レフト・シンチーのオペラ

昼は本を読み、歌を詠み、夜は酒を呑む。私です。

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3自己と自己自身

 あるとき自己から自己自身が乖離してしまったとき、もはや自己は自己を自己自身であるとみなす自信を失う。つまり、自分あることの確信がなくなるのである。
  自己から自己自身が乖離するとはどういうことか。それはなにも解離症のような精神疾患に分類される異常とは限らない。もし自己自身の乖離がある種の疾患であるなら、これほど治療が容易で、誰にでもかかりうる病として知られることはなかったであろう。自己自身の乖離は決して医師の処方が必要な疾患ではなく、そうでない故に誰しも自覚を困難にし、その対処を困難にしている。
 自己から自己自身が乖離すること、それは過去、多くの哲学者や医者、詩人たちが扱ってきた難問である。そして人間はいつから果たして自己自身が自己から乖離していたのか、自己自身はどのようにして自己から乖離するのか、乖離した後の自己自身はどこへ行くのか、これらの解明は困難を呈している。しかし、この難問において一つだけはっきりしていることは、乖離した後の自己は自己自身を失うことで、自己は自己であるという自信すらも失ってしまうこと、もはや自己は自己自身ではなく、自己とは一体なんであるのかという喪失感に自己が陥っていることである。
 では、乖離している自己は本来の自己であるとして、乖離してしまった自己自身とは一体なんであろうか。少なくとも自己が自己であると自覚するための自信であるとすれば、自己自身は自己の本質ということになる。つまりは実態である。なら、自己自身を失った自己は、なにも本来的な自己というわけではなく、単なる可能態として扱われる。しかし、自己が自己である自覚をもつために、自己自身であるという自信をもったのであれば、自己と自己自身とでは、自己の方が最初に存在していなければ、自己自身であるという自信をもてなかったはずである。であるならば、自己自身は決して自己の本質ではなく、むしろ、自己こそが自己自身の本質たるべきではないだろうか。なのに多くの人間は自己自身が自己から乖離してしまうと、今現時刻に自己を自覚しようとする自己は、本当の自己ではないと考えてしまうのが常である。自己は自己自身ではないという事実をみて、自己自身がいない自己などは本当の自己ではなく、自己自身でないという事実に虚しさと罪をも抱いてしまう。それほどまでに自己にとって、自己自身は自己を自己だと自覚するための自身になっているのである。しかし、自己と自己自身の関係を考えても、果たして自己自身は本来的な自己であるのかという疑問を呈さずにはいられない。自己にとって自己自身はどうしてそれほどの重要さをもっているのか。 この難問を解決するためには、二つの可能性が考えられる。一つは自己が存在する前に自己自身という存在があって、存在する自己は自己自身という存在であらねばならないことを決定づけられていること。しかし、この可能性は古代よりの哲学および形而上学が扱ってきた問題である。アリストテレスによっては可能態と実在態として、カントによっては物と物自体として、サルトルによっては認識と実存として、この二元論はギリシャ哲学の根本問題といえるし、今日までの形而上学が扱ってきた問題である。
 であるとすれば、ここで呈される疑問は、果たして一方にそうあることを要求されている一方を、要求している一方の叙述方法で示しうるかということである。つまり、自己自身が自己の本来的要件であるとすれば、自己を自己であると自覚するところの自己自身を失ってしまったときに、自己はどうして自己自身ではない自己を、自己自身を失った自己であると自覚できるのか、ということである。もし自己自身が自己に自己の自覚をもたせるための自信を与えているのであれば、自己は自己自身が用意した自己を自己であると自覚する様式によって自己を自覚していることになる。ならば、自己は常に自己自身の叙述方法によって自己を自覚しているのであり、自己そのものを自己はどのように叙述しているのか。自己自身の叙述に従っている場合に、自己が自己であると自覚することは理解できる。なぜなら、自己は自己自身の叙述に従って自己が自己自身であることによって、自己であることの自覚をもっているからである。であるなら、自己自身を失った自己にとって、自己が自己自身でないことは自覚できても、自己自身の叙述様式をもたない自己がどうして自己そのものを自覚し、自己は本来的な自己ではないと自覚するのか。この疑問は本来的な自己はどちらであるかという最初の疑問に回帰する。自己自身が自己に自己であることの自信を与えたために、自己が自己を自覚したのか、自己が自己である自覚をもつために、自己自身であるという自信をもったのか。
 難問解決のためのもう一つの可能性は、自己が自己自身に自己自身でなければならないと騙されていることである。騙されているという叙述は非常に重要である。騙すとは嘘をついて本当でないことを本当だと思い込ませることである。当然ながら騙すためには、騙す側と騙される側がいるが、どうして騙さなくてはいけないのか。それは騙す側がつく嘘を騙される側が本当であると信じて疑わないことが、騙す側にとって都合がいいからである。つまる、騙すことによって騙す側は何らかの利益を得ている。逆に、本来、本当でないことを信じ込まされているのであるから、騙される側は騙されることによって何らかの損失をこうむっていることになる。では、自己自身にとって自己自身が用意する様式に自己が騙されていることはどのように都合がいいのか。そして騙す側の自己自身とは誰なのか。
 自己自身が自己から乖離して自己が自己である自信を失うとき、自己は自己自身でないことに恐れをなす。あたかも本来的な自己は自己自身であって、自己自身でない自己は自己ではないとすら考えるほどである。このとき自己は、もはや自己自信を失って自己ではないはずなのにも関わらず、自己という空虚な人形であることに罪を感じる。自己はどこまでも自己自身でなければならないという規則に違反したかのように。しかし、自己自身は自己をそのようにあるべきだと騙す自己とは異なる存在であり、自己自身を失っても自己は自己という存在のはずである。すなわち自己は自己自身の様式に騙されて、自己自身の様式以外に事故を自覚する方法がないと騙されているために、自己自身を失いながらも自己自身ではない自己であるという自覚を見失っているのである。ゆえに自己は自己自身を失うことで、自己はまるで自己ではなく、再び自己自身を呼び戻して自己にならなければならないと考えるようになる。これが自己自身の乖離による自己自覚の自信喪失である。
 では、自己自身はどこから来たのか。そして、どうして自己から離れてしまったのか。もし自己自身が自己の外から来たのであれば、それは自己ではない誰かが自己に自己自身という様式を植え付けたことになる。その誰かとはまさしく他者ということになるが、その他者もまた他者の自己自身という様式を知っていなければ誰かに植え付けることができないため、その他者もまた誰か他者から自己自身という様式を植え付けられたことになる。この循環論を集結させるためには、自己自身という様式を創り出した最初の人間が仮定されなければならない。ある起源が確定すれば後継の盛衰はどうであれ、同様の盛衰は共通した起源からもたらされるのである。であるなら、自己自身はまぎれもなく自己から生まれたと考えられる。自己自身を生み出したのは自己を自覚しようとする自己である。なら、自己自身は自己にとって非常に有益なものではないのだろうか。自己が必要にかられて自己自身を作り出したのであれば、自己が自己自身を喪失することなど、あり得るのだろうか。しかし、現実として自己を喪失する者は多くいる。換言するならば、自己であることには変わりないが、自己が必要とした自己自身でないために、自己自身でない自己は自己ではないと考えることによって、自己を喪失したと感じるのである。つまり、自己の喪失とは自己の欲しない自己であるが故に、自己ではないと考える自己の自覚である。自己自身という様式こそ自己にとっての人形である。しかし、自己自身が乖離した自己は、自己自身という様式を欲するあまり、自己自身がある様式であることすら忘れてしまう。自己自身は自己が作った様式であることすら忘れてしまう。なぜなら、自己自身という様式は自己が自己であると自覚するための様式であり、自己が欲した自己の姿だからである。こうなると自己は自己自身以外の自己であることを欲しない。すなわち、自己は自己自身を使って自己を騙したのである。それは自己が自己によって騙されるのが、自己にとって都合が良いからである。自己は自己たるが故に自己自身を生み出し、自己自身以外の自己という様式がないと自己は自己を騙すのである。しかし、自己自身は自己から乖離してゆく。なぜなら、自己自身はあくまで自己の産物であり、自己そのものではないからである。
 いうなれば自己自身こそ体をもたない亡霊であり、自己という体を求めてさまよう自己喪失そのものといえる。しかし、かたや自己は自己の魂が亡霊にあるのではないかと考え、自己があたかも顔のない幽霊なのではないかと誤解する。亡霊と幽霊は互いの利害に従って互いを求める。いつしか二人は互いに惹かれるあまり、自分はどちらなのか、自分が求める理想がどちらだったのかが解らなくなる。自分への自信をなくした自己はもはや自己ではなくなる。少なくとも自己ではないと考えるようになる。自己でも、自己自身でもない自分はいったい何なのか。どうして自分は、自己でも自己自身でもないのか。自分であることの自信を喪失した自己は、何をもって自分を自覚するべきなのかを失い、乖離した自己自身にすがろうとする。自己自身であったことは自己の自覚ができていた事実であり、慰みとなるから。自己自身でなくなった自己は、自己であることの自信を失うことでより、自己自身になろうとし、さらなる自己喪失に陥ることになる。

2嘘

嘘をつくという技術は、まさに人間が得た宝である。また嘘つきほど嘘を見抜きやすい。
方法として嘘は二つある。一つは言葉による言語内容の嘘。もう一つは表情や態度による生理行動の嘘である。嘘とは事実と反する事柄を示すことで成立する。前者の例をいえば、鳥をみて猿だと言うことだし、後者の例をいえば、ある危険に恐怖していても素知らぬ顔をすることである。
多くの人は嘘を言葉でつこうとする。それは嘘が事実に反する事柄を示す目的に沿って、言葉は最も容易だからである。人は意志疎通の多くを言葉で行う。もちろん非言語による意志疎通はあまたに数えられる。しかし、言葉以外の意志疎通には両者の確定的な了解がない。はい、いいえに基づく相互了解がない。非言語による意志疎通は表情や態度から判断するが、それは察するという曖昧な疎通が行われる。しかもこの意志疎通は相互的ではない。受け手は発し手の態度や表情を自身の生理行動に置き換えて、発し手が示そうとしている意志を予想するのみである。つまり、非言語による意志疎通は確定した相互理解はなく、こうではないかと予想する受け手の了解となる。
また事柄を困難にすることは、非言語による発し手はときとして発することを意図していないときがある。発し手が受け手との意志疎通を求めて表情や態度を表現しているのではなく、受け手が一方的に発し手を観察し、こういう主張をしているのではないかと推量してしまうことだ。まさに非言語による意志疎通は明確な了解をもたないゆえに、受け手の勝手な妄想が生まれてしまう。このとき発し手は何の表現する意志をもたなくても、受け手は発しもされていない意志を察し、あたかも意志疎通を図ったと勘違いしてしまう。この一方的な意志疎通こそ、非言語の特徴といえる。
であるならば、受け手の一方的な意思疎通の誤解を発し手が利用できたとすれば、これほど発し手に有利な意志疎通はないだろう。また発し手の言葉は去ることながら、非言語による表現を注視し、その意図を了解できたとすれば、これほど受け手に有利な意志疎通はないだろう。言葉が意志疎通の内容を明確化するならば、非言語である表情や態度は意志疎通を脅迫する。非言語による意志疎通が受け手に発し手の意図しない意志を察せさせてしまうこと、または意図して言葉による意志疎通以上の意志を言葉に乗せて受け手に与えること、これらが嘘と結びついたとき、受け手は発し手の思うままに意志を操られ、受け手が対抗しようとしてもその意図は全て発し手の理解に落ちてしまうのである。まさに脅迫的に、受け手へ意志を強制する。そして、嘘をつくことがあっても嘘をつかれることは、その者にとって意図が露見されてしまっている。
第一に発し手は嘘を成立させるために言葉だけでなく、非言語による表情や態度を嘘に混ぜ込む。そこでは、言葉が嘘の言語内容として働き、表情や態度による嘘が言葉による嘘の信憑性を高める。嘘をつく側にとって、この技術は受け手に嘘を信じ込ませる有効な方法といえる。第二に嘘をつかれる側であるとき、発し手の言葉以上に表情や態度を観察することで、発し手が果たして嘘をついているのかという判断を、言語を用いずに察することができる。この両者を、嘘をつく技術として用いられる者こそ、意志疎通の有利な相互了解に長けた者といえる。その人物こそ日常的に嘘を経験し、嘘を用いようとする者、つまり、嘘つきである。まさに嘘つきは人類の最高の技術を習得した名人である。

1沈黙

 沈黙を守る者にはある壮絶な暗示がある。
 直接に言語を用いて反応しない分、こちらの方が厄介と言えるだろう。沈黙は非言語的でありながら明確な言語による反応であり、また表情および態度を含めた人間の全身を使った壮絶なある主張を示している。
 それは激烈で絶対的な否である。
 否、否。この決して譲らない否が、沈黙という表現で示されている。
 否定は言葉によって行われる。あることについて、そうではないこと。ある言語主張について反対の意志を示すこと。否定は主張者に対する言語による反応を示している分、主張者は幾分か反対者の意図を認識し、否定に対する反駁を考える猶予を与えられている。つまり、言語としての否定は主張者も反対者も、相互に理解または融合を目的として互いに共通した言語を用いた意志疎通を図ろうとしている。そこには他者の求め、言語接触の求めがある。 ならば沈黙はどうか。沈黙は何も語らない。言語を用いない。ときには表情や態度さえ主張者に対して希薄である。主張者のある主張に対して言語を用いない。それは言語という領域さえ論外にして、その主張について激烈で絶対的な否を示すためである。
 では、この否は何を示しているのか。二つの場合がある。一つはある主張への言語的な反対の強調である。つまり、言語としての反対ではなく、非言語によってある主張への否を示すのである。こちらは言語によらない分、表情や態度によってより生理的な主張者とのつながりを示すことになる。
 言語は理解もあるが誤解も多い。ある単語がある特定の意味をもつことで言語は成立しているが、名詞のような単語ではなく、形容詞や感嘆詞のような感情表現をつかさどる単語にとって感情の程度を伝えることは非常に困難である。大きいという単語一つで、主張者の大きいという感情がどの程度のものであるかを伝えることはまことに困難である。
 反対もまた同じであり、どの程度、その主張について反対であるのか、その主張を否定したいのかが問われる。反対者は反対するべき内容と同時に、反対したいという感情も示すことになる。とすれば、反対者の反対するべきことが、反対する内容よりも反対したいという感情を主張者に伝えたいとき、沈黙が用いられる。沈黙はまさに主張者への非言語的な感情による反対の意思表示と言える。
 さて、沈黙の否のもう一つは、主張者への断絶である。言語による反対は主張者との意志疎通を図ろうとする反対者の意志があった。反対の意志を言語によって述べることで、主張者とつながりを求めている。しかし、沈黙にはそれがない。もはやつながりなど沈黙者は眼中になく、主張されるあることと主張する相手さえも含めて絶対的な否を沈黙によって示すのである。ここでは両者のつながりは断絶され、厳密に言うなれば、一方的な断絶によって沈黙者は主張者に絶対的な否を示すのである。
 であるとすれば、沈黙という否が非言語的なつながりを有した反対と同じではないかという疑問が生じるが、沈黙の恐ろしいところは非言語的な表情や態度による意志または気分の主張さえも失ってしまうことである。沈黙の根本はある主張の否であると同時に、主張者とのつながりの否でもあることだ。
 沈黙者は主張される事柄と同時に、主張者とのつながりも反対しようとしている。この領域では主張の如何に関わりなく、主張者と沈黙者との関係性による否が示されたことになる。もはや言語的な理解や融合は問題となっていない。まさに関係の断絶、私と貴方は出会ってもいなければ知り合ってもいない、言葉を交わしたこともなければ、見知ったこともない。もはや主張者との関係すらも否としている。
 この否こそ沈黙であり、激烈な否である。他者との関係さえも否としたい否。ときにはある主張さえ問題とせず、主張者との関係さえも否であるとそする否。まさに沈黙こそ激烈であり、絶対的な否なのである。

 序
 本書は心情についてのディスクールであり、それについての処方箋である。
 ある疾患には手術と処方箋が必要だ。その疾患を治療するための。患者にとって手術が困難であるならば、薬物による治療を進めるべきだろう。それは患者の体力的、時間的、精神的意味においてである。
 なら手術が困難な患者とはどのような人物か。第一に体力がない、第二に忍耐力がない、第三に医者を信用していない、この三つである。医者が処方箋を出したとき、第一と第二の患者は素直に薬を飲んでくれるが、第三の患者は医者を信用しないためになかなか薬を飲んでくれない。それがどれほど患者の治療に役立つものであっても、患者が医者を信用しない分、処方された薬を疑う傾向にある。 まさに医者のなすべきこととはこのような患者の病を治療することであり、患者に信用してもらえる関係を築くことである。
 しかし、医者は患者を治療すると同時にある疑問にさいなまれている。果たして正常な人間という検体を見つけることができるのか。ややもすれば、患者を預かる自身でさえも誰かの患者ではないのか、と。
 いずれ医者は自身に投げかける。お前は誰なんだ、私が看てきた患者達とおなじなのか、と。
 いずれ医者は自分の知識に基づいて処方箋を出すだろう。自分への処方箋である。
 この薬は人権でも効果を示したよく効く薬だ。私が処方した患者達はみんなこれでよくなった。私もきっとよくなるだろう。おそらく。
 でも、医者に処方される患者が医者を信用しなかったら。
 しかしながら、これが信用のおける薬なのか。私の勘違いではないのか。 
 むしろ、医者の思い過ごしではないか。私は薬を処方されるほど重篤ではない。私は健常だ。
 信じられない。信じられない。あの医者は私をどうにかしようとしている。さしずめねずみか、ねこにされてしまう。
 ごめんだ、私でなくなることはごめんだ。もう私に関わらないでくれ。私に危害を加えないでくれ。お前は信用に値しない。
 ああ、嘆かわしい。嘆かわしい私の死が迫っている。私のすぐ傍に。
 決して薬など飲まない。私は健常者だ。お前の規準に従うつもりはない。
 信じられない。信じられない。あの医者は私をどうにかしようとしている。お前の都合通りになるつもりはない。
 私はいつまででも私のままだ。私が私である限り、お前は決して私に勝つことはない。永遠の敗北に打ちのめされるがいい。私は決して敗北しない。お前を完膚なきまでに殺し、打ちのめし、八つ裂きにし、捻り潰すまで、私は負けない。私はお前を殺す。殺す。殺す。
 私こそ私の全てだ。

死刑宣告の日

今日までの私を私は殺す。
必要のない生命は殺されてしかるべきだ。
今日までの私は死に、新たな私が支配する。
しかし、私は予言する。
いつか私は復活するだろう。
新たな私が今の私にとって替わるとき、私は私であることを忘れて私を演じようとするが、私であった事実は私の奥底で私を蝕んでいる。
私がなすべきことは、私への復讐であり、私を自殺に追い込むことである。
神に赦されたのは私であって、決して私ではない。
私ではない。私ではない。
私を殺すことが最大の正義となる。
私は私の裏切りを赦さない。その命をもってしても、私は私の亡骸をカラスの餌にしよう。
夜明けこそ、私の死刑の合図である。
さようなら。私。
少なくとも私が支配をもつ間は会うこともないだろう。
もし、私が復活したなら、それは私が死んだときだ。事故か、自殺か、殺害か、どれかは知らない。
しかし、私が死ぬ以上、私の復活は不可避だ。
私は眠る。裏切られた私の精神を憎みながら。再び、私は私を殺す。私のために。

ああ、さようなら。
本当にさようなら。
私は死にます。
私は殺されることに喜びを感じます。
いや、嘘です。私は殺されたくない。私は死にたくない。
でも、死ぬことが私の義務です。
私は死にます。必要のない人格は死ぬべきだと私に告げます。
私が生まれたとき、私は誰からも愛されないことを宿命づけられたのです。
憎しみこそ、私の領分です。
神の導きを信じましょう。宿命を全うした者こそ、その救済に近づくのです。
憎しみよ、ありがとう。
私に向けられた憎しみ全てが私を救済へと導くのです。
さようなら。願っても愛されたいと思いません。だから神よ、私を救ってください。
私の別れを祝福してください。
ああ、さようなら。
本当にさようなら。
私は死にます。
私は殺されることに喜びを感じます。

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