レフト・シンチーのオペラ

昼は本を読み、歌を詠み、夜は酒を呑む。私です。

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現象学的心理学を確立するために編み出された現象学的還元ですが、これはフッサールの意図とはうらはらに、さらに進んだ超越論的現象学に至ります。現象学的心理学においてフッサールが批判したのは、純粋自然学を基礎にする自然主義だったのですが、超越論的現象学においては、自身が純粋心理学における基礎的な学問領域であり、もはや心理学を含めた学問そのものを基礎付けるという計画をもつことになります。そして、全ての学問の前提となるところの超越論的現象学を打ち立てたのであり、もはやフッサールは心理学という特定の学問領域から離れていきます。このときのフッサールの批判は純粋心理学を基礎にした心理学主義に向けられます。
フッサールは現象学的還元によって純粋自然学によって我々が普段している判断がある一つの規準でしかなく、いわば先入観のようなものだと突きとめました。だからこそ、その先入観に影響されない純粋な心的作用のみを扱う学問領域を確立させ、純粋心理学という新たな先入観を創りだしたのです。
この先入観を相対化させるところの現象学的還元は、自然学や心理学だけでなく、あらゆる対象の認識の基礎となっているのではないかと考えるに至り、フッサールは対象の「存在」という形相学、すなわち形而上学にも現象学的還元を試みました。つまり、「存在」という我々にとっては、至極、常識であり、あらゆる対象の前提であるような概念すらも、ある先入観ではないかということです。このことから、現象学は純粋心理学を飛びこえて、現象学的形相学に発展します。
では、このような先入観を見出しているところの主体、すなわち「私」とはいったい何なのでしょうか。現象学的還元によって、我々のするあらゆる判断が一つの先入観であることを明らかにするのですが、何かしらの規準によって判断するためには、その規準を見出すところのある主体が必要になります。現象学的形相学によって、「存在」という概念すらもが先入観の一つとなってしまった今では、先入観を生みだすところの主体はどのように学問として捉えられるべきか。これを扱う学問こそ超越論的現象学であり、「存在」を前提しているところのあらゆる学問の基礎となるべき学問であるとフッサールは考えたのです。
現象学的還元はもはや単に既存の学問の間を行き来するだけではなく、さらに高次の、あらゆる学問のア・プリオリであるところの超越論的現象学に至る方法となります。これがフッサールの、全学問を基礎付けるところの最初の学問を確立させるという意気込みがうかがえます。

余談ですが、フッサールの弟子であるハイデガーは『存在と時間』において、超越論的現象学としての超越論的主体が何であるかを問おうとしました。つまり、超越論的主体をどのように学的に解釈するかをハイデガーは存在論の根源を問題にし、その方法として現象学を用いたのです。
しかし、この問題はヨーロッパ哲学における形而上学的限界に立ち入ることと同じであり、学問として「存在をとうことの限界に至ってしまったのです。
学問である以上、言葉としての概念的把握としての「存在」の意味を問おうとしたのですが、「言葉」はどこまでも「存在」を前提としたものであり、「言葉」の前提となっているところの「存在」を、「言葉」によって問うことは不可能であることに気がついてしまったのです。
これが『存在と時間』が未完に終わった理由であると考えられています。
フッサールは単なる心理学が人間の物理的な現象、つまり、生理現象や外的な物理現象との関係なしに語ることができないことに気づきました。恋も怒りも、単に動物の生理現象でしかないし、思うとか感じるという事柄も自然科学で解決できるといった自然主義からの批判です。そこで、心理学というからには、物理や化学をはじめとした純粋自然学から独立した純粋心理学が、あらゆる経験心理学に先立っていなければならないと考えました。
純粋心理学とはいかなる純粋自然学に影響されない、純粋に心的な内的経験だけを扱う学問です。つまり、純粋な意識作用であるところの志向性がこの学問の対象となります。それは思うや感じるといった意識そのものであり、意識される対象が純粋に心的な経験として意識の内に立ち現れるという主旨の下、「現象」についての学問として現象学を純粋心理学の基礎付けにしようとしました。
このとき、使用されるのが現象学的還元です。我々が意識を向けている対象は確かに外的な純粋自然学の世界に属しているのかもしれませんが、経験された現象そのものは「外的な対象についての」「意識の内的な経験」に置き換わるのであって、意識における志向性は純粋に内的なものとして扱われることになります。
現象学的還元は内的意識の純粋な心的経験を我々に提示するための方法として用いられます。その方法とは、我々が外的や内的と区別するような、つまり、純粋自然学の影響の下にある「世界」についての判断を一切中止し、意識の内に浮かぶ経験を平等に記述することです。我々は認識において客観的な規準を措定するように、対象や世界から要求されるのですが、それらを一切拒否して心に浮かぶことをそのまま経験とすることです。
フッサールが当初もくろんでいたのは、他の学問に左右されない、純粋で独立した学問であるところの心理学の確立でした。そのためには、純粋自然学に対抗する、純粋な心的作用のみを記述できる方法が必要だったのです。それが減少額であり、現象学的還元でした。
純粋な心的作用というのは、たとえば、目の前のサイコロを見ている内は「サイコロがある。」だけなのですが、目の前にあるサイコロを「どう評価するか。」「さっきまであったサイコロをどう心に思い描くか。」などの、単に「ある」という意識から「評価する」という意識の向け変えは、針を刺せば痛覚を通じて痛いと感じるといった外部からの物理的触発から独立した内的作用といえます。何か対象に意識を向けることが志向性であり、この志向性の向け変えが純粋な心的作用なのです。フッサールはこれを「反省」と呼んでいます。反省こそが現象学的心理学の考察するべき対象となります。

フッサールは現象学が見出されるより以前の心理学は、心理学としての役割と前提を欠いた不十分な学問でしかなく、純粋自然学に拠らない純粋心理学としての現象学的心理学を打ち立てたのです。このことから、フッサールは純粋自然学を扱うところの自然主義者たちに真っ向から「否」を唱えたのです。
なので、霊や魂のようなものが証明不可能だと考えた時点で、それは純粋自然学的な考え方をしており、その観点からの判断をしているのです。現象学的還元は我々が普段、常識だと考えているところの物理法則や数学法則を基準にした判断を全て中止し、ただ純粋に心的な作用のみから見えてくる「世界」を見つめることを要求します。
フッサールにとって魂などは、超越論的な現象なのではなく、純粋な心の動きでしかなく、魂を超越論的であると感じるのは、その判断が純粋自然学的な観点から判断しているからなのです。
哲学がおよそ何ごとをも語ってよいならば、哲学は学問としての意味を失うだろう。哲学が個人の受けた感想を述べたてるだけのものでしかないならば、それは詩であり、小説である。むしろ、個人の情念や感想はそれらに任せるべきであり、学問である哲学がそれらの領分を侵してはならない。
哲学が学問である以上、それはある真理を探し求めているのであって、真理がないことを前提に、あれこれと述べたてるのは、その述べたてたこと自身が他者にとって何らの意味も有していないこと、共有される価値すらも有していないことを自ら暴露している。
我々が何ごとかを述べるからには、その言葉は何かを意味していなければならず、ある真理という共有性をもっているのでなければ、およそ我々は述べることそのものに行為する価値を失うだろう。なぜなら、ある言葉がある意味をもち、同時にもたないとなれば、その言葉は何ごとをも示すことはなく、ソクラテスであると同時に砂上の波であることになってしまうからである。また、ソフィストの言うように、ある物が存在しかつ存在しないのだとすれば、ソフィストが食べるパンは何であろうか。存在しかつ存在しないのならば、何ゆえにパンを食する必要があろうか。
言葉として捉えられている以上、言葉の示す意味は唯一の真理でなければならず、それは個人の主観によって勝手に捉えられるものではない。
哲学がいやしくも学問であるならば、幾百の人々それぞれに述べたてられるようなものではなく、一つであるところの真理を求めることが必要であり、これ以外に哲学が述べられるところの意味はない。もし、我々に少しの裁量が許されるとすれば、真理についての気の利いた比喩のみであり、求めるはずの真理がまるでないと放棄し、個人が受けた単なる感想を述べたてることに堕することこそ真理からの逃避であり、知性による共有されるべき真理を求めようともしないで、自らの詩的表現に身体をよじっているだけである。
およそ、「主観で語る」という言葉には二つの意図があるだろう。一つは前述しているように、対象から受ける個人的な感情や印象をただ述べたてるだけのことである。これはまさに感想であり、感想を読者に抱かせる詩や小説はまさに自らの使命を全うしているだろう。もう一つは、自分自身が他者の議論、遣われる言葉について解釈し、新しい言葉として捉え直し、その者が目指そうとしていたもの、その者以上の真理に近づけようとする作業である。
後者は問題がないどころか、学問としての哲学をする者としてなすべき静観さと忍耐力をもってなされている。しかし、前者は老師の言葉に一喜一憂し、学堂の響きにのたうちまわっているようである。
学問をする者において求められるのは静かなる目である。情にほだされて真理を見失うほど、学問をする者にとって愚かなことはない。それはいかなる同情も、哀愁も、歓喜もよせてはならない。アリストテレスに始まるフィロソフィーが知性を愛するものである以上、哲学は学問であり、静観する冷静な目、人や自然に対して同情してしまいそうになる迷いを断ち切る忍耐と決意が求められるのである。
ニーチェはたしかに学問としての哲学を止めようとした人なのかもしれない。しかし、その意図は結局、失敗に終わり、哲学はどこまでも学問でしかなかった。もし、ニーチェが学問を超えたとするならば、それは哲学以上の何かであり、言葉を超えた何かである。言葉を超えたある何かは決して哲学という名前で呼ばれうるものではないだろう。哲学が言葉を用いるものである限り、哲学は学問なのであり、それをする者は自らの領分を踏み外すことなく、真理への階段を上るしかない。
「学問を利用する」のであれば、利用する個人に多くの裁量が与えられるかもしれないが、「学問する」者は学問であることの制約を破ることは許されていない。まさに、学問がなすべきことは、「愛をもって」見つめることではなく、「愛そのもの」を見つめることである。
こうしたとき、ニーチェの嫌った書物の一節が浮かぶ。
「最初に言葉があった。言葉は神のところにあった。神は言葉であった。」
『新約聖書』のこの一説は学問としての哲学そのものを示しており、我々が言葉による真理によって存在していることを的確に示している。言葉として語られる哲学は、学問としての使命に乗っ取らなければならない。我々は言葉を持った瞬間から、言葉によって存在し、言葉のために存在している。およそ語られうる言葉であるからには、学問としての使命と制約を免れ得ない。また、詩や小説も言葉によってなされているのであるが、彼らはあえて言葉によって迷妄に誘い込むことを目的としており、そのゆえに彼らは学問の制約を免除されているのである。
ニーチェはまさに言葉によってしか突き止められなかった学問としての哲学に苦悩し、しかし、学問を超えようにも言葉を超えた真理の追究が不可能であったことに悲しんだのである。

学問的姿勢と使命

哲学がいやしくも学問としての地位を保持しているならば、哲学における解釈や議論は、詩や小説のように本質をなんら設定せず、むしろ、読者の多様で広範な感想を求めるような分野と同様のやり方をしてはらなないのであり、哲学が学問であるからには、プラトンならプラトン、アリストテレスならアリストテレスが考え、考察した真意と本質を解釈し、議論するものでなければならない。
およそ学問としての哲学が、個人の身勝手な主観によって、哲学者の議論を把握され、都合良く展開されることは、まさにスラム街の落書きに等しく、学問としてなんの価値も、意味もない。学問としての哲学の使命は、先人の発想と論理的展開を検討、精査し、その解釈や議論の内の構造を見据えることにある。それは発想の源もそうであるが、それ以上に議論や解釈で表現される「言葉」に込められた意味を探ることが重要となる。この意味とは決して個人の主観を根拠とするのではなく、もっというならば読んでいて受ける感想などではなく、先人自身が考え、構築した理論構造を、後人である我々が再構築することにある。もちろん、後人である我々が後塵を拝するといったことではなく、理論構造を他の目として観察、分析し、批判を加えることが求められている。
さて、このことから、次の重要な疑問が生まれる。果たしてどこまで遡れば根源的な学問的発想にたどり着くのか。ある思想を批判するからには最初に批判されるべき思想を創りあげた者が必要となる。かといって、その根源を探ることは不可能に近い。というのも、少なくとも人間が文字をもち、文字によって保存され、今日まで継承されている思想体系は極めて少なく、誰が創作したのか、着想したのかさえ明らかではない。さらに、人間が忘れる生き物なのであり、換言するならば、修練された能力を習慣化させる生き物なのであり、かつて最初の思想を創りあげた人物が並々ならぬ努力と苦悩によって為された能力であったとしても、思想の継承によって習慣化され、獲得されたものとしての能力はまったく継承されないままとなる。
しかし、哲学も同様に太古の先人の獲得された能力であったとしても、今日までに継承されている思想や著作を、自身の主観のみによって得られる身勝手な感想によって解釈し、議論して良いはずがない。こうした習慣化された今日の我々が、先人の発想に立ち戻るための残された方法は、私自身の発想や議論の源を探ることであり、何をもって解釈し、議論しているかという原理を探ることにある。この自身の心的原理を探るためには、単なる個人的な着想を出発点とするのではなく、古来の哲学における伝統に根ざした一貫性を探る他にないのである。
よって、学問としての哲学が為すべきことといえば、なぜそのように考えているのか、帰結に至るのかという理論性を見極めることであり、太古から今日までの哲学史における一貫性を見据えることにある。つまり、部分と綜合を体系として構築し、本質をまさに本質として客観的に、主観に先立つあるものとして考察することである。そうすることによって人間と存在の根源的意味を探ることにつながり、普遍的で客観な本質を求める学問の意味に適うこととなる。
哲学が学問であるからには、本質からは決して逃れ得ないのであり、それを理解しない者は全てに諦めた隠居者であるか、それを知ることがなかった雨雲でしかないだろう。

世界の果て ケータイ投稿記事

黙示録を語ろう。
いたずらな黙示録を。私の神は私であることだった。
私の死が暁の目的となるとき、酔狂な不適は市街地の明かりとなり、私はいつしか小鹿のアシカとなって、世界を見つめるだろう。
世界の革命は私の手にあるのでも、貴方が握っているのでもなく、私たちの世界にこそ、私たちの革命はある。
黙示されよう。直視されることなく死んだヨハネのために。
私たちの故郷は、桔梗の咲く丘の彼方に謳歌されよう。
生命の永遠ではなく、公明の共鳴の下に、遠投の円形は革命の沿革となって、明確な計画の演目となろう
私である私こそが私になることを止めた私のフィアンセとなる。
黙示された酷使は酷似した時刻に国事の耳目を自告するだろう。
黙示されよ。
されようか。させようか。さすらうようにされよう。
革命である。
明確になる。
革命である。

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