全体表示

[ リスト ]

 那須連峰の茶臼岳旧火山の噴火は大同二年とある。尾瀬ケ原の燵ガ岳の噴火も大同二年で、蔵王刈田岳の噴火も同じ年である。会津磐梯山の噴火は大同元年だが、その噴火を鎮めるために、大同二年に山麓に恵月守が建てられたといわれる。日光の男体山で旱魃を静めるために勝道上人が祈祷したのも大同二年となっている。しかし、話はこれだけではない。
茨城県の雨引千勝神社は大同二年創建となっている。早池峰神社、赤城神社なども同様である。また福島県いわき市の湯の嶽観音も、大同二年3月21日に開基されたとある。清水寺長谷寺などの寺院まで同じなのである。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上が大同二年である。各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど、大同二年及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である。富士宮市富士浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。

さらに、神楽の起源も大同二年作と伝えられているが、それだけではない。「秋田風土記」が語る阿仁銀山の開坑も大同二年で、高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間や大同二年に語り継ぐものが非常に多い。兵庫県・生野銀山の正式記録は「天文十一年(1542)開坑」となっているが、伝承では大同二年である。
おまけに八溝山森吉山などの鬼退治までが大同二年という始末である。加えて、肘折温泉に伝わる「温泉之縁起」史料の中に、大同二年あるいは大同年間に温泉が開かれたという記述があるように、温泉にまつわる大同二年もまた多い。このように、大同年間に関係が深い伝承の多さに驚かされてしまう。

大同二年は西暦でいうと807年で、平安時代の初期である。大同という年号は806年から809年の4年間しかない。もしかすると大同年間は天変地異の多い年ではなかったのかという疑問が湧くが、実はこれらの山が噴火したり、旱魃がひどかったという証拠は全くといっていいほど見つかっていない。では、単なる伝説なのだろうか。仙台地方には「秋風や大同二年の跡を見ん」という俳句まである。
しかし、証言がこれだけ揃いも揃って、大同二年もしくは大同年間に集中するのはどう考えても妙である。まさか、大同年間というキーワードが、全国において「むかしむかし、・・・」と同義語という訳でもあるまい。そこで「では、大同二年とは一体何なんだ」という事になる。実際この数年間に何かがあった、あるいは起こったことは確かである。ただの伝説だというならそれもいいが、では大同年間にこのような伝承をばら蒔いて歩いた犯人は一体誰なのだろうか。

そもそも、大同年間とは平城天皇の世である。種継暗殺事件で皇太子を廃された叔父早良親王に代わって立太子した経緯から、早良親王の祟りだといわれる病弱な平城天皇は、全国の寺社に自ら健康祈願を命じた。しかし、それだけでは寺社の草創はともかくとしても、各山々の噴火や鉱山の開坑など、いたるところの伝説とは結びつきにくい。
少なくとも、大同年間とは維新や改革より、革命とでも呼ぶべき節目ではなかったかと思われる。実は、もちろんのことなのだが、火山の噴火はともかくとして、大同年間を伝えるからにはそれらに係わる人物の名前も伝えられてはいる。なんだ、それでは謎でもなんでもないではないかと言うかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。まあその理由は後回しにして、まず伝えられるその人物、いや人物たちの名前を次に挙げよう。

実は、弘法大師空海坂上田村麻呂の2人が群を抜いて多い。田村麻呂の蝦夷征伐が戦果を収めて終了した2年後の年が大同二年である。一方真言密教を日本に伝えて、後に弘法大師の諡号を授かる空海が、唐から帰国したのが大同元年なのである。そこで、この大同年間が伝承上では「坂上田村麻呂」対「弘法大師空海」の対決の場になる。
しかし、東日本で圧倒的な力を示す田村麻呂だが、さすがに西日本ではかなり少ない。それにひきかえ、西日本の代表格が空海であるのと同時に、空海伝説は東北日本にも圧倒的な勢いで越境していくのである。では、この二人をもう少し詳しく見ていこう。

奈良・平安時代の東北は蝦夷の地と呼ばれ、その地に住んでいた荒ぶる蝦夷を平定したのが征夷大将軍坂上田村麻呂である。胆沢城を築き大和朝廷の判図を拡大した。ちなみに、大和朝廷と戦った蝦夷の伝説は数多いが、その殆どは鬼あるいは、悪として封じ込められている。蝦夷は偶像もなく記録を持たなかったために、みずからの意思を歴史に残せなかったのである。
当時、北関東から東北にかけての地域で多くの神社が作られている。蝦夷遠征の戦勝祈願のために田村麻呂が神社を寄進した記憶を留めた歴史上の話であろう。ただ、常陸の鹿島神宮も下総の香取神宮も土地の神様ではなく、ともに武力の神である。また、四国讃岐にも田村神という田村麻呂を祀る田村神社もある。

おそらくこれらは、時の大和朝廷が東北のみならず四国など、神社を通じて全国に展開した勢力拡大政策であり、力のシンボルがこれらの神社であった。現に、平城天皇は大同元年から二年にかけて全国に観察使を派遣し、地方政治の実状を調査させたと記録にある。病弱とはいえ、官司の統廃合を行い緊縮財政に努め、譲位後も再び平城への遷都を強行しようとした天皇なのである。
冒頭で述べた阿仁銀山の開坑のも、実は田村麻呂となっているのだが、これは武将としての行動範囲を超えている。ではなぜ、東北の大同二年の鉱山伝承までが、田村麻呂と結びつくのだろうか。それは、蝦夷征伐による東北地方での勇名に加えて、真言密教の影響下で京都に清水寺を創建したことである。さらに大同二年、奥州高丸という賊の平定後、田村麻呂は前田村壱町木という所に堂宇を建立し本尊十一面観音(行基菩薩作)を安置したことが大きい。実はこれらのことが今回のテーマ、大同二年の謎を解くひとつの鍵になるのである。
続く...

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2018 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事