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戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとは嘗て一回もあったことはありません

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「報道三題」

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年月が経つとわれわれの記憶の中で過去の出来事は次第にその姿を変えてゆく。新たに資料が発見されたり、公開されたりすることもある。

しかしそれだけではなく、ほとんど常に、意識的にか無意識的にか、出来事の一面を忘れ、他面を強調して、現在のわれわれにとって出来事のもつ意味が明らかになるように操作する。

その結果、長く記憶の中に貯えられた過去の経験のそれぞれは、時と共に一種の寓話に似て来るだろう。寓話の意味は特定の時と場所を超えて通用する。そうでなければ、思い出すには及ばない。もし今も意味をもつ出来事をなお思い出さないとすれば、それは記憶喪失症――しばしば集団的なそれ――であろう。


私は今しきりに三つの寓話を思い返している。そのきっかけは、現在の日本国で、与党の有力政治家が公共放送(NHK)の番組内容に圧力を加えたかどうか、その問題についての朝日新聞の報道が正確であったかどうか、というような争いが生じたことである。

争いは継続中で、断定できる事実は未だほとんどないから、この特殊な「事件」の内容については、今判断の下しようがない。しかし「事件」は、政治権力と報道機関がいかに係わってきたか、現にどう係わっているか、知り難いけれどもきわめて大きな一般的問題を喚びさまさずにはいられないだろう。

言うまでもなく、日本国民が国の内外での出来事の要点を知るのは、主として新聞やテレビのような大衆報道機関による。したがって報道機関がどの程度まで外部の圧力(たとえば政治や広告主やジャーナリズム市場)から自由であり、どの程度までその提供する情報が客観的であるかは、日本国の民主主義が機能するかどうかを左右するにちがいない。私が長い間忘れていた寓話をあらためて思い出したのはそのためである。


第一の寓話は、80年代の英国の話である。所用があってロンドンを訪れた私は、ホテルの窓口で宿泊の手続きを取ろうとして、驚いた。とは言っても、思いもかけず旧知の友人に偶然出会ったのではないし、いわんや突然回転ドアを押して霧の街路からあのシャーロック・ホウムズ氏が現れたのでもない。要するに窓口の傍(そば)に積んであったその日の新聞の大きな見出しがふと眼に入ったのである。その見出しは、その頃有名であった保守党の政治家がBBC(英国の公共放送)の「偏向報道」を糾弾するという意味のものであった。


「偏向」の内容は米軍機のトリポリ爆撃の後、その被害をBBCが誇張して放映したらしいという事であった。そのくらいのことは、いつでも、どこの国でも、よくあることだ。現に私が驚いたのも、記事の内容ではなくて、報道のし方であった。どの新聞も第一面、大見出し。翌日も同じく第一面、大見出しで、BBC会長の反論を掲げるという扱いである。これはいわゆる「大物」政治家とBBC会長の正面きっての大論争、つまり政府と代表的な報道機関との一騎討ちである。私が驚いたのは、その舞台がどこかの高級料亭でも、ロンドンの「クラブ」の一室でもなく、主要な新聞の第一面であった、ということだ。英国では国民生活に関係の深い劇が国民の前で演じられる!まるでシェイクスピアの舞台でのように。



第二の寓話は、70年代の米国。まだ民主主義の栄えていた頃の話である。副大統領と有力な一新聞との間に、知事時代の副大統領の収賄・脱税疑惑などをめぐって対立が生じた。対立はたちまち劇しくなり、ほとんど個人攻撃の応酬のようになった。一方は、疑惑が事実でない、事実を伝えない新聞はつぶしてしまえ、という。他方は、疑惑の真偽を弁じるのは行政府ではなく、司法の権限である、権力を濫用する副大統領はその職を去るべきだという。この二つの立場には妥協の余地がないようにみえた。


しかし力関係はあきらかに平等でなかった。一方は一新聞社にすぎない。他方はその背景に強大な政府の力をもつ政治家である。米国民は、かたずをのんで事の成り行きを注視していたといえよう。


するとある朝、突如として天地が動いたとまではいわないが、情勢が一変したのである。前日までは副大統領対一新聞社の戦いが、その日からは副大統領と米国の主要な報道機関すべてとの戦いに変わった。副大統領のどういう行動乃至言説がその引き金となったのか。それは些事にすぎない。副大統領個人の疑惑が事実であったかなかったか。それもありふれた政治家の不祥事の一つにすぎないだろう。

その程度のことで問題の新聞社の競争紙までも含め、ワシントンからニュー・ヨークを通ってボストンまで、シカゴからサンフランシスコを通ってロス・アンジェラスまで、米国中の主要な新聞がほとんどすべて、結束して事に当たるという壮絶な場面がにわかに現出するはずはない。


報道の自由に対する政治的圧力がある一線を越えたとき、すなわち報道機関の「存在理由」そのものが脅かされたと感じたとき、またそのときにのみ、彼らは結束して起ち、徹底的に抵抗したのである。少なくとも私はそう感じた。なぜ彼らはそうすることができたのだろうか。それは彼らの背後に、報道の自由を偉大なアメリカの文化的伝統の欠くことのできない一部分と考える国民があったからであろう。


そして最後に、しかし最小にではなく、私は第三の寓話も思いだす。それは30年代後半、二・二六事件以後真珠湾までの東京の話である。日常の生活に大きな変化はなかった。衣食は足り、電車は動いていた。小学校から大学まで、どこの学校も開いていた。六大学の野球のリーグ戦もあり、映画館では欧米の映画が上映され、大学の研究室では欧米の雑誌を読むことさえできた。そのとき何が変わろうとしていたのか。変わりつつあったのは、ラジオや新聞が用いる日本語の語彙であり、総合雑誌が載せる論文の表題や著者の名前である。

その背景の見えないところで、どういう圧力や取引や「自己規制」が言論機関に作用していたかは、学生の一人であった当時の私には知る由もなかった。しかし報道言論の表面にあらわれた変化、一見おだやかな、なしくずしの変化に、特定の『方向』のあることだけは、私にも見誤りようがなかった。言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、いうまでもない。


私が思いだしたのはこのような三つの寓話である。この道はいつか来た道?いや、そうではなくするために、時には昔の寓話を思いだすことも、いくらか役立つかもしれない・・・・。





読んでいて血管が凍るかと思いました。

一九四〇年の想出

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近頃しきりに私は1940年を想い出している。その年の初めに、民政党の代議士斉藤隆夫が帝国議会で日本の中国侵略政策を批判した。

その少数意見を抹殺しようとして、議会は演説を議事録から消し、斉藤を除名した。そのとき、社会大衆党は、除名決議に反対した八人の同党代議士を除名し、しばらく後に、解党する。

やがて保守二大政党、政友会と民政党も解党し、野党も批判勢力もない議会の、いわゆる「翼賛体制」が成立した。その体制の下で、軍部の専横を抑え得るかもしれないという自由主義者を含めての国民の期待を荷なって成立し(1940年7月)、忽ちその期待を裏切ることになったのが、第二次近衛内閣である。近衛の後を襲ったのは東条内閣であり(1941年10月)、周知のように、東条内閣は真珠湾を攻撃した。



翼賛議会の外では何がおこったか。


第一に、組合が解散した。まず日本労働総同盟、つづいて大日本農民組合。


第二に、文学芸術の世界でも、批判的な言論は一掃された。新協劇団と新築地劇団の強制的解散がその典型である。


第三に、学問の自由が奪われ、津田左右吉の『神代史の研究』は発禁処分となり、著者と出版社は起訴された。そういうことがあって、1940年は、「紀元二千六百年」の式典で終わる。『神代史の研究』が学問的な歴史の研究であり、「紀元二千六百年」が歴史学的・考古学的事実に反することは、いうまでもなかろう。



今日、細川人気と「改革」の旗印にはじまり、批判的野党の消滅に至る議会の事情は、共産党の合法と非合法の相違を除けば、近衛幻想と「新体制」の宣伝にはじまり、「翼賛」議会に終わる1940年の状況を思わせる。政治的批判勢力としての労働組合の無力化もまた然り。


有力者や高官の「失言」の内容も、ほとんどすべて歴史的事実を無視するか歪曲するものであり、それがくり返されることは、彼らの意見の支持者が少なくないことを意味するにちがいない。


確かに「失言」は今日の政府によって否定される。

1940年とのちがいは、「紀元二千六百年」が今では国家権力の公式見解ではなく、非公式な意見だということであろう。



もちろん1940年の情況と1994年のそれとの間には、大きなちがいもある。

第一に、戦時中の日本には広汎で強力な軍産体制があったが、今日の日本経済ははるかに大規模で、軍事産業はその一部にすぎない。

第二に、情報に関しては、かつての報道管制とほとんど完全な鎖国に対し、報道のかなりの自由と国際的な情報の伝達がある。

第三に、操作された大衆の圧倒的多数は、1940年に、軍国日本の「聖戦」を支持していた。


しかし今では、政府の政策に批判的な多数の市民があり、無数の分散した小市民グループがあり、たとえ彼らの意見が大政党や大組織に反映されることがなくても、それぞれの活動をつづけ、それぞれの意見に固執している。

そういう個人または小グループの間に、全国的な、横の連絡はほとんどない。したがって社会全体の動向に対するその影響力は、さしあたり、きわめて限られているだろう。しかしそのことは、同時に、彼らの強い抵抗力をも意味する。


1940年の軍国主義権力が行ったように、組織された反対勢力は弾圧し、買収し、操作することができる。分散した無数の個人や小グループは、極端な警察国家でないかぎり、いかなる権力も一掃することができないだろう。


批判的市民の意見にはおそらく共通の面がある。戦後半世紀の間に内面化された平和主義と民主主義、その具体的なあらわれとしての護憲、軍縮、海外派兵反対、社会福祉の要求などである。

それはまたカネと力の論理に対して、そのほかに自己主張の根拠をもとめようとする態度だともいえるだろう。もちろん「長いものには巻かれろ」という考慮もある。

しかし同時に社会が「強きを挫き弱きを助ける」ものでありたいという希望もある。その考慮と希望を併せて共通の態度がある、ということである。



多くの先進工業国と比較して日本国には「普通」でない面がいくつもある。

憲法の武装放棄条項はその一つである。

外国の軍事基地が全国を蔽い、人口の密集した地域にまで及んでいるというのも、その一つである。

大都会の夜の道や公共交通機関がきわめて安全であること、歴史的な都市の景観を破壊してためらわぬこと、通勤電車が文字通りスシづめになること、公共労働者が罷業権をもたぬこと、その他数えあげればきりがない。


そのすべてを「普通」にしたいと考える人はないだろう。またどれも「普通」にしたくないと考える人もないだろう。
何を「普通」とし、何を「普通」にしたくないと考えるかによって意見が異なる。


異なる意見を統一しようとするのは、反民主主義的である。民主主義をまもるためには、意見の相違を尊重し、批判的少数意見の表現の自由を保障しなければならない。多数意見が現在の問題であるとすれば、少数意見は未来の問題である。少数意見が多数意見となるほかに、現在と異なる未来はあり得ない。たとえば、1940年の少数意見が多数意見となったときに、戦後日本の民主主義は成りたった。





1994年現在の批判的な少数意見が多数意見となるとき、またそのときにのみ、なしくずしの軍拡と民主主義の後退という現在の延長ではない日本国の未来がひらけるだろう。




しかし分散した個人や小グループの少数意見は、いつ多数意見になるのだろうか。




それはわからない。




しかしそのための必要条件ーー十分条件ではないだろうがーーの一つは、分散した批判的市民活動の、少なくとも情報の交換という面での、横のつながりをつくりだすことである。同じようなことを考えたり、したりしている人々が、ほかにもいるということの知識ほど、信念や活動を勇気づけるものはない。

そのために「パソコン」は利用することができる。「マス・メディア」も利用することができるだろう。

そういう条件は1940年にはなかった。


私は昔私が若かったときの軍国日本を想い出しながら、夕陽のなかで、このような妄想を抱くのである。




1994年11月21日

Rio de Janeiro つづき

Information about Mr. Reynolds’s survivors, aside from his son, Nick, was not available.

Because of the audacity of the enterprise and the size of the cache of loot, the Great Train Robbers became celebrities of a sort in England, especially those who had eluded the authorities, at least for a time.

The most famous of those, Ronnie Biggs, was sent to jail in 1964 for his part in the robbery, but escaped and went free for 36 years, living most of the time in Rio de Janeiro. He returned to England in 2001 and was immediately sent back to prison to serve out the remaining 28 years of a 30-year sentence; though, in ill health, he was released in 2009.

Mr. Reynolds lived in penury and relative obscurity after his release, and he was arrested again in the 1980s for dealing amphetamines.

He served as a consultant for a film about the robbery, “Buster,” which focused on another of the robbers, Buster Edwards, who also escaped to Mexico but gave himself up in 1966.

In the 1990s Mr. Reynolds published a well-received memoir, “The Autobiography of a Thief.” He also wrote occasional essays for newspapers.

“We all have our benchmarks,” he wrote in The Guardian in 2008, speaking about professional aspirations in general and those of thieves in particular, “and for us the benchmark was the Brink’s robbery in Boston in 1950, which was the largest robbery in the United States at that time. We wanted to do something as spectacular as that. We wanted to draw our line in the sand. I was quite young at the time and I liked the challenge. I wanted to move in those circles. It’s insanity, of course, and we knew that we would be in the frame as soon as the robbery happened but it’s the same madness, I suppose, that drives people to bivouac on the north face of the Eiger.”

The mail train robbed of about $7 million on Aug. 8, 1963 by a gang led by Bruce Reynolds.




Bruce Reynolds, the chief architect of one of 20th-century Britain’s most notorious crimes, the caper known as the Great Train Robbery, died on Thursday in England. He was 81.

His son, Nick, confirmed the death to The Associated Press. Sky News in Britain reported that Mr. Reynolds had died at his home in South London, a few months short of the robbery’s 50th anniversary.

In the early morning of Aug. 8, 1963, a gang of 15 men stopped a Glasgow-to-London mail train about 45 miles short of its destination by tampering with a signal. The train, which usually carried large quantities of money in the second car behind the locomotive, was loaded even more heavily than normal because of a just-completed bank holiday in Scotland, and the thieves escaped with about 120 bags of cash, mostly in small bills, totaling about £2.6 million, or about $7 million at the time — the equivalent of about $60.5 million today.

Mr. Reynolds, who was 31 at the time and known to the police as a burglar well-connected in the London underworld, had used insider information from the postal service to plan the heist, which he thought of as a painter would a masterpiece. Indeed, he referred to it in a 1996 interview as “my Sistine Chapel.”

It was well executed: the train was stopped and unloaded and the thieves got away in about half an hour, en route to a farmhouse that had been bought months before as a hide-out. No guns were involved. The only hitch was that a member of the gang got itchy when the train’s driver was evidently uncooperative and bludgeoned him with an iron bar. The driver survived, but he never worked again.

The robbers were quickly identified, however, when the police came upon the farmhouse hide-out shortly after it had been abandoned by the gang and found a plethora of fingerprints and other clues; a man who had been paid to destroy the evidence, if not the whole house, had not done so.

Many of the robbers were apprehended within a few months, but Mr. Reynolds, who was first holed up in a friend’s house in London, made his way to Belgium, then Toronto and finally to Mexico, where he lived the high life on his ill-gotten gains for five years.

When he ran out of money, he returned to England, determined to make another big score, but he was arrested in Torquay, a coastal town in southwestern England, in the fall of 1968, by Thomas Butler, the Scotland Yard detective who had pursued him with a Javert-like obsession.

Among the many eyebrow-raising details in the case, Detective Butler, who had at one point chased down a tip that Mr. Reynolds was in the south of France, was scanning bathers on the beach with binoculars when he was arrested by the French police as a Peeping Tom.

Mr. Reynolds served 10 years in prison.

Bruce Richard Reynolds was born in London on Sept. 7, 1931, the son of a laborer and a nurse. He left school at 14 and, with an early taste for adventure, tried to join the Navy but was rejected for having poor eyesight.

He worked as a newspaper messenger (he wanted to be a foreign correspondent) and in a bicycle shop. He aspired for a time to be a bicycle racer, though he became distracted by the adrenaline rush of committing petty crimes and was in and out of youth detention centers and, later, prison, from the time he was 17. By the mid-1950s, however, he was already a successful burglar, specializing in breaking into country houses.

“I got my first car, it was a Triumph TR2, and then an Aston Martin, and I was having my suits made in Savile Row,” he recalled in a 1996 interview. He added that he and his criminal consorts would often take off for the south of France and stay for two or three months at a time.

“We used to justify it as research or planning,” he said. “And of course I loved that. Cary Grant — it’s just like ‘To Catch a Thief.’ ”

Asked if before the Great Train Robbery he had felt that he was on to the greatest caper of his career, he replied: “Yeah, I did. To the extent that it was my Sistine Chapel. And really, everything went right. The only problem was the fact that Mills got whacked, Mills the driver.”

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2005年6月23日


今年の三月末に私は北京である歴史家と話していた。場所は清華大学の構内、窓からは静かな中庭の木立が見えた。しかし、会話の内容は、必ずしも静かなものではなかった。日本の首相がなぜ靖国神社参拝に固執するのか理解できない、と彼はいった。私はその感情が中国の大衆、殊にたとえば学生たちの間に、どの程度まで拡(ひろ)がっているのかを知りたいと思った。「それは広い、知っている学生たちの全部かもしれない」と彼は呟(つぶや)き、「私が心配しているのば、このままゆけば、いつか戦争になるかもしれないということですよ」とつけ加えた。




私が東京に帰ったのは四月の初め、その後一週間も経たない週末に新聞やテレビを通じて、投石を含む激しい「反日デモ」が北京をはじめ中国の多くの都市に発生したことを知った。三月末の北京をふり返って、歴史家の話をほとんど予言のように感じたのは、いうまでもない。「反日デモ」は、決して意外な偶発事ではなく、起こるべくして起こったのである。中国側の識者で、「靖国問題」の背景に日本の歴史意識を認め、そこから未来の戦争の予想をしたのは、決して一人ではない。たとえば中国日中関係史学会名誉会長の丁民氏も書いている。「歴史に対する認識が違えば、もう一度侵略戦争をするのではないかという心配があるのです」と(「今日の日中関係を考える」、『マスコミ市民』四三六号、二〇〇五年五月)。徳は孤ならずか。

日中政府は「反日デモ」に、素早く、冷静に、反応した。事件は収まり、五月は平穏に過ぎて今日に及ぶ。その間の交渉で、新聞報道によれば、日本側は主として「デモ」に対する中国政府の対応を問題とし(警察による投石などの制止)、破壊の原状回復(ガラス窓など)や将来の安全保障を求めたらしい。具体的で実際的な要求である。中国側は「デモ」の背景と基本的な要因(「靖国問題」と「教科書問題」など)を指摘して謝罪を拒否しながら、「デモ」のやり方(投石など)については妥協的な態度をとった。短期的にはいわゆる「政経分離」政策の成功である。しかし、長期的には、両国政府の接触は議論の「すれちがい」に終わり、日中の信頼関係の構築からははるかに遠かった。

「政経分離」は、政治的友好関係がなくても、経済的関係を発展させるための工夫である。経済的にみれば、日中関係が双方にとって大きな利益であり、その破壊が致命的ではないにしても重大な損害であることはあきらかだろう。どちらの側にも政治的不和から経済活動を隔離すべき理由があった。しかし長期的には経済的関係の安定も政治的友好関係を前提とする。政治的友好関係はその時の権力相互の水準ばかりでなく、大衆感情の中にまで浸透しなければ、その持続性を保証されないであろう。そのための最大の障害は、いうまでもなく十五年戦争であり、それに対する日本の政治社会の節度である。中国側は政府も大衆も「歴史意識」について語る。四月に政府は外交的な言葉で語り、大衆は激しい「反日デモ」で語った。日本側はその言語を理解する必要があると思う。




しかし、四月の政府間交渉は「すれちがい」に終わった。一方は「デモ」の背景を強調し、他方は「デモ」の暴力的なやり方を批判した。一方は歴史的見透(みとお)しにこだわり、他方は当面の対策に注意を集中した。その「すれちがい」には日中の文化のちがいも反映していたのかもしれない。中国には長い歴史のなかで王朝の興亡を眺める知的伝統がある。日本の文化には都合の悪い過去は水に流し、外挿法の適用されない明日には明日の風が吹くとして、現在の状況に注意を集中する傾向がある。その傾向の詩的表現が俳句だが、靖国神社も「教科書問題」も俳句で捉(とら)えるには複雑すぎるだろう。

しかし個別の問題が、必ずしも極端に複雑なわけではない。たとえば「靖国問題」は首相の参拝中止によって解決できるだろうし、歴史を見なおす教科書は、大多数の学校が採用しなければ大きな害毒を流さぬだろう。個別的な問題が処理し難いのではない。しかし個別的問題は相互に関係し、一定の方向を共有し、ほとんど一つの体系のようにみえる。その方向とは何か。<過去>の十五年戦争の<現在>の日本社会による正当化または美化である。「あの戦争は正しかった」、少なくとも「それほど悪くはなかった」。これは世界の大部分の国で今や常識とされている歴史観の裏返しである。この「歴史意識」は中国のみならず日本自身を含めてのアジアの<未来>を脅かすだろう。

「歴史意識」を問うのは、過去にこだわることではない。過去を通して未来を闘うことである。戦後ドイツの「過去の克服」と戦後日本の十五年戦争に対する態度はしばしば比較された。それを今くり返す必要はないだろう。ここではその比較が日本人だけではなく中国人の念頭にも去来してやまないだろうことを指摘すれば足りる。戦争の歴史は日本の歴史であると同時に中国の歴史でもある。「歴史意識」が国内問題であり、外国の介入すべき事柄でないという主張は無意味である。靖国神社は戦争で死んだ軍人・軍属を杷(まつ)るばかりでなく、戦争を解釈するから−その解釈は戦前・戦中・戦後を通じて根本的にほとんど変わっていない−、首相の参拝が国際的意味をもつのである。




私は戦争で二人の友人を失った。彼らが死んで私が生き残ったことを正当化する理由は全くない−という考えは私の生涯につきまとった。もし彼らが生きていたら望んだであろうように生きてきたとは到底いえないが、少なくとも彼らが拒否したであろうことはしたくない、その意味で彼らを裏切りたくないと思った。それが彼らの死を悼む私の流儀である。私には靖国神社に行く必要がなかった。しかし、戦争や死刑のように国が人を殺す事業に反対する理由はあった。死は全く不条理であり、そのことにおいて一種の平等主義を実現する。すべての差別は死と共に消滅する、貧富も、賢愚も、愛憎も、国籍のちがいも。死者を政治的に利用するのは、死者の冒涜ではなかろうか。

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