レフト・シンチーのオペラ

昼は本を読み、歌を詠み、夜は酒を呑む。私です。

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怖いものナイン

偉大なる人類の幻想!
崇高なる知性と希望!
親愛なるソ連よ、永遠なれ!
ルサンティマンは恐ろしいです。
ルサンティマンを抱かれたとき、それはその人物を殺すか、自身の死を覚悟するか、どちらかを選ばなくてはいけなくなるのである。
私が喜びに包まれるとき、私は老人になった。
私が怒りに包まれるとき、私は子供になった。
私が悲しみに包まれるとき、私は男になった。
私が苦しみに包まれるとき、私は女になった。
私が幸福に包まれるとき、私は何者でもなくなった
ルサンティマンという名前が、その価値を決めるのではない。
ルサンティマンという力への意志が、まさに善悪の彼岸なのだ。

個人的にパウロはキライですけど、パウロが書いたとされる手紙たちは大好きです。
判断なき施策に価値はなく、
努力なき思索に効果はありません。
イエスの直接の弟子たちが原始的な「キリスト教」を作ったと言えるかもしれませんが、事実そうですし、
でも、考えようによっては、パウロが彼らキリスト教の使徒になったのではなく、
パウロがイエスの言説を基にした宗教である今日の「カソリック教会」を作ったと言っても過言ではありません。

あてもなく、意味もない時間つぶしの旅
今はどうであれ、
人はそのとき大切だったものを持っているものです。
そして、それを再び大切にできるとしたら。
それ故に人は何かを取り戻すことに憧れます。
私が「何か」と思ったとき、
それらはすべて、もはや過去のものになり、
「何か」だったものに変わってしまう。
私が大切にした「何か」は、
もはや「何か」ではない何かに変わってしまう。

正義の味方 民主主義マンが悪の怪人 全体主義マンを倒そうと、戦いを始めるも、
黒幕 社会主義マンが暗躍する内部分裂を背景に、
仲間だと思っていたユダヤ系の資本主義マンに内乱を企てられ、
窮地に立つ民主主義マンは、最後の希望 平和主義マンと共に、
机上の空論の言論戦争に赴くのだ!!

ああ、世界が共産主義になればいいのに。
それなら、まだ戦う余地がありそう。

我らが母なる大地
我らが祖国こそなれ
果てなる民族も
さらなる同胞も
約束された青空
ソ連よ、永遠なれ!
共産主義万歳!
永遠なるソ連!

我らが友たる人民
我らが協同たれ
いかなる苦難も
さらなる貧困も
約束された自由
喜びも、夢であれ!
資本主義万歳!
永遠なる夢!

私たちが「神」というとき、私たちは「神」について何かを知っている。
しかし、私たちに知られた神は果たして、私たちが知らない深淵に導く神なのか。私たちが知られない慈愛へ導く神なのか。
ああ!!!
嘔吐!!嘔吐!!嘔吐!!
資本主義、近代文明、家庭平和!!
強者が生き残る世界!!!
弱者が虐げる世界!!!
ルサンティマン!
力への意志!
ヒトラーは何を信じたのか!!
ケネディは何を見たのか!!
すべての近代性に嘔吐!!!!
嘔吐!!嘔吐!!嘔吐!!
偉大なるレーニン!!
偉大なるマルクス!!
しかし、私はカール・シュミットが偉大なることを知っています!
いかなるサッチャリストよりも!
ケインズ主義よりも!
ルソー的、プラトン的、民主主義の強大さを知っています!!!
ゆえに、私は反対します!!!!!
民主主義に反対します!!!
ああ、聖なるかな!
キリストの聖なるかな!
聖なるかな!
聖なるかな!
生まれに罪はない!
生きるに罪はあり!
共産主義の世界を夢に見る資本主義の現実が記憶の底

ああ!
白いワニ!白いワニ!白いワニ!
もうおしまい!!!
白いワニが!白いワニが!
もう私は終わりです!
死にそうです!
白いワニ!白いワニ!白いワニ!
白いワニ!白いワニ!白いワニ!

かつて私は理性を考えるものだった。
次に私は生命を考えるものになった。
そして、考える私を考えるようになった。
今は、考えるものを考えるものになった。

1回目でしようとは思っていない。
2回目でできるとは思っていない。
3回目で初めて反省をしなさい。

焦ってはいけない。
急ぎなさい。

決して、お里が知れると述べてはならない。
汝こそ、お里が知られないよう、口を慎め。
最近、何をされても、何を言われても、
怒ることがバカらしくて、
この人ってなんてかわいそうなんだろうと思うようになってきました。
神はイスカリオテのユダでさえ、お赦しになられました。
赦すことこそ、神の御技です。
汝、なすべきことをしなさい。
イエスはイスカリオテのユダにそう仰られました。
イエスがそう仰られたとき、ユダの罪は赦され、ユダは主の御心のままに、イエスを裏切ったのです。
それをイエスはご存知でした。
なぜなら、イエスこそ人の子であり、信仰の奇跡だからです。
主の御愛はやがてパウロにまでもたらされます。
ユダに向けられたイエスの慈悲は、パウロへの慈愛となり、
主の御心から外れたパウロの罪を、お赦しになられたのです。
パウロに起きた奇跡こそ、イエスが人の子であり、信仰の奇跡である証です。

もう人と話すのがコワイ!
なんで私が交渉ごとなんてしなきゃいけないの!
そういうのがイヤで仕事変えたのに。
人間となんか話したくない!!
ウソついてたくないの。
ウソついてるんだなって思いたくないの。
もう私に言葉の裏を悟らせないで。
ウソつくんならちゃんと隠して。
もう疑ってたくないの。
私を疲れさせないで。
少しでも信用に、ほんの欠片でもいいから値する人に出会いたい。
精神の負い目を持つ人にも、主は幸いを授けてくださったはずなのに。
どうして、いつまでも人は疑義に迷っているの?

信仰によって奇跡が起こるのではなく、
信仰こそ奇跡なのである。
ルカ福音書で強調されている「あなたの信仰があなたを救った」という文言が、
イエスの口を通じて、奇跡の真実を明らかにしている。
盲人は何を見たのか!
足なえはどこへ行ったのか!
聾唖は何を聞いたのか!
イエスの奇跡によって!!!
聞こえるはずのなかった言葉!
たどり着くはずのなかった場所!
見えるはずのなかった世界!
彼自身の信仰が彼自身を救った!
信仰という奇跡によって。
信仰という奇跡が、彼らに新しい世界を、言葉を、場所を与えたのだ!
なら、彼らよりも見て、聞いて、歩く私たちはどうか。
私たちにさえ見えなかった、聞こえなかった、たどり着けなかった奇跡が!
信仰によってもたらされる!!
奇跡が起きたから信仰するものは不信心である。
実際は反対なのだ。
しかし、信心深い信仰によって奇跡が起きるのではない。
実際は逆なのだ。
信仰という奇跡によって、私たちは救われるのだ。
まさに信仰こそ奇跡である。

神は存在する、という言い回しはあからさまな間違いである。
神は存在するのではなく、すべての存在するものが存在するための存在を存在させた方だからである。
つまり、神は存在するものの存在であり、存在の前提なのである。
まさに、神を正しく言い表すとすれば、神!!、というほかない。
ただ、然り、否、といえ。
この言葉が神の真実をよく表している。
まさに、私たちが自然界、宇宙のすべてを基礎づけているのではない。
私たちは自然の力に、宇宙の力に、ただ然りと否を述べればよいのだ。
裁くのは私たちではない。
裁きをされるのは、ただ我らが主の神のみである。
裁くな。自ら裁くとき、あなたは裁かれる者となる。


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