そらの虹色ひよこぐも

あるときクラシックに目覚めたそらのブログ。

鳥居みゆき とか

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鳥居みゆきという名前の、いろんなものの書庫。
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7月19日は何の日?

ハープ奏者、吉野直子が第9回イスラエル国際ハープコンクールにて優勝(1985)


西洋美術史を学び、車でアルプス超えをする国際人

 日本を代表するだけでなく、世界的にも高い評価を受けているハーピスト、吉野直子(1967〜)。母親もハーピストという恵まれた環境で育った彼女は、1985年、イスラエル国際ハープ・コンクールで最年少優勝。以後、20歳のときにはニューヨークとベルリンでリサイタルを開き、国際的な活躍を始めました。

 6歳の時からハープを学んでいる吉野は、音楽だけでなく幅広い知識を得たいという理由から大学では西洋美術史を学び、彫刻や絵画で知られる芸術家、ミケランジェロを研究したという教養人。趣味も多彩で、演奏活動の合間に、パソコン、スキー、ドライブなどで気分転換を図るそうです。もっとも車の運転は、楽器を積んで雨のアルプスをスイスからオーストリアまで1日で900km走り、翌日に本番をこなしたこともあるそうですから、趣味と実益をかねている、といったところ? こんな彼女の柔軟な考え方や感性は、世界の多くのアーティストから愛され、フルートのニコレやバイオリンのクレーメルとの共演が実現したのをはじめ、さまざまな指揮者や楽器のソリスト、オーケストラからも共演の申し出があるそうです。

 また彼女自身、決して多くはないハープという楽器のレパートリー曲を増やすため、ハープのオリジナル曲以外の曲目、たとえばドビュッシーの「月の光」なども積極的に取り上げて、コンサートの充実を図っています。ハーピスト・吉野直子は、数多い日本人演奏家の中でも、世界の檜舞台で最も登場が待たれているアーティストの一人、ということができるでしょう。
 
 
 

7月18日は何の日?

ドイツの音楽学者、フーゴー・リーマン誕生(1849〜1919)

改版を続けながら今も利用されている「音楽辞典」の著者

 19世紀における最も優れた音楽学者の一人、フーゴー・リーマンは、音楽愛好家の父に音楽の手ほどきを受け、ベルリンで法律や哲学を学んだ後、ライプチヒで和声、作曲、ピアノを学びました。24歳のとき「音楽聴取について」という論文によって、哲学博士号をとり、以後、ドイツ各地の音楽大学や音楽院で教師を務めたのち、65歳で国立音楽学研究所の所長となりました。

 彼は、音楽の旋律・和声・リズムという三要素を詳しく分析し、音楽理論を体系的にまとめることを目指しました。たとえば和声では、転調の仕組みや和音の機能を理論的に考察し、リズムの研究では、アクセントを伴うリズムの周期性から音楽の構築性を説きました。これらの成果は、大著「大作曲法(全3巻、1902-13)」にまとめられています。

 また、音楽史の研究にも力を入れ、バロック時代以前の音楽なども研究しました。こうした広範な研究の成果をもとに、1882年に「音楽辞典(Musik-Lexikon)」を出版しました。これはリーマンの最も重要な著作とされ、彼の没後も改版を重ねており、12版(全5巻、1959-75)は現在でも広く利用されています。
 
 
 

7月17日は何の日?

楽聖ベートーヴェンの母親、マリア・マグダレーナ没(1746〜1787)

 「結婚生活は、悩みの連続よ!」

 身分や教養は高くないけれど、情が深く心優しい女性だったといわれるルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの母、マリア・マグダレーナ。旧姓をケフェリッヒといい、ドイツのエーレンブライトシュタインという町の葡萄酒製造業者(または宮廷料理長という説も)の家に生まれました。17歳で結婚した相手とほどなく死別。21歳のとき再婚したのがベートーヴェンの父となるヨハンでした。

 宮廷のテノール歌手だったヨハンは大の酒好きで、家庭をかえりみなかったので家計はいつも火の車。マリアは体が弱いのに5男2女を産み、うち4人を亡くしています。貧しさに耐えながら3人の息子をとても可愛がり、面倒見のよい母親だったようです。少年ルードヴィッヒの演奏旅行に船で出かけたおり、寒かったのでスカートで彼の足をくるんで暖めた、というエピソードが残っています。でも笑顔は少なく、「結婚なんてしないほうがいいわ。はじめはちょっと楽しいけれど、あとは悩みの連続だから」と、隣人にこぼしていたとか。とはいえ彼女の誕生日には、家族そろって陽気なダンスパーティーを開いていたといいますから、けっして暗いことばかりではなかったようです。

 そんなマリアが肺結核のため40歳で亡くなったとき、ルードヴィッヒはまだ16歳。彼の悲しみは深く、「母の懐かしい名を呼ぶことができ、それが母に聞こえた頃、私以上に幸福な者はいなかった」とある手紙に書いているほどです。以後ますます酒に溺れる父に代わり、彼が宮廷オルガニストなどの仕事で一家を支えるようになっていくのでした。

 マリアがルードヴィッヒを生み育てたボンの家は現在、世界中からたくさんの見学者が訪れる記念館「ベートーヴェン・ハウス」となっていて、彼女はそこから徒歩10分ほどの墓地で眠っています。「私にとって本当によい、愛すべき母親であり、最良の友でした」というルードヴィッヒの暖かい言葉を墓碑に刻まれて‥‥。なお、マリアの実家では今も“ベートーヴェン・ワイン”を作っているそうです。

 

http://www.yamaha.co.jp/himekuri/img/vie_h3_c2_01.gif

 作曲家、廣瀬量平誕生(1930〜)
 フランスの作曲家、ガブリエル・ピエルネ没(1863〜1937)
 作曲家、南聡誕生(1955〜)
 
 
 
 
 

7月16日は何の日?

20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン没(1908〜1989)

思いどおりのオペラ上演を行うために、音楽祭を企画・主催

 生前の圧倒的な名声だけでなく、残された数多くの録音によって、20世紀を代表する指揮者のひとりといわれるヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルウィーン・フィルを指揮した交響曲管弦楽曲の録音が、今でも高い評価をうけていますが、彼の指揮者としての活動のスタートは、オペラ劇場でした。

 ウィーンで指揮や音楽学を学んだカラヤンは、20歳の若さでウルム市立歌劇場の指揮者に迎えられました。ここは管弦楽が約30人、合唱も20人弱という小さな劇場でしたが、そのため舞台装置から衣装、演出まですべてに関わることができ、カラヤンはここでオペラのノウハウを身につけます。27歳でアーヘン歌劇場の音楽監督に抜擢され、以後はベルリン国立歌劇場やウィーン国立歌劇場と、超一流の歌劇場の指揮者に迎えられていきました。しかし、オペラ上演は指揮者といえども劇場の支配人や演出家との交渉が難しいため、59歳のとき、ザルツブルク復活音楽祭を創始して自ら監督を務め、キャストや演出など、カラヤンの思いどおりの上演を行いました。管弦楽には手兵のベルリンフィルを起用し、舞台の制作にも惜しみない費用を投入したため、そのチケットは世界で一番高い音楽祭といわれ、客たちは皆、豪華な衣裳で訪れたそうです。

 カラヤンはまた、録音技術の進歩に、誰よりも早く目を向けた指揮者といわれています。数多くの録音を行い、レコードを発売することで、クラシックの普及を進め、自分自身の名声をさらに高めていきました。オペラの収録も行っていますが、その多くは音声だけで、ビデオからLD、そしてDVDへと録画技術が進歩した今、彼が生きていたら、もっと積極的に映像も含めてオペラを収録していただろうといわれています。

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   イスラエルのバイオリニスト、ピンカス・ズッカーマン誕生(1948〜)
 
 
 

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