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戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとは嘗て一回もあったことはありません

加藤周一

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「報道三題」

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年月が経つとわれわれの記憶の中で過去の出来事は次第にその姿を変えてゆく。新たに資料が発見されたり、公開されたりすることもある。

しかしそれだけではなく、ほとんど常に、意識的にか無意識的にか、出来事の一面を忘れ、他面を強調して、現在のわれわれにとって出来事のもつ意味が明らかになるように操作する。

その結果、長く記憶の中に貯えられた過去の経験のそれぞれは、時と共に一種の寓話に似て来るだろう。寓話の意味は特定の時と場所を超えて通用する。そうでなければ、思い出すには及ばない。もし今も意味をもつ出来事をなお思い出さないとすれば、それは記憶喪失症――しばしば集団的なそれ――であろう。


私は今しきりに三つの寓話を思い返している。そのきっかけは、現在の日本国で、与党の有力政治家が公共放送(NHK)の番組内容に圧力を加えたかどうか、その問題についての朝日新聞の報道が正確であったかどうか、というような争いが生じたことである。

争いは継続中で、断定できる事実は未だほとんどないから、この特殊な「事件」の内容については、今判断の下しようがない。しかし「事件」は、政治権力と報道機関がいかに係わってきたか、現にどう係わっているか、知り難いけれどもきわめて大きな一般的問題を喚びさまさずにはいられないだろう。

言うまでもなく、日本国民が国の内外での出来事の要点を知るのは、主として新聞やテレビのような大衆報道機関による。したがって報道機関がどの程度まで外部の圧力(たとえば政治や広告主やジャーナリズム市場)から自由であり、どの程度までその提供する情報が客観的であるかは、日本国の民主主義が機能するかどうかを左右するにちがいない。私が長い間忘れていた寓話をあらためて思い出したのはそのためである。


第一の寓話は、80年代の英国の話である。所用があってロンドンを訪れた私は、ホテルの窓口で宿泊の手続きを取ろうとして、驚いた。とは言っても、思いもかけず旧知の友人に偶然出会ったのではないし、いわんや突然回転ドアを押して霧の街路からあのシャーロック・ホウムズ氏が現れたのでもない。要するに窓口の傍(そば)に積んであったその日の新聞の大きな見出しがふと眼に入ったのである。その見出しは、その頃有名であった保守党の政治家がBBC(英国の公共放送)の「偏向報道」を糾弾するという意味のものであった。


「偏向」の内容は米軍機のトリポリ爆撃の後、その被害をBBCが誇張して放映したらしいという事であった。そのくらいのことは、いつでも、どこの国でも、よくあることだ。現に私が驚いたのも、記事の内容ではなくて、報道のし方であった。どの新聞も第一面、大見出し。翌日も同じく第一面、大見出しで、BBC会長の反論を掲げるという扱いである。これはいわゆる「大物」政治家とBBC会長の正面きっての大論争、つまり政府と代表的な報道機関との一騎討ちである。私が驚いたのは、その舞台がどこかの高級料亭でも、ロンドンの「クラブ」の一室でもなく、主要な新聞の第一面であった、ということだ。英国では国民生活に関係の深い劇が国民の前で演じられる!まるでシェイクスピアの舞台でのように。



第二の寓話は、70年代の米国。まだ民主主義の栄えていた頃の話である。副大統領と有力な一新聞との間に、知事時代の副大統領の収賄・脱税疑惑などをめぐって対立が生じた。対立はたちまち劇しくなり、ほとんど個人攻撃の応酬のようになった。一方は、疑惑が事実でない、事実を伝えない新聞はつぶしてしまえ、という。他方は、疑惑の真偽を弁じるのは行政府ではなく、司法の権限である、権力を濫用する副大統領はその職を去るべきだという。この二つの立場には妥協の余地がないようにみえた。


しかし力関係はあきらかに平等でなかった。一方は一新聞社にすぎない。他方はその背景に強大な政府の力をもつ政治家である。米国民は、かたずをのんで事の成り行きを注視していたといえよう。


するとある朝、突如として天地が動いたとまではいわないが、情勢が一変したのである。前日までは副大統領対一新聞社の戦いが、その日からは副大統領と米国の主要な報道機関すべてとの戦いに変わった。副大統領のどういう行動乃至言説がその引き金となったのか。それは些事にすぎない。副大統領個人の疑惑が事実であったかなかったか。それもありふれた政治家の不祥事の一つにすぎないだろう。

その程度のことで問題の新聞社の競争紙までも含め、ワシントンからニュー・ヨークを通ってボストンまで、シカゴからサンフランシスコを通ってロス・アンジェラスまで、米国中の主要な新聞がほとんどすべて、結束して事に当たるという壮絶な場面がにわかに現出するはずはない。


報道の自由に対する政治的圧力がある一線を越えたとき、すなわち報道機関の「存在理由」そのものが脅かされたと感じたとき、またそのときにのみ、彼らは結束して起ち、徹底的に抵抗したのである。少なくとも私はそう感じた。なぜ彼らはそうすることができたのだろうか。それは彼らの背後に、報道の自由を偉大なアメリカの文化的伝統の欠くことのできない一部分と考える国民があったからであろう。


そして最後に、しかし最小にではなく、私は第三の寓話も思いだす。それは30年代後半、二・二六事件以後真珠湾までの東京の話である。日常の生活に大きな変化はなかった。衣食は足り、電車は動いていた。小学校から大学まで、どこの学校も開いていた。六大学の野球のリーグ戦もあり、映画館では欧米の映画が上映され、大学の研究室では欧米の雑誌を読むことさえできた。そのとき何が変わろうとしていたのか。変わりつつあったのは、ラジオや新聞が用いる日本語の語彙であり、総合雑誌が載せる論文の表題や著者の名前である。

その背景の見えないところで、どういう圧力や取引や「自己規制」が言論機関に作用していたかは、学生の一人であった当時の私には知る由もなかった。しかし報道言論の表面にあらわれた変化、一見おだやかな、なしくずしの変化に、特定の『方向』のあることだけは、私にも見誤りようがなかった。言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、いうまでもない。


私が思いだしたのはこのような三つの寓話である。この道はいつか来た道?いや、そうではなくするために、時には昔の寓話を思いだすことも、いくらか役立つかもしれない・・・・。





読んでいて血管が凍るかと思いました。

一九四〇年の想出

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近頃しきりに私は1940年を想い出している。その年の初めに、民政党の代議士斉藤隆夫が帝国議会で日本の中国侵略政策を批判した。

その少数意見を抹殺しようとして、議会は演説を議事録から消し、斉藤を除名した。そのとき、社会大衆党は、除名決議に反対した八人の同党代議士を除名し、しばらく後に、解党する。

やがて保守二大政党、政友会と民政党も解党し、野党も批判勢力もない議会の、いわゆる「翼賛体制」が成立した。その体制の下で、軍部の専横を抑え得るかもしれないという自由主義者を含めての国民の期待を荷なって成立し(1940年7月)、忽ちその期待を裏切ることになったのが、第二次近衛内閣である。近衛の後を襲ったのは東条内閣であり(1941年10月)、周知のように、東条内閣は真珠湾を攻撃した。



翼賛議会の外では何がおこったか。


第一に、組合が解散した。まず日本労働総同盟、つづいて大日本農民組合。


第二に、文学芸術の世界でも、批判的な言論は一掃された。新協劇団と新築地劇団の強制的解散がその典型である。


第三に、学問の自由が奪われ、津田左右吉の『神代史の研究』は発禁処分となり、著者と出版社は起訴された。そういうことがあって、1940年は、「紀元二千六百年」の式典で終わる。『神代史の研究』が学問的な歴史の研究であり、「紀元二千六百年」が歴史学的・考古学的事実に反することは、いうまでもなかろう。



今日、細川人気と「改革」の旗印にはじまり、批判的野党の消滅に至る議会の事情は、共産党の合法と非合法の相違を除けば、近衛幻想と「新体制」の宣伝にはじまり、「翼賛」議会に終わる1940年の状況を思わせる。政治的批判勢力としての労働組合の無力化もまた然り。


有力者や高官の「失言」の内容も、ほとんどすべて歴史的事実を無視するか歪曲するものであり、それがくり返されることは、彼らの意見の支持者が少なくないことを意味するにちがいない。


確かに「失言」は今日の政府によって否定される。

1940年とのちがいは、「紀元二千六百年」が今では国家権力の公式見解ではなく、非公式な意見だということであろう。



もちろん1940年の情況と1994年のそれとの間には、大きなちがいもある。

第一に、戦時中の日本には広汎で強力な軍産体制があったが、今日の日本経済ははるかに大規模で、軍事産業はその一部にすぎない。

第二に、情報に関しては、かつての報道管制とほとんど完全な鎖国に対し、報道のかなりの自由と国際的な情報の伝達がある。

第三に、操作された大衆の圧倒的多数は、1940年に、軍国日本の「聖戦」を支持していた。


しかし今では、政府の政策に批判的な多数の市民があり、無数の分散した小市民グループがあり、たとえ彼らの意見が大政党や大組織に反映されることがなくても、それぞれの活動をつづけ、それぞれの意見に固執している。

そういう個人または小グループの間に、全国的な、横の連絡はほとんどない。したがって社会全体の動向に対するその影響力は、さしあたり、きわめて限られているだろう。しかしそのことは、同時に、彼らの強い抵抗力をも意味する。


1940年の軍国主義権力が行ったように、組織された反対勢力は弾圧し、買収し、操作することができる。分散した無数の個人や小グループは、極端な警察国家でないかぎり、いかなる権力も一掃することができないだろう。


批判的市民の意見にはおそらく共通の面がある。戦後半世紀の間に内面化された平和主義と民主主義、その具体的なあらわれとしての護憲、軍縮、海外派兵反対、社会福祉の要求などである。

それはまたカネと力の論理に対して、そのほかに自己主張の根拠をもとめようとする態度だともいえるだろう。もちろん「長いものには巻かれろ」という考慮もある。

しかし同時に社会が「強きを挫き弱きを助ける」ものでありたいという希望もある。その考慮と希望を併せて共通の態度がある、ということである。



多くの先進工業国と比較して日本国には「普通」でない面がいくつもある。

憲法の武装放棄条項はその一つである。

外国の軍事基地が全国を蔽い、人口の密集した地域にまで及んでいるというのも、その一つである。

大都会の夜の道や公共交通機関がきわめて安全であること、歴史的な都市の景観を破壊してためらわぬこと、通勤電車が文字通りスシづめになること、公共労働者が罷業権をもたぬこと、その他数えあげればきりがない。


そのすべてを「普通」にしたいと考える人はないだろう。またどれも「普通」にしたくないと考える人もないだろう。
何を「普通」とし、何を「普通」にしたくないと考えるかによって意見が異なる。


異なる意見を統一しようとするのは、反民主主義的である。民主主義をまもるためには、意見の相違を尊重し、批判的少数意見の表現の自由を保障しなければならない。多数意見が現在の問題であるとすれば、少数意見は未来の問題である。少数意見が多数意見となるほかに、現在と異なる未来はあり得ない。たとえば、1940年の少数意見が多数意見となったときに、戦後日本の民主主義は成りたった。





1994年現在の批判的な少数意見が多数意見となるとき、またそのときにのみ、なしくずしの軍拡と民主主義の後退という現在の延長ではない日本国の未来がひらけるだろう。




しかし分散した個人や小グループの少数意見は、いつ多数意見になるのだろうか。




それはわからない。




しかしそのための必要条件ーー十分条件ではないだろうがーーの一つは、分散した批判的市民活動の、少なくとも情報の交換という面での、横のつながりをつくりだすことである。同じようなことを考えたり、したりしている人々が、ほかにもいるということの知識ほど、信念や活動を勇気づけるものはない。

そのために「パソコン」は利用することができる。「マス・メディア」も利用することができるだろう。

そういう条件は1940年にはなかった。


私は昔私が若かったときの軍国日本を想い出しながら、夕陽のなかで、このような妄想を抱くのである。




1994年11月21日

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2005年6月23日


今年の三月末に私は北京である歴史家と話していた。場所は清華大学の構内、窓からは静かな中庭の木立が見えた。しかし、会話の内容は、必ずしも静かなものではなかった。日本の首相がなぜ靖国神社参拝に固執するのか理解できない、と彼はいった。私はその感情が中国の大衆、殊にたとえば学生たちの間に、どの程度まで拡(ひろ)がっているのかを知りたいと思った。「それは広い、知っている学生たちの全部かもしれない」と彼は呟(つぶや)き、「私が心配しているのば、このままゆけば、いつか戦争になるかもしれないということですよ」とつけ加えた。




私が東京に帰ったのは四月の初め、その後一週間も経たない週末に新聞やテレビを通じて、投石を含む激しい「反日デモ」が北京をはじめ中国の多くの都市に発生したことを知った。三月末の北京をふり返って、歴史家の話をほとんど予言のように感じたのは、いうまでもない。「反日デモ」は、決して意外な偶発事ではなく、起こるべくして起こったのである。中国側の識者で、「靖国問題」の背景に日本の歴史意識を認め、そこから未来の戦争の予想をしたのは、決して一人ではない。たとえば中国日中関係史学会名誉会長の丁民氏も書いている。「歴史に対する認識が違えば、もう一度侵略戦争をするのではないかという心配があるのです」と(「今日の日中関係を考える」、『マスコミ市民』四三六号、二〇〇五年五月)。徳は孤ならずか。

日中政府は「反日デモ」に、素早く、冷静に、反応した。事件は収まり、五月は平穏に過ぎて今日に及ぶ。その間の交渉で、新聞報道によれば、日本側は主として「デモ」に対する中国政府の対応を問題とし(警察による投石などの制止)、破壊の原状回復(ガラス窓など)や将来の安全保障を求めたらしい。具体的で実際的な要求である。中国側は「デモ」の背景と基本的な要因(「靖国問題」と「教科書問題」など)を指摘して謝罪を拒否しながら、「デモ」のやり方(投石など)については妥協的な態度をとった。短期的にはいわゆる「政経分離」政策の成功である。しかし、長期的には、両国政府の接触は議論の「すれちがい」に終わり、日中の信頼関係の構築からははるかに遠かった。

「政経分離」は、政治的友好関係がなくても、経済的関係を発展させるための工夫である。経済的にみれば、日中関係が双方にとって大きな利益であり、その破壊が致命的ではないにしても重大な損害であることはあきらかだろう。どちらの側にも政治的不和から経済活動を隔離すべき理由があった。しかし長期的には経済的関係の安定も政治的友好関係を前提とする。政治的友好関係はその時の権力相互の水準ばかりでなく、大衆感情の中にまで浸透しなければ、その持続性を保証されないであろう。そのための最大の障害は、いうまでもなく十五年戦争であり、それに対する日本の政治社会の節度である。中国側は政府も大衆も「歴史意識」について語る。四月に政府は外交的な言葉で語り、大衆は激しい「反日デモ」で語った。日本側はその言語を理解する必要があると思う。




しかし、四月の政府間交渉は「すれちがい」に終わった。一方は「デモ」の背景を強調し、他方は「デモ」の暴力的なやり方を批判した。一方は歴史的見透(みとお)しにこだわり、他方は当面の対策に注意を集中した。その「すれちがい」には日中の文化のちがいも反映していたのかもしれない。中国には長い歴史のなかで王朝の興亡を眺める知的伝統がある。日本の文化には都合の悪い過去は水に流し、外挿法の適用されない明日には明日の風が吹くとして、現在の状況に注意を集中する傾向がある。その傾向の詩的表現が俳句だが、靖国神社も「教科書問題」も俳句で捉(とら)えるには複雑すぎるだろう。

しかし個別の問題が、必ずしも極端に複雑なわけではない。たとえば「靖国問題」は首相の参拝中止によって解決できるだろうし、歴史を見なおす教科書は、大多数の学校が採用しなければ大きな害毒を流さぬだろう。個別的な問題が処理し難いのではない。しかし個別的問題は相互に関係し、一定の方向を共有し、ほとんど一つの体系のようにみえる。その方向とは何か。<過去>の十五年戦争の<現在>の日本社会による正当化または美化である。「あの戦争は正しかった」、少なくとも「それほど悪くはなかった」。これは世界の大部分の国で今や常識とされている歴史観の裏返しである。この「歴史意識」は中国のみならず日本自身を含めてのアジアの<未来>を脅かすだろう。

「歴史意識」を問うのは、過去にこだわることではない。過去を通して未来を闘うことである。戦後ドイツの「過去の克服」と戦後日本の十五年戦争に対する態度はしばしば比較された。それを今くり返す必要はないだろう。ここではその比較が日本人だけではなく中国人の念頭にも去来してやまないだろうことを指摘すれば足りる。戦争の歴史は日本の歴史であると同時に中国の歴史でもある。「歴史意識」が国内問題であり、外国の介入すべき事柄でないという主張は無意味である。靖国神社は戦争で死んだ軍人・軍属を杷(まつ)るばかりでなく、戦争を解釈するから−その解釈は戦前・戦中・戦後を通じて根本的にほとんど変わっていない−、首相の参拝が国際的意味をもつのである。




私は戦争で二人の友人を失った。彼らが死んで私が生き残ったことを正当化する理由は全くない−という考えは私の生涯につきまとった。もし彼らが生きていたら望んだであろうように生きてきたとは到底いえないが、少なくとも彼らが拒否したであろうことはしたくない、その意味で彼らを裏切りたくないと思った。それが彼らの死を悼む私の流儀である。私には靖国神社に行く必要がなかった。しかし、戦争や死刑のように国が人を殺す事業に反対する理由はあった。死は全く不条理であり、そのことにおいて一種の平等主義を実現する。すべての差別は死と共に消滅する、貧富も、賢愚も、愛憎も、国籍のちがいも。死者を政治的に利用するのは、死者の冒涜ではなかろうか。

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「2005年の思い出」



歳の暮れに2005年をふり返れば何を思い出すだろうか。それはもちろん人による。かけがえのない誰かとの出会い、あるいは死別、あるいは成功、あるいは失敗・・・そういう私的な出来事ばかりではなく、大多数の人々が思い出すだろ画期的な、……少なくとも画期的らしくみえる事件もあった。

 女の夜道が危ないどころか、小学生を路上に襲う犯罪が相次いだのもその一つである。子供が無事に自宅の「アパマン」に辿り着いても、その晩地震があれば忽ち崩壊して圧死するかもしれない。そういう手抜き工事が全国に何十となく散在していることも、この年にわかった。神戸の地震では高架高速道路も崩れた。手抜き工事は今やこの国の文化的伝統のようにみえる。
 子供が学校に通う路上から拉致されず、地震にも耐えて生きのび、スクスクと育ったなら、食べ物に注意しなければならない。鳥類は食べない方がよいだろう。トリ・インフルエンザ・ビールスの大流行がいつ始まるかわからない。米国産の牛肉も、BSEの疑いがはれるまで、あきらめた方が用心深い。「ながらえば今このごろやしのばれんうしたべし世ぞ今はこひしき」

 そしてこの年2005年に、日本の首相は自民党を率いて9月の総選挙に大勝し、対外的には靖国神社参拝を強行することで、アジア殊に中・韓両国との政治的関係を戦後最悪の状況に導いた(いわゆる「政冷経熱」)。首相白身はこの「政冷」を「一時のことにすぎない」と語っている。「一時」がおよそどの程度の長さを意味するのかあきらかでないが、長ければ長く、短ければ短く、日中関係の画期としてこの年は記憶されることになるだろう。
 いずれにしても2005年の事件の多くは、10年といわず少なくとも5年は、問題を根本的に解決しないままで続いていくだろう。
 2010年の日本社会は、5年前に始まった出来事を語ること少ないかもしれない。それならば問題解決はなおさら先送りされるだろう、……手抜き工事の対策から手抜き外交政策の修正まで。

 50年後には今の日本の何が思い出されるだろうか。それは50年後の状況による。敗戦・占領の後50年以上経って日本は大いに変わったが(経済的発展)変わらなかった面もある(政治的保守主義)。同じ時期のドイツと比較すれば、戦前と戦後の政治権力の断絶(その構造と指導者の機能の仕方における断絶)は、ドイツの場合に著しく、日本の場合に明瞭でない。そのことからベルリン市の真中にユダヤ人犠牲者の碑があり、東京の真中に日本の戦没兵士と合わせて戦争指導者を祀る神社がある、というちがいが出て来るのだ。さらにそのちがいは戦後の日独と隣国との関係にも反映して今日に及ぶ。
 20世紀前半のアジア・太平洋地域で日本軍が戦った戦争(15年戦争)には二つの解釈がある。第一、アジアを西洋の植民地帝国主義から解放して「大東亜共栄圏」を建設することを目標とした義戦。第二、中国侵略を中心とする軍国日本の膨張政策と、そのために生みだされた厖大な人数の死傷者と特徴とする犯罪的戦争。

 第一の解釈は、戦時中の日本の見方で、積極的に支持する国は日本の他にほとんどなかったし、今もない。この解釈によれば、戦争の指導者は犯罪人ではなくて、英雄的愛国者とされる。第二の解釈は日本以外のほとんどすべての国の圧倒的世論であり、各国政府−もちろん戦中・戦後の米国も含む−の見方であり、殊に昭和天皇を除く戦争指導者たちを「A級戦争犯罪人」と断じた東京裁判の考え方である。 
 そこで戦後日本の指導者たちはどちらの解釈をとって来たか。表向きに、ためらいがちに、第二の侵略戦争観を認めながら、また折りにふれて第一の解放戦争説を示唆するような言説・行動をくり返してきた。首相による靖国神社参拝の固執はその典型であり、2005年に頂点に達した。同時に日中関係は、あらかじめ予想された通り、国交正常化以来最悪の状態となった。そのことを50年後の人々も思い出すだろう。

 日中関係ばかりではない。靖国参拝の糸を辿れば日米間の摩擦にも行き着く。靖国参拝(それ白身の違憲判決は二回、合憲判決はなし)は、靖国史観を公認し、靖国史観は戦争を美化し、東京裁判の前提を真っ向から否定する。その否定は、米国の戦った第二次世界大戦の正当化の否定でもある。米国がそれを歓迎するはずはなかろう。たしかに米国の政治はブッシュ政権の下で右へ動いた。日本の政治はそれより早く右へ動いたようにみえる。右よりに追いつき追いこせか。

 その兆候はすでに2005年に現れていた。現にたとえば国務省報道官の警告(2005年10月15日記者会見)。またたとえば7月の下院の東京裁判判決を再確認する決議。ジャーナリズムではすでに無数の例があるが、たとえば「ニューヨーク・タイムズ」(10月18日付)は首相らの参拝を「無意味な挑発」と称していた。米国との軍事同盟を強化さえすれば「世はすべて事もなし」 (All’s right with the world))というほど世界は簡単にできていない。

500年後はどうか。2005年の日本でおこったどんな事件も人物も思い出されないだろう。このまま進めば核不拡散条約の極端な不平等体制は崩れる。核武装野放し状態の出現は時間の問題で、おそらく100年とはかかるまい。それでも核戦争なしでさらに100年が過ぎるとしよう。その間に有効な世界政府はできないだろうから、いつか遂に第三次世界大戦がおこる。多くの愛国者はナショナリストとなり、多くのナショナリストは「ならず者」となり、神も仏も現われず、放射能エントロピーは増大し、地球上には平等に廃墟と焼け野原が拡がる。
 500年後の世界に日本国や日本語は消滅しているから、もう誰も思い出さないだろう。ただ考古学者だけが、昔の日本列島に在った国の遺跡を発掘し、小さな石碑の破片に刻まれた文字を判読するかもしれない。その文字は「かくとだに」と読め「さしも知らじな燃ゆる野原を」と読める…。

核兵器三題

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核兵器の歴史も今では半世紀を超える。その間に米ソ間の「冷戦」が始まり、終わり、最近朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の核兵器の潜在的脅威が語られている。新聞雑誌の記事を拾い読みしながら、私は昔を思い出した。

思い出の一つは「第二撃能力」という言葉である。昔は核兵器についての議論の三度に一度はこの言葉を使っていた。今ではめったにおめにかからない。さればこそたまたま米国の新聞記事の中でこの言葉に出合った時、懐かしく感じたのである。「ナツメロ」のひそみに習えば「ナツカク」とでもいうべきか。




その意味は単純で、外国から核攻撃を受けても破壊されずに残った核兵器で、相手に報復できる能力のことである。その能力が十分に大きければ、いかなる外国も自らを破滅させるような報復を避けて、最初の攻撃をしないだろう(抑止力)。二つの超大国の第二撃能力が釣り合っていれば、どちらが先に攻撃しても双方が亡(ほろ)びる(「相互に確実な壊滅」略してMAD)。これはいわゆる「恐怖の均衡」による冷戦路代の「平和」である。

その後、冷戦と共に核武装均衡も破れた。二大国間の核武装競争(量的及び質的)の代わりに、小国の核武装現象、同路に紛争の地域化現象がおこった。核戦争の確率は増大する。それに対抗するための国階的協力が、核不拡散条約にあらわれている(NPTと略語)。第二撃能力をもたない核武装の小国が、強大な第二撃能力を備えた大国を先制攻撃することは、全くありそうにもない。遂に大国の武力介入を抑止するために小国の核兵器が直接役立つこともないだろう。

要するに第二撃能力のない核武装の主要な役割は、日米軍事同盟のような強大な軍事力に挑むことではなく、NPTの機能を脅かすことではないだろうか。「北朝鮮の脅威」という話は、核開発のどの段階での、誰にまたは何に対する脅威なのか、はっきりしないかぎり、あまりに漠然としているように思われる。イラクヘの先制攻撃も早すぎた。

「第二撃能力」の問題と関連して、私はNPTの歴史も思い出した。インドとパキスタンは公然たる核武装国となり、北朝鮮は爆発実験を行った。それぞれの背景には、あきらかに、それぞれの特殊な状況がある。しかし共通の要因も働いていないはずがないだろう。それは条約の根本的な不平等性である。

一方には主権国家間の平等を原則とする国際的秩序がある。他方には国連加盟国の一部には核武装を公認し、大多数には圧力をかけても公認しないNPTがある。しかしフランスに核兵器を許し、イタリアには許さないことを正当化する説得的な議論はない。中国が核武装国で、インドがそうでなかった理由も明らかではない。これがNPTの構造的不平等の第一である。




第二の不平等は、国連の安全保障理事会常任理事国の内部にある。常任理事国五カ国は、すべて核武装国である。しかし米国が保有する核弾頭は少なくとも千を以(もっ)て数え、フランスの核弾頭は数百である。なぜそうならなければならないか。ロシアの核弾頭は少なくとも数千、中国の核弾頭数百。なぜこの極端な不平等が必要か。

私は専門家ではないので、弾頭の質にあらわれた不平等には立ち入らない。しかし総数を比較することは誰にも容易であり、NPTの極端な二重不平等構造は誰の眼(め)にも明らかだろう。もちろんこの不平等を解消するために核兵器保有国が核兵器廃絶に向かって努力するという約束はあった。しかしその約束は守られていない。

事態がこのまま推移すれば、不平等祖織の崩壊は時間の問題ということになろう。北朝鮮の問題はその一例にすぎない。しかしそれでもNPTを活かすことは重要であり、朝鮮半島の非核化と日本の「非核三原則」の地域的拡大は決定的意味をもつだろう。なぜならそれは朝鮮半島全体の安全、周辺国日本・ロシア・中国の政治的安定に役立ち、米国の利益にも合致するだろうからである。

私はまたヒロシマの焼け跡を思い出した。そこでは道路の網の目と区画、黒い瓦礫(がれき)の平面がどこまでも広がっていた。焼けて一枚の葉も付けない立ち木が何本か残っていた。コンクリート建築の廃墟(はいきょ)の壁も、ところどころに見えた。しかし何よりも平面、すべてが焼きつくされ一匹の蟻(あり)も這っていない、一匹の蝿(はえ)も飛んでいない、生命の痕跡も残さない平面の拡(ひろ)がり、−かつてはそこに広島市があったのだ。金持ちや貧乏人、徴兵された兵隊や郵便配達の少年、学校の教師、子供たち、その母親たち、犬や猫がそこに生きていたが、彼らは一瞬の裡(うち)に消えてしまったのだ。一瞬の裡に、何万人の人生が、何の理由もなく、全く突然に。

私は爆発の時に広島にいたのではない。爆発の後の焼け跡を、かつて市民たちが生きていた空間を見たのだ。その焼け跡にはケロイドが羽織ったボロの間から見える男女が、ゆっくり、音もなく、滑るように彷徨っていた。その光景の全体には音がなかった。その沈黙の空間は永遠に沈黙しているかのように感じられた。




私は死にどういう意味も見いださない。なぜ彼が、彼女が、死なねばならなかったか、理由はない。理由があるとすれば、生きている理由だけだ。私は多くの価値を相対化する。広島の焼け跡を見ながら、どうしてそうしないことができようか。

しかし生きていることそれ自身だけは例外である。何かに意味があるとすれば、今ここに生きていることの他にあるはずがない、と私は考える。そして戦争に反対する。

2006年10月25日(水)









please send all your moonbeam levels 2 me



http://www.youtube.com/watch?v=yF33tBa5u_w


Yesterday I tried 2 write a novel but I didn't know where 2 begin
So I laid down in the grass tryin' 2 feel the world turn
Boy loses girl in a rain storm, nuclear World War III
All that's left is pain and sorrow, as far as he's concerned

CHORUS:
He says please send all your moonbeam levels 2 me
Please send all your moonbeam levels 2 me
Please send all your moonbeam levels 2 me
I'm lookin' 4 a better place 2 die

Maybe he's lookin' 4 a different world
Maybe he's lookin' 4 a brand new high
Maybe he would like a nice condo overlookin' the rings of Saturn
Maybe he wants affection instead of a plastic life
Maybe he doesn't know what he wants at all

CHORUS

A newborn child knows nothing of destruction
Nothing of love and hate
What happens in between is a mystery
Because we don't give a damn about his fate
「新しく生まれる子供は破壊の何たるかを
愛と憎しみが何かを知らない
彼がどうなるなるかは知らない
なぜなら、我々は子供の運命なんて関心が無いから」(すげえぞ、プリンス。全く核利用の核心を衝いてるるじゃねーか。なーにが安全で再稼動だ。)
He said he'll never keep diaries 2 learn from his mistakes
Instead he'll just repeat all the good things that he's done
Fight 4 perfect love until it's perfect love he makes
When he's happy then his battle will be won (It's never 2 late)
「失敗から学ぶ日記は書かない。
そうではなくて、ただ良いことをして、ただそれを繰り返していきたい。
完全な愛を成すまで続く完全な愛の戦い。
幸福となる時、それは勝利の時だ」


Please send all your moonbeam levels 2 me
(Send your.. send 2 me)
Please send all your moonbeam levels 2 me
(Send your levels 2 me)
Please send all your moonbeam levels 2 me
(Sending me your.. send 2 me)
I'm lookin' 4 a better place 2 die (Better place 2 die)

Please send all your moonbeam levels 2 me (Oh yeah!)
Please send all your moonbeam levels 2 me {x2}
He don't, he don't, he don't really wanna die
He don't wanna, he don't wanna, he don't wanna die {x2}
He don't really wanna die

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モンテ・ヤマサキ
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