を説いた。「環境汚染」がおこれば、その環境に棲む全ての生命が複合的な影響を受け、一つの生態系が丸ごと破壊されるということの意味を問うたのである。現在の福島原発事故にかかわってのいろいろな議論には、この視点が欠如している。
一例を挙げれば、事故で放出された放射能の危険性について、空間線量率を元に「年間の被曝線量は20 mSv以下である」などと説明されるが、こうした評価には内部被曝線量は含まれていない。それは、例えば、食品衛生法に基づく葉物野菜の放射性ヨウ素の暫定基準値は2000 Bq/kgで、この1 kgを毎日食べ続けたとしても1年間で0.044ミリシーベルトの被曝にとどまるといった説明が行き渡っていて、基準値を超える食品の流通を阻止すれば、内部被曝はほとんど問題にならないという観念が広まったからだと思われる。 私は直感的に、この説明に疑問を抱いたので、内部被曝線量の計算を行った。 「平成十二年科学技術庁告示第五号(放射線を放出する同位元素の数量等」 の「別表第1」に定められたヨウ素131の実効線量係数は2.2E-05 mSv/Bqとなっている。
そこで、2000 Bq/kgの食品1kgを摂取したら。 2000 Bq × 2.2E-05 mSv/Bq = 0.044 mSv となる。 つまり、毎日1 kgを食べ続けるのではなく、1kgを1回摂取しただけで0.044 mSvに達する。一年間毎日食べ続けたら365倍の16.06 mSvになるのだ(ただし、後で述べるように、甲状腺等価線量換算係数を用いると、この値も過小の見積もりとなる)。先に掲げた法令の第十九条、二十条には計算法についての記述があるが、摂取量については、その摂取期間についての定めがない。つまり、1日の被曝量は1日の摂取量で、年間の被曝量は年間の摂取量で計算しなければならない。 ではなぜ、暫定基準値が2000 Bq/kgとなったのか。その真相がやっと分かり、こんなことがまかり通っているのかと、正直言って大変驚いた。 いろいろ調べる内に、劣化ウランについての私の記事に専門的な立場から有用な突っ込みを入れて下さった「ぷろどおむ えあらいん」さんのブログで、たろうさんという方が私と同じ疑問からいろいろとコメントされていることを知った。たろうさんは、主に飲料水の暫定基準値を問題にされていたのだが、ぷろどおむさんは、自らの誤解に気づき、「穴があったら入りたい」と書かれているので、専門家としても納得されたのだと思う。 そのぷろどおむさんが、誤解を正すのに分かり易い解説として、産総研の「安全科学研究部門」のグループ長岸本充生さんの「基準値の根拠を追う:放射性ヨウ素の暫定規制値のケース」と題したコラムを紹介して下さっている。この岸本さんの指摘は大変重要であり、広く周知されるべきと思う。 こうして初めて、内閣府の「食品安全委員会」によって本年3月にまとめられた「放射性物質に関する緊急とりまとめ」という資料や、原子力安全委員会・原子力発電所等周辺防災対策専門部会・環境ワーキンググループによる「飲食物摂取制限に関する指標について」と題する基準値設定の根拠と導出方法が書かれた資料の存在を知ることになった。また、分かり易い解説として、東大病院のteam nakagawaによる「「暫定規制値」とは」と題するページも紹介されている。 岸本さんもその導出方法を知って「非常に驚いた」と書かれているし、たろうさんが疑問に感じられたり、ぷろどおむさんががたろうさんの疑問に同意されたりしているので、素人の私が驚いたり呆れかえったりしたのも、おそらくそれほど特異な感覚ではないと思う。 その導出方法は大変複雑で、岸本さんの解説コラムでさえ計算が微妙に合わないと書かれているのだが、その末尾に、正確な計算法についてフォローされた福井県立大学経済学部教授の岡敏弘さんのウェブページが紹介されている。 詳細は上記にリンクしたサイトや資料に目を通していただくとして、その要点だけを紹介しておきたい。 まず、押さえておかなければならないことは、ほうれん草を一日1kg、しかも毎日食べる人など居るわけがないと思われるかも知れないが、こうした汚染事故では、全ての食品が同程度に汚染されていると考えられるので、ほうれん草に代わる物を食べても同じことになるという前提がある。暫定基準値の算定に際しても、この前提が守られている。 問題なのは一点、 暫定基準値の導出で、放射線強度が個々の放射性元素の半減期に応じて次第に減衰するという前提のもと年間の被曝線量を計算しつつ、その基準値(限度量)については初期値の放射能強度(Bq/kg)について表示するという、その発想法にある。 放射性ヨウ素の特定の核種だけについての計算式は下記のようになる。 甲状腺等価線量=(甲状腺等価線量換算係数mSv/Bq)×(食品の放射線量Bq/kg)×(1日あたり摂取量)×[1-exp{−(物理的崩壊定数)×(摂取期間)}]/(物理的崩壊定数) 右辺の後半は、放射能の時間変化の式を、放射能の初期値に対する減衰項として変形し、積分したものである。正確には、岡敏弘さんの解説にあるように、初期にしか存在しない極短寿命核種などの全ての系列核種の放射能を合わせて計算するために、これより数%程度大きな値となる。このような発想が何故問題かというと、岸本さんや、ぷろどおむさんのところでたろうさんが指摘されているように、継続的に放射能の放出が続くような事故の場合には、その実態を全く反映しない結果になるからである。 少なくとも、「2000 Bq/kgの食品1 kgを毎日食べたとしても1年間で0.044ミリシーベルトの被曝にとどまる」という表現は二重・三重の誤りを含んでいる。 1)この表現では、2000 Bq/kgという放射能強度は年間を通して変化しないことを前提としつつ、1回1 kgの摂取による被曝線量を計算している。
2)冒頭部分で示したように、正しくは年間16.06 mSvの被曝量となるが、半減期に従う減衰を仮定すると単体で0.509mSvとなる。
3)ヨウ素については特別に甲状腺等価線量換算係数を用いるべきで、乳児についての0.0037 mSv/Bqを用いると、継続的な放出があって放射能強度が減衰しない前提では、
2000 Bq/kg × 365 kg × 0.0037 mSv/Bq = 2701 mSv が、正しい被曝線量となる。
岸本さんが「専門家の説明のほとんどが間違っていることも分かった」と書かれているのは、「ある放射性物質の濃度の食品を毎日食べたとしても・・・云々」という言い方は放射能強度が減衰しないことを前提とした表現であるのに、半減期にしたがって減衰することを前提に導出された年間被曝量の見積もりを提示していることにある。このような説明は国民を欺くことになる。 実際、マスコミを通じて、「1年間食べ続けても全く問題がない量である」との専門家による説明が繰り返し流され、それを真に受け、インターネットを通じて拡大再生産されたという現実がある。「興味ある情報」に接した時に、自ら検証せずに吹聴する言い訳として、専門家が言うことだからというのがあるが、少し立ち止まって、広く情報収集するという慎重さが必要だと思う。
一定の前提条件のもとになされる科学の規定は、それ自身正しくとも、その前提条件が実態を反映して役立つ規定であるかどうかは別問題である。さらに言えば、誰にとって役立つ内容を持つのかといったことも別問題である。そこにまた、科学の持つ党派性が顕れる。 |




