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こんにちは、みなさんお元気ですか? 現在、私satyriconが住む茨城県筑西市で、日本野球界に大きな足跡を残し、野球殿堂入りも果たした筑西市出身の元プロ野球選手・田宮謙次郎さん(筑西市民栄誉賞受賞者)をしのぶ展覧会が開催されています↓ 展覧会は、地元の歴史文化などを掘り起し、まちづくりに取り組む市民グループ「下館・時の会」(会長・一木努さん)が主催。 ご遺族やゆかりの方々から借りた貴重な資料に、時の会が生前の田宮さん本人から取材したメッセージをちりばめ、その野球人生とふるさと下館とのかかわりを振り返ります。 会場は、市内田町にある蔵を修復したギャラリー「時の蔵」↓ さてさて、satyriconもさっそく田宮謙次郎展を拝見してきたのですが… 盛りだくさんの内容で全部は記事にできませんので、一部だけ紹介させていただきます。 ではまず田宮謙次郎さんのおいたち、田宮家のお話から… 謙次郎から4代前の田宮伊右衛門は幕末から明治にかけて下館を代表する商人の一人だったそうです。 父・安太郎は荒物や肥料を扱う老舗「荒為」で商売を学んだ後、昭和元年に独立し紙製品の卸業「田宮紙店」を開業。 店は繁盛し、安太郎は戦後下館町会議員に、市制施行とともに初代の下館市議会議員となりました。 ちなみに戦前の下館では野球がとても盛んで、下館実業チームリーグ戦が行われるなど多くの野球チームが存在し、なかでも選抜チーム「オール下館」は県下に名を轟かせたといいます。 なんと町内には、20段の観客席を備えた野球場(下館町体育協会常設グラウンド、昭和5年開場)があったそうです! 下写真:オール下館のユニホームとバット、中央のパネルは下館町体育協会常設グラウンド↓ 謙次郎は昭和3年、下館町丙118番地(稲荷町)の生まれ。 水戸や北条(現在はつくば市)で一時暮らしたこともあったようですが、やがて下館に戻り、後に「田宮謙次郎の家」として知られることになる大町3丁目の洋菓子店・花赤堂前にあった家に移り住みます。 茨城県立下館商業学校(現在の茨城県立下館第一高等学校)に入学すると野球部に入部。 ただし在学中に野球部は廃部となってしまい、謙次郎も柔道部に移ったそうです。 なお、後に母校が甲子園に出場した際には個人として最高額を寄付、宿舎や練習場を手配し慰問に訪れるなど後輩たちを援助しています。 こちらが昭和34年、甲子園出場を果たした下館一高に関する展示(写真左上:入場行進、左下:当時の野球部員たち、右:甲子園の土↓ 謙次郎は昭和19年、日大予科に進みエースとして活躍。 昭和22年の秋の東都大学リーグでは、打率4割2分5厘で首位打者も獲得しています! 大学での活躍をかわれた謙次郎は昭和24年、プロ野球・大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団↓ 新人ながら11勝をあげ投手として活躍しますが、なんと2年目にして肩を壊してしまいます… 謙次郎談「怪我をして故郷に錦を飾るという夢がかなえられなくなるわけですよ。松木監督にその、話したんです。もう駄目だと思うと。もう最後の望みとして、自分がバッターでやれるかどうかを試してみたいから、是非やらせてくれって、こう言ったんですよ。お前、なめるんじゃねえよって言われたんですよ。そんな簡単なもんじゃねえんだよ、バッティングちゅうのは、って。」 最後の望みをかけた打者転向でしたが、これが見事に成功します! 昭和31からは3年連続打率3割以上をマークし、33年には首位打者を獲得! この年、鳴り物入りでデビューした長嶋茂雄(巨人)の三冠王を阻んだのは、謙次郎だったのです! Wikipediaより昭和33年のプロ野球個人成績↓ 私satyriconは実際のプレーを見たことがない方ばかりですが、藤田元司、長嶋茂雄、金田正一、稲尾和久、杉浦忠、中西太…そうそうたるメンバーですね。 この年のシーズンオフ、謙次郎は大毎オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に移籍し「ミサイル打線」の中心選手として活躍、昭和35年のリーグ優勝にも貢献しました。 38年の現役引退後は、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)監督や阪神ヘッドコーチ、台湾プロ野球の味全ドラゴンズ監督、阪神OB会会長などをつとめ、野球殿堂入りも果たしています! 写真上:野球殿堂入り記念のレリーフ、下左:首位打者のトロフィー、下右:ベストナインのトロフィー↓ このように野球界で大きな足跡を残した田宮さんですが… 晩年はふるさと下館に戻り、市議会議員として市政にも貢献しました。 また、自らの名を冠した少年野球大会(田宮杯中学校野球大会)を開催したり、少年硬式野球の筑西田宮ボーイズを結成するなど、ふるさとのスポーツ振興や青少年育成にも寄与しています↓ 天国の田宮さん、どうかこれからも筑西(下館)の未来を見守っていてください。 というわけで、下館・時の会 第22回企画展「田宮謙次郎展」のご紹介でした。 ■下館・時の会 第22回企画展「田宮謙次郎展」 日時 平成24年4月22日(日)〜5月6日(日) 午前10時〜午後6時 場所 時の蔵(筑西市甲939)※板谷波山記念館南 料金 入場無料 主催 下館・時の会 TEL0296−23−2607 後援 筑西市(まちづくりファンド補助事業) 筑西市教育委員会 筑西田宮ボーイズ 下館勝虎会 筑西軟式野球連盟 四一会 |
田宮謙次郎さん(プロ野球)
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5月10日(月)、茨城県筑西市出身の元プロ野球選手・田宮謙次郎さん(5日脳内出血で逝去、享年82歳)の葬儀・告別式が筑西市下川島のきぬ聖苑で営まれました。 祭壇は白菊でタイガースマークが、場内には阪神−巨人OB戦で着用した背番号22のユニホームなど田宮さんの活躍を示す品々が飾られ、田宮さんは阪神の応援歌・六甲おろしが流れる中で天国に旅立ちました。 式には阪神球団の坂井オーナー、南球団社長、安藤統男元阪神監督、田宮さんや山内一弘さん(故人)とともに大毎ミサイル打線を形成した葛城隆雄さん、筑西市の吉沢範夫市長など170人が出席。 阪神元監督の吉田義男さんや星野仙一SD、ソフトバンク王貞治会長やヤンキース井川慶選手などから献花が、阪神の真弓明信監督、オリックスの岡田彰布監督、阪神OB会の田淵幸一会長など多くのプロ野球関係者から弔電が寄せられ、偉大な野球人の死を悼みました。 参列した坂井オーナーは「改めて偉大な方だと感じた。いい報告ができるように頑張らないといけない」と5年ぶりのリーグ優勝を約束。 田宮さんがアドバイザーとしてフロント入りした際に球団広報を務めていた南球団社長は「親子ほどの年の差があったが、ためになるお話をたくさん伺った」と振り返りました。 なお9日(日)に同所で営まれた通夜には、元日本ハム監督の大沢啓二さんなど300人が参列。 田宮氏さんの大毎在籍時、南海の主力選手として対戦した大沢さんは「ミサイル打線の中心選手だった。よく打たれたね」と語り、「野球界の発展に貢献してくれました。ゆっくり休んでもらいたい」と故人をしのびました。 また一人、郷土の誇る偉人が旅立ってしまいました。 あらためまして、ご冥福をお祈りいたします。 |
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5月5日(水)午前10時42分、茨城県筑西市(旧:下館市)出身の元プロ野球選手・田宮謙次郎(たみや・けんじろう)さん82歳が、脳内出血のため筑西市内でお亡くなりになりました。 葬儀は10日午後1時から、市内下川島のきぬ聖苑で行われるそうです。 昭和33年、オールスターでの田宮謙次郎さんと川上哲治さん↓ 平成14年、野球殿堂入りを喜ぶ田宮謙次郎さん、福本豊さん、鈴木啓示さん、山内一弘さん↓ 田宮謙次郎さんの訃報を伝えるスポーツ紙↓ 田宮さんは、茨城県立下館商業学校(現:下館一高)から日大へ進学、同大を中退して昭和24年に阪神に入団しました。 1年目からいきなり11勝をあげるなど活躍しましたが、肩痛のため昭和27年から野手に転向。 打者としても才能を開花させ、33年には打率3割2分で首位打者を獲得、巨人の新人・長嶋茂雄さんの三冠王を阻止しました。 昭和34年に大毎(現:ロッテ)へ移籍すると「ミサイル打線」の中心打者として活躍し、35年のリーグ優勝に貢献するなどプロ野球界に大きな足跡を残しました。 プロ15年間での通算成績は、1488試合出場、打率2割9分7厘、106本塁打、597打点。 打率3割以上を7度マークし、外野手としてベストナインに5度選ばれています。 現役引退後は東映〜日拓(現日本ハム)監督を務め、中日、阪神のコーチも歴任。 平成6年から2年間、台湾プロ野球・味全の監督を務めたこともあります。 平成14年には野球界への貢献が認められ野球殿堂入り。 また、昭和59年から平成13年まで阪神OB会長を務め、同じ茨城県出身の井川慶投手(阪神〜米大リーグ・ヤンキース)の後見人でもありました。 ふるさとを想う気持ちが強く、昭和57年から下館市(現:筑西市)と近隣の中学校が参加する「田宮杯中学校野球大会」を毎年開催するなど、地元アマチュア野球の普及にも尽力しました。 平成12年の下館市議会議員選挙に立候補して当選(1期で引退)。 平成14年には、下館市民栄誉賞を受賞しています。 謹んで御冥福をお祈りいたします。 |
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