レフト・シンチーのオペラ

昼は本を読み、歌を詠み、夜は酒を呑む。私です。

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女しばらく恋路に揚巻

共産主義は何が残されているか。
何もない。
まさに、イエスが軽蔑した通りに、
神の右に座る者がイエスなら、
左にすわるの誰か?
それは決して共産主義でも資本主義でも、
民主主義でもない!!!!!!!!!
決して、民主主義でもない!!!!!!!!!!!!!!!!
生命はとある孤独である。
しかし、絶対的な孤独こそ、救いへの足がかりとなる。
孤独には慰めがある。
神の慈悲と生命への愛がある。
神がただの独り子を愛するほどに、あなたは孤独な生命を愛する。

米とパンは粘土!!!
あんなもの口にする奴の気が知れない!!!!
粘土!
米は粘土!!
パンは粘土!!!!!!

酒は飲みたい時に飲めばいいが、
飲みたいだけ飲んではいけない。

人間はあまりに大きな事柄には老眼となり、
あまりに小さな事柄には近眼になり果てる。
これを祓うのは何か!?
見聞きを助けるメガネではない。
世界の盲目を祓う目!
世界を見渡す目である!!

律法を守ることが重要なのではなく、
なぜ律法が必要とされたのか、
いかに律法を克服するのか、
それこそイエスの言葉であり、
我らの父の御心である。
宗教を理解できない者にとって、
科学こそ、さらに理解できないだろう!
むしろ、宗教すら理解できない者にとって、
科学など到底、理解できないだろう!
科学こそ、現代にとって最大の宗教である!!

もう、怒るのも疲れたし、
同情するのも疲れた。
私が願うのは、
明日という日がない今日を生きること!
今日だけを生きていたい!
ただのアサガオ、夕暮れのセミ。
昨日も明日もない一日。
ウソつきを断罪せねばならない。
かつてカインのウソにもたらされた報いは何であったか。
しかと受けとめよ。
私のついた罪深いウソ。
私が生きているという大きなウソ。
もうとっくに死んだはずの私が、だましつづけている真実。
覆われないもので明らかにならないものはない。
ついにウソが暴かれようとしている。
包みかくさぬ真実。
私の死!
永遠の死!
ラザロは死んでながら大地を歩いた。
しかし、永遠の生命を信じたのは偉大なる主のみだった。
では、生きながら気配を隠すのは誰か。
それはイスカリオテのユダとキェルケゴール、そして、私だ!
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
貴方はついにモーセの神となり、ダビデの神となり、エゼキエルの神となり、
イエスの神となり、ヨハネの神となり、パウロの神となった。
しかし、貴方の神性を真実に信じたのは、イエスだけだった。
彼はその名の通り、神という真実を知る者だった。
今日、私は死ぬ。
私は今日、死ぬ!
そう!私は死ぬ!
今日、死ぬことができるんだ!
私の真実。私の空腹。
私すらを赦せない私の卑しさ。
私という大地の穢れ。
今日の死が、人類の永遠の幸福であるように。
私の死が、主にとって私の最大の愛であるように。
贈り与える徳。
それが愛。
大いなる憧れ。
それが罪。
最も静かな時、
それが歌。
快癒に向かう者、
それが、価値を転倒させ、自らを超えていく者!
力への意志!
私だけの昼が来る!!

悔い改めよ
悔い改めた命よ
主の御名が聞こえるか
その耳が目に変わったとき
お前は初めて命となる
悔い改めよ
救われるべき命よ
天高く見上げよ
主の御心の叶うままに
信仰こそ奇跡。
めしいの目を開け、
あしなえを立たせた奇跡。
死者をも復活させた奇跡。
私たちは貴方を信じます。
信じる者に奇跡はなく、
奇跡によって信じる者に救いはなく、
信じることそのものが奇跡であることを、
私たちはしかと信じます。
信仰こそ奇跡であり、救済なのです。
ああ、救いたまえ。
悔い改めよ。
行われた奇跡に、もはや価値はない。
奇跡という真実が重要であり、
信仰という事実が必要である。
主はまことに慈悲深くあらせられる。
主に従うことを知りながら、罪の意識に連なることを拒む者よ。
お前たちこそ、主の奇跡に預かれる。
己を悔やむ者よ。
信仰の道に着け。
己の悔い改めを主は望み、
お前がその道に連なることを願う。
悔い改めよ。悔い改めよ。
信仰こそ、本当の奇跡である。
決して奇跡を信じるな。
信仰こそ主の奇跡なのだ。

キセル百本火の用心

クシャミ出そうで出ない。
ああ、世界が共産主義になればいいのに。
それなら、まだ戦う余地がありそう。
私たちが「神」というとき、私たちは「神」について何かを知っている。
しかし、私たちに知られた神は果たして、私たちが知らない深淵に導く神なのか。私たちが知られない慈愛へ導く神なのか。

我らが母なる大地
我らが祖国こそなれ
果てなる民族も
さらなる同胞も
約束された青空
ソ連よ、永遠なれ!
共産主義万歳!
永遠なるソ連!
我らが友たる人民
我らが協同たれ
いかなる苦難も
さらなる貧困も
約束された自由
喜びも、夢であれ!
資本主義万歳!
永遠なる夢!

ああ!!!
嘔吐!!嘔吐!!嘔吐!!
資本主義、近代文明、家庭平和!!
強者が生き残る世界!!!
弱者が虐げる世界!!!
ルサンティマン!
力への意志!
ヒトラーは何を信じたのか!!
ケネディは何を見たのか!!
すべての近代性に嘔吐!!!!
嘔吐!!嘔吐!!嘔吐!!

偉大なるレーニン!!
偉大なるマルクス!!
しかし、私はカール・シュミットが偉大なることを知っています!
いかなるサッチャリストよりも!
ケインズ主義よりも!
ルソー的、プラトン的、民主主義の強大さを知っています!!!
ゆえに、私は反対します!!!!!
民主主義に反対します!!!

ああ、聖なるかな!
キリストの聖なるかな!
聖なるかな!
聖なるかな!
生まれに罪はない!
生きるに罪はあり!
共産主義の世界を夢に見る資本主義の現実が記憶の底。

かつて私は理性を考えるものだった。
次に私は生命を考えるものになった。
そして、考える私を考えるようになった。
今は、考えるものを考えるものになった。
1回目でしようとは思っていない。
2回目でできるとは思っていない。
3回目で初めて反省をしなさい。

焦ってはいけない。
急ぎなさい。

決して、お里が知れると述べてはならない。
汝こそ、お里が知られないよう、口を慎め。

最近、何をされても、何を言われても、
怒ることがバカらしくて、
この人ってなんてかわいそうなんだろうと思うようになってきました。
神はイスカリオテのユダでさえ、お赦しになられました。
赦すことこそ、神の御技です。
汝、なすべきことをしなさい。
イエスはイスカリオテのユダにそう仰られました。
イエスがそう仰られたとき、ユダの罪は赦され、ユダは主の御心のままに、イエスを裏切ったのです。
それをイエスはご存知でした。
なぜなら、イエスこそ人の子であり、信仰の奇跡だからです。
主の御愛はやがてパウロにまでもたらされます。
ユダに向けられたイエスの慈悲は、パウロへの慈愛となり、
主の御心から外れたパウロの罪を、お赦しになられたのです。
パウロに起きた奇跡こそ、イエスが人の子であり、信仰の奇跡である証です。

もう人と話すのがコワイ!
なんで私が交渉ごとなんてしなきゃいけないの!
そういうのがイヤで仕事変えたのに。
人間となんか話したくない!!
ウソついてたくないの。
ウソついてるんだなって思いたくないの。
もう私に言葉の裏を悟らせないで。
ウソつくんならちゃんと隠して。
もう疑ってたくないの。
私を疲れさせないで。
少しでも信用に、ほんの欠片でもいいから値する人に出会いたい。
精神の負い目を持つ人にも、主は幸いを授けてくださったはずなのに。
どうして、いつまでも人は疑義に迷っているの?

信仰によって奇跡が起こるのではなく、
信仰こそ奇跡なのである。
ルカ福音書で強調されている「あなたの信仰があなたを救った」という文言が、
イエスの口を通じて、奇跡の真実を明らかにしている。
盲人は何を見たのか!
足なえはどこへ行ったのか!
聾唖は何を聞いたのか!
イエスの奇跡によって!!!
聞こえるはずのなかった言葉!
たどり着くはずのなかった場所!
見えるはずのなかった世界!
彼自身の信仰が彼自身を救った!
信仰という奇跡によって。
信仰という奇跡が、彼らに新しい世界を、言葉を、場所を与えたのだ!
なら、彼らよりも見て、聞いて、歩く私たちはどうか。
私たちにさえ見えなかった、聞こえなかった、たどり着けなかった奇跡が!
奇跡が起きたから信仰するものは不信心である。
実際は反対なのだ。
しかし、信心深い信仰によって奇跡が起きるのではない。
実際は逆なのだ。
信仰という奇跡によって、私たちは救われるのだ。
まさに信仰こそ奇跡である。

神は存在する、という言い回しはあからさまな間違いである。
神は存在するのではなく、すべての存在するものが存在するための存在を存在させた方だからである。
つまり、神は存在するものの存在であり、存在の前提なのである。
まさに、神を正しく言い表すとすれば、神!!、というほかない。
ただ、然り、否、といえ。
この言葉が神の真実をよく表している。
まさに、私たちが自然界、宇宙のすべてを基礎づけているのではない。
私たちは自然の力に、宇宙の力に、ただ然りと否を述べればよいのだ。
裁くのは私たちではない。
裁きをされるのは、ただ我らが主の神のみである。
裁くな。自ら裁くとき、あなたは裁かれる者となる。

偲んでよいのは故人だけであり、決して個人を拝んではならない。
イエスは洗礼者ヨハネについておっしゃられた。
「『私は貴方より先に使者を遣わし、貴方の前に道を準備させよう』と書いてあるのはこの人のことだ。」と。
これは人の子として生まれたイエスのことも示していないだろうか!
イエスもまた主の道を整える使者なのだ!!!
信仰によってもたらされる!!
えてして、愚か者は死者ではなく、使者を崇拝しがちである。
本当の権威がどこにあるのかを取り違えたまま。
彼らはその過ちによって地獄へ落ちる。

怖いものナイン

偉大なる人類の幻想!
崇高なる知性と希望!
親愛なるソ連よ、永遠なれ!
ルサンティマンは恐ろしいです。
ルサンティマンを抱かれたとき、それはその人物を殺すか、自身の死を覚悟するか、どちらかを選ばなくてはいけなくなるのである。
私が喜びに包まれるとき、私は老人になった。
私が怒りに包まれるとき、私は子供になった。
私が悲しみに包まれるとき、私は男になった。
私が苦しみに包まれるとき、私は女になった。
私が幸福に包まれるとき、私は何者でもなくなった
ルサンティマンという名前が、その価値を決めるのではない。
ルサンティマンという力への意志が、まさに善悪の彼岸なのだ。

個人的にパウロはキライですけど、パウロが書いたとされる手紙たちは大好きです。
判断なき施策に価値はなく、
努力なき思索に効果はありません。
イエスの直接の弟子たちが原始的な「キリスト教」を作ったと言えるかもしれませんが、事実そうですし、
でも、考えようによっては、パウロが彼らキリスト教の使徒になったのではなく、
パウロがイエスの言説を基にした宗教である今日の「カソリック教会」を作ったと言っても過言ではありません。

あてもなく、意味もない時間つぶしの旅
今はどうであれ、
人はそのとき大切だったものを持っているものです。
そして、それを再び大切にできるとしたら。
それ故に人は何かを取り戻すことに憧れます。
私が「何か」と思ったとき、
それらはすべて、もはや過去のものになり、
「何か」だったものに変わってしまう。
私が大切にした「何か」は、
もはや「何か」ではない何かに変わってしまう。

正義の味方 民主主義マンが悪の怪人 全体主義マンを倒そうと、戦いを始めるも、
黒幕 社会主義マンが暗躍する内部分裂を背景に、
仲間だと思っていたユダヤ系の資本主義マンに内乱を企てられ、
窮地に立つ民主主義マンは、最後の希望 平和主義マンと共に、
机上の空論の言論戦争に赴くのだ!!

ああ、世界が共産主義になればいいのに。
それなら、まだ戦う余地がありそう。

我らが母なる大地
我らが祖国こそなれ
果てなる民族も
さらなる同胞も
約束された青空
ソ連よ、永遠なれ!
共産主義万歳!
永遠なるソ連!

我らが友たる人民
我らが協同たれ
いかなる苦難も
さらなる貧困も
約束された自由
喜びも、夢であれ!
資本主義万歳!
永遠なる夢!

私たちが「神」というとき、私たちは「神」について何かを知っている。
しかし、私たちに知られた神は果たして、私たちが知らない深淵に導く神なのか。私たちが知られない慈愛へ導く神なのか。
ああ!!!
嘔吐!!嘔吐!!嘔吐!!
資本主義、近代文明、家庭平和!!
強者が生き残る世界!!!
弱者が虐げる世界!!!
ルサンティマン!
力への意志!
ヒトラーは何を信じたのか!!
ケネディは何を見たのか!!
すべての近代性に嘔吐!!!!
嘔吐!!嘔吐!!嘔吐!!
偉大なるレーニン!!
偉大なるマルクス!!
しかし、私はカール・シュミットが偉大なることを知っています!
いかなるサッチャリストよりも!
ケインズ主義よりも!
ルソー的、プラトン的、民主主義の強大さを知っています!!!
ゆえに、私は反対します!!!!!
民主主義に反対します!!!
ああ、聖なるかな!
キリストの聖なるかな!
聖なるかな!
聖なるかな!
生まれに罪はない!
生きるに罪はあり!
共産主義の世界を夢に見る資本主義の現実が記憶の底

ああ!
白いワニ!白いワニ!白いワニ!
もうおしまい!!!
白いワニが!白いワニが!
もう私は終わりです!
死にそうです!
白いワニ!白いワニ!白いワニ!
白いワニ!白いワニ!白いワニ!

かつて私は理性を考えるものだった。
次に私は生命を考えるものになった。
そして、考える私を考えるようになった。
今は、考えるものを考えるものになった。

1回目でしようとは思っていない。
2回目でできるとは思っていない。
3回目で初めて反省をしなさい。

焦ってはいけない。
急ぎなさい。

決して、お里が知れると述べてはならない。
汝こそ、お里が知られないよう、口を慎め。
最近、何をされても、何を言われても、
怒ることがバカらしくて、
この人ってなんてかわいそうなんだろうと思うようになってきました。
神はイスカリオテのユダでさえ、お赦しになられました。
赦すことこそ、神の御技です。
汝、なすべきことをしなさい。
イエスはイスカリオテのユダにそう仰られました。
イエスがそう仰られたとき、ユダの罪は赦され、ユダは主の御心のままに、イエスを裏切ったのです。
それをイエスはご存知でした。
なぜなら、イエスこそ人の子であり、信仰の奇跡だからです。
主の御愛はやがてパウロにまでもたらされます。
ユダに向けられたイエスの慈悲は、パウロへの慈愛となり、
主の御心から外れたパウロの罪を、お赦しになられたのです。
パウロに起きた奇跡こそ、イエスが人の子であり、信仰の奇跡である証です。

もう人と話すのがコワイ!
なんで私が交渉ごとなんてしなきゃいけないの!
そういうのがイヤで仕事変えたのに。
人間となんか話したくない!!
ウソついてたくないの。
ウソついてるんだなって思いたくないの。
もう私に言葉の裏を悟らせないで。
ウソつくんならちゃんと隠して。
もう疑ってたくないの。
私を疲れさせないで。
少しでも信用に、ほんの欠片でもいいから値する人に出会いたい。
精神の負い目を持つ人にも、主は幸いを授けてくださったはずなのに。
どうして、いつまでも人は疑義に迷っているの?

信仰によって奇跡が起こるのではなく、
信仰こそ奇跡なのである。
ルカ福音書で強調されている「あなたの信仰があなたを救った」という文言が、
イエスの口を通じて、奇跡の真実を明らかにしている。
盲人は何を見たのか!
足なえはどこへ行ったのか!
聾唖は何を聞いたのか!
イエスの奇跡によって!!!
聞こえるはずのなかった言葉!
たどり着くはずのなかった場所!
見えるはずのなかった世界!
彼自身の信仰が彼自身を救った!
信仰という奇跡によって。
信仰という奇跡が、彼らに新しい世界を、言葉を、場所を与えたのだ!
なら、彼らよりも見て、聞いて、歩く私たちはどうか。
私たちにさえ見えなかった、聞こえなかった、たどり着けなかった奇跡が!
信仰によってもたらされる!!
奇跡が起きたから信仰するものは不信心である。
実際は反対なのだ。
しかし、信心深い信仰によって奇跡が起きるのではない。
実際は逆なのだ。
信仰という奇跡によって、私たちは救われるのだ。
まさに信仰こそ奇跡である。

神は存在する、という言い回しはあからさまな間違いである。
神は存在するのではなく、すべての存在するものが存在するための存在を存在させた方だからである。
つまり、神は存在するものの存在であり、存在の前提なのである。
まさに、神を正しく言い表すとすれば、神!!、というほかない。
ただ、然り、否、といえ。
この言葉が神の真実をよく表している。
まさに、私たちが自然界、宇宙のすべてを基礎づけているのではない。
私たちは自然の力に、宇宙の力に、ただ然りと否を述べればよいのだ。
裁くのは私たちではない。
裁きをされるのは、ただ我らが主の神のみである。
裁くな。自ら裁くとき、あなたは裁かれる者となる。

あなたは気づかないかもしれませんが、
あなたも知らず知らずの内に、人の気持ちを踏みにじり、裏切っているのです。
だから、私があなたの気持ちをワザと知らんぷりし、逆撫でしたとしても悪く思わないでください。
無意識にする分、あなたの方が私よりタチが悪いです。

最近のテレビは本当に不愉快です。
どこもかしこも、政府内閣や国会議員はあれこれと言われて非難されているけど、
日本という国の制度や気風は、本当はすごくいい国なんだよ、と宣伝しているような内容ばかり。
ツイッターのつまらないイタズラに大騒ぎするより、もっとやることないんでしょうか。
なまじっか、ゴールデンタイムのバラエティまでもが、そんな内容だから、余計にタチが悪です。
日本はいい国でしょうとも。
何にも考えずに、昨日と今日の空腹が満たされるだけでいいなら。
日本が本当に好きなら、けなしてなんぼだと思いますけど。
本当にけなしている馬鹿どもは除いて。
最近、メディアで取り上げられる多民族性の宥和も気に入らないです。
アメリカもロシアも元から多民族国家ですし、ヨーロッパの国々も多民族性になりつつあります。
同じ一国籍を有する人間としては同国民と理解できても、民族としての仲間だとは、微塵も思っていないのは、どの国も人々も事実です。
もし、どの国家も民族が宥和できているなら、民族対立のデモや紛争が夕方のニュース番組で放送されるなんて、正気の沙汰ではないでしょうから。
それは経済差別や社会差別の残存が理由でもありますが、人間は昔から差別する生き物です。
男女でさえあるんですから、差別のない社会なんてありません。
社会という集団を作っている時点で、それは一つの差別です。
民主主義とはある同質性による、喪失者たちの政治制度なわけですから、
ある民主主義による政治的平等が促進されるほど、その同質性という他との差別が加速していくのです。
カール・シュミットはいち早くその仕組みを理解した偉人です。

カール・シュミットの『現代議会主義の精神的地位』を読んだときの衝撃は今でも覚えています。
自分が大学で習ってきた政治哲学が、全てちゃぶ台返しになった気分でした。
それ以降、私は私たちが当たり前で、美徳としている自由と権利、そして、民主主義という思想を問いつづけることになるのです。
シュミットを紹介していただいた先生からは、さらにたくさんの政治学者とその思想を教わりました。
どれも他の先生は教えてくれなくて、使用教科書にも載っていないものばかりでした。
現代では傍系に追いやられているものばかりでしたが、主系に待ったを唱えるものの必要性を理解した瞬間でした。
シュムペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』は比較的有名で、現代でも受け入れられている著書ですが、
大衆について、あれほど明確に、しかも、大衆にとっても大衆を扇動する側にとっても、
まるで自分のことではないと勘違いしてしまうほどに、納得させられてしまう語り口はさすがです。
あと記憶してるのはロバート・ダールについてでしょうか。
ダールは現代民主主義にとって、なくてはならない政治学者ですが、
ダールの民主主義の明瞭たる理論が、そのまま民主主義の欠陥を示しているという鏡張りの指摘は、ダールに限らず、多くの思想研究において非常に有意義でした。
なんにせよ、その先生がいなければ、当時の私は何の疑問もさしはさまずに、自由民主主義の主張を謳歌していたことでしょう。
あくまで政治学についてはですから、哲学や宗教学は他の先生がきっかけでしたが。
でも、「当たり前をそのままにしない」という考え方は、政治学の経験があったからです。
私に哲学と宗教学を教えていただいた先生には、感謝の言葉すら述べるのがおこがましいです。
あの講義がなかったら、空っぽなはずの私に気づかないまま、私は空っぽであることを自覚できませんでした。
当たり前であったことがたくさんの疑問に変わり、たくさんの思想につながったときでした。
哲学はもちろんですが、宗教学について教わったことは、どんな勉学よりも素晴らしかったです。
それは私が宗教を信じるかではなく、宗教とは何であるかを考え、理解することでした。
宗教ほど当たり前になっているものの最たるものですから。
それは文化や習慣、常識全てに派生していくのです。
そして、ついには宗教をした人間とは、太古たる人間と、現時たる人間とは、果たしていかにあり、なんであるのか。
思想とはなんであるのか。
ついては私が生きている事実と、私が死んでいるという真実がなんであるのか。
これらを問う私となったのです。
ここが今の私の進捗点です。

はー。おしまいだな。いろいろと。
マカロニグラタンを頼んだつもりが、エビドリアが出てきたときぐらいに、おしまいです。
もう、私はおしまいです。葬式も近いですね。
私は呪われた人間だ。
決して、女、子供、子供をもつ男は私と話をしないように。
私が話す真実は、本当に純粋な人間にとって真実であり、有意義であっても、
恐竜以来の生命をつなぎ、生きることの喜びを共有する一般人にとっては害悪でしかない。
神の正義こそ世間は嫌う。それが私である。
毎日毎日、今日こそ交通事故に遭うか、通り魔にでも遭わないかと、
自分の死ばかりを考える毎日です。
私という生命が世界の不幸であると知った日から、私は世界のために死ぬことを願うのみです。
世界の幸福でない私に、せめてこれだけは叶えさせてください。
私の死が世界の不幸でないことを。
ああ、5年後といわず、明日にでも私殺してください。
形態は問いません。
生命の堕落をもたらした国家刑罰の罪でも、戦中の国家の治安維持の罪でも、ホロコーストでも、
死にゆく者は幸いである。
私という生命は、この世に生命を受けた時点で、その終わりを約束されているのです。

雨の日は物悲しい音楽を聴くのがいいです。
物悲しいのが大切です。
壮絶に悲しい音楽は晴れの日に聴きますから。
じわりじわりと悲しみが満ちていきます。
最近のテレビ番組はすごく不愉快です。
ニュース番組とかは、朝の身支度とか、夕食時に仕方ないから観てやっているだけで、
殊、バラエティー番組などは虫酸が走ります。
こんな卑しくて、いかにもヤラセだと言わんばかりの番組しかないとは。
日本のレベルの低さです。むしろ、レベルが高いのか。
帰宅してテレビがついているとそれだけで、食事すらもダイニングに拘束されて食事をとる服役者の苦痛にも似ています。
バラエティーを観させられるくらいなら、食事なんて放棄してやる!と叫びたいくらいです。
きっとみんな、自分の不幸から逃げたくて、誰かを笑おうと必死なんでしょう。
でも、「ファルスタッフ」のフィナーレにある通り、みんな誰かを笑うけど、最後に笑った人が、一番の笑い者なんです。

別に誰が誰と付き合おうと、どんな趣味を持ってようと、大人なんですから一向に構わないんですが、
とにかく話題をほじくりかえすことで躍起になってるマスメディアが、
確証もない話題を「!?」でお茶を濁して、あたかも取材完璧な事実のように報道して、
みんなで冷やかしてるのが気にくわない。
タレントだって大人なんですから、交際を持つことだってあるでしょう。いろんな趣味もあるでしょう。
ファンはそんなこと気にしません。
なにが悲しいって、その人が交際をもっていたことじゃなくて、
そんな変な報道をされることで、その人のタレント活動に支障が出るかもしれないってことです。
そんなツマラナイ報道が今でもなくならないのは、
その話題に本当にショックを受ける純朴な人たちがいるからだろうし、
その話題で陰口を回して楽しむ、ファンでも何でもない人たちがいるからなんでしょうね。
本人と絶対に顔を合わせないでする話題ですからね。
負い目の欠片もないのでしょう。
しかもそういう話題のときって、熱心さを自称するファンに限って、「ダマされた!」とかわめいて、グッズを捨てるんですよね。
そういうファンさんは、タレントさんの仕事や作品は全く興味がなくて、好きでも何でもなくて、その人自身を愛してるんでしょうか。
会ったこともないのにご苦労様です。
タレントって、まさにその人にしかないタレントを見せることで、みんなに満足を与えていて、
清廉清純というパフォーマンスまでがタレント活動だと思いますけど。
仕事を離れたら私たちと変わらない市民ですから、
プライベートまで清廉清純とかいう設定って、あなたが勝手につけたものですよね。
普段はこういう話題は読み流したり、聞き流したりしますが、
あまりに稚拙な記事を目にしてしまったんで悲しくなってしまいました。
悲しい理由は以下の通りだったんですけど。
当のタレントさんは慣れっこだと思うので、意にも介してないかもしれませんが。
私の勝手な、余計なお世話です。

昔は政治的な発言が好きだったけど、最近は追いかけるのが疲れちゃった。
世間的な発言より、反逆的哲学的な発言の方が、しかも、世間の神経を逆なでするような発言をする方が楽しくなってきたんで、世間の利益になるような、世の中のためになるような意見や提案は、もうしばらく封印しましょう。
人生を費やすべき使命に燃える人間は命すらも惜しまないが、
生命をもてあまし、人生の戯言に遊興する人間は、死ぬことすらもったいつける。
それが私です。
自身の人類としての生命的欠陥に気づいていながら、生命の享楽に未練をもち、生命的欠陥を持たない人間たちを辱めるためにルサンティマンを燃やした私。
私の生命が健常者たちの生命の恥辱であることを倒錯させる素晴しき先人たちの偉大なる哲学。
生命を全うする凡庸は決して真なる哲学を理解できないでしょう。そして、とある人類によって成し遂げられた偉大なる宗教をも。
なぜなら、真実の健常者たちには必要なかったからだ。
また同時に真実の孤独者も仲間を必要としなかった。
哲学と仲間を求めたのは健常者のふりをする不健康者だけだ。
私の正体は二言ほど話せばわかります。
いや三言かもしれません。
それを聞いてわからないなら、あなたはまだこの世に生まれもしていないし、生まれたことに気づいてもいないでしょう。
弱小の倒錯こそソクラテスの哲学であり、
列強の倒錯こそルサンティマンの哲学である。

ああ、不愉快です。
いろんなことが不愉快です。
ニュースもコミュニティーサイトも見ないように努めているのに、
不愉快千万、嘔吐しても腹筋がツルほどです。
人間はどうして、偉大なる先人たちの歴史と、偉大なる酒だけで生きていけないのでしょう。
それ以外は単なる空白です。
ニュースも
バラエティーも
ポップスも、
掲示板も、
エコノミックも、
トレードも、
ドラマも、
世間話も、
ゴシップも、
お世辞も、
家庭も、
性的パフォーマンスも、
みんな、みんな、
くだらないです。
大いなる恥辱。
大いなる軽薄。
みんな、みんな、
くだらなすぎます。
価値のあるもの。
それは現実に生きている、実在する、息をしている、私と会話ができる、感情を交換できる、
人間「ではなく」!
かつて人間が作り出したであろうもの、人間が生み出したもの。
死人の記憶こそ素晴らしき価値!
死人の忘れ形見こそ素直な過去!
人は息によってその価値を下げる。
偉大なる技術によって生命の苦痛を受け入れた崇高なオペラと交響曲、協奏曲、
偉大なる哲学の推敲を認識して生命の破滅を実現した敬虔なる精神的な形而上学書と宗教書、
偉大なる思索によって生命の絶望に至った同志諸君たちの崇高な小説たち。
それら以外に、いかなる哲学的価値はない。

古典は古臭い?
バカも休み休み言いたまえ。
古典には先人の知恵と反省にあふれている。
君の思いつきそうなことはすでに先人がモノにしている。
古臭く、型にはまった歴史が愚かだと声高に主張するよりも、
自分の考えることがいつも新しく、
独創的と自惚れている方が愚かだとは思わないかね?
わからないのではない。
それは考えていないだけだ。

カール・シュミット、久しぶりに読もうかな。
20世紀の政治学者のなかで群を抜いて偉大でありながら評価に乏しい学者の一人。
もう100年も経つのに、世界はまだ彼に追いついてないんですね。
まあ、猫と虎には重宝がられても、
犬と羊はには見向きもされないでしょうから、
どうでもいいんですけどね。
好きな本を挙げると切りがないし、何を基準にしてその本が優れているかを決めることはすごく難しいです。
しかし、本であることによって本として優れている本を挙げろと言われたら、
私はニーチェの『善悪の彼岸』を挙げないわけにはいきません。
『善悪の彼岸』は何がすごいかというと、
本は教育や娯楽を目的にしていますが、これは何ら目的をもっていない本であるということです。
そして、この本を読んだ者は往往にして一人残らず、宗教家だった者は科学者に、「科学者」だった者は「宗教家」に変わってしまう本であるということです。
ニュルンベルクのマイスタージンガーだと、
第一幕のマイスタージンガーの試験を受けるときにヴォルターが歌う愛の歌が好きです。
第三幕の後半のバールの愛の歌もいいですが、
素直な恋をそのまま歌う荒削りの歌もとても魅力的です。
メシアンといえば、トゥーランガリラ交響曲になるわけですけど、
たしかに、その独創性と随所にちりばめられている伝統様式が巧みに合わさっているのがそれといえます。
ピアノは超絶技巧に、オンド・マルトノは妖艶至極に。
特別に好きな楽章や、省いて特別に取り上げる楽章は、これに関しては特別意識してはいませんけど、
作者の証言から主要部分を抽出したとすれば、
「星たちの血の喜悦」だけが単独演奏を許されているところを考えると、この音楽の心臓部分と考えるのは妥当だと思います。
個人的な好みで言えば、
3つの愛の歌で演奏されるオンド・マルトノの音色が実に怪しくて、甘やかで、
それを打ち消すかのように打ち鳴らされるピアノと弦楽の厳格さが、
二つの狭間を強調するみたいで、
この音楽の内容を充実させる要素からは外せないと思います。
トゥーランガリラ交響曲が、愛の楽章とトゥーランガリラの角上の二つから構成されている時点で、どちらかを重んじた再構成や省略は許されていないわけなんですけど、
その二つの要素を含んでいない、またはその二つの要素を含んでいるのが、序章とフィナーレ、そして、星たちの血の喜悦なんですね。
そのときいつも問題になるのが、後半の始まりに当たる「愛のまどろみの庭」なんですよね。
名称や要素から愛の楽章に含める方が自然なんですけど、
曲の雰囲気がトゥーランガリラの楽章をまとっていることが、
この音楽の全体の構成を難解にさせている原因だと思います。
そういえばカール・シュミット「現代議会主義の精神史的地位」って、政治思想を専門にしている大学の学科でも、教えないことが多いですよね。
私も現代政治思想の先生の、10人程度しかいない人気のない講義でしか教わったことがないです。
でも、その講義は私にとってとても有意義な出来事でした。
20世紀の各分野における偉大なる学者を挙げろと言われれば、
宗教学では、カール・バルト、
形而上学ではマルティン・ハイデガー、
政治学では、カール・シュミットです。

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