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 平安時代のはじめ、最澄と空海という高僧があらわれて、それぞれ天台宗と真言宗を開いたことは仏教史の上だけでなく、古代思想史上でも大きな分岐点となる。二人は中国に渡って日本に密教を伝え、比叡山、高野山を開いて山岳仏教を提唱すると、日本の仏教は密教的色彩に塗り替えられていくことになる。ただし、最澄の天台教学にとって、密教はあくまで大系を構成するひとつの部門に過ぎなかった。これに対し、空海は密教こそが全てとした。今日でも「密教は真言宗と、最澄の天台宗の一部」だと言われるように、密教修行で最澄は空海に遠く及ばない。
入唐して短期間に梵語やインド仏教を学んだ空海は、果たして青龍寺の恵果和尚から密教を学ぶことになる。「大日経」の善無畏派と「金剛経」の金剛智派の2派に分かれていた密教を統一したのが恵果であり、中国における唯一正統な密教の後継者だった。恵果は1,000人余りもいた弟子の中から、異国の僧、空海の卓越した才能を見抜き、密教世界の最高位とも言える阿闍梨の位を授け、真言密教第8世法王に任命した。また、空海は恵果より大日如来の密号「遍照金剛」の名前を授かったが、四国八十八札所の巡礼を遍路と呼ぶのはこのためである。

恵果は密教の奥旨の全てを伝授して、空海に密教の法具、経典、曼陀羅、法衣などを用意した。そして日本に早く帰って密教を広めることを願いつつ、805年12月60歳で亡くなった。それは空海と出会ってからわずか半年余りのことである。国に義務付けられた二十年の留学期間を大幅に繰り上げ、空海は唐に来ていた次の遣唐使船で帰国した。
これから後の838年から、わが国の円行・常暁・円仁・円載・恵運らもこの時に入唐求法して密教を求めている。しかし、中国では845年の武宗の法難により仏教は衰えてしまう。その後玄法寺法全等により再び密教を盛り上げるが、優れた継承者もなく仏教界全般の衰退とともに中国密教もまたその勢力を失っていった。

さて、空海が日本に持ち帰った密教の法具、経文、仏像などは膨大なものだった。この「御請来目録」を携えた空海は、嵯峨天皇の招きで大同四年に京の都に入る。この目録の中には「十一面自在観音」三体が含まれ、密教の導入とともに十一面観音は密教の変化像として世に広まっていく。ここでようやく、田村麻呂が奉納した十一面観音が結びついてくるのである。
空海と田村麻呂の名前が出たところで、後回しにしていた疑問を考えていきたい。つまり犯人の名前が判っても、謎は残るという話である。例えば、大同三年弘法大師の勧めにより、田村麻呂が草創したと伝えられる恵隆寺が福島県にある。確かに、田村麻呂は大同元年の前年より、征夷中止を受けて都に留まっていた。だが、一方の空海は唐より帰国後大同四年まで、九州大宰府に滞在していたことになっていて、二人をつなぐ接点はない。

大同元年10月に帰国した空海だったが、20年の留学予定だったにも関わらず2年で帰国したため、入京の許しが出なかった。勅命によって筑紫観世音寺に止めおかれたとか、伝説は多くあるがいずれも信ずべき資料はない。九州の太宰府からの足取りがしばらく不明で、空海が実際何をしていたのかはわからない。ただ、大同二年2月11日に、太宰府の時間某の亡母の供養ための法会を行い、その願文を起草しているので、この頃はまだ太宰府に滞在していたことは明らかである。いずれにしても、在唐中に求めた膨大な荷物を保管できる場所は限られてくるので、太宰府か観世音寺のどちらかであろう。
実は、冒頭に出た会津磐梯山の恵月守も、伝承では弘法大師空海が建てたといわれるが、実際には徳一大師が建立したことが歴史上は明らかなのである。この徳一は後年、真言密教を国家の仏教にと目論む空海の協力要請をきっかけに、最澄や空海といわゆる「三一権実論争」を行った有名な僧でもある。その恵日寺は最盛期に僧兵数千を誇ったが、源平合戦のおりに平家方について挙兵したが敗れ、衰運を招くことになる。

もう、お気付きであろう。このように、様々な大同年間伝承にもかかわらず、史実では空海も田村麻呂もそれぞれの現場にはいなかったのである。これは一体どうしたことだろうか。要するに、大同年間伝承をばら蒔いて歩いた犯人は別にいるということになる。さらに言えば、それぞれの地の歴史的事実をも、大同二年伝承に塗り替えていった犯人がいるということである。それこそが、我々が探す真犯人なのである。そして、それが伝承である限り必ずしも、大同年間に行われたとは限らないことを忘れてはならない。

ここまで当時の状況を見てきたが、問題はなぜ大同二年や大同年間でなくてはならないかである。時代を超えてまで、歴史的事実を大同二年伝承に塗り替えていく必要があったのか。その答えは、空海の遺言といわれる「弘法大師御遺告」の中にある。密教を携えて中国から日本に帰国しようとする空海は「少僧、大同二年をもって我が本国に帰る」と記載している。
実際の空海の帰国は大同元年であり、ましてや帰国して間もない空海の教えは「新しい仏教」でしかなかった。それが南都六宗を凌ぐ勢いを持つのは、平城天皇の次の嵯峨天皇の庇護を受けてからである。しかし、真言宗ではこの大同二年が立教開示の年にあてられているのである。田村麻呂の十一面観音で分かるように、すべての大同二年ないし大同年間の伝承は、この真言宗の立教開示を標榜したものだ。つまり、この瞬間に時空を超えた大きな変動が日本におこる。これが、全国に広がる大同二年伝承の正体である。
続く...

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