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国史画帖『大和桜』㊺ 運拙く哀れ 光秀 の最期・・

天正十年1582年)六月、信長の弔い合戦として秀吉は、山崎天王山(京都府大山崎町)に於いて明智の軍を破った。
 
そこで光秀は坂本城(大津市下坂本)に立て籠もり、決戦を為さんと一騎当千の郎党十数名を従え、坂本城へ向かう途中伏見を通過、小栗栖(おぐるす=京都市伏見区醍醐)へ差し掛かった時は丑三つ頃、三々五々と密かにそぼ降る雨の中を進み、竹藪の傍を通らんとした時、横合いより土民が狙い定めてエィ・・・と突き出す槍は、光秀の脇腹に深くグイッと突き刺さった。
 
「無礼者ッ」と云いざまその竹槍を切り落とし、突き刺されたまま馬を走らせ、凡そ三十丁も来たころ、流石の光秀も遂に落馬したが、続いて来た溝尾茂朝この様を見て驚き、抱き起こすと「この深き傷では最早坂本城まで覚束(おぼつか)ない、命自害致す故、汝介錯致し呉れ」と五十五を一期として儚き最期を遂げた。
 
当時土民の一部には、落ち武者と見れば、物具を剥ぎ取る輩が出没して居た。
身は五十有余万石の城主、更に仮令十余日とは言いながら征夷大将軍、明智惟任光秀(あけちこれとうみつひで)が土民の竹槍にあえなき最期とは・・・
 
ああ天の配罪か、それとも宿命か、兎角英雄の最期、憐れな者の内でも、光秀の最期こそは最も哀れなものであろう。


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      山崎合戦之図  光秀の大山崎敗走場面
    ↑明智日向守光秀 ↑美曾尾惣兵衛 ↑武智十郎衛門↑津間木数衛
↑名見川嘉門之介                     ↑比企田帯刀

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         山崎合戦之地(京都府大山崎町) 

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           明智光秀 小栗栖の図

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          小栗栖の露と消えた光秀

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      小栗栖 明智藪に差し掛かった光秀と近臣

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        明智光秀亡滅旧跡 本経寺等の絵図

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     光秀死亡の藪

                  
      光秀の行状にて亡着し藪は、南小栗栖法権                    壇林の側にありし、藪を傳領したる土民覚わ                    りとて、今は知るべき附しなかるらん。

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       本経寺内にある明智日向守光秀公供養塔

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【明 智 藪】

「明智藪」は新小栗栖街道を六地蔵から山科方面へ向かうと存在する】

近江坂本城主、明智光秀は(1582年)天正十年六月二日早朝、中国地方へ出陣の為、上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた。(本能寺の変)
その後、光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名と共に暗夜に乗じて坂本城を目指したが、途中小栗栖の付近に差し掛かったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最期を遂げたと云われている。
この明智藪は、今日に到るまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領と成っている。   
平成三年二月吉日

 
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           明智光秀之塚 胴塚

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            明智日向守光秀

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            明智日向守光秀





転載元転載元: 泰弘さんの【追憶の記】です・・・

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