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『灰羽連盟』は全く捉え所のない世界観と難解な解釈にいつも悩まされる作品です。というのも、この作品は作品の意義や目的のほとんどを語っていないからです。それは中身のない作品だというのではなく、作中の全てが隠喩でできあがっているのです。隠喩は表現の奥行きを表現するには向いていますが、その目的を包み隠してしまうため、それを見出したり、解釈したりすることを困難にさせます。しかし、隠語の一つひとつが多くの意義や目的を語っているため、視聴者としてはそれらをつぶさに観察し、考えるしかないのです。
本作の主役である灰羽は灰色の翼をもちながら翼は飛ぶことに役立たず、しかし、人間のような生活を送ることを禁じられている存在です。そして、灰羽は壁に囲まれたグリの街から出ることを許されず、巣立ちの日が訪れるまで、灰羽たちの共同生活を強いられるのです。灰羽は突然に繭の状態から生まれ、何歳の身体で生まれることも、いつ生まれることも解りません。灰羽として生まれる前に自分がどんな存在であったのか、何の目的でそこに生まれたのかまったく解らず、灰羽はグリの街で暮らすのです。
灰羽が羽をもっているというのは天使でも人間でもない曖昧な存在であることを示しています。その証拠に、羽は天使がもつような白い羽でも悪魔のもつ黒い羽でもなく、まったく曖昧な灰色の羽なのです。これは灰羽が天使と人間、というよりも動物の両方をもち、善と悪の両方をもつ存在であることを表しています。これはまさに我々の人間世界における人間存在そのものといえます。もし、人間としてこの世界に生まれる前に別の何かしらの存在であったとしたならば、人間としてこの世界に生まれた瞬間から、我々は自分が何者であったかをまったく覚えていないのです。そして、人間の目的を知らないまま、人間としてこの世界を生きることを強いられるのです。つまり、灰羽は人間の曖昧な存在の象徴といえます。灰羽たちを護る壁は人間の限界であり、人間は人間能力の限界という壁に囲まれた世界しか知ることができず、その外はまったく知られない世界なのです。
次に、作中でよく登場するのが鳥です。鳥はシリーズの後半でラッカの導き手となるのですが、鳥は前半と後半で示している事柄が異なっているように思われます。というのも、前半の鳥は壁の外と内を行き来できる存在として描かれており、灰羽とは全く異なる存在でありながら、灰羽と共に生きているのです。鳥は灰羽とは異なる認識や実践の形式によって生きており、灰羽と合することができません。これは人間の認識や実践の能力は他の同植物たちのそれとは異なっていることを示しており、人間が見ている世界が世界の全てであるように考えるのは間違っているということを表しているように思われます。つまり、人間のいう環境とは人間の考えたいように考えた環境であって、他の動植物たちの考える環境とは異なっているのです。それを、世界が一つしかないと思いこんで人間の杓子定規によって他の動植物たちの環境を語ったり、まるで動植物たちの代弁をしたりすることは、人間に許されていません。人間は自身の認識と実践の形式をもっている限り、生涯を賭しても他の存在のそれにたどり着くことはできません。
これが前半の鳥の解釈といえます。そして、後半での鳥はラッカの贖罪を導く存在として描かれています。つまり、『灰羽連盟』は前半と後半で目的としているものが異なっているのです。前半は人間存在への問いであり、後半は人間の罪についての問いです。
ラッカが罪を自覚するのはクウに巣立ちの日が訪れたときです。ラッカは灰羽として生まれたことで、同じ灰羽たちから多くの愛を与えられます。なので、ラッカ自身も灰羽の仲間たちを愛していたのです。しかし、クウを失ったことで、ラッカは愛する対象を失いました。つまり、愛とは愛する対象を愛することで、自身が愛をもっていることを感じていたのです。しかし、愛する対象を失ってしまうと、自分は愛することができなくなってしまうために、自分が愛をもっているのかを不安に思ってしまいます。そのとき、愛をもたない自分に罪を感じるのです。愛とは誰か、何かを愛することによって自身にもつことができるのであり、愛をもつことができなかった者が罪深き存在として罰しようとします。ラッカはこれを自分自身に感じてしまい、罪憑きとなりました。クウの喪失が傷跡となり、ラッカは愛を知らないまま自分が何の存在であるかを見失います。愛を知らない者はいつまでも愛する対象を探し求めますが、失われた対象は戻ってきません。愛を行動として理解しているために、罪を知った者はいつまでも悩み苦しむのです。
鳥はまさにラッカに愛の意味を教えます。愛は「する」のではなく「もつ」のであると。すなわち、愛は何かしらの行動によって得られるのではなく、存在の本質として備わっているものであると述べているのです。我々が体験できるのは行動によって示された愛のみであり、それは愛されることです。しかし、この愛されることを自身も愛することと理解してしまえば、愛する対象がない限り自分は一切、愛を示すことはできないし、自身に愛があることを知られなくなります。そうではなく、誰かから自分が愛されることを存在本質として愛をもっていることと理解したならば、自分の愛は普遍となります。罪憑きはまさに前者のように愛を理解している者であり、そうでない普通の灰羽は後者の理解をしているといえます。その証拠に、レキはクラモリによって愛されましたが、その後はラッカを愛することでしか自分の救いを見出しませんでした。
そして、これの愛の解釈を裏付けるように罪の輪の謎かけが登場します。「罪を知るものに罪はない。」これは「私は嘘つきである。」と同じ自己言及のパラドクスです。すなわち、答えはいつまで経っても出ません。自分で罪のありかを考えている限り、自分でその救いを考えている限り、答えはまったく出ないのです。この罪の輪にはまり、自分で自分を許すことができなくなった者は、その罪に取り憑かれ、思い悩み、罪に疲れるのです。ここでラッカが出した答えは、自分で自分は決して許せないが、誰かから許されることはできる、ということです。罪の輪にはまった者は、自力で答えを出すのではなく、他の誰かから、その苦悩をしなくてよいといわれること、誰かから自分が自覚している罪を許されることで罪の輪から抜けだすことができるのです。前述した愛の話のように、罪を償うとは自分の行動によってなされるのではなく、自分以外の誰かから許されることによって、その罪は許されるのです。
つまり、『灰羽連盟』で強調しているのは、存在を自分のみに限定するのではなく、自分以外の誰かの存在によって初めて自分の存在を自覚できる、ということです。ラッカは鳥の導きによってそのことを知り、罪憑きから解放されたのです。しかし、レキはいまだ罪の輪にはまったままです。そこで、ラッカは愛をもった自分がレキに愛を教えるために行動します。ラッカは思弁だけでなく、実践においても愛をもったのです。レキの罪は自分自身です。自分にあるのは許されたいという欲望のみで、自分に愛があることなど微塵も感じず、そんな自身を許すことができなかったのです。そして、レキは誰にも許されようとせず、ただ自分の行動によって救われようとしていました。レキはラッカに愛されることによって自身の愛を知ったのです。
では、普通の灰羽とはどのような存在なのでしょうか。それは同じ灰羽として罪憑きを許す存在であり、罪憑きに愛を自覚させる存在といえます。誰かに愛を気づかせたときに、普通の灰羽は巣立ちの日を迎えるのかもしれません。
このように『灰羽連盟』は解釈できます。そして、『新約聖書』に「汝、隣人を愛せ。」という言葉がありますが、一般にこれは、隣人を自分と同じように愛することで争いがなくなると解釈されていますが、イエスがあえて「隣人」を強調したのは、「隣人を愛せというのは、神ではなく隣人を求めることで汝の罪は許され、汝に神が現れるだろう」ということなのではないでしょうか。隣人を求めず、ただ許してくれる存在である神のみを求めている内は全く許されず、神も現れません。しかし、自分の隣にいる同じ人間を求めることで、自分の罪は許され、愛をもった存在になることができます。それは神が現れて自分が許されたことと同じではないか、ということです。『灰羽連盟』はまさに人間存在そのもにに挑んだ作品といえます。
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今回は最近では珍しくなった日本初のカトゥーンである『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』を取りあげようと思います。カトゥーンと聞いてすぐに思いうかべるのは少し前の『パワーパフガールズ』ではないでしょうか。といっても、その作品もアメリカ経由でした。しかし、今回は日本初として、日本のブラックユーモアと下劣さ、そして純粋性を備えたカトゥーンに仕上がっています。 |
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ヤングアニマルで連載されていた『死に至る病』が上下刊形式で発売されました。連載ではいつも後ろの方に掲載されていて、あまり読者受けしていなかったのかなと考えていました。しかも、単行本の話数は十分に超えているはずなのに、いつまで経っても単行本課されないので、このままお蔵入りになってしまうのではないかとヒヤヒヤしていました。
原案はキェルケゴールの同題の論文です。論文では人間における絶望とは何かが考察されています。このマンガは学術論文であり、しかもまったくストーリーを差し挟まない理論的書物であるにもかかわらず、その要点を見事にマンガ化した作品になっています。おそらく細かい部分はさておき、論文が答えたいことのほとんどが反映されています。文者のこれまで読んできたマンガの中で、最も優れた、というより最も読むに値する素晴らしい作品です。これはきちんと論文を読んだ人間でなければ書けない作品です。 同作は「マンガで読む」シリーズのようなちんけなものではなく、論文の本質的な理念を抽出し、それをストーリーという形式にあてはめ、そして、読者を更なる考察の渦に陥れる作品になりました。その分、用語の面で困難さが生まれているきらいもありますが、それは些末なことでしょう。哲学書を上記の意味でマンガにするということは、非常に画期的です。マンガにはどうしてもストーリーが必要です。ストーリーとは具体例です。論文が語る普遍的な考察は、どのような具体例が適切であるかを考えることが困難な作業です。『死に至る病』の場合は絶望を問題にしていますから、比較的その部分は容易だったでしょう。それでも論文が示したい真理を理解し、それに見合ったストーリーを考えることにはそうはいかないでしょうけど。 文者としては、他の哲学書も是非ともマンガ化してほしいです。一度この形式が達成されたなら、他に波及することは容易でしょう。個人的にはカントの『純粋理性批判』やニーチェの『道徳の系譜』などがそうなってもらえるとありがたいです。特にカントについては、文章は難しいですが注意して読めば、これほど理解できる書物はありません。しかもほとんどの書かれている内容は至って当たり前の、小学生に教えるようなことです。書き手様の力量を大いに期待したいです。 おそらくこのマンガはアニメ化なんて絶対にないだろうし、続編があるはずもなく、人気が出るわ… |
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今回は、こいずみまりさんの作品を紹介します。こいずみさんは『お姉さまとお呼び!』や『健全恋愛ライフ』をはじめとした4コママンガを多く手がけており、『LET IT BE』、『みずほアンビバレンツ』などのラブコメマンガでも知られています。その他、『ジンクホワイト』や『渋谷ガーディアンガールズ』といったストーリー性を重視した後ろ暗い作品も描かれています。しかし、今回取り上げるのは彼女の作品群でも異質なタイトルに上がっている二つの作品です。これらはどう捉えて良いのか判断しがたいほどに複雑であり、底知れないものがあります。というのも両作品とも、形式としてはコマ割りされた通常のマンガではあるのですが、作中の章節は断片的です。特に『CUT×OUT』は前編がつながることはほぼなく、一貫して超短編のストーリーを数珠繋ぎにしています。方や『GARDEN of EDEN』は3人の少女から見える全く異なる時系列から、複雑に関連し合う一つの世界へと導いています。両者はその他のこいずみさんの作品と比べて、極めて異質の存在です。第一に両作品はSFでもなければ、コメディでもない、かといって純愛とも違う、その形はすさんでいて、歪んでいて、読者との共通した着地点、解決点をもっていません。第二に、両作品に緩やかに共通するテーマは、生と死であることです。『CUT×OUT』は絶望的であったり、衝動的であったり、惰性的であったり、神秘的であったりする男女交際の継続と離反を描いています。その中で彼に受け入れられない自分の意味や離れることができない彼の価値、そして、殺してしまいたい衝動に駆られるほどの彼へのいらだちなど、男女が交際するに当たっての相手の生死についての深い洞察が、断片的な章節に見て取れます。『GARDEN of EDEN』は過去への執着を基礎として、以前に自身が最も第説だと感じていたあるものについて、タイトルにもなっている骨董店を通して、3人の女性の執着からの解放を描いています。その執着とは非常に生命的な欲求であり、肉体的な彼との時間、幸福であった過去の記憶によって、離れることのできない不安と絶望を抱き、生命に対する漠然とした疑問をもつことから、彼女たちはその欲求を追いもとめるのです。それは恋愛という分野において、『CUT×OUT』でも恋愛への執着と捉えることも可能です。 |
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第三回目は森永みるくさんの「月刊コミックハイ!」で連載されている『GIRL FRIENDS』について考察したいと思います。この作品は地味でまじめな女子高校生である熊倉まりが、クラスメートのオシャレで派手な大橋あつこに話しかけられるところからストーリーが始まります。あつこと関わっていく内に、まりが友情やオシャレに目覚めてゆき、ついにはあつこに恋心を抱いてしまうという百合ものなのですが、百合作品の王道である『マリア様がみてる』やその他過激な百合作品とも違い、この作品は純粋に友情を楽しんだ結果として、恋心に似たものを感じてしまったと解釈するのが良いでしょう。なので、シリーズのテンポは緩やかです。親友が誰かに執られてしまうかもしれないという嫉妬心から、親友に彼氏ができる事を祝福してやれない自分に嫌気がさし、これは恋なのかもしれないと考え、思い詰めていく流れです。単行本は二巻しか出ておらず、まりがあつこに直接、告白したところで立ち止まっていますから、続きは今年の十一月ぐらいに判明するでしょう。個人的なことを述べるなら、森永さんの丸っこい線で女の子を描くタッチが、とても好みです。女の子はやはり造形的な美を卓越していますから、太い線でなるべくトーンを使わずに、ぺったりと丸っこく描くことで、その造形としての部を表現できるのですが、森永さんの画風は太線ではないものの、高校生ならではのふっくらした加減をまりに表現できています。その画風もツボに入った理由でもあります。 |



