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家族がちゃぶ台を囲み、ご飯を食べる。そんな光景が懐かしい。いつでも何でも手に入る飽食の時代だけれど、便利でもなく、豊かでもなかった「昭和の食卓」と、その時代を振り返ってみたい。まずは、日本の主食「ご飯」を巡る、この方の話から−−。【坂巻士朗】
◇食卓に格差…食料自給率40%切り
◇これが日本人の幸せなんだろうか
米どころの宮城県出身だから、家は田んぼで囲まれていた。手で稲を植え、かまで刈っていたころだよ。おれは妹と2人だったけれど、近所には10人、11人兄弟もいた。
あの戦争のときだって、最初のころはご飯はあった。ただ、真っ白じゃあない。三分づきかな、ちょっと黒っぽかった。米粒を削って減らすのはもったいない、というのはあったんだろう。そして、時代への遠慮もあったんじゃないか。都会では食べられない人がいっぱいいる。白米なんてぜいたくだ、と。
1944(昭和19)年ぐらいになると、田舎でもご飯に大根や芋を入れるようになった。戦後しばらくの間も、白米はあまり食べられなかった。木の箱に鉄板を取り付けて作ったパン焼き器で、練ったとうもろこしの粉を焼いて、妹と分けたり。県立仙台一高に通ったときも、朝昼晩いつもコッペパンだった。それでもやせ細りもしなかったから、人間不思議だよねえ。
役者になりたてのころは、ご飯がごちそうだった。三船(敏郎)さんの「七人の侍」が大ヒットしたのが54(昭和29)年。映画界は盛り上がったけれど、おれは金がないから、米だけ買ってアルミの鍋で炊いていた。のりのつくだ煮だけをおかずに何カ月も。しょうゆだけの日もあった。それでも、炊きたてのご飯はおいしかった。
ご飯というと、小さな人形を思い出すんだ。NHKの大河ドラマ「徳川慶喜(よしのぶ)」で、慶喜の実父、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の役をやったとき、訪れた弘道館という藩校に飾ってあった「農人形」だ。斉昭公が食事の度に、人形にご飯粒を供えて、農家の人への感謝を示したんだ。質素なわんを使い、一汁一菜の生活を貫いたと言われる人らしいね。立派な日本人だよ。
今では街にレストランやすし屋が華やかに並んでいるけれども、その裏では仕事にも給料にも、そして食卓にも格差がある。ミシュランの三つ星のような、ぜいたくなレストランのある一方で、300円の弁当しか買えない人がいる。食料自給率も40%を切った。主食の米の値段が下がって、休耕田が増えていく。こういうのが、日本人の目指してきた幸せなんだろうか。白いご飯がごちそうだったことを、もう一度思い出したい。そう思うな。
■人物略歴
◇すがわら・ぶんた
1933(昭和8)年、仙台市出身。58(同33)年、新東宝映画「白線秘密地帯」でデビュー。「仁義なき戦い」「トラック野郎」などで国民的俳優となる。現在はニッポン放送「日本人の底力」のパーソナリティーも。
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文太兄さん
イメージとは違って・・・
東北出身
早稲田出のインテリですね(^^;
2009/8/14(金) 午後 1:33 [ 浜周 ]