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近頃しきりに私は1940年を想い出している。その年の初めに、民政党の代議士斉藤隆夫が帝国議会で日本の中国侵略政策を批判した。
その少数意見を抹殺しようとして、議会は演説を議事録から消し、斉藤を除名した。そのとき、社会大衆党は、除名決議に反対した八人の同党代議士を除名し、しばらく後に、解党する。
やがて保守二大政党、政友会と民政党も解党し、野党も批判勢力もない議会の、いわゆる「翼賛体制」が成立した。その体制の下で、軍部の専横を抑え得るかもしれないという自由主義者を含めての国民の期待を荷なって成立し(1940年7月)、忽ちその期待を裏切ることになったのが、第二次近衛内閣である。近衛の後を襲ったのは東条内閣であり(1941年10月)、周知のように、東条内閣は真珠湾を攻撃した。
翼賛議会の外では何がおこったか。
第一に、組合が解散した。まず日本労働総同盟、つづいて大日本農民組合。
第二に、文学芸術の世界でも、批判的な言論は一掃された。新協劇団と新築地劇団の強制的解散がその典型である。
第三に、学問の自由が奪われ、津田左右吉の『神代史の研究』は発禁処分となり、著者と出版社は起訴された。そういうことがあって、1940年は、「紀元二千六百年」の式典で終わる。『神代史の研究』が学問的な歴史の研究であり、「紀元二千六百年」が歴史学的・考古学的事実に反することは、いうまでもなかろう。
今日、細川人気と「改革」の旗印にはじまり、批判的野党の消滅に至る議会の事情は、共産党の合法と非合法の相違を除けば、近衛幻想と「新体制」の宣伝にはじまり、「翼賛」議会に終わる1940年の状況を思わせる。政治的批判勢力としての労働組合の無力化もまた然り。
有力者や高官の「失言」の内容も、ほとんどすべて歴史的事実を無視するか歪曲するものであり、それがくり返されることは、彼らの意見の支持者が少なくないことを意味するにちがいない。
確かに「失言」は今日の政府によって否定される。
1940年とのちがいは、「紀元二千六百年」が今では国家権力の公式見解ではなく、非公式な意見だということであろう。
もちろん1940年の情況と1994年のそれとの間には、大きなちがいもある。
第一に、戦時中の日本には広汎で強力な軍産体制があったが、今日の日本経済ははるかに大規模で、軍事産業はその一部にすぎない。
第二に、情報に関しては、かつての報道管制とほとんど完全な鎖国に対し、報道のかなりの自由と国際的な情報の伝達がある。
第三に、操作された大衆の圧倒的多数は、1940年に、軍国日本の「聖戦」を支持していた。
しかし今では、政府の政策に批判的な多数の市民があり、無数の分散した小市民グループがあり、たとえ彼らの意見が大政党や大組織に反映されることがなくても、それぞれの活動をつづけ、それぞれの意見に固執している。
そういう個人または小グループの間に、全国的な、横の連絡はほとんどない。したがって社会全体の動向に対するその影響力は、さしあたり、きわめて限られているだろう。しかしそのことは、同時に、彼らの強い抵抗力をも意味する。
1940年の軍国主義権力が行ったように、組織された反対勢力は弾圧し、買収し、操作することができる。分散した無数の個人や小グループは、極端な警察国家でないかぎり、いかなる権力も一掃することができないだろう。
批判的市民の意見にはおそらく共通の面がある。戦後半世紀の間に内面化された平和主義と民主主義、その具体的なあらわれとしての護憲、軍縮、海外派兵反対、社会福祉の要求などである。
それはまたカネと力の論理に対して、そのほかに自己主張の根拠をもとめようとする態度だともいえるだろう。もちろん「長いものには巻かれろ」という考慮もある。
しかし同時に社会が「強きを挫き弱きを助ける」ものでありたいという希望もある。その考慮と希望を併せて共通の態度がある、ということである。
多くの先進工業国と比較して日本国には「普通」でない面がいくつもある。
憲法の武装放棄条項はその一つである。
外国の軍事基地が全国を蔽い、人口の密集した地域にまで及んでいるというのも、その一つである。
大都会の夜の道や公共交通機関がきわめて安全であること、歴史的な都市の景観を破壊してためらわぬこと、通勤電車が文字通りスシづめになること、公共労働者が罷業権をもたぬこと、その他数えあげればきりがない。
そのすべてを「普通」にしたいと考える人はないだろう。またどれも「普通」にしたくないと考える人もないだろう。
何を「普通」とし、何を「普通」にしたくないと考えるかによって意見が異なる。
異なる意見を統一しようとするのは、反民主主義的である。民主主義をまもるためには、意見の相違を尊重し、批判的少数意見の表現の自由を保障しなければならない。多数意見が現在の問題であるとすれば、少数意見は未来の問題である。少数意見が多数意見となるほかに、現在と異なる未来はあり得ない。たとえば、1940年の少数意見が多数意見となったときに、戦後日本の民主主義は成りたった。
1994年現在の批判的な少数意見が多数意見となるとき、またそのときにのみ、なしくずしの軍拡と民主主義の後退という現在の延長ではない日本国の未来がひらけるだろう。
しかし分散した個人や小グループの少数意見は、いつ多数意見になるのだろうか。
それはわからない。
しかしそのための必要条件ーー十分条件ではないだろうがーーの一つは、分散した批判的市民活動の、少なくとも情報の交換という面での、横のつながりをつくりだすことである。同じようなことを考えたり、したりしている人々が、ほかにもいるということの知識ほど、信念や活動を勇気づけるものはない。
そのために「パソコン」は利用することができる。「マス・メディア」も利用することができるだろう。
そういう条件は1940年にはなかった。
私は昔私が若かったときの軍国日本を想い出しながら、夕陽のなかで、このような妄想を抱くのである。
1994年11月21日
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