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戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとは嘗て一回もあったことはありません

菅原文太

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万国博覧会といえば、にわか勉強なんですけれども、世界で一番最初に万博やったのは1851年にイギリスですか。どうして、そんなことを覚えているかというと、私は万博にえにしがあるんです。えにしといってもドラマの上なんですけれども。23年ぐらい前にNHKの大河ドラマ「獅子の時代」で、会津の下級武士の平沼銑次という役をやった。1867年、明治の直前に徳川慶喜の弟の徳川昭武という人がパリ万博への派遣団長となり、渋沢栄一さんも随行している。

 史実の中には会津藩からも2名、派遣団に参加したと書かれている。会津の中でも家柄のある家老かなんかの家系の武士と、普通の武士が参加している。ドラマは山田太一さんが書かれたが、そういう歴史から題材を取って、私の役の銑次をそこに参加させたんだと思います。

 パリへ渡って、万国博覧会場に行くところから1年の大河ドラマが始まったんです。青い袴でさっそうとパリのまちを歩いたのを覚えています。私も生意気盛りだったから、胸を張って歩いたような気がします。みんなびっくりしましてね、フランスの人たちが「何だあの男は」と。道路沿いにカフェに座って、「コーヒー」って頼んでも全然通じなかった。

 役の上で、その万博会場に幕府からの派遣で行った。物品だけでなく、いろんな出し物もあって楽しませているんですね。ふっと見たら隣に薩摩藩の出品が別になっていて、当時、薩摩藩は幕府には属さないということで、独自にパリ万博に出品しているんですね。

 日本では一番最初の博覧会は、1878年に上野公園で大久保利通がスピーチをして、天皇まで出席されて開幕したと記録されていますが、その時の入場人数が確か45万人。非常ににぎわったと書いてある。それから日本でも博覧会が頻繁にやられてますね。京都でも、大阪でも。

 万博としては、1970年の大阪はすごい万博でした。入場者数は6500万人。日本の総人口の半数以上が入っている。そのしばらく後でね、田中角栄さんが日本列島改造論を発表して、カネと欲との道連れのドラマが始まっていくわけなんですよねえ。世界の「2番」だの「1番」だなんて言って経済大国に上り詰めて、バブルの崩壊を経て、奈落の底に一回落ちて、それで今ですね。私は岡目八目で門外漢だから、せいぜい2目か3目ぐらいしか見られないし、語れないけれども、本当に奈落の底から立ち上がったんでしょうかねえ。船を別の流れにのせて、自分たちの身を託したんでしょうかねえ。どうも日本人の悪い癖で、思い切って流れを変えていかずに、同じ流れの中であがいているんじゃないかなあ。

日本の竹を大切に

 新聞見たら、万博の日本政府館を竹で作るんだ、と出てましたね。「おっ、まことにいい試みだなあ」と思った。しかし、その竹は国産の竹を使ってくれるんでしょうね。今、山も荒れているが、竹を使わなくなってから、日本各地の竹林が荒れている。竹林の間伐をして、その竹を使ってもらいたいね。私は仙台の生まれなんだけど、仙台の七夕もほんとの竹を使ってないですから。「さおやー、竹ざおー」って、今も時々トラックで売りにやって来るけど、あれだってビニールですよ。本竹じゃないですよね。笹もビニールで、それにビニールの札ぶら下げてる。そうなってからは仙台の七夕は一回も見てない。昔はもっと質素だったけど、本当の竹に、本当の銀紙や子どもたちが紙で書いたのぶら下げてましたね。

 日本人が昔から日本を、日本を日本たらしめた文化とか産業を、特に手で作るようなものをみんな捨ててしまった。だから今度の万博に何を出すのかなと心配なんです。全国でも中小企業のみなさん本当に困っているという。1878年の上野公園で開いた博覧会の出品をみるとね、鉱業、冶金の技術とか、世界中のどこにも負けない技術が出ています。

名人芸、愛知万博でも

 例えば、飛騨高山の近くの古川町に、和ろうそく作りのおじいさんがいたんだけど、名人芸でしたね。魔術のようにね、竹ヒゴですーっとやってこうやってると全部きれいな和ろうそくに仕上がっちゃう。そばで見ていても「どうやってやるんだろう」と感心した。

 それは一例ですけど、今でもまだまだ秋田の山奥とか、熊本とか鹿児島とか、私の住んでいる飛騨にだって、まだまだ誰にも負けない杣人(そまびと)が頑張って山仕事もやっていますね。そういうものを今度の万国博覧会でぜひ、一角を設けて披露してもらいたいんだなあ。

 私はラジオで「日本人の底力」というタイトルで、各界の無名な人も有名な人も来てもらって話を聞いています。こつこつやってるへぼ百姓さんとかね、私の古い友人で青森の米作りをやっている人とか、半年に20数人きてもらったんです。

 農業大学の先生がね、「あと30年たったら日本に餓死者が続出しますよ」っていうんです。「ええっ、冗談だろう」っていったら「冗談じゃないんだ」と。

食糧自給率の深刻さ

 これから免許を取って医者になろうというお医者さんの跡継ぎは、全国に毎年7000人ぐらいなんですが、お百姓さんの跡継ぎは年に800人だっていうんですね。全国でたったの800人なんです。「これはね、恐ろしいことですよ」と。

 それと食糧の自給率は40%は切ってるんですよ。先進国で、そんな低い自給率の国はどこにもありません。ほとんど100%の上です。「こんなばかなことがありますか」と。そう言われてみるとねえ、それは本当にばかなことだ。

 ラジオの番組でこの話を聞いた後、農協のある偉い人にご一緒した時にね、休耕田の話をしたんです。「菅原さん、こう説明すると分かりやすいですよ。日本列島が九州から北海道まであって、だいたい神戸、その手前ぐらいの播磨の辺りまでの西日本、九州、四国も入れたすべての田んぼが休んでいることになるんです」と。「えっ」と数字で聞くよりびっくりした。そのあと地図を見てみた。日本の半分近くが休んでいるのを放置したままだったわけです。なにか作ったら補助金が出ないからお百姓さんは放ったらかしている。構造改革だ、経済の発展だとか、「そんなマゴマゴしている暇はないですよ」というような話をされて、私には衝撃的でしたね。

 餓死するわけにいかないから急に慌てて飛騨に引っ越して、畑を作り始めたなんていうようなことではないんですが、畑は作っています。私でなくて女房なんですがね。数年間、おいしいジャガイモを1年かかっても食いきれんほど作って、友人に送ったりしていたんだけど。去年と一昨年ね、なんとイノシシが出没するようになって畑は全滅。もうそろそろ収穫時だなあってんでね、仕事の旅を終えて帰ってきたら、畑が踏み荒らされるなんてもんじゃない。きっと家族でやってきて、おいしいものたらふく食ったから喜んで寝転がったり暴れたりしたんでしょうね。イノシシのおとっつあんが鼻で掘ってね、子どもたちに「食え食え」と言ったんでしょうね、一粒も残っていない。見事に2年間やられました。

 それでね1年目にやられた後、友人に頼んで、周りにずーっと有刺鉄線を3段で張ってもらった。だけど、イノシシはそんなもんがガリーとやってもね、痛くもかゆくもないのか、多少痛くてもジャガイモに夢中だから平気で入ってくるのか、また全滅。

 さすがに今年、女房殿も「ジャガイモやめましょう」って。イノシシの食べないものを選んで、つい1週間ほど前ですけどね、クワで耕した。私、宮城県生まれで、うちが百姓で結構大きな田んぼやってたもんだから、戦前や終戦直後には、朝の5時に起こされて馬の世話から、豚の世話から、鶏の世話からね、やりました。小学生ですよ。毎朝、米作りも芋作りもひと通り。今でも俳優の演技より上手だ。

 青森の友人に女房が電話して、ニンニクの種を送ってもらって結構広く植えました。それからダイコン、カブ。こういうのはイノシシは食べないね、不思議なもので。ニンジンは食べます、イノシシにはおいしいんでしょうね、馬じゃないけど。

勝者のみが住みやすい都市

 名古屋は私は大都市だとは思ってません。私の勝手な基準なんですが、四方に山や森が見えると、かなり大きいまちでもね、都市じゃない。タウン、まちですね。だから福岡なんかも巨大な「まち」。今でもまだあそこへいくと、山が見えて海が見えて。札幌なんかもそうですね。仙台も人口は百万人を超える政令指定都市だけど、まわりは山に囲まれて都市じゃないです。大都市や大都会とは思わない。日本ではやっぱり大都市と言えるのは、東京と大阪じゃないですかね。だから名古屋は私はタウンだと思っている。それで不足な人は、都市とまちの中間ぐらいだと思ってくださっていいんだけど。

 大都市は戦争の後は、そこから生きる競争、自分の志とか希望とか夢とか、そういうものをかなえるために、ある意味で誰でも平等に戦える場所だったけど、50年、60年たって今はもう、勝者には住みやすく、負けた人は住みにくいというのがはっきりしてしまった。

 こつこつこつこつとハンダ付けなんかして、小さな工場でやっている人が1日いくら、月給いくらと稼いでいるときに、大学出たばっかりでITベンチャーなんかをバーンと立ち上げた人が何億とか何十億とか、下手すると何百億、何千億円なんてお金を集めちゃう。

 もう、そういうただ中には、いたくない、というか、いてもしかたがない。空気のいい、人間らしいね、ニンニク作ったりダイコン作ったり、本百姓じゃないけど、ささやかな……。

風景が毎日違う清見村

 本当にきれいですよ。星はきれいだしね。私は朝起きると、まず第一にトイレなんですよ。留守が多いからトイレにも雨戸をつけているんだけど、雨戸を開けるんですよ、そうすると、山がぱーっと。トイレから見る風景だけでも毎日違う。もやがかかっていたり、すっきり晴れていたり、どんよりと曇っていたり。どんより、晴れ、雨、曇り、雪。そういうものが周囲の風景まで全部染めて、今なんかとてもきれい、一番きれいともいえる。紅葉がかなり深まって、赤、黄、いろんな色がね、それだけでなんかこう、お金とか物とかじゃなく……。

「脱都会」今からでも

 若いときから酒ばっかり飲んで、演技だって下手くそだと自認してるんです。あのときの芝居、あのときの映画、あのときのテレビ、もっと一生懸命打ち込んでやればよかったなんて思っているんですが、そんな私のようなろくでもない者でもね、山、川、開発されたとはいっても、そういうところにいけば、まだまだ深く残っている日本の文化、歴史が、そのにおいが、香りが、こう地べたにしみついているのを感じます。家の周囲だけじゃなくて、いろんな山や田舎へいくと、そこにしかない地べたにしみついている香りのようなもの、においのようなものがね、感じられるという生活を、みなさんもどうですか。まだ遅くない、いつからだって、始めようと思えば。

 みなさんの地元でなされる万博も、派手で大きいだけじゃなくて、中小企業とか、山で働いている人、野で働いている人の気持ちが伝わるような会場設営をね、やってください。質素でいいから、よい万博にしてください。今日はどうもありがとうございました。

菅原文太

木村― 話は変りますが、近頃、自分の主張とか、こうあらねばならないとか、そんな声を上げる男の人って少なくなったんじゃないですかね。

菅原― 戦後のある時期は、街も何もかもむちゃくちゃになったけど、一人ひとりには、わりと自由な空気があった。いまよりむしろあったのかもしれないと思うよ。いまはなんか若い人たちに声を出させないような、見えないしばりとか、枷みたいなものがあるようで、それはなんなんだろうね。

木村― 若い人にとってはそんな幸せな時代ではないんでしょうかね、いまは。

菅原― そうだと思うよ。

木村― 確かに我々の子どもの頃のほうが貧乏でしたけれども、いまよりもっと楽しかったような気はしますね。

菅原― いまのような時代はね、同化できる若者は、IT産業とか、株だとか、パッパと上手に時流に乗って、鮮やかな抜き手を切って泳いでいるんだろうけど、そういうふうにできない子たちはあまりの窮屈さに、プツンと切れてしまったり、閉じこもってしまったりね、そういうことなんじゃないのかな。おれは心理学者じゃないから、分析なんかしたこともないけど、かわいそうだよね、いまの若い人たちというのは。

木村― もととも、強いものとか、権力とかは、あまりお好きじゃないですか。

菅原― ああ好きじゃない、嫌いだね。たいして歯向かってきたわけじゃないけど、そういうものに与したくはないというのはあるよね。

木村― 菅原さんは今までに会社勤めをされた経験はないですね。

菅原― ない。

木村― 定年まで無事勤め上げるというタイプではないですね。上司を殴ってやめてますよね、多分(笑)。

菅原― それはわかんないけど、一日も勤まらないんじゃないかな(笑)。

木村― 菅原さんは、いまでも電車とかに乗られると聞きましたけれど……

菅原― 乗りますよ。

木村― でも電車で会った人、びっくりするでしょう、目の前に菅原文太さんがいたら。

菅原― いや、だから変装するんだよ。マスクして帽子かぶって。でも、あんまり変装してね、万引きと間違えられた(笑)。

木村― それはまたどうしてですか。

菅原― あるレコード店で、CD一枚買って、コートのポケットにポッと入れてスッと出てきたら、「ちょっと、ちょっと、ポケットへ入れましたね」って言うから、「入れたよ。金は払ったんだ、聞いてこい!」と言ったら、平謝りに謝ってた(笑)。でも女房に怒られたよ。「あんた、そういうものポケットへポンと入れないで」って。
 怪しいと思ったんだろうな。黒い帽子をかぶってマスクして(笑)。

木村― それはおもしろい話ですね。びっくりした店員さんの顔が目に浮かぶようです。
 この雑誌の読者は50代以上の男性が多いんですけど、だんだん定年が近くなるなど、いろいろ悩みが深いと思うんです。どうやったら菅原さんのように強く生きられるかというのを最後にうかがいたいんですけど……

菅原― 別に自分の生き方がいいとも思ってない。でも会社をやめたらせいせいしていいんじゃないのかな。

木村― そう思わない人もいっぱいいるわけで、30年間毎日通勤していた場所へ行かなくていい、名刺がなくなる、友達と会えなくなる。というと不安感のほうが大きいと思いますよ。

菅原― 友達に会えなくなるなんていうのは、婦女子の言うことで……(笑)。

木村― でも一人ではなかなか生きていけないじゃないですか。

菅原― いや、一人だって生きていけますよ。

木村― そうですかね。

菅原― うん。団塊の世代が今年から何百万人と定年を迎えるけど、昔だったら即隠居か、数年でおさらばだったけど、年齢的にね。いまは人生80歳とかいう時代だから、あと20年もあるんだから、もっと自分を解放してやるといいんだろうと思うけどね。
 東京に家を建ててしまったからとか、子どもの学校があるから、やっぱり離れられない。奥さんも反対する。だけど、考えたら昔はオヤジがしょっちゅう転職したりして、ずいぶん学校変わった子どもも多かったよね。そういうものにとらわれないで、奥さんなんか、おれがやるんだから「ついてこい」って言ったらいい、後ろ見たらついてこなかったりして(笑)。
 十分縛られてきたんだから、まず自分を自由に解き放ってみる、自らをね。そういう気持ちがないとだめなんじゃない。社長や専務になった人はいいかもしれないけど、サラリーマンなんていうのは、定年で退職したら、学校を卒業したぐらいのつもりでいればいい。だって、みんな高校でも大学でも卒業したら、学校とはおさらばじゃないですか。

木村― そうです、そうです。

菅原― たまに同級生と会ったって……同窓会なんて気持ちが悪いよ。いい年してね、集まって酒飲んで愚痴こぼしていたんじゃね、情けないよね。

木村― 病気の自慢をしたりしてね。

菅原― おれもたまに出たことあるけど、年取って集まると病気の話ばっかりだ(笑)。体がどうだ、悪いだの、そういうものから解放されたほうがいいよね。

<後記> 目の前に現れた文太さん。テレビドラマ「ハゲタカ」の大木昇三郎や映画「わたしのグランパ」の五代謙三のままだった。顔も声も振る舞いも。何をやっても菅原文太。圧倒的な存在感、やはり大スターとはそういうものなのだろう。でも万引と間違えられたという文太さん、ちょっぴりお茶目な面もうかがえてホッとした。(木村)

撮影=瀬戸正人、構成=森國次郎

1933年宮城県仙台市生まれ。仙台第一高等学校から早稲田大学法学部中退。56年『哀愁の街に霧が降る』(東宝)でデビュー。新東宝、松竹へ移籍後、俳優の安藤昇さんに勧められ、67年東映に移籍。69年『現代やくざ与太者の掟』で初主演。73年からの深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズで一躍スターに。『新・仁義なき戦い』シリーズ、75年からの鈴木則文監督の『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎役)の大ヒットで70年代映画界トップスターとなった。その後、『千と千尋の神隠し』での声優もこなすなど、幅広く活躍。近年は農業にも関心を示し、講演活動も行っている





戦後のどさくさこその自由を懐かしみつつ、その後の日本の変わり身の速さを憂える―
穏やかな話しぶりのなかにシニカルさと反骨が覗く。
銀幕のなかのアウトローは、「演じた」というより菅原文太その人だったのかもしれない。



木村 菅原さんはお生まれは仙台で、仙台一高を卒業なさってるんですね。いい学校だったようですね。

菅原 頭のいいのが多いなんて言われていたんだけど、いま年取った同級生を見ると、あんまり頭のいいやつはいないよね。おれが行ってた頃は、まだそんなに受験校でもないし、わりとバンカラな自由放任主義の学校だったね。それはどうも明治の開校以来の伝統らしい。やりたいことは生徒が自主的にやりなさいというちょっと珍しい学校。だから運動会もなきゃ、修学旅行もない。文化祭とかそんなのも、やりたきゃ自分たちでやんなさい。演劇なんかも好きなやつはやんなさい、学校は関係ないと。

木村 それから、大学は早稲田へ行かれた

菅原 入学できたというだけで、ほとんど学校へ行かなかった(笑)

木村 で、在学中にファッションモデルにスカウトされたとか。やはりカッコよかったんでしょうね。

菅原 いやいやスカウトじゃない。とにかく食えないもんだから、いとこに「なんか、仕事ないかよ」と頼みに行ってね。いとこが「知り合いが国際羊毛の事務局にいるので話しておく」と言うので行ってみたら、「あんた、これ着て」なんて言われてね。毛糸の編み物の宣伝に写真を撮られて、そんなことが始まりだよね

木村 けっこうお金にはなったんですか。

菅原 いやたいしたことないね。肉体労働なんかに比べれば、いくらかマシなだけで、そんなに食えるほどの収入はなかった

木村 大学は何年で中退されたんですか

菅原 中退というか……別にこっちはしたくなかったんだけど、やめさせられた(笑)。悪いことしたわけじゃないんだよ。授業料滞納で……1ヵ月分納めて、あとは納めなかったんだから、2年目で除籍になっちゃったね

木村 当時は、何をしようということは別になかったんですか。ただただ東京へ出ようということだったんですか。

菅原 そうだね。高校を出たのが昭和27年かな。当時の仙台というのは、いまみたいに100万都市じゃなくて、人口22万ぐらいの地方の小都市にすぎなかった。その頃は朝鮮戦争でドンパチやっているし、ごちゃごちゃしてたからね、まだ。ここにくすぶっているのはどう考えても……

木村 ご両親は、東京へ行きたいなら勝手に自分の甲斐性で行け、ということですか

菅原 自分の甲斐性で行くんなら行ったらいいんじゃないの、仕送りはできないよ、仙台にいるんならメシは食わしてやろうと。だけど、メシ食わしてもらうだけじゃ……(笑)

木村 それはそうですよね。いまの親とはずいぶん違いますよね。

菅原 うちの親だけじゃなくて、あの頃の親はみんなそうだったんじゃないかな。

木村 そうですよね。でも東京へ来てみたら、仙台の頃に抱いていたイメージとはずいぶん違いましたか。何をやろうということは別になかったんですか。

菅原 何をやろうというより、仕事がまだほとんどないときだからね。焼け跡の名残だね。新宿の西口なんか、カストリ酒場がずらっと並んでいたし、東口もテキ屋の親分のやっている市場があった。ごちゃごちゃしてた時代だから、いまの若い子みたいにタレントになろうとか、歌手になろうとか、サービス業へ勤めようとか、そんなもの何もないんだから。
 
それでも、日本は切りかえが早いのかな。昭和20年に戦争に負けて、その年に、新劇は公演を始めるし、松竹は『そよかぜ』なんていう映画を撮り始めている。負けてしゅんとしているかと思うと、きのうまで軍国主義で「撃ちてしやまん」なんて言っていたのが、途端に左翼になってマルクシズムなんて言い出したりして、不思議な国民だね

木村 終戦の年はおいくつだったんですか。

菅原 12歳、小学校卒業の年だね。

木村 小学校の教科書なんていうのは当然そういう教育ですものね。

菅原 ああ、もう「撃ちてしやまん」、「鬼畜米英」

木村 「進め一億火の玉だ」とか言って……

菅原 最近になって、また言いたくなってきたよ、「鬼畜米英」(笑)




木村 映画のほうには、どういう縁で行かれたんですか

菅原 いや、喫茶店で新東宝の宣伝部員から声かけられてね。「映画やんない」なんて言われて、こっちは「やる」って
 

そんなこと毛頭考えたことなかったんだけど、自分で行きたい学校はやめてしまったし、帰るたって、あったかくて豊かな家があるわけじゃないし、まあなにかうだうだ暮らしていかなきゃしょうがないのかなと思っていたとき、そういう話があったからね
 
「金くれるのか?」と言ったら、金はくれると言うし、「まあ一回来てごらんなさい」なんて言うので、撮影所へ行ったら、監督に会わせられて、頭のてっぺんから爪先までじろっと見られてね、「ああいいでしょう」なんて言われたのが初めてで

最初の出番がピストル持たされて人を殺す役だった。最初からこうなると運命づけられていたのかもしれない(笑)

木村 今までに映画には何本ぐらいお出になっているんですか

菅原 数えたことないからわかんないけど、250本ぐらいはやったんじゃないかな

木村 その250本のなかに恋愛映画ってあるんですか

菅原 まったくない。もうただひたすらピストルを持って、アクションと立ち回り。芝居なんていうのは、もうしっちゃかめっちゃかだから

木村 それまでに演技の経験はまったくなかったんですか。

菅原 何もないよ

木村 それでもなんとかなるもんですか

菅原 演技なんてものは、バーチャルの世界で、なんかのまねっこするだけの話だから。本物ではないわけだから

木村 でも本物のやくざより本物らしかったりするわけですよね

菅原 それはよく言われた。本物に言われたよ、「おれたちより本物らしいな」なんて(笑)

東映の映画を見て、映画館を出てきたときは、みんな健さんや文太さんになったりしてましたものね


菅原 映画に出はじめたのは昭和30年頃で、その頃になると、なんとか日本も目鼻がつき始めてきたけど、まだまだごちゃごちゃしてた。金もないのに、どこかで焼酎一杯にありつこうと、友達と新宿とか渋谷をうろうろしてたね
 
新宿西口のカストリ横丁なんかの屋台で出てくるつまみなんていうのは、なかにタバコの吸殻が入っていたり、焼酎だって、アルコールと何かを混ぜたもので、運良く目もつぶれなかったけど、いったい何を飲まされていたのか(笑)
 

そんななかをうろうろしていると、いまのホームレスどころじゃないような地べたをはいつくばっている人間とか、ときにはおまわりが武装して出てきたり、地回りのおにいさん方もしょっちゅう目にしてた。ときに「おい若いの、飲めよ」なんて飲ましてくれたりね。「なんだ学生か」なんて言われて、学生というのは案外率がよかったね。まあ、そうやって、いろんな人間を見たね



映画のモデルになるようなタイプは目に入っていたわけですね



菅原 入っていた。そういう人間や動きはよく見てたから、ケンカも目の前で見たしね

 そういう時代とはいえ、ずっと硬派だったんですか。やわらかい話は少しぐらいあったんでしょう?



菅原 硬派だけで通したわけじゃないよね。まだ遊廓なんていうのもあったしね。なくなったのは昭和33年かな



 映画の世界へ入られても、女性がいっぱい寄ってきたりとかなかったですか。

菅原 全然寄ってこなかった、東映なんていうのは



 そうなんですか。祇園街とかに行ったら



菅原 祇園街なんて行ったことないよ。ああいうのはあまり好きじゃなかったね。おれなんか飲むときは、やっぱり汚いバーで、ただガブガブ飲むほうだった。前からそうだったからね。

でも片岡千恵蔵御大の話を聞くと、「おれの頃はな、1ヵ月も2ヵ月も祇園に居続けて、そこから撮影所に通ったよ」なんて言ってた



 ところで、菅原さんは三船敏郎さんを非常に評価されていますが、三船さんのどこを素晴しいと思いますか


菅原 やっぱりあの人の荒々しい男としての存在感かな。その裏に、ある種の哀感のというか、悲しみのようなものもちゃんと持たれていてね。




 『荒野の素浪人』(1972〜74年、NET〔現テレビ朝日〕で放送)とか見てますと、あまり演技なさっていませんね



菅原 それがあの人の魅力ですよ。本当に演技なんていうことを念頭から全部外してやっていたんだろうと思うよ。大スターはみんなそうだよね。片岡千恵蔵御大がそう言っていた。「おい、俳優なんていうのは技術なんかいらねえぞ」、「これだけだよ」なんて胸をたたいていたね。だからおれも続けられたのかもしれない、技術がないから(笑)



 菅原さんは三船さんとダブるところありますよね



菅原 いやあ、それはかなわないよ。立ち回りさせたら、あのぐらい速い人はいないだろうね、戦後では。抜いて、斬って、サッとね。そういう体の動きというか、はやぶさのような動きをできる人はなかなかいないよな。戦前なら、阪妻(阪東妻三郎)さんかな。あと片岡の御大とかね。

菅原文太

家族がちゃぶ台を囲み、ご飯を食べる。そんな光景が懐かしい。いつでも何でも手に入る飽食の時代だけれど、便利でもなく、豊かでもなかった「昭和の食卓」と、その時代を振り返ってみたい。まずは、日本の主食「ご飯」を巡る、この方の話から−−。【坂巻士朗】

 ◇食卓に格差…食料自給率40%切り

 ◇これが日本人の幸せなんだろうか

 米どころの宮城県出身だから、家は田んぼで囲まれていた。手で稲を植え、かまで刈っていたころだよ。おれは妹と2人だったけれど、近所には10人、11人兄弟もいた。

 あの戦争のときだって、最初のころはご飯はあった。ただ、真っ白じゃあない。三分づきかな、ちょっと黒っぽかった。米粒を削って減らすのはもったいない、というのはあったんだろう。そして、時代への遠慮もあったんじゃないか。都会では食べられない人がいっぱいいる。白米なんてぜいたくだ、と。

 1944(昭和19)年ぐらいになると、田舎でもご飯に大根や芋を入れるようになった。戦後しばらくの間も、白米はあまり食べられなかった。木の箱に鉄板を取り付けて作ったパン焼き器で、練ったとうもろこしの粉を焼いて、妹と分けたり。県立仙台一高に通ったときも、朝昼晩いつもコッペパンだった。それでもやせ細りもしなかったから、人間不思議だよねえ。

 役者になりたてのころは、ご飯がごちそうだった。三船(敏郎)さんの「七人の侍」が大ヒットしたのが54(昭和29)年。映画界は盛り上がったけれど、おれは金がないから、米だけ買ってアルミの鍋で炊いていた。のりのつくだ煮だけをおかずに何カ月も。しょうゆだけの日もあった。それでも、炊きたてのご飯はおいしかった。

 ご飯というと、小さな人形を思い出すんだ。NHKの大河ドラマ「徳川慶喜(よしのぶ)」で、慶喜の実父、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の役をやったとき、訪れた弘道館という藩校に飾ってあった「農人形」だ。斉昭公が食事の度に、人形にご飯粒を供えて、農家の人への感謝を示したんだ。質素なわんを使い、一汁一菜の生活を貫いたと言われる人らしいね。立派な日本人だよ。

 今では街にレストランやすし屋が華やかに並んでいるけれども、その裏では仕事にも給料にも、そして食卓にも格差がある。ミシュランの三つ星のような、ぜいたくなレストランのある一方で、300円の弁当しか買えない人がいる。食料自給率も40%を切った。主食の米の値段が下がって、休耕田が増えていく。こういうのが、日本人の目指してきた幸せなんだろうか。白いご飯がごちそうだったことを、もう一度思い出したい。そう思うな。



 ■人物略歴

 ◇すがわら・ぶんた

 1933(昭和8)年、仙台市出身。58(同33)年、新東宝映画「白線秘密地帯」でデビュー。「仁義なき戦い」「トラック野郎」などで国民的俳優となる。現在はニッポン放送「日本人の底力」のパーソナリティーも。

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