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韓国メディアやから信用しきれへんけど、可能性は高い。
北朝鮮国民が知ったら動揺が走るやろから一大事なのは間違いない。
下手したら体制崩壊の引き金になるかもな。
【ソウル、クアラルンプール時事】韓国メディアによると、北朝鮮の故金正日総書記の長男で、金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄・金正男氏が13日午前、マレーシアのクアラルンプールの空港で殺害された。
韓国政府は、詳細を確認中とみられる。 ロイター通信は「マレーシア警察が、北朝鮮国籍の男性が死亡したことを確認したが、身元を調べているところだ」と伝えた。北朝鮮関係筋によると、死亡した男性の容姿は「正男氏に似ている」という情報がある。 韓国メディアは、空港で女2人が針で正男氏を殺害したと伝えた。マレーシア警察は女2人の行方を追っているという。
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支那の歴史
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昨日のエントリ(<−クリック)の続編です。
案の定機体はMade in ChinaのMA-60。このトラックに乗せられて運ばれていく姿はかわいいですね。いかにも「幸福航空」です。
右側はよくわからないですが、左の主翼はお辞儀をしています。エンジンは下方に向けて回るように見えますが、これは垂直離着陸機ではないと思います。普通旅客機はプロペラの角度移動はありません。プロペラは進行方向に向いていて、プロペラの羽根の角度でフェザリングから高推力まで調整されます。
一所懸命捜したのですが、メルパチ航空のMA60がインドネシアで着陸時に主翼が折れてしまった写真を見た覚えがあるのですが、探し出すことができませんでした。多分ペキン政府がすべて大枚をはたいて買い取ってしまったのでしょう。
5/11 15:00追加:
こかげさんが写真を探し出してくれました(感謝)。
如何にもあの支那人どもが作った飛行機です。
こういう飛行機が支那の大陸ではぶんぶん飛び回っているのです。
それでも君は支那へ行くか?バカではないのか?
wikiにあるMA60の赫々たる事故の履歴は《2009年以降のみ》:
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事故
いろいろ楽しそうな飛行機ですね。
wikiにはまたこんな記述もあります:
===
就航[編集]2000年3月21日に初飛行し、8月には四川航空が就航させ、中華人民共和国当局から量産の許可が出たため年間12-15機が製造されているが、同国政府による発展途上国への販促を狙った無償供与も多い。(<−誰がこんなポンコツをゼニを出して買うものか!)
事故とトラブル[編集]しかし設計及び生産レベルの低さに起因する事故や運航トラブルが多く、国際的な安全基準に達していない可能性があるので納入拒否したり、受領したものの運航停止した航空会社や、政府により運航停止措置が出されたり搭乗を避けるよう警告を出している国もある。なおこれまでに先進国の航空会社で運航されたことはない。(<−北京の腰ぎんちゃく▲朝鮮あたりが手を出すかもね。え〜と、あそこは〇●国だったかなぁ?何しろ新幹線のカヴァーにガムテープを貼って運用するようなところだから。)
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2015.5.10 18:02
中国機着陸失敗、7人負傷 福建省、滑走路外れるhttp://www.sankei.com/images/news/150510/wor1505100034-n1.jpg 10日、中国福建省福州市の空港で滑走路を外れた幸福航空の小型プロペラ機(新華社=共同) 中国の航空当局や国営通信の新華社によると、福建省福州市の空港で10日昼ごろ、幸福航空の小型プロペラ機が着陸に失敗、滑走路を外れ、脇の草地で止まった。主翼や胴体が破損し、プロペラ部分が地面に接触した状態になった。乗客45人のうち7人が負傷した。
広州の日本総領事館によると、日本人が巻き込まれたとの情報は入っていない。
事故を起こしたのは、中国国産のMA60。10日午前に浙江省義烏を出発、着陸の際に何らかの原因で滑走路を外れた。インターネット上にはタイヤがパンクしたとの書き込みもある。
幸福航空のMA60は昨年2月にも河南省鄭州の空港で、機首が滑走路をこすって停止する事故を起こしている。(共同)
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恐らく私のブログやFBを読んでいる読者は私が大の中国嫌いとお思いの方も多いかとと思います。
残念ながら、私は堯舜の世以来の中国史の本を良く読みます。
(律令制度以降の日本史は中国の政治制度とも密接に関係しているので。)
「三国志関連」と「項羽と劉邦」、南宋時代の本は大好きです。
我々昭和50年代の教育を受けた世代は、それなりに読み下し文と併記ならば漢文も読めます。
私が、米国に技術者として、
駐在していた時には在米華人のアメリカ国籍の技術者と一緒に仕事もしていました。
国家レベルの中共政府の外交方針と、中国文化や歴史に精通することは別物です。
【個人的には、言論の自由を認めない、中国共産党の政治方針は大嫌いです。】
個人的には、皇帝達に帝王学の英才教育を授け、
他民族国家だった清王朝の康熙帝、擁正帝、乾隆帝の時代の方が、
余程、中国の文化は先進的です。
中国文化や歴史に精通せずして、
国家レベルの中国政府の外交方針を市井に生きる歴史好きが考察することは不可能だと思います。
歴史 よもやま話
【三国志と曹操孟徳に関する私見】
三国志に登場する曹操孟徳が現代にまで続く孫子の注釈を纏めた歴史学者であることは、
殆ど知られていません。
三国志好きとしては少し残念に思う次第です。
曹操が"「孫子」の注釈を1800年以上前に纏めた兵学者と、合理的な政治家の側面"
が有ることはあまり知られていません。
「孫子」は読んで頂ければ理解して頂けますが、戦争の方法を解説した教科書ではありません。
どうしたら、戦争を避け、為政者が国民のための、政治を行うのかという心得を説いた教科書です。
我々の昭和の世代では、NHKの「人形劇三国志」、
横山光輝の漫画、「三国演義」を元に創作された謂わばほぼフィクションを通じて、
三国志を知りましたが、史実は正確には反映されていないません。
吉川英治の三国志に至っては全編「講談の三国演義」を元に創作され、曹操は残虐非道な為政者として描かれており、史実を全く反映していないのは残念です。
本来の三国志を読み解くためには、「小説である三国演義」では無く、市井の歴史好きとしては、正史として記録されている「陳寿による正史三国志」を中心に検討為べきであろうと私は、思います。
私は、古代中国の為政者の中で、曹操ほど、質素で合理的な政治家を知りません。
昼は兵書を読みながら、戦乱の中で如何に秩序を創る治世を行うか考え続けた政治哲学者の側面も読み取れます。自ら詩に親しみ、「建安の七子」と呼ばれる文芸の復興にも力を注ぎました。
漢王朝の末期を支え、自身は魏王には成りましたが、最後まで皇帝に成らず、
漢王朝の朝臣として生涯を終えました。
中原の地の治世を再考し、屯田兵を採用し、戦乱で荒れた田畑の再興にも力を注ぎました。
中華の2/3を支配下に起きながら、曹操は生を受けて、
東奔西走すること65年、遂に最後まで呉と蜀を攻略出来ず、
遂に中華の統一を成し遂げることは出来ませんでした。
最近になり、中国で、曹操孟徳の墳墓が発見され、調査が続いています。
墳墓には豪華な宝飾品は殆ど納められておらず、身の回りの愛用品と、
妻二人が一緒に埋葬されていました。
埋葬されていた女性の一人は、曹操の最初の初期の夫人の一人で有る丁夫人とする説が有力である。(当時は医学が未発達なので、女性の死亡率が高かったと推測される)
【ココからは中国人歴史学者の意見と私の個人的にな推論を交えた議論】
最新の研究に基づく、曹操の骨やDNAの鑑定結果によると、丁夫人は曹操一族の一人で、従姉妹との同士であったとする説が有力視されている。
しかし、儒教の教えのが第一とされる春秋戦国時代以降の中華文明では、従姉妹同士との結婚は許されなかった。そこで曹操は曹操の長男である曹昂の養育を丁夫人に委ねたと推測しています。
しかし、曹操の長男の曹昂は曹操と敵対する軍師賈詡の張繍による奇襲に遭い敢えなく戦死。
丁夫人は育ての息子、曹昂を失い悲嘆に明け暮れ、邸宅を離れ、しばらく曹操の元を離れ、実家に籠もったと推測されている。
その後、曹操は卞夫人を娶ったが、丁夫人への礼節を失わず、卞夫人も心を許し、
曹操が戦時遠征中の不在の際は、丁夫人も卞夫人に心を許していたのだろうと推測されている。
是が、曹操の墓に、長男を育てた第一夫人と、次男を産んだ第二夫人の二人埋葬されている理由ではないかと個人的には推測している。
【備考 丁夫人】
丁 夫人(てい ふじん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。曹操の妻。曹昂の育て親。
曹操の正室劉夫人が亡くなった後に迎えられた。子供に恵まれなかったため曹昂を大変可愛がり、曹操の跡継ぎとして育てた。しかし、宛城で曹操が張繍から奇襲を受けた際に、曹昂は曹操を逃がし、自らは戦死してしまった。
そのため丁夫人は悲嘆に暮れるようになり、事あるごとに「私の子を殺しておきながら、平気な顔をしているとは」と曹操に言っては、節度もなく号泣した。曹操はこのような態度を不快に思っていたが、丁夫人を愛していたため、里に帰して丁夫人の気持ちが収まるのを待った。しばらくして曹操は丁夫人の家まで行き、謝して宥め、共に帰るように促した。しかし丁夫人はこれを拒み、二人はそのまま離縁することとなった。
その後、曹操の側室だった卞氏が正室になったが、卞氏は時候の挨拶を欠かさず、丁夫人に贈り物をしたり、曹操不在の時には家へ招き入れたりした。以前、丁夫人は身分の卑しい卞氏に辛くあたっていたにもかかわらず、卞氏が自分の世話をしてくれる様子に感謝したという。
曹操は後年、「もし霊魂というものがあって、曹昂に『私の母はどこにいますか』と尋ねられたなら、予は何と答えたらよいのであろうか」と語ったといわれる。
【備考 卞夫人】
元は歌妓であったが、20歳のときに当時譙にいた曹操に迎え入れられ側室となった。丁夫人が廃されると正室になり、曹丕・曹彰・曹植・曹熊を産み、息子たちの異母兄弟も養育した。華美を好まない倹約家で慎み深く、節度を重んじた。
名門の出である丁夫人からは軽蔑されていたが良く仕えた。丁夫人が曹操と離縁した後も、時候の挨拶を欠かさないなど配慮を続けたため、やがて丁夫人からも感謝されるようになった。建安24年(219年)、王后に立てられ、曹操没後は王太后と号した。曹丕の即位に伴い皇太后となり、永寿宮と称した。曹叡が即位すると太皇太后になった。太和4年(230年)に亡くなり、高陵(曹操の墓)へ葬られた。
『魏志』武宣卞皇后伝注に引く王沈『魏書』では、曹操が手に入れた複数の耳飾を卞氏に選ばせると、彼女は中級の品を取った。曹操が理由を尋ねると「上等な物を選ぶと欲深な者と思われ、下等な品を選べば偽りの倹約と思われるため、中程のものを選びました」と言った。
『世説新語』の賢媛篇にも逸話が載せられている。卞氏は病を重くした曹丕を見舞いに赴いた。すると、曹丕は曹操の側室たちを全て自分が引き取っていた。その場に居る者の話を聞くと既に曹丕が亡くなっていたため、嘆息して「あなたが食べ残したものは、狗や鼠も食べようとはしないでしょう」と言い、墓へ行っても哭礼の弔いをしなかったと記されている。
逸話
卞氏が病に伏せると曹丕の本妻甄氏が、姑の事を気懸かりに思い泣き続けたため、その事を知った卞氏は「何と親孝行な娘でしょう」と感嘆した。
『世説新語』の賢媛篇にも逸話が載せられている。卞氏は病を重くした曹丕を見舞いに赴いた。すると、曹丕は曹操の側室たちを全て自分が引き取っていた。その場に居る者の話を聞くと既に曹丕が亡くなっていたため、嘆息して「あなたが食べ残したものは、狗や鼠も食べようとはしないでしょう」と言い、墓へ行っても哭礼の弔いをしなかったと記されている。
遺骨
2009年、河南省で曹操の陵墓が発見されたとき、壮年男性の遺骨、壮年女性の遺骨、若い女性の遺骨の3体の遺骨が発見された。男性の遺骨は安置の状況から、陵墓の主たる被葬者と考えられ、曹操の遺骨だとの結論が出された。一方で中国社会科学院考古研究所は、2体の女性遺骨のうち壮年女性の遺骨は、『魏志』の「武宣皇后紀」の記述から武宣皇后と推定している。武宣皇后と思われる遺骨は死亡時50代を過ぎており、没年からして曹操より20歳ほど年下だったと考えられている。しかし歴史記録によると、武宣皇后は死亡時に70代で、曹操との年齢差は10歳程度とされる。 以上
中共の馬〜鹿というのは勝手ですが、、、、
中国文化と中国史全体が馬鹿どうかは、未だ未定です。
転載自由。
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恐らく私のブログやFBを読んでいる読者は私が大の中国嫌いとお思いの方も多いかとと思います。
残念ながら、私は堯舜の世以来の中国史の本を良く読みます。
(律令制度以降の日本史は中国の政治制度とも密接に関係しているので。)
「三国志関連」と「項羽と劉邦」、南宋時代の本は大好きです。
我々昭和50年代の教育を受けた世代は、それなりに読み下し文と併記ならば漢文も読めます。
私が、米国に技術者として、
駐在していた時には在米華人のアメリカ国籍の技術者と一緒に仕事もしていました。
国家レベルの中共政府の外交方針と、中国文化や歴史に精通することは別物です。
【個人的には、言論の自由を認めない、中国共産党の政治方針は大嫌いです。】
個人的には、皇帝達に帝王学の英才教育を授け、
他民族国家だった清王朝の康熙帝、擁正帝、乾隆帝の時代の方が、
余程、中国の文化は先進的です。
中国文化や歴史に精通せずして、
国家レベルの中国政府の外交方針を市井に生きる歴史好きが考察することは不可能だと思います。
歴史 よもやま話
【三国志と曹操孟徳に関する私見】
三国志に登場する曹操孟徳が現代にまで続く孫子の注釈を纏めた歴史学者であることは、
殆ど知られていません。
三国志好きとしては少し残念に思う次第です。
曹操が"「孫子」の注釈を1800年以上前に纏めた兵学者と、合理的な政治家の側面"
が有ることはあまり知られていません。
「孫子」は読んで頂ければ理解して頂けますが、戦争の方法を解説した教科書ではありません。
どうしたら、戦争を避け、為政者が国民のための、政治を行うのかという心得を説いた教科書です。
我々の昭和の世代では、NHKの「人形劇三国志」、
横山光輝の漫画、「三国演義」を元に創作された謂わばほぼフィクションを通じて、
三国志を知りましたが、史実は正確には反映されていないません。
吉川英治の三国志に至っては全編「講談の三国演義」を元に創作され、曹操は残虐非道な為政者として描かれており、史実を全く反映していないのは残念です。
本来の三国志を読み解くためには、「小説である三国演義」では無く、市井の歴史好きとしては、正史として記録されている「陳寿による正史三国志」を中心に検討為べきであろうと私は、思います。
私は、古代中国の為政者の中で、曹操ほど、質素で合理的な政治家を知りません。
昼は兵書を読みながら、戦乱の中で如何に秩序を創る治世を行うか考え続けた政治哲学者の側面も読み取れます。自ら詩に親しみ、「建安の七子」と呼ばれる文芸の復興にも力を注ぎました。
漢王朝の末期を支え、自身は魏王には成りましたが、最後まで皇帝に成らず、
漢王朝の朝臣として生涯を終えました。
中原の地の治世を再考し、屯田兵を採用し、戦乱で荒れた田畑の再興にも力を注ぎました。
中華の2/3を支配下に起きながら、曹操は生を受けて、
東奔西走すること65年、遂に最後まで呉と蜀を攻略出来ず、
遂に中華の統一を成し遂げることは出来ませんでした。
最近になり、中国で、曹操孟徳の墳墓が発見され、調査が続いています。
墳墓には豪華な宝飾品は殆ど納められておらず、身の回りの愛用品と、
妻二人が一緒に埋葬されていました。
埋葬されていた女性の一人は、曹操の最初の初期の夫人の一人で有る丁夫人とする説が有力である。(当時は医学が未発達なので、女性の死亡率が高かったと推測される)
【ココからは中国人歴史学者の意見と私の個人的にな推論を交えた議論】
最新の研究に基づく、曹操の骨やDNAの鑑定結果によると、丁夫人は曹操一族の一人で、従姉妹との同士であったとする説が有力視されている。
しかし、儒教の教えのが第一とされる春秋戦国時代以降の中華文明では、従姉妹同士との結婚は許されなかった。そこで曹操は曹操の長男である曹昂の養育を丁夫人に委ねたと推測しています。
しかし、曹操の長男の曹昂は曹操と敵対する軍師賈詡の張繍による奇襲に遭い敢えなく戦死。
丁夫人は育ての息子、曹昂を失い悲嘆に明け暮れ、邸宅を離れ、しばらく曹操の元を離れ、実家に籠もったと推測されている。
その後、曹操は卞夫人を娶ったが、丁夫人への礼節を失わず、卞夫人も心を許し、
曹操が戦時遠征中の不在の際は、丁夫人も卞夫人に心を許していたのだろうと推測されている。
是が、曹操の墓に、長男を育てた第一夫人と、次男を産んだ第二夫人の二人埋葬されている理由ではないかと個人的には推測している。
【備考 丁夫人】
丁 夫人(てい ふじん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。曹操の妻。曹昂の育て親。
曹操の正室劉夫人が亡くなった後に迎えられた。子供に恵まれなかったため曹昂を大変可愛がり、曹操の跡継ぎとして育てた。しかし、宛城で曹操が張繍から奇襲を受けた際に、曹昂は曹操を逃がし、自らは戦死してしまった。
そのため丁夫人は悲嘆に暮れるようになり、事あるごとに「私の子を殺しておきながら、平気な顔をしているとは」と曹操に言っては、節度もなく号泣した。曹操はこのような態度を不快に思っていたが、丁夫人を愛していたため、里に帰して丁夫人の気持ちが収まるのを待った。しばらくして曹操は丁夫人の家まで行き、謝して宥め、共に帰るように促した。しかし丁夫人はこれを拒み、二人はそのまま離縁することとなった。
その後、曹操の側室だった卞氏が正室になったが、卞氏は時候の挨拶を欠かさず、丁夫人に贈り物をしたり、曹操不在の時には家へ招き入れたりした。以前、丁夫人は身分の卑しい卞氏に辛くあたっていたにもかかわらず、卞氏が自分の世話をしてくれる様子に感謝したという。
曹操は後年、「もし霊魂というものがあって、曹昂に『私の母はどこにいますか』と尋ねられたなら、予は何と答えたらよいのであろうか」と語ったといわれる。
【備考 卞夫人】
元は歌妓であったが、20歳のときに当時譙にいた曹操に迎え入れられ側室となった。丁夫人が廃されると正室になり、曹丕・曹彰・曹植・曹熊を産み、息子たちの異母兄弟も養育した。華美を好まない倹約家で慎み深く、節度を重んじた。
名門の出である丁夫人からは軽蔑されていたが良く仕えた。丁夫人が曹操と離縁した後も、時候の挨拶を欠かさないなど配慮を続けたため、やがて丁夫人からも感謝されるようになった。建安24年(219年)、王后に立てられ、曹操没後は王太后と号した。曹丕の即位に伴い皇太后となり、永寿宮と称した。曹叡が即位すると太皇太后になった。太和4年(230年)に亡くなり、高陵(曹操の墓)へ葬られた。
『魏志』武宣卞皇后伝注に引く王沈『魏書』では、曹操が手に入れた複数の耳飾を卞氏に選ばせると、彼女は中級の品を取った。曹操が理由を尋ねると「上等な物を選ぶと欲深な者と思われ、下等な品を選べば偽りの倹約と思われるため、中程のものを選びました」と言った。
『世説新語』の賢媛篇にも逸話が載せられている。卞氏は病を重くした曹丕を見舞いに赴いた。すると、曹丕は曹操の側室たちを全て自分が引き取っていた。その場に居る者の話を聞くと既に曹丕が亡くなっていたため、嘆息して「あなたが食べ残したものは、狗や鼠も食べようとはしないでしょう」と言い、墓へ行っても哭礼の弔いをしなかったと記されている。
逸話
卞氏が病に伏せると曹丕の本妻甄氏が、姑の事を気懸かりに思い泣き続けたため、その事を知った卞氏は「何と親孝行な娘でしょう」と感嘆した。
『世説新語』の賢媛篇にも逸話が載せられている。卞氏は病を重くした曹丕を見舞いに赴いた。すると、曹丕は曹操の側室たちを全て自分が引き取っていた。その場に居る者の話を聞くと既に曹丕が亡くなっていたため、嘆息して「あなたが食べ残したものは、狗や鼠も食べようとはしないでしょう」と言い、墓へ行っても哭礼の弔いをしなかったと記されている。
遺骨
2009年、河南省で曹操の陵墓が発見されたとき、壮年男性の遺骨、壮年女性の遺骨、若い女性の遺骨の3体の遺骨が発見された。男性の遺骨は安置の状況から、陵墓の主たる被葬者と考えられ、曹操の遺骨だとの結論が出された。一方で中国社会科学院考古研究所は、2体の女性遺骨のうち壮年女性の遺骨は、『魏志』の「武宣皇后紀」の記述から武宣皇后と推定している。武宣皇后と思われる遺骨は死亡時50代を過ぎており、没年からして曹操より20歳ほど年下だったと考えられている。しかし歴史記録によると、武宣皇后は死亡時に70代で、曹操との年齢差は10歳程度とされる。 以上
中共の馬〜鹿というのは勝手ですが、、、、
中国文化と中国史全体が馬鹿どうかは、未だ未定です。
転載自由。
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なでしこりん様のブログ(言論統制のアメーバブログ)より転載させて頂きました。
このブログ(不死鳥復活サイト)のURL: http://ameblo.jp/nadesikorin-fight/
(以下、転載記事 ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます)
2016-03-12 18:28
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