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戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとは嘗て一回もあったことはありません

菅原中将は95歳まで

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陸軍の特攻隊の映画です。


特攻作戦が、どれほど非道で過酷だったかが、
しみじみと分かります。
それに、平和の尊さも物凄く実感できるでしょうね。
知覧から飛び立った陸軍の特攻機は、
最後に、「開聞岳」の上空を越えて、沖縄へと向かいます。

実は、このふもとに知人が住んでまして、
この方、多少、「見える」ようなんです。
彼女の言によれば、
「まだ、開聞岳の上を、特攻機は飛んでますよ」
とのことです。

映画を見て実感しました。
「これじゃ、成仏できてないなあ」
「たしかに開聞岳を越えて、特攻出撃をくりかえしているかもなあ」

これほどかわいそうな彼らのことを、
今の日本では誰も知りません。
こうして、映画のかたちででも、思い出してあげることは、

特攻の英霊たちに感謝と哀悼をささげ、
その(たぶんまだ迷える)魂たちに回向して救済することは、
当然のこと大事であり、重大な意味を含むものである。

ただ問題なのは、同時にこの映画が、
「特攻を命じた側」への免罪符としての表現に満ち満ちていることだろう。
しかもそれが素人には分かりずらいように、
巧妙に誘導されていることに、違和感というよりは憤りを感じるほどなのである。

それが特に象徴的なのは、特攻の最初と最後に出てくる、大西瀧次郎中将の描写である。
大西中将は、たしかに「特攻の父」とも称せられている。
直接には彼が命じて特攻は始まり、
彼の自決でその幕は降ろされた形になっている。
(その部分にウソがあることは、次回に詳説したい)
特攻を全体的に見れば、たしかにそう言えないこともない。

だが、この映画は陸軍を描いているのだ。
それなのに、不自然きわまりなくも、
海軍の将官を意図的に取り上げているのだ。
そこには、ある種の政治的意図、
あるいは、巧妙な誘導の痕跡を見出すことが可能なのだ。

直接に知覧の彼らを指揮していたのは、
第五航空軍であり、
その軍司令官は、陸軍中将 菅原道大であった。
その五航軍の下には、飛行師団があり、
その下部に飛行団がある。
あの映画で出てきた責任者は、その飛行団の長だ。
飛行団には部員はいるが参謀はいない。
だから映画で出てきた参謀たちは、
飛行師団か航空軍の参謀なのは間違いない。

陸軍の特攻のメッカとも言うべき知覧には、
菅原中将も頻繁に激励に訪れているはずだが、
参謀連中も軍司令官をも描写しないのは、
あまりにも片手落ちだ。

なぜ彼らを描写しないか。
それは、彼らがまったく責任を取らなかったからだろう。
参謀も軍司令官も、戦後ことごとく生き残っているはずだ。
(多少の例外はあるだろうが、その際にはお詫びする)
とにかく、「お前たちだけを殺すのではない」
「私も最後に続くのだ」といい続けて、若者を死地に送り出し、
大人たちは終戦で逃げたわけだ。

海軍をほめるわけではないが、
終戦で中将が二人責任を取った。
一人は冒頭の大西中将で、この人は開始の責任者だ。
彼は約束を守った。「最後にオレも行く」と。
もう一人は、第五航空艦隊の司令長官で、
沖縄特攻の海軍側の責任者だ。
彼は、終戦後に特攻隊を編成して、文字通り最後に突っ込んだ。
「我もまた諸子に続くのだ」なんて美辞麗句など吐かず、
見事に責任だけを果たしたのだ。
(指揮官の中津留大尉以下、部下を巻き添えにした罪は指摘されるが)

逃げた陸軍の「大人たち」に触れずに、
責任を取った大西中将だけ取り上げるのは、
非道な特攻作戦に免罪符を与える意図以外に
何の理由があろうか。
5航艦の宇垣長官を取り上げるわけには行かないのは自明だ。
海軍側の指揮官を描いたら、
逃げた陸軍の責任者も描かざるを得ないからだろう。

その他、大西中将の口から、
「有色人種開放の聖戦」みたいな美辞麗句を吐かせていた。
これもわざとらしく、不自然だ。
海軍は艦隊を動かす油がなくなったから、
南方の油田を確保するために戦端を開いたのが現実だろう。
(異論はあるかもしれないが)
有色人種開放なんて、後付の正当化の側面も大きいはずだ。

日光の男体山は、見る角度によってまったく異なるシルエットを持つ。
どの角度から見ても、男体山であることに間違いはないのだが、
意図的に「ある角度」からだけ見させれば、
本当の男体山の姿からは距離のあるイメージを抱かせることが可能だ。

この映画に私は、その「ある角度」を感じる。
太平洋戦争に対する免責。
非道な特攻作戦に対する免責。
いやさらに、特攻作戦立案・実施者の免罪符。
それが、事実関係を知らない人に見せて、
「ミスリード」させることを企図しているのが分かるのだ。

可憐で、雄雄しかった彼ら特攻隊員を追憶することは大切だ。
だが、歴史と事実を改ざんすることは許しがたい。
とにかく、やらせるだけやらせて逃げた高級将校たちに免罪符だけは与えたくない。
この免罪符映画を作った意図を、
製作者はつまびらかに説明してはもらえないだろうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/fusenamio/50042632.html

私は戦後の生まれです、変に思われるでしょうが少年時代に軍事オタクで復員兵が書いた戦記ものに夢中になり夢の中で戦場にいました。家庭の事情で私と姉だけがブラジルに移住しそこで西洋の文化に触れました。そこで私はまるでハンマーで打たれたようなショックを受けたのです、日本の教育です。私は日本の戦争について欧米人の目から見た太平洋及び大東亜戦争を教わりました。12年後に帰国して今度は日本人の目から見た戦争を学んだのです、この両方の視点から見た戦争は日本の戦後教育での戦争とは大違いなのは当然です。当時の国民は「無意識の中の狂気」と私が名づけた心理状態の中で戦争を追行していました。無意識ですから普通の状態です、しかし日本が海外でどんな戦争をしているのか、兵隊がどんな思いをしているのか想像の中だけのことで、その状態は戦後62年たっても変化はないのです。

戦場がどんなものか、それはイラクやアフガニスタンの米兵が無残に死んでいく状態と同じです。写真を撮ったら重犯罪になる米兵が泥の中で死んでいる写真を何度も見ています。ただ無残です、もっと無残で白骨をさらしたのが日本兵でした。餓死、戦病死、自決、火炎放射器で焼かれる日本兵、私の手元には多数の記録映画のビデオがあります。当時の日本人は正気であった、けれども無意識の狂気が同居していました。死に損なった特攻隊員を閉じ込めて、私は日本人は簡単に狂うと知っています、それは海外でもあったからです。自我の確立が未成熟で人と俺は違うと言えないのです。この民族的な特性は私は長いこと調べて研究しています、現代の人も空気に流されて私は人とは違うと言える人がどれだけいるでしょうか。





お久しぶりです。
8月に一緒に行かせていただいたモノです。

私の曾祖父は中国に行ったっきり終戦8年を経たないと帰ってきませんでした。一説によれば、細菌戦の研究をしていたとか、生体実験をしていたとか。
もう一人の曾祖父は朝鮮総督府で鉄道関係の仕事をしていました。
その娘である祖母はなんの疑問もなく、当時のニュース映画や新聞記事を見て、多少の疑問を持ちながら戦争を「聖戦」だと思い、キリスト教教会に行っていたそうです。

中国に行ったとき、最年少の方が良い問題提起をしてくれました。
「あの時代、もし私が生きていたらどうしていただろうか」
女性は銃後を守れといわれた時代です。そして、女性に今よりももっと発言権がなかった時代です。
そのとき私は、抵抗運動する。私は違うととっさに考えていましたが、今になってそれは当時生きていれば不可能なのではないだろうか。と考え直しはじめています。

戦場がどんなものであるか、
戦後生まれで、バブル期が小学生だった私には分かりません。
でも、なんとかしなきゃと思います。

数日前の朝日新聞にお笑いタレント・爆笑問題の太田がこんなようなことを言っていました。「今平和問題を語ることはエゴだ。けれど、その平和問題を語れるために『語ることはかっこいいこと』という雰囲気を作らないと今を語れない」
「語る」と○○アレルギーだと言われることもあります。
アレルギーをもっていると開き直れたらいいのですが……。

今、「15年戦争期に聖公会は何をしたのか」ということを調べて研究しています。

布施さんもお元気そうでなによりです。

http://blogs.yahoo.co.jp/fusenamio/50042632.html

no_more_war@freeml.com で西羽さんは NHK日曜日放映の「学徒兵、許されざる帰還」を紹介されたので、食い入るように見ました。そしてそれを見た会員の村上さんも、その感想を次のように紹介されましたので、ここに転載します。()の中は布施が補足したものです。

> なによりも、あの学徒兵が、陸軍特攻隊に組み込まれ「死んで、軍神になれ」
と強制された不条理に、いう言葉もありませんでした。
>
> ボロボロの(実戦には使い物にならない)旧式戦闘機に、250キロの爆弾を積み
> 込まれ、(少しでも軽くして爆弾の搭載量を増やそうと、)無線機も機関銃もないまま、敵地に飛び立つ不安は、相当ひどかったことでしょう。
>
> 整備不良による搭乗機の故障で、やむなく帰還する
> と「なぜ、生還した」と罵倒され、国民の眼に触れぬ
> よう強制収用所(まがいの建物)にいれられ、リンチまがいのひどい
> 扱いを受けていたとは信じられません。
>
> 戦争末期の狂った、軍首脳の特攻作戦の実態を
> 見て、戦争の愚かさ、非情さをあらためて感じました。
>
> 師範出身の死んだ学徒兵が「来世は、戦争のない
> 国で産まれ、なんとか教壇に立ちたい」いう言葉が
> 印象的でした。
>
> 軍国少年だった私たちも、もう少し早く生まれていたらと思うと他人事とは、
> とても思えませんでした。

布施です。

村上さんと同時代に生きた私も全く同感です。村上さんの文章を読んだ後で書くと二番煎じになるので、むしろそのまま転載させていただくことのほうが迫力があると思いました。あと1〜2年早く生まれていたら私も特攻隊員になっていたでしょう。

しかし、戦争を知らない世代の政治家どもは、国際・社会正義の名の下に、自衛
軍を戦場に送るために、憲法改正の時期をうかがってます。

他方そのとき送られる世代の若者は、このことに関心がないことを心から憂えます。最
近自民党の堕落振りに、そうでないとの情報も聞こえてきますが・・・。

エゴイストと言われても、戦争を始めてはいけません、参加してはいけません。
そのためにもNHKのこのような番組をぜひ若い人に見てほしいと思います。

菅原中将は95歳

NHKスペシャル:学徒兵許されざる帰還



福岡市薬院。ここに隔離された復員兵が訪問する場面から。

特攻隊に参加した「軍神」たち。しかし中には機体の損傷や故障で特攻できずに生還した兵士もいた。それらの兵士を隔離する施設。帰った兵士は「人間のクズ」とそしりを受けた。

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昭和18年10月21日に国立競技場で学徒出陣の激励行進があった。

陸軍特攻隊の第65隊に所属していた88歳の方の証言。「まさか特攻隊に入っていて生き残るとは思わなかった。」

第22隊の大貫さんも、戦闘機へ乗り込むことを希望して入隊した。「もう二度とあういうことは御免だなあ。」

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海軍の特攻は劣勢にたった日本に久々の成果を上げた。陸軍もこの例に倣うべく、梅津参謀総長により特攻隊を組成し体当り攻撃開始。成果を天皇にも報告し、喜ばれたと文書に残る。陸軍は若者の犠牲精神をプロバガンダに利用。菅原中将はこの作戦で打開できるかを懐疑的に冷静に記す。「海軍の真似をして、2・3の成果に自己陶酔に陥っているのは、もはや避けることができない。」

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陸軍特攻隊は志願制を採用。明野の航空学校では、訓練兵が集められ、特攻作戦が説明されて、紙が配られて「熱望する」「希望する」「希望せず」に○をつけることになる。当初全員「希望せず」に○をしたが、菅原中将の来た意味を考えようという提案で、全員が「熱望する」に記しした。

65隊の片山さんの証言では「希望せず」に○をしたものも、志願兵として登録されたという。表向きは志願制でありながら・・・。

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陸海軍の中央統制で、陸軍は440人の特攻兵力が求められたが、航空技術の未熟なものも多く、事故で亡くなる兵士も多くいたと東郷八郎大尉が語る。

菅原中将には「間が抜けている」との批判があり、急ごしらえの航空兵が隼のかなり困難な操縦を担うことになる。第22隊は一式という新しい形式だったが、97式戦闘機を割り当てられた兵士が圧倒的に多く、これはエンジンの故障も多く、飛ぶのがやっと。兵士の日記にはやむなく海に不時着し漁船に助けられ、残念ですというものもあった。そもそも陸軍はロシア戦用に組織されたもの。航空機の戦いは得意としていなかった。陸軍は長距離飛行に耐えられない97式を使い続ける。

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第6航空軍の倉澤参議は、天皇直結の正規軍と特攻隊は別で、正規軍には最新機能の航空機を割り当てる。特攻隊は別だと語るテープが残っている。

アメリカ軍は特攻隊の動きなど全て事前察知済み。80kmで確認できたという。

戦況は沖縄戦へと移行し、いよいよ鹿児島県知覧市からの出撃となるが、整備不良で戦機を逸したというそしりを免れるため、菅原中将は出撃を決定。大貫さんも出撃することになる。大貫さんと友人の大上少尉は「死」について考え語ったという。

特攻機は無線も、銃も無く、味方との交信はおろか、敵機との銃撃戦すらできない、ただただ敵の旗艦に突っ込むだけ。2発の弾がこめられた銃を渡され、不時着時ひとつはエンジン粉砕、ひとつは自決用だという。

大貫さんの友人はグラマンにやられ、大貫さんは奄美近くに不時着。菅原中将は戦況が特攻によっても改善しないことを自覚。

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当時、特攻隊は全員戦死したと言われていたが、生き残った人がかなりいた。特攻隊の編成表があるが、605人に○が無く帰還したことがわかる。特に「在福岡」という記述が見られるが、これが特攻隊の帰還兵を隔離した場所。

母のかたきを討とうと参加した片山さんは、そもそも機体不良で飛び立てず、知覧から福岡へ送られる。

ここの収容所では「何故死ななかった」といったそしりを受け「国賊」と呼ばれたという。

倉澤参謀は「このようにたくさん帰ってくるとは思わなかった。」収容所では再び突撃に出れるような再教育が行われていた。中には自殺する人もいたという。

大貫さんはここで何のために死ぬのかということを考えたという。ここの収容所から各地の飛行場に再び配置されるが島津さんは、どこへ行っても「特攻隊」ということがついて回ったという。

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特攻隊員と運命を共にすると語っていた菅原中将は95歳まで生きた。

大貫さんは、全国を回って特攻隊員の死んだ仲間たちを慰霊する旅を続けている。

友人の大上少尉は「戦争の無い国に生まれて、教壇に立ちたかった」と話したと大貫さんが涙で語る。

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今夜の感想:「学徒特攻隊」の表向き、犠牲精神・愛国心・若者の純粋さといった裏側には、犠牲となった若者の悲痛な叫びもあったんだ。鵜呑みにすることの怖さ、鵜呑みを強いる情報統制はホントに怖い。もう真実を語る人は90歳台になり、この取材ができただけでも貴重だ。

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