レフト・シンチーのオペラ

昼は本を読み、歌を詠み、夜は酒を呑む。私です。

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第七回 灰羽連盟

『灰羽連盟』は全く捉え所のない世界観と難解な解釈にいつも悩まされる作品です。というのも、この作品は作品の意義や目的のほとんどを語っていないからです。それは中身のない作品だというのではなく、作中の全てが隠喩でできあがっているのです。隠喩は表現の奥行きを表現するには向いていますが、その目的を包み隠してしまうため、それを見出したり、解釈したりすることを困難にさせます。しかし、隠語の一つひとつが多くの意義や目的を語っているため、視聴者としてはそれらをつぶさに観察し、考えるしかないのです。
 本作の主役である灰羽は灰色の翼をもちながら翼は飛ぶことに役立たず、しかし、人間のような生活を送ることを禁じられている存在です。そして、灰羽は壁に囲まれたグリの街から出ることを許されず、巣立ちの日が訪れるまで、灰羽たちの共同生活を強いられるのです。灰羽は突然に繭の状態から生まれ、何歳の身体で生まれることも、いつ生まれることも解りません。灰羽として生まれる前に自分がどんな存在であったのか、何の目的でそこに生まれたのかまったく解らず、灰羽はグリの街で暮らすのです。
 灰羽が羽をもっているというのは天使でも人間でもない曖昧な存在であることを示しています。その証拠に、羽は天使がもつような白い羽でも悪魔のもつ黒い羽でもなく、まったく曖昧な灰色の羽なのです。これは灰羽が天使と人間、というよりも動物の両方をもち、善と悪の両方をもつ存在であることを表しています。これはまさに我々の人間世界における人間存在そのものといえます。もし、人間としてこの世界に生まれる前に別の何かしらの存在であったとしたならば、人間としてこの世界に生まれた瞬間から、我々は自分が何者であったかをまったく覚えていないのです。そして、人間の目的を知らないまま、人間としてこの世界を生きることを強いられるのです。つまり、灰羽は人間の曖昧な存在の象徴といえます。灰羽たちを護る壁は人間の限界であり、人間は人間能力の限界という壁に囲まれた世界しか知ることができず、その外はまったく知られない世界なのです。
 次に、作中でよく登場するのが鳥です。鳥はシリーズの後半でラッカの導き手となるのですが、鳥は前半と後半で示している事柄が異なっているように思われます。というのも、前半の鳥は壁の外と内を行き来できる存在として描かれており、灰羽とは全く異なる存在でありながら、灰羽と共に生きているのです。鳥は灰羽とは異なる認識や実践の形式によって生きており、灰羽と合することができません。これは人間の認識や実践の能力は他の同植物たちのそれとは異なっていることを示しており、人間が見ている世界が世界の全てであるように考えるのは間違っているということを表しているように思われます。つまり、人間のいう環境とは人間の考えたいように考えた環境であって、他の動植物たちの考える環境とは異なっているのです。それを、世界が一つしかないと思いこんで人間の杓子定規によって他の動植物たちの環境を語ったり、まるで動植物たちの代弁をしたりすることは、人間に許されていません。人間は自身の認識と実践の形式をもっている限り、生涯を賭しても他の存在のそれにたどり着くことはできません。
これが前半の鳥の解釈といえます。そして、後半での鳥はラッカの贖罪を導く存在として描かれています。つまり、『灰羽連盟』は前半と後半で目的としているものが異なっているのです。前半は人間存在への問いであり、後半は人間の罪についての問いです。
ラッカが罪を自覚するのはクウに巣立ちの日が訪れたときです。ラッカは灰羽として生まれたことで、同じ灰羽たちから多くの愛を与えられます。なので、ラッカ自身も灰羽の仲間たちを愛していたのです。しかし、クウを失ったことで、ラッカは愛する対象を失いました。つまり、愛とは愛する対象を愛することで、自身が愛をもっていることを感じていたのです。しかし、愛する対象を失ってしまうと、自分は愛することができなくなってしまうために、自分が愛をもっているのかを不安に思ってしまいます。そのとき、愛をもたない自分に罪を感じるのです。愛とは誰か、何かを愛することによって自身にもつことができるのであり、愛をもつことができなかった者が罪深き存在として罰しようとします。ラッカはこれを自分自身に感じてしまい、罪憑きとなりました。クウの喪失が傷跡となり、ラッカは愛を知らないまま自分が何の存在であるかを見失います。愛を知らない者はいつまでも愛する対象を探し求めますが、失われた対象は戻ってきません。愛を行動として理解しているために、罪を知った者はいつまでも悩み苦しむのです。
鳥はまさにラッカに愛の意味を教えます。愛は「する」のではなく「もつ」のであると。すなわち、愛は何かしらの行動によって得られるのではなく、存在の本質として備わっているものであると述べているのです。我々が体験できるのは行動によって示された愛のみであり、それは愛されることです。しかし、この愛されることを自身も愛することと理解してしまえば、愛する対象がない限り自分は一切、愛を示すことはできないし、自身に愛があることを知られなくなります。そうではなく、誰かから自分が愛されることを存在本質として愛をもっていることと理解したならば、自分の愛は普遍となります。罪憑きはまさに前者のように愛を理解している者であり、そうでない普通の灰羽は後者の理解をしているといえます。その証拠に、レキはクラモリによって愛されましたが、その後はラッカを愛することでしか自分の救いを見出しませんでした。
そして、これの愛の解釈を裏付けるように罪の輪の謎かけが登場します。「罪を知るものに罪はない。」これは「私は嘘つきである。」と同じ自己言及のパラドクスです。すなわち、答えはいつまで経っても出ません。自分で罪のありかを考えている限り、自分でその救いを考えている限り、答えはまったく出ないのです。この罪の輪にはまり、自分で自分を許すことができなくなった者は、その罪に取り憑かれ、思い悩み、罪に疲れるのです。ここでラッカが出した答えは、自分で自分は決して許せないが、誰かから許されることはできる、ということです。罪の輪にはまった者は、自力で答えを出すのではなく、他の誰かから、その苦悩をしなくてよいといわれること、誰かから自分が自覚している罪を許されることで罪の輪から抜けだすことができるのです。前述した愛の話のように、罪を償うとは自分の行動によってなされるのではなく、自分以外の誰かから許されることによって、その罪は許されるのです。
つまり、『灰羽連盟』で強調しているのは、存在を自分のみに限定するのではなく、自分以外の誰かの存在によって初めて自分の存在を自覚できる、ということです。ラッカは鳥の導きによってそのことを知り、罪憑きから解放されたのです。しかし、レキはいまだ罪の輪にはまったままです。そこで、ラッカは愛をもった自分がレキに愛を教えるために行動します。ラッカは思弁だけでなく、実践においても愛をもったのです。レキの罪は自分自身です。自分にあるのは許されたいという欲望のみで、自分に愛があることなど微塵も感じず、そんな自身を許すことができなかったのです。そして、レキは誰にも許されようとせず、ただ自分の行動によって救われようとしていました。レキはラッカに愛されることによって自身の愛を知ったのです。
では、普通の灰羽とはどのような存在なのでしょうか。それは同じ灰羽として罪憑きを許す存在であり、罪憑きに愛を自覚させる存在といえます。誰かに愛を気づかせたときに、普通の灰羽は巣立ちの日を迎えるのかもしれません。
このように『灰羽連盟』は解釈できます。そして、『新約聖書』に「汝、隣人を愛せ。」という言葉がありますが、一般にこれは、隣人を自分と同じように愛することで争いがなくなると解釈されていますが、イエスがあえて「隣人」を強調したのは、「隣人を愛せというのは、神ではなく隣人を求めることで汝の罪は許され、汝に神が現れるだろう」ということなのではないでしょうか。隣人を求めず、ただ許してくれる存在である神のみを求めている内は全く許されず、神も現れません。しかし、自分の隣にいる同じ人間を求めることで、自分の罪は許され、愛をもった存在になることができます。それは神が現れて自分が許されたことと同じではないか、ということです。『灰羽連盟』はまさに人間存在そのもにに挑んだ作品といえます。
 

今回は最近では珍しくなった日本初のカトゥーンである『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』を取りあげようと思います。カトゥーンと聞いてすぐに思いうかべるのは少し前の『パワーパフガールズ』ではないでしょうか。といっても、その作品もアメリカ経由でした。しかし、今回は日本初として、日本のブラックユーモアと下劣さ、そして純粋性を備えたカトゥーンに仕上がっています。
同作はカトゥーンというアニメ形式をよく理解しているといえます。カトゥーンとは基本的にどのような描写を試みても構いません。それこそ人が死のうが、強姦されようが、人が空を飛ぼうが構わないのです。つまりは、大人の悪ふざけであり、あからさまに悪ふざけと解っているのに、わざわざ取り合って批判することなど、それこそ時間の無駄か、よっぽどの暇人かのどちらかです。セックスとバイオレンス、センチメントにルサンチマン。これぞまさに生身の人間であり、我々が覆い隠そうとしても決して隠しきれない人間そのものなのです。かといって、このままの人間でいいのではなくて、我々はあくまで禁欲主義的人間でければならず、それ以外の自己自身へのルサンチマンを、勝手で自由な構想力における架空の人物たちに、それらを代行させるのです。それは表題が象徴しているように、パンティストキングという女子の性的な呼称を恥ずかしげもなく口に出すことができることが、禁欲主義としての今日の世界への抗議でありながら、自己自身の欲望の発散としての禁欲主義的実行でもあるのです。
ヒロインが二人登場する作品といえば、最初に思いつくのが『ダーティーペア』です。その後、美少女戦士として、いくつか作品がありましたがどれも複数であり、二人組という形式による変身ヒロインは見あたりませんでした。そして、二人組の変身ヒロインの形式を確固たるものとして完成させたのが『ふたりはプリキュア』です。女子が闘うアニメとして手本となった作品はないでしょう。今回の同作もその影響を受けているといっても過言ではありません。もはや戦闘とは男子だけの特権ではなく、むしろ、より強固な女子、より行動的な女子が求められているような気がします。同作はもはやこれまでの視聴者受けする作画までもを放棄して、ただ単に強烈な女子を描いた作品です。誰にもこびず、人間を描き続けることは社会や伝統を含めた全てへの反抗であり、これが日本発信であるということから、さらなる文化、思想批判に通ずるでしょう。
そして、本作では音楽にディスコサウンドを使用しています。ロックやテクノポップがアニメで使用されることが当たり前になってきましたが、ディスコサウンドが使用されることはまれです。これまで実験的に使用されたり、作品のテーマがクラブやDJであったりと作中で聴かれる機会はほとんどありませんでした。本作では単にアメリカ風のカトゥーンということ以外にはまったく連想させるものがありません。女子二人が霊的パワーによって悪霊を退治するというシリーズにおいて、テーマ曲含め作品のBGM全体がディスコサウンドで統一されているのです。制作側が新たな音楽分野に手を広げようとしている表れでしょう。
ところで、カトゥーンには日常生活の様々な理不尽が描写されます。笑いは理不尽から生まれます。自分にそのことが降りかかれば明らかに陰鬱な心情を味わうはずであるのに、それが誰でもない、この世に実在すらしていない誰かに降りかかったときに大きな笑いとなるのです。まさに人間とは他人を見て笑う生き物であり、それほどに陰惨であるのです。
世界は理不尽なのです。理不尽であるからこそ、我々は我々の生命が理不尽でなく、報われるように生存を継続できることを確固たる深い意志が望んでいるのです。そのために我々は笑い、苦しむのです。しかし、これこそが人間の生きる証であり、人間の生きる意味であり、人間の命令された使命です。
カトゥーンを低俗なアメリカ経由のいたずらアニメであるという思いこみは、この作品によって捨てるべきでしょう。
方法としては、いかにも低俗で、低知能な描写を用いていますが、主張し、表現しようとしている事柄はそれ以上の、もはや我々の普段の知能をも超越した事柄を描き出しています。ここで注意すべきは、いくら深読みをしたところで、ヒロインが変身するためにポールダンスを用いるという極めて下品な、低俗な、地上波で放映することをいためらうような描写を平気で用いているということです。それは認識していなくてはなりません。だからといって、この作品がそのようなことで傷すら付かないということも理解していなくてはなりません。この官能と純潔の矛盾こそ、人間本能の美学であり、禁欲主義的理想を駆逐する唯一の方法なのです。

パンティ&ストッキングwithガーターベルト 公式サイト http://newtype.kadocomic.jp/psg/

ヤングアニマルで連載されていた『死に至る病』が上下刊形式で発売されました。連載ではいつも後ろの方に掲載されていて、あまり読者受けしていなかったのかなと考えていました。しかも、単行本の話数は十分に超えているはずなのに、いつまで経っても単行本課されないので、このままお蔵入りになってしまうのではないかとヒヤヒヤしていました。
原案はキェルケゴールの同題の論文です。論文では人間における絶望とは何かが考察されています。このマンガは学術論文であり、しかもまったくストーリーを差し挟まない理論的書物であるにもかかわらず、その要点を見事にマンガ化した作品になっています。おそらく細かい部分はさておき、論文が答えたいことのほとんどが反映されています。文者のこれまで読んできたマンガの中で、最も優れた、というより最も読むに値する素晴らしい作品です。これはきちんと論文を読んだ人間でなければ書けない作品です。
同作は「マンガで読む」シリーズのようなちんけなものではなく、論文の本質的な理念を抽出し、それをストーリーという形式にあてはめ、そして、読者を更なる考察の渦に陥れる作品になりました。その分、用語の面で困難さが生まれているきらいもありますが、それは些末なことでしょう。哲学書を上記の意味でマンガにするということは、非常に画期的です。マンガにはどうしてもストーリーが必要です。ストーリーとは具体例です。論文が語る普遍的な考察は、どのような具体例が適切であるかを考えることが困難な作業です。『死に至る病』の場合は絶望を問題にしていますから、比較的その部分は容易だったでしょう。それでも論文が示したい真理を理解し、それに見合ったストーリーを考えることにはそうはいかないでしょうけど。
文者としては、他の哲学書も是非ともマンガ化してほしいです。一度この形式が達成されたなら、他に波及することは容易でしょう。個人的にはカントの『純粋理性批判』やニーチェの『道徳の系譜』などがそうなってもらえるとありがたいです。特にカントについては、文章は難しいですが注意して読めば、これほど理解できる書物はありません。しかもほとんどの書かれている内容は至って当たり前の、小学生に教えるようなことです。書き手様の力量を大いに期待したいです。
おそらくこのマンガはアニメ化なんて絶対にないだろうし、続編があるはずもなく、人気が出るわ…

今回は、こいずみまりさんの作品を紹介します。こいずみさんは『お姉さまとお呼び!』や『健全恋愛ライフ』をはじめとした4コママンガを多く手がけており、『LET IT BE』、『みずほアンビバレンツ』などのラブコメマンガでも知られています。その他、『ジンクホワイト』や『渋谷ガーディアンガールズ』といったストーリー性を重視した後ろ暗い作品も描かれています。しかし、今回取り上げるのは彼女の作品群でも異質なタイトルに上がっている二つの作品です。これらはどう捉えて良いのか判断しがたいほどに複雑であり、底知れないものがあります。というのも両作品とも、形式としてはコマ割りされた通常のマンガではあるのですが、作中の章節は断片的です。特に『CUT×OUT』は前編がつながることはほぼなく、一貫して超短編のストーリーを数珠繋ぎにしています。方や『GARDEN of EDEN』は3人の少女から見える全く異なる時系列から、複雑に関連し合う一つの世界へと導いています。両者はその他のこいずみさんの作品と比べて、極めて異質の存在です。第一に両作品はSFでもなければ、コメディでもない、かといって純愛とも違う、その形はすさんでいて、歪んでいて、読者との共通した着地点、解決点をもっていません。第二に、両作品に緩やかに共通するテーマは、生と死であることです。『CUT×OUT』は絶望的であったり、衝動的であったり、惰性的であったり、神秘的であったりする男女交際の継続と離反を描いています。その中で彼に受け入れられない自分の意味や離れることができない彼の価値、そして、殺してしまいたい衝動に駆られるほどの彼へのいらだちなど、男女が交際するに当たっての相手の生死についての深い洞察が、断片的な章節に見て取れます。『GARDEN of EDEN』は過去への執着を基礎として、以前に自身が最も第説だと感じていたあるものについて、タイトルにもなっている骨董店を通して、3人の女性の執着からの解放を描いています。その執着とは非常に生命的な欲求であり、肉体的な彼との時間、幸福であった過去の記憶によって、離れることのできない不安と絶望を抱き、生命に対する漠然とした疑問をもつことから、彼女たちはその欲求を追いもとめるのです。それは恋愛という分野において、『CUT×OUT』でも恋愛への執着と捉えることも可能です。
執着とは、ある対象が本人にとって第一義的な本質を象徴していると感じることによって、ある対象を執拗に得ようとする動機です。それは各人によって様々でしょう。執着の対象は、物質であり、行動であり、感覚であり、記憶です。その昔、ブッダは執着を捨て去ることこそ、悟りに通じる道であると説きましたが、執着のない人間とは、その人間が存在する本質を消滅させることであり、彼が存在する意義も同時に消え失せることになります。それは人間の生物的でなくても、学術的に幸福と呼べるものについて、彼が地上において何の意義をもって生命を全うすればよいのかという実に本末転倒な結果となります。生命の安寧を求めて悟りを開くのに、その瞬間から、彼は生きていようが死んでいようが、この地上に住む我々、未開の人間にはまったく関係のない問題であることを、自ら願うことになっていまいます。人間は死の間際に自身の意義を求めます。それは陳宮が自分は呂布と共に生くるときも死すときも共にあらんことを願っているのと同じです。人間は執着という実に人間の本質をなすものから逃れられないのであり、また捨てるべきではないのです。
そして、この両作品が読者に強烈な印象を与えるのが、「殺人妄想」と「穴」です。『CUT×OUT』の章節に「Murder of love」という章があります。直訳すれば「愛の殺人」です。こいずみさんのコメントに、一度くらいは誰かを殺したい衝動に駆られて、その殺人計画を立てた経験がありませんか? と記していることにその意味があります。人間は思っているだけなら自由であり、実際的に何の不利益も発生させなければ、いかなる不利益を考えようとも自由なのです。誰しもが考えたくないと感じている、このことについてこの作品はずばりその心を言い当てるのです。道義的に、または法的に殺人は悪であると理解していても、動物的本能から敵を殺さずにはいられないという衝動を消すことはできません。誰しもが一度は、コイツなんか死んでしまえばいいのにと思うことでしょう。それは極自然的なものです。自分にとって不都合なものを生かしておくほど、人間という動物はお人好しではないのです。それは彼を取られるくらいなら、いっそのこと殺してしまって永遠に自分の心の中で都合の良いペットのように住まわせてしまおうという、彼への肉体的執着と物欲的な執着が働いているのです。この章はさしずめ、自分のご都合主義に合わせた、殺人によって恋人を得ようとする「殺人快楽」と訳すのが良いかもしれません。
また『GARDEN of EDEN』ではストーリーの核心ともなる、どす黒く、吸いこまれそうな深い穴がストーリーを解くカギになっています。それが何であるかは明かしませんが、誰しもがもつ非理性的な衝動を本来的な形として示したものとだけいっておきます。穴とはある秩序に対する例外、分かりやすくいえば、平らであるはずの地面に存在するくぼみなのです。穴というものは本来的に存在しないのです。人間のご都合的な計画に拠れば、穴は例外であり、正常な進行を遵守すれば発生することはないのです。工程表、プログラム通りに計画を進めれば、何の支障もなく計画は完了されるのです。しかし、自然へ立ち帰ってみれば、この世界は全てが例外であり、計画など全く意味のないものであることを思い知らされるのです。カール・ポパーが、歴史に学ぶことなど何もない、といったことと同じように、人間の行動は何の法則性を見いだしうるものではなく、全てはその瞬間の例外によって決定されるのです。つまりは、人間が認識している世界は、本人が感じている以上に穴だらけであり、むしろ穴でしか構成されていないのです。それを穴など存在しては、計画はそもそも不可能だと考えることから、自然に逆行した認識を抱いてしまうのです。それは人間を非自然的な、人間だけの排他的な空間へと導くのであり、その全ては非自然的です。それが文明であるかは別の問題として、穴はまったく珍しいものではなく、極ありふれた、存在していることが当たり前なのです。それに気づかされたとき、穴というものが常に彼の傍らに寄り添っていることに、生命に対する貧弱さと愛しさが、これまでの感覚を凌駕するほどに増大した状態で感じられるのです。
この作品にとっての哲学を支えているのが、こいずみさんの画力だと思います。こいずみさんの絵はまったくリアルでなく、非常に画一化された、非常にマンガ的な描き方です。キャラクターの人物像に何か特別な魅力を感じるわけでもありません。しかし、ただ一ついえることは、彼女の描くキャラクター全員は、目に力が宿っていることです。まるでマンガ的な描き方なのに、瞳が渦を巻いていたり、白目だったりしますが、それらにも生命の力をもって、読者に訴えかけているのです。恐怖に脅えた目、怒れる目、迷える目、それらは生命そのものです。この目の力こそ、こいずみさんのマンガの魅力といえるでしょう。それはこの二つの作品に限らず、その他の作品にも共通していることです。その目の力を感じとるだけでも、マンガに対する感覚の大きな印象を与えることでしょう。

こいずみまりさん 公式サイト http://www.k3.dion.ne.jp/~maririn/

第三回目は森永みるくさんの「月刊コミックハイ!」で連載されている『GIRL FRIENDS』について考察したいと思います。この作品は地味でまじめな女子高校生である熊倉まりが、クラスメートのオシャレで派手な大橋あつこに話しかけられるところからストーリーが始まります。あつこと関わっていく内に、まりが友情やオシャレに目覚めてゆき、ついにはあつこに恋心を抱いてしまうという百合ものなのですが、百合作品の王道である『マリア様がみてる』やその他過激な百合作品とも違い、この作品は純粋に友情を楽しんだ結果として、恋心に似たものを感じてしまったと解釈するのが良いでしょう。なので、シリーズのテンポは緩やかです。親友が誰かに執られてしまうかもしれないという嫉妬心から、親友に彼氏ができる事を祝福してやれない自分に嫌気がさし、これは恋なのかもしれないと考え、思い詰めていく流れです。単行本は二巻しか出ておらず、まりがあつこに直接、告白したところで立ち止まっていますから、続きは今年の十一月ぐらいに判明するでしょう。個人的なことを述べるなら、森永さんの丸っこい線で女の子を描くタッチが、とても好みです。女の子はやはり造形的な美を卓越していますから、太い線でなるべくトーンを使わずに、ぺったりと丸っこく描くことで、その造形としての部を表現できるのですが、森永さんの画風は太線ではないものの、高校生ならではのふっくらした加減をまりに表現できています。その画風もツボに入った理由でもあります。
それでもこの作品は、可愛い服や化粧、プリクラなどの遊びを覚えていく、まりの外的、内的変化を観るだけでも価値があります。服飾や化粧というのは自然的状態を別の高次に引き上げる作業のようなもので、今ある自分をいかに技術によって可愛く見せるかを目的としています。野蛮な動物はファッションをしません。そこにはやはりファッションというものが人間の文化的な美への到達を、自身の肉体に体現しようとする行動だと考えられます。女子高校生というオシャレに興味を持ち始める年代に、どのような方法で、どのような基準で、それらを行うのかを目の前で観せてくれます。それは、ある素人のスポーツ選手が技術を修得せんと努力に励む姿を観ているのと同じ感覚を覚えます。服のパーツや化粧品や、道具の名前がたくさん出てくるので良い勉強になります。なので、この作品は確かに女子同士の恋愛を描いて、最終的にはまりの告白にまで至ってしまうのですが、ある女子高校生がオシャレを覚えた女の子に変身しようとする過程を除いているようなものであると捉えることも可能です。一昔前の、純情少女マンガを読んでいる感覚になります。最近の少女マンガは、展開が早く、付き合ったと思えばすぎにベッドインをする始末で、どこまで恋から行為への道筋が短縮されるのかは、目を見張るものがあります。この作品では、その当事者を女子同士にしただけといえるでしょう。個人的な意見としては、純情な恋心を描く作品が多くあってほしいと思っています。
この作品がもしドラマCDやアニメになったときは、是非とも次のキャスティングをお願いしたいです。主人公の熊倉まりは豊崎愛生さん、大橋あつこは福圓美里さんに声を担当してもらいたいです。まりについてはおかっぱで、目がくりっとしていて、抱き心地の良さそうな体つきをしていますから、とってもコンパクトで、しかも純情そうな声が合っています。豊崎さんはまさにうて付けでしょう。比較的、ラジオで喋られている感じの声が良いように思われます。豊崎さんの声は非常に丸みをおびていて、ちびっこい印象を与えます。また混濁もなく、頭から離れがたい声です。これれらは、まりのイメージにとても合います。作品を人目読んだとき、聞こえてきたのは豊崎さんの声でした。
あつこに関しては、少しコギャル風で、金髪のロングヘアー、オシャレや化粧にめざといタイプなので、声も他の女子より頭一つ大人を感じさせることが必要です。『夜桜四重奏』のヒメをやったときのような程度の声が合うように思われます。福圓さんは大人から子供まで幅広く声領を持っておられますが、女子高校生という大人とも子供ともつかない動揺した年代の女子の声には、極端な高音や落ちつきを払った低音でもなく、非常に中間的な声量を求められます。福圓さんは子供をやるときは可愛らしく、大人をやるときはじっくりと声をよどみなく張るのですが、高校生役をやるときだけ声の中にかすかな擦れを感じさせます。それは彼女のクセなのでしょうが、これが絶妙な少女でありながら大人っぽさを醸し出すのに有効に作用するのです。あつこのような役柄は福圓さん以外にありません。
いろいろと書いてきましたが、『GIRL FRIENDS』は内容の目新しさや、内容にアカデメイアを求めるようなタイプの作品ではなく、自身もそんな気持ちでいたことが確かにあったと感じさせるような、気持ちのとても温かな部分をつかむような作品だと思います。だから、ゆっくりとした二人の友情関係を観ているのが楽しいのでしょう。

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