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先日の新聞報道によれば、昨日公表された高校の新学習指導要領案は「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と明記されていると言う。文法中心だった教育内容を見直し、英会話力などのアップを目指すのが狙いとか。英語を、中学入学以来大学卒業まで、何年か習ってきても、一向に実際の役に立たない事への反省があるのだろう。文部科学省は「まず教員が自ら積極的に用いる態度を見せるべきだ」と説明する。私は、これを見て、「百年、一日のごとし」と言う思いを抱いた。
長年の鎖国時代を経て、明治の新時代が到来した時、明治の知識人たちは欧米の文明に触れ、「外国病」に罹った。外国のもの全てが、素晴らしく思えたのだ。確かに日本は遅れていた。その為、オランダ語を始めとする外国語の勉強が急務となった。ドイツ語も学んだ。更に英語が全てに勝って有用な時代がやってきた。時の文部大臣森有礼は「日本語を廃して、英語を国の言葉にしよう」とさえ発案したと言う。
今にして思えば、愚かな考えである。しかし、切実な思いでもあっただろう。日本語の複雑さは、世界の言語の中でも際立っている。漢字学習も負担だ。表記も縦書き横書き自在だ。文体も敬語表現など難しい。その点、英語は文字数も少ない。どんな偉い人にでも「you]で通じる。その上、全世界で用いられている。英語教育の重要性は幾ら力説しても足りないくらいであったろう。
しかし、「日本語」を失った時、日本人はこの世から消える。私が「国語」教員だから言うのではない。日本古来の思想や感情は、日本語で語られ、翻訳不可能と思うからだ。発想を英語でするようになり、夢の中で「英語」で会話するようになって始めて英語が血肉になったと言える。学校教育で、そこまで到達できるのか。私は難しいと考える。
現に、現場の教員たちは、「文科省は現場を分かっていない」と批判し、学校によっては、「アルファベットのbとdが区別できない生徒もいる中」では、「英語で授業なんて無理」と述べている。また、ある高校の男性教諭も「苦手意識を持った生徒が、ますます英語から離れてしまう可能性がある」と危惧し、進学校でも「難関大学の長文問題は、行間を読まないと分からない。結局、日本語で説明する必要があるので、時間のロスになるかも」と困惑しているそうな。
大学入試の変革が先だと言う声も多い。ある英語教諭は「リスニングの問題の配点がもっと高くならない限り、現場には浸透しない」と言い切る。大学入試センター試験の英語の配点は、筆記200点に対し50点。この先生は「進学校では生徒に最短コースを歩かせたいのが本音。今の入試がある限り、授業のやり方は変わらないと思う」と話す。
更に、何よりも重要なのは、果たして英語の授業時間を、全部英語で続けられる教員がどれほどいるか、と言う問題がある。実は、私も「英語教員免許状」を取得しているが、実際に教壇に立ったことはない。万一、若い時にでも、英語の授業を任され、「全部英語で」と言われたら、逃げ出すしかなかっただろうと思う。急に文部科学省がそう言う方針を立てたからといって、出来る筈が無い、と言うのが私の意見である。
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