昨日から「新推理・狭山事件」の脅迫状関係の修正をはじめ、「新推理・狭山事件45・46・2」を修正しました。 善枝さんの死体に取り組むようになり、「被害者」ではなく「善枝さん」と書くようになりましたが、古いものは「被害者」のままなので書き換えるとともに、新たな発見を古いものでも触れるようにしています。 また、「新推理・狭山事件41」のタイトルは「ソネット形式から見た真犯人詩人説」を「ソネット形式と松尾芭蕉から見た真犯人詩人説」に書き換え、具体的な分析例を入れて次のように書き換えました。
私は、松尾芭蕉は天才と思っていたが、東北新幹線の車内情報誌『トランヴェール』で彼の俳句の成り立ちを見る機会があってびっくりしたことがある。最初の句は凡庸な句であったのが、何度も推敲し、仕上げていくうちにどんどんと変貌を遂げ、最後には「閑さや岩にしみ入蝉の声」のような素晴らしい句に大変貌をとげていたのである。曽良の日記に書かれた、大石寺で芭蕉が詠んだ「山寺や石にしみつく蝉の声」とは大違いである。 このように、文章は練らないと完成度は高まらない。それは、単なる伝達文の経験ではできず、表現力を磨く努力を積み重ねないとできない。 重要なことは、この句の「閑」は「門+木」で山寺をイメージさせ、「蝉」は「虫+単」で虫が一匹鳴いていることをイメージさせるだけでなく、「入蝉」と書いて「入禅」(『般若経』の六波羅蜜の1つ。思惟の行)にかけて、岩の上で据わり続けて足がくさってしまったという達磨大師を暗喩している。「石にしみつく」では、「入蝉」にはならず、「岩にしみ入」でないと達磨大師の座禅するすがたをイメージすることはできないのである。 この「閑さや岩にしみ入蝉の声」を単に山寺の静かな自然を詠んだ句と理解するのは、柿本人麻呂以来の日本の詩の伝統を理解しない悪しき写生主義の影響と言わなければならない(梅原猛氏の口調になってきたかな?)。あるいは、お寺を単に景色としてしか見ない、宗教文化を否定した近代人の薄っぺらな人間観の反映であろう。 鑑賞する文字である漢字の表現効果を計算し尽くした芭蕉の名句を、平仮名で書かれた句として単に音読みで理解するというのは、日本文化の否定であろう。 脅迫状の「出」「江」「名」「気」「死」の表現は、この万葉集以来の詩人の漢字づかいの伝統を踏まえていると私は考えているが、それは「新推理・狭山事件44 『万葉仮名的当て字』の4つの罠」「同46 脅迫状の12の偽装工作」で検討したい。
梅原猛氏の『歌の復籍』『万葉を考える』を読んでいるうちに、どんどん梅原氏の考えに染まっているようです。 (130919 甲斐仁志)  にほんブログ村
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