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加藤周一さん著1.24.2008朝日新聞夕刊
「今は昔」といっても、その「今」は21世紀の末で、「昔」とは21世紀の初めである。話しかけてきたのは、隣の爺さん。爺さんの言うことを聴いてみよう。
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「今は昔、21世紀の初めに、東北アジアでは六者協議なるものが行き詰まっていた。六者とは朝鮮民主主義人民共和国(俗に北朝鮮)と米国を中心として、韓国、日本、中国、ロシアである・・・」
「ああ、それは知ってますよ。目的は朝鮮半島の非核化と北朝鮮敵視政策(<ならず者国家>分類、経済制裁、武力による脅し等)の取り下げ・・・」
「少なくともオモテ向きはその通り。米国はどの地域でも核兵器の拡大を望まない。北朝鮮はどういう理由にしても体制の崩壊を望まない。問題は協議を通じてそれぞれが望まない状態をどうすれば避けられるだろうかだが、簡単ではない」
「日本から見ればなおさらでしょう」と私は言った。
「どうして突然日本が出てくるのかな」と、話の腰を折られた爺さんは呟いた。「あなたも私も、とっくに日本人ではないでしょう。旅券がありますか」
「え、旅券・・・」
「ハッハッハ。この国では身分証明書は旅券以外にない。しかるにあなたは旅券を更新していない。故にあなたの国籍はないと同じ」
「大和心はどうなりますか」
「桜にはまだ早いね。たとえ咲いても国籍とは関係ない」
「まあ国籍にはこだわらないことにしましょう。二人の無国籍人が21世紀の末に、遠く東北アジアをひるがえってみて、日本国のはたらきがすばらしく見えれば、それだけ客観的に、確実に、大和心の偉大さの証しになるでしょう」
「また大和心か魂か(爺さんの独白)・・・ま、そういうことになりますかな。いいことばかりでもないが・・・。話のついでに六者協議の五カ国と日本の関係を見てみましょう。北朝鮮とは国交なし。ロシアとは平和条約なし。中国と韓国とは根本的に<政冷経熱>。米国についても、時の大統領の政策の支持者が激減している場合にも、その政策を無条件に支持してきた外国政府を格別信頼するわけではないでしょう。どこにも信頼関係がなかった・・・」
「おや、おや、それは成功の物語ではなくて、失敗の告白ですね」
「いや、そんなことはない」と、話し相手は応じた。「明治以降、日本国はおよそ10年ごとに海外派兵し、、戦争をくり返してきたのです。ところが戦後60年平和が続いて日本の青年が武器を帯びて外国に押し渡り、相手国の老若男女を殺したり、戦場で英雄的に殺されたり、非英雄的に病死したり餓死したりということもなかった。何とこれは、すばらしいことではないか」
「確かに平和憲法の御利益・・・」
「と、言うだろうと思ったよ。しかしそれよりも、聡明な日本国民がよく心得ていたように、北朝鮮の軍事的脅威なるものが、おとぎ話だったのさ。脅威があったから軍備ではなく、軍備を望むから脅威が生まれた。当時大国の核弾頭は少なく見積もって5000、小国の秘密の蓄えは大きく見積もって5個でしょう。5を以って5000を討つことを誰が考えるだろうか。かつて真珠湾を攻撃した日本軍の場合と比較しても軍事力の格差は大きい。米国の同盟国である日本には、米軍基地もある。その日本を軍事的に脅かせば、あまりの大きな損害可能性があり、あまりの小さな利益可能性しかない。したがって北朝鮮が日本を軍事的に攻撃する可能性はほとんどないということを日米側はよく知っているから、北朝鮮の核弾頭は抑止力としても働かないだろう」
「それはそうでしょう。それにしても朝鮮半島から核兵器を一掃することはよいことですね」
「もちろん。だから21世紀中頃に六者協議の主導権をとり、一挙に目的実現へ近づけたのはすばらしい。ある朝目を覚ますと、世の中がすっかり変わっていたという感じは忘れられないね」
「どういう手を打ったのですか」
「要するに、それまでの日本は状況を米国の側から見ていた。一度それを逆にして北朝鮮の側から見るとどう見えるか。まず言霊の国のしかけだ。たとえば兵器を取引するには、国際平和文化交流会で行う」
「え、何ですって」
「いや、素人には何のことだかわからないだろう。翻訳しなければ。たとえば<国際>とは日米という意味だ。従って<国際的責任を果たす>というのは、日米に不都合な人物ないし国家はならず者として征伐するということになる。そうして世の中を平和にする。平和にするためには戦争をしなければならない。平和とは戦争であり、戦争とは平和である。その戦争がすべて集団的自衛権の発動となる。必要な武器は日米の軍需品製造会社から調達する。武器はしばしば途方もなく高価だから会社のもうけも大きく、もうけが大きければ、会社の幹部はそういうもうけ口を紹介してくれた役人への感謝の気持ちに溢れてくる。その気持ちを表すのがゴルフ場への招待や料亭での接待である。また大小の贈り物もあるだろう」
「つまりワイロか」
「いやいや、感謝の感情の日本式微分化だ」
「そこで、まず日本代表が六者協議の実力者たちを温泉に招く?」
「その通り。さらに日本的接待のあらゆる技術を動員する。カネがかかるだろうといっても、武器の値段に比べれば大したことはない。安上がりで各国が満足し、誰の利益も侵害しない。そういう技術に熟達しているのは日本人だ。それでもバレたらどうする。法をかざして税金の浪費を追及する連中が現われたらどうするか。その時には、当事者の幹部が、黒い背広を着て横一列に並び、記者会見の正面に向かって、深々と頭を下げる。世間をお騒がせして誠に申しわけありません、再びこういうことのないよう仕事に専心し、粛々と進みます、と言えばよろしい」
「ほんとうにそれでよろしいのですか」と言って私が振り向くと、爺さんの姿はかきけすように消えて、跡形もなかった。
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