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そう言えば、以前「ダンケルク」見た時に「何故戦艦部隊をかのエリアに派遣して艦砲射撃でダイナモ作戦支援しなかったの?」と疑問に思ったのですが、それにプラスして「ダンケルクで大敗後もかなりの戦力が残存していたのだから「ドゴール閣下は『ロンドンでなくブレスト(ブルターニュ半島)に自由フランス政府立ち上げ英国艦隊&米国のレンドリース法支援を受けて釜山橋頭保ならぬブルターニュ橋頭保戦を戦うべきだった』」と愚考するものですが、さてさて・・(思案) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ■ 卑怯者たちの格好付け活動。 2019年01月11日 07:57 すなわち、戦後フランス哲学/文学/映画のことだ。
ビシー政権が成立した時点で仏人たちは戦後のP5の資格などなくした。
そしてかぎりなく乱れたプライドを再確立するために論筆家どもが苦悩を重ねた産物が、戦後フランス哲学に他ならない。なにがレジスタンスだ、早々と白旗を掲げた連中が、威張るな――と自由世界から指弾されて当然だったのだ。 その前に南仏で部隊全滅するまで徹底抗戦するのが筋だった。南仏が全滅したら北阿で継戦するのが筋であった。じっさいに英米はそれを促したのに、フランス国家は断り、卑怯者として生き延びる道を選択したのだ(ビシー政権)。 その後、彼らは5年弱、積極的に対独コラボ(協力)した。ユダヤ人逮捕にも全力でコミットした。彼らは枢軸支援者だったのである。 イタリア人ならばこのような過去に恥など感じず、あっさりとマルクシズムを受け入れて済ますところかもしれないが、フランス人はなまじいにアングロサクソンに対する見栄があり、世界文化の最先端から後落した戦後の自分たちの姿を直視したくなかった。庶民と文学者は誰も彼も「自分はレジスタンスだった」との嘘話を捏造せねばならなかった。
この哲学は、根底需要が卑怯者集団の自己韜晦であったがゆえに、戦後の日本人知識人たちから、歓ばれた。戦後の日本のインテリも「悪と戦わず、卑怯に生き延びる」正当化の哲学を欲してやまなかったからだ。
80年代末、ソ連邦が自壊してくれたおかげで、卑怯者の哲学者たちは、長年の重しが取れたと感じた。わが国にも「ニューアカ」という酔生夢死の集団が登場する。 多年、卑怯者たちは、もし東西軍事均衡が破れてソ連軍が侵攻してきた暁には、国外逃亡するか、支配者の手先を志願するつもりでいたが、その言い訳の準備に、内心では困っていたようだ。 しかるに1990年、「イラク対米英軍」の湾岸戦争の可能性が生じ、一切は振り出し(1940年)に戻る。 このとき「ニューアカ」を含む日本のいい気な集団が米国大手新聞に掲載させた意見広告は、なんどでも回顧するに値する。 韓国の国防費は日本の国防費に接近した。今年よりも来年、来年よりも再来年、彼らはますます強気になる。今でもアレなのだから、いずれ戦争も不可避であろう。 後方で誘導しているのは中共である。しかしそんな構図は疾うから織り込んでいなければならぬことの筈だろう。南西方面と日本海方面、同時2正面から圧迫しようと考えるのは、北京から見れば、あたりまえの話だ。 若年人口減の近未来にそこに対処するには何をどう変えておいたらよいのか。それにも頭がまわらずに陸幕は、九州から尖閣へ往復し得ぬ、また中国から竹島に往復も叶わぬAHなどに貴重な国防資源を投じ続けた。 ふたたび、卑怯者たちの哲学が需要されている。これから一、二年は、即位礼と五輪と北方領土が、そのダシに使われるのかもしれない。(兵頭二十八HPより抜粋)
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世界史
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モロッコがPKO撤収要求 西サハラめぐり潘氏発言に反発2016.3.18 12:03 産経ニュース
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北アフリカのモロッコは西サハラに派遣されている国連平和維持活動(PKO)要員84人を撤収させるよう国連に要求した。モロッコが実効支配する西サハラについて国連の潘基文事務総長が「占領されている」と発言したことに対する措置。国連のドゥジャリク事務総長報道官が17日の記者会見で明らかにした。 ドゥジャリク氏はモロッコの要求について「前代未聞だ」と非難。実際に要員が撤収すれば、西サハラに展開しているPKOの国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)の継続が難しくなるとの危機感を示した。
今月上旬、モロッコの隣国アルジェリアの西サハラ難民キャンプを訪問した潘氏は、西サハラがモロッコによる占領状態にあると指摘。モロッコ政府が反発していた。(共同)
「占領」発言、潘国連総長「誤解招き遺憾」 モロッコ側は反発しPKO撤収2016.3.29 10:41 産経ニュース
モロッコが国連の潘基文事務総長の発言に反発し、西サハラから国連平和維持活動(PKO)要員の撤収を要求した問題で、潘氏は「モロッコの誤解を招き、遺憾に思っている」と述べた。国連のドゥジャリク事務総長報道官が28日の定例記者会見で明らかにした。
今月上旬、モロッコの隣国アルジェリアの西サハラ難民キャンプを訪問した潘氏は、モロッコが実効支配する西サハラについて「占領されている」と指摘。この発言を受け、モロッコはPKO要員84人を撤収させるよう国連に要求し、要員の一部が撤収した。
撤収の動きに関し、潘氏は当初「深い失望と怒りを感じている」と強く反発していたが、PKOの停戦監視や難民支援への影響が現実味を帯びたため、態度を軟化させたとみられる。ただ、潘氏は「占領」発言を撤回せず、モロッコ側が撤収要求を取り下げる見通しは立っていない。(共同) まぁパン君のアホさ加減には笑えるわなwww
どうでも良い事を面倒事に格上げする才能だけは褒めてやるよwww
で・この問題
そもそも紛争の当事者にPKOなんかやらせるから
こんな事になるんじゃネーの??
やっぱ国連って糞だわなwww
西サハラ問題西サハラ問題(にしサハラもんだい)とは、アフリカ北西部にある西サハラの領有権を巡って、南北分割統治を主張するモーリタニア(1979年には領有権を放棄)とモロッコ、独立を画策するサハラの狼と呼ばれたエル・ワリ(英語版)を中心とするポリサリオ戦線(POLISARIO、サギアエルハムラ・リオデオロ解放戦線)の対立問題のことをいう。
西サハラの歴史西サハラの歴史は紀元前5世紀のカルタゴの冒険者、航海者ハンノの時代まで遡ることができる。それ以前にも小さな歴史的記録はあるものの、西サハラに於ける近代的な意味での歴史のルーツはベルベル人部族の支配下にあったいくつかの遊牧民にあり、イスラム教とアラビア語の導入は8世紀からである。
西サハラ地域は現代の言葉でいう意味の「国家」を形成した経験がない。古代にはフェニキア人が植民していたが、彼らは姿を消し痕跡もほとんど残っていない。イスラム教は8世紀にこの地域に達したが、砂漠化に悩まされていたこの地域では、ほとんど発展せずにいた。 1884年にスペインはボハドール岬(スペイン語版)からブラン岬(スペイン語版)(現ヌアウディブ岬)までの海岸を保護領と主張し、この領域は後に拡張された。1958年にスペインはそれまで別個であった地区を統合してスペイン領サハラとした。 1975年の国際司法裁判所による西サハラの地位についての勧告では、一部の部族がモロッコとの歴史的な繋がりをもっているが、それは西サハラとモロッコの間に"領土主権の繋がり"をもたらすには足らないと看做していた。 この1975年の11月、非武装のモロッコ人30万人がタルファヤに集結し、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入し、緑の行進が始まった。最終的に、スペインは1975年11月14日に西サハラを手放し、スペイン人の遺体を墓から掘り出しさえもした。モロッコは1976年に実際に西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコと同様に西サハラの領有権を主張していたモーリタニアの撤退後、1979年に残りの部分を併合した。 1976年2月27日、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国建国を正式に宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立し、モロッコに対してゲリラ戦を開始した。この西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。この停戦の合意の一部として、独立かモロッコへの併合かを選択する住民投票が固有の住民の間で行われることになったものの、有権者の数が正確に把握できないため、未だ実施されていない。 まぁモロッコにしてみりゃ国連の仕事として兵隊出してんのに、占領呼ばわりされちまったら
そりゃぁブチ切れるわなぁwww
そんな区別もつかない阿呆が国連の事務総長とかwww
やはり土人に文明国のフリなんかさせちゃいけねーんだよなぁ
www
こんな事ばかり起こしてる様じゃ
まぁ朝鮮人は丁度良いかもな
今の国連を解体するきっかけになってくれそうじゃないかねwww
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身元を隠していたスターリンの孫娘がネット上に登場…「鮮烈すぎる」と人々を驚かせるソース
http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/f/2/f2f84742.jpg スターリンには息子2人と娘1人がおり、娘のスヴェトラーナ・アリルーエワは、1967年にアメリカへ政治亡命した後に娘(スターリンの孫)を産みました。
その孫娘であるクリス・エヴァンスさんが、インターネット上に姿を現したのですが……。
「予想してたのと違う」と、インターネットユーザーを戸惑わせている写真をご覧ください。 http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/0/2/021b732a.jpg えっ!?
http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/b/5/b58f810d.jpg http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/4/b/4b697205.jpg http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/4/7/47483f11.jpg http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/e/d/eddc7423.jpg http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/1/a/1a0bb0cb.jpg http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/2/c/2cc23373.jpg 最近、何があったのだろうかと気になりますが、祖父の影に振り回された運命を思えば不思議ではないのかもしれません。
44歳になるクリス・エヴァンスさんは長きに渡って身元を明かさず、オリガ・ピーターズとしてひっそりと暮らしてきたそうです。(現在はオレゴン州ポートランド在住)
自分が何者であるかは、子供のころに学校にカメラマンが殺到したころに母親のスヴェトラーナさんから聞かされていたとのこと。
http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/c/2/c2a9b1fc.jpg アメリカ亡命後にスターリンの娘でありながら、公然とソ連政府を批判したことから注目を受け、亡命直後に出版した回顧録は250万部のベストセラーとなっています。
その後、好奇の目を避けるため、娘のクリスさんとイギリス、ソ連、グルジアなどに点々としたあとアメリカに戻りました。
http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/3/d/3d647901.jpg う〜〜〜ん!
びみょ〜(^^)
でも何かを背負ってる感はあるな!
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アルマダの海戦
アルマダの海戦 衝突した勢力 指揮官 戦力 被害者数
アルマダの海戦(アルマダのかいせん、英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicísima Armada)は、スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。
広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ダロ大佐が1884年に著した論文の題名が原典とされている[nb 2]。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている[8]。
本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(Grande y Felicísima Armada)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶ[nb 3]。
概要 当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、また、イングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因の一つにあげられる。
詳細は「英西戦争 (1585年)」を参照
1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦の後のグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を蒙ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった[9]。
ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした。
背景スペイン王フェリペ2世は妻のイングランド女王メアリー1世が1558年に死去するまでイングランドの共同王であった。敬虔なカトリックである彼は、プロテスタントである義妹エリザベス1世を異端者であり、違法なイングランド統治者であると見なしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド王位継承権者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位に就けようとする陰謀を支持していたが、メアリーを幽閉していたエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった[13]。
また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペ2世はイングランド女王エリザベス1世に海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていた[14]。
加えて、プロテスタント信仰の拡大を策するエリザベスがスペインに敵対するオランダ人の反乱を支援して軍事介入し、1585年以降、両国は実質的な戦争状態になっていた。これらの報復のために、フェリペ2世はプロテスタント体制を打倒すべくイングランド侵攻を計画した。そしてこれによって、イングランドによるネーデルラント連邦共和国(低地諸国の一部でスペインの統治から離脱しようとしていた)への支援を終わらせ、新世界のスペイン交易路と入植地への攻撃[15]を断つことができる。フェリペ2世は教皇シクストゥス5世からの支持を受けており、教皇は侵攻を十字軍として扱い、スペイン軍が上陸した際の特別補助金を約束している[16]。
1583年、サンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサン(レパントの海戦の英雄)が艦隊計画を発案した[17]。史料が残っている1586年の計画では船舶796隻を動員し、予算総額は15億2642万5898マラベディーに及び[18]、レパント海戦の予算の実に7倍余りとなった。あまりの高額であり、代案として艦隊規模を縮小して、上陸部隊はスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸軍を活用することになった[19]。
無敵艦隊総司令官メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン 1587年4月29日から30日(旧暦4月19日〜20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37〜24隻が破壊または捕獲された[20]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して小型の漁船が主だが100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[21]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、この後の遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[22][nb 4]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain's Beard) )
スペイン艦隊は波の穏やかな地中海での戦闘が主で、特にレパントの海戦ではガレー船により華々しい戦果を収めており、帆船への移行がなかなか進まなかった。ドレークのカディス港襲撃の際に新型帆船に対するガレー船の無力さが露呈したこともあり[23]、当初計画のガレー船40隻を4隻へと大幅に減らし[24]、また機動性と攻撃性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置した帆船とガレー船の混合型ガレアス船を導入するが、波の荒い英仏海峡ではかえって安定性を得ることができず、実戦では成功しなかった[25]。
さらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし[26]、数発で敵船の動きを止めて従来の接舷斬り込み戦法に持ち込むための、重量の大きい砲弾を放つ、威力は強いが短射程のカノン砲や全カルバリン砲が多用されていた[27][28]。また、接舷切り込み直前の接近戦で人員殺傷を狙うため、ペリエール砲以下の軽砲が搭載砲約2500門の2/3を占めていた[29]。この多数の軽砲を搭載するため、主力戦闘艦であるガレオン船には大規模な船首楼・船尾楼が設置されていたが、トップヘビーで船体を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった[30]。対するイングランド軍の大砲の95%が、軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲であった[28]。短射程軽砲を積まないのに合わせて大きな船首尾楼は廃止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船体となっていた[30]。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても軽量弾では船体に致命傷にはならないため、当初から接近戦を志向したスペイン艦隊の戦術理論の方が先進的との評価もある[29]。スペイン側もこのような両軍の装備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲戦を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻撃するよう艦隊出撃前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優ったこともあり、イングランド側が砲戦で終始主導権を握る展開へとつながった[29]。
当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃は延期になった。さらに2月9日、艦隊司令官だったサンタ・クルス侯が急逝する。代わりにフェリペ2世はメディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマンを総司令官に任命した。メディナ=シドニア公は温厚な人物で優れた行政官でもあったが、海戦の経験は皆無だった[31][32][33]。当初、彼は就任を固辞して別人を推薦したが、総司令官には高位の名門出身者がふさわしいと考えたフェリペ2世はこれを認めなかった[34]。代わりに、フェリペ2世は、有能な海軍軍人であるディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス(es)を補佐役として任命した[35]。
戦後[編集]
アルマダの海戦時のエリザベス1世の肖像画 イングランドの損害は死者50〜100、負傷者400に留まり、沈没した船はなかったが、イングランド艦隊はグラヴリンヌ沖海戦で無敵艦隊の再集結を阻止しえなかったので、なお艦隊に兵を配置し続ける必要があった。このため、艦隊に疫病が発生し、チフスや赤痢そして飢餓によって数千人の水夫や兵士が死亡している[3]。政府の資金不足により、彼らは給与を支払われることなく解隊されており、ハワードが戦利品や私財を使って乗組員を救済したが到底足りず[90]、イングランドの守護者たちが無給のまま何カ月も放置されたことで、士気を低下させる論争が引き起こされた。これはスペイン政府が艦隊の生き残りに援助を与えたこととは対照的であった[91]。
この海戦の結果は、それまでは衝角突撃や接舷斬り込み戦闘の補助でしかなかった砲手の地位の向上という、海上戦闘上の変革を明示している。グラヴリンヌ沖海戦は一部の軍事史家から、両国の海軍技術や兵装の差などといった海軍バランスのイングランドへの移行を反映していると考えられており[92]、これは次の世紀まで続いた。歴史学者ジェフリー・パーカーは1588年における「エリザベス海軍の主力艦は全世界で最も強力な艦隊を構成していた」と語っている[93]。しかし、アルマダの戦いでの敗北以降、スペイン海軍もまた大規模な組織改革に着手しており、次の世紀においても本国海域や外洋航路の支配を維持し続けた。
イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」(He blew with His winds, and they were scattered)という文言によく現れている。その他にもユリウス・カエサルの言葉「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)をもじった「彼は来た、彼は見た、彼は逃げた」(Venit, Vidit, Fugit)を刻印したより陽気なメダルもある。
しかし、イングランドの優位は翌1589年に実行されたポルトガル及びアゾレス諸島遠征の失敗によって失われてしまった。ノリス=ドレークの遠征またはイングランド無敵艦隊 (English Armada) と呼ばれる遠征は、ポルトガル人との連携に失敗して多大な損害を出して帰還している。
スペインは艦隊を再建し、1596年以降にイングランド攻撃を目指す4回の無敵艦隊を編成した。1596年10月に派遣された2回目の無敵艦隊は100余隻、12,000人の陣容でアイルランドを目指したが、悪天候によって75隻3,000人を喪失して失敗した[94]。1597年10月に派遣された112隻からなる第3回無敵艦隊は、敵に気付かれずにイングランド本土に迫ったが、またも嵐に巻き込まれて頓挫している[95]。1599年に編成された第4回無敵艦隊は、出港直前に作戦を変更してオランダ艦隊を迎撃すべくアゾレス諸島へ向かった[96]。最後の第5回無敵艦隊は、1601年春にアイルランドの反乱軍を支援すべく派遣され、アイルランドに兵3,000を上陸させることに成功したが、その後の陸戦に敗れて撤退している[97]。
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日本海軍のインド洋制圧詳細は「セイロン沖海戦」を参照
日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島や蘭印、アメリカ領フィリピンなど)を制圧し、続いてアメリカ本土への空襲やオーストラリアへの空襲を行ったほか、イギリス植民地のビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。
この頃、日本海軍の潜水艦はインド洋で完全に制約を受けずに活動でき、3月には日本海軍の機動部隊がイギリス領セイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、イギリスの植民地であるケニアのキリンディニまで撤退した。
この全面的な撤退により、イギリス海軍および連合国軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸攻略への前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。つまり、イギリス海軍は次のような情勢展開を危惧した。ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。
日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった西インド洋や南大西洋はおろか、アフリカ大陸東岸やペルシャ湾まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸と、その末には日本陸軍とドイツ陸軍による二面作戦すら予想される。
しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねてアメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていたアフリカ大陸中部へその戦線を広げることは戦略上殆ど重要視していなかった。
セイロン沖海戦背景日本 3月9日、日本軍はジャワ島を攻略し、第一段作戦(南方作戦)の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早く終了、作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まらない状態であった。
さらに、日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方を撹乱することを期待、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している[1]。連合艦隊司令部では2月20日から23日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊の撃滅という計画をたてる[2]。しかしセイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や、米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた[2]。
この状況において、日本軍虎の子の空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である。しかし、作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。
連合国 イギリスは存亡の危機にあった。1941年12月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が沈み、極東の最重要拠点だったシンガポールも失陥した。大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。
しかし、本国艦隊からの増援を受け戦艦5隻空母3隻の大艦隊となっていた。日本軍の最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インドの安全を脅かす存在であった。
仮にセイロン島が日本軍の手に落ちた場合、インド洋の交通網が遮断され、中東の連合国軍補給ルートの遮断、スエズ運河の陥落、アフリカにおける枢軸国軍の勝利が現実のものとなる可能性が高かった[3]。
連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。イギリスはシンガポールの陥落が避けられなくなったため、新たな拠点の整備にせまられた。セイロン島西岸のコロンボは施設は充実していたが商業港のため混雑しており、東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした[4]。
連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻が何処に対して行われるかを特定するのは重要な問題であった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルはダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受け取っていた。
この問題に対処する為イギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する空母「インドミタブル」、戦艦「リヴェンジ」・「ロイヤル・サブリン」に対し、空母「フォーミダブル」、戦艦「ラミリーズ」、「レゾリューション」、「ウォースパイト」等の増派をはじめた[5]。サマヴィルは27日に「ウォースパイト」に将旗を掲げた。
イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。サマヴィルは待避の為30日にコロンボから艦隊を出港させ、アッドゥ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。
そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処する為、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。3月28日、戦艦「ウォースパイト」、空母「フォーミダブル」、巡洋艦「エンタープライズ」、「コーンウォール」、「ドラゴン」、「キャルドン」、駆逐艦6隻がコロンボを出港、翌日空母「ハーミーズ」、巡洋艦「エメラルド」、駆逐艦2隻が出港し、洋上でR級戦艦6隻と合流した[6]。英艦隊は4月2日まで艦隊の連携を高めるための演習を繰り返した[6]。
影響 日本軍大本営は、作戦全体として空母1隻、甲巡2隻、乙巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶27隻撃沈、乙巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機と華々しい大本営発表を行った[16]。実際の英軍被害は若干小さいものの、コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッドゥ環礁のいずれも危険であると判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためアフリカ東岸モンバサのキリンディニ港に向かわせた[17]。さらにインド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。英国艦隊の主力が避退していたため大きな戦果は上げられなかったものの、この攻撃によって英国はインド洋方面における日本海軍への評価を高め、大戦末期に至るまで同方面で積極的な行動に出られなかった。戦略的な効果という面からこの海戦のもたらした意義は大きい。
本作戦は第一段作戦、南方作戦に付随した最後の作戦にあたる。以後、日本海軍は第二段作戦に短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、小規模な潜水艦隊で仏領マダガスカル島のヴィシー・フランス軍とイギリス軍の間で行われたマダガスカルの戦いに参戦した。甲標的が戦艦「ラミリーズ」を雷撃して大破する戦果をあげるなど、イギリス連邦の通商遮断作戦を行った。
その一方、東洋艦隊主力の撃滅に失敗したため、連合国軍全体に与えた影響は限定されていた[17]。ラッセル・グレンフェル英軍海軍大佐によれば『それ故、敵がコンウォール(引用者注:コーンウォール)、ドーセットシャー、そして、ヘルメス(引用者注:ハーミーズ[18])を捕捉し得た小さな成功により、遂に東洋艦隊の主力を発見し、壊滅に至らしめるだけの勢力集中が出来なかったことは、到底償いのつかぬ大失敗であった。』と評価している[19]。グレンフェルは、東洋艦隊が二度目の壊滅を喫した場合にはウィンストン・チャーチルの政治家生命がその時点で終わり、イギリスは戦争から脱落、日本は大東亜共栄圏の確立に成功して第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性を指摘した[20]。
ドイツとイタリアでは、この作戦以降有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えている[21]。野村は『北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む』と報告した[21]。イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も、『更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス』として、日本海軍が英国東洋艦隊を撃滅することを希望した[21]。同盟国の要請に対し、日本海軍は6月下旬に「海上交通破壊戦(B・作戦)」の実施を南西方面艦隊に下令、7月31日には大川内傳七海軍中将・第一南遣艦隊司令長官を指揮官とし、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第十六戦隊、第三水雷戦隊がマレー半島のメルギーに進出した[22]。連合艦隊司令部は、水上部隊が輸送船20隻、潜水艦部隊が50隻を撃沈すると予想[22]。しかし8月になるとガダルカナル島に米軍が襲来、ガダルカナル島の戦いによってソロモン・ニューギニア方面が不安定となると、インド洋方面に投入される戦力は激減した[23]。ドイツとイタリアは日本が作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃で米国を戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことなら米国に対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難された[23]。このため、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている[23]。
その反面、日本の戦争遂行にとって最大かつ唯一致命的となりうる脅威であるアメリカ太平洋艦隊の撃滅という最重要戦略目標とは何の関連もない本作戦に日本の主戦力である南雲機動部隊を投入したことは、アメリカに体制立て直しの時間を与え、来るべき決戦を前に機動部隊を消耗させただけという評価も成り立つ。例えば、淵田美津雄は当時よりインド洋での作戦自体に不満を抱いていた。淵田の持論は戦力の回復していない太平洋艦隊主力を早期に撃滅することであり、そのために再び真珠湾攻撃のような積極攻勢を早期に実施することを望んでいた[24]。一つ作戦をこなす度に神業を持つ熟練搭乗員が少しずつ失われ、見慣れぬ新人が配乗されてくる状況をつくった上層部に対し苦々しく思っていたという。
ミッドウェー海戦の前触れしかし、後の目から見て、この海戦で機動部隊の弱点を感じさせる場面があり巷間指摘される。暗号が解読され英国東洋艦隊がセイロン島海域で待ち伏せていたこと、偵察が不徹底で東洋艦隊を発見できなかった事、上記のトリンコマリー・イギリス艦隊攻撃の際に兵装転換を行い迅速な攻撃を行わなかったこと、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず空母「赤城」が攻撃換装中にウェリントン爆撃機9機に空襲されたことである。「週報第288号」では『わが方の電撃戦の前にイギリスインド洋方面の主力艦隊は杳として姿を現はさず』『イギリスが宣伝していた戦艦、航空母艦数隻を主力とする、いはゆる「大英インド艦隊」は、果たして今いづこに健在するのであろうか』と揶揄しているが、実際には英東洋艦隊は南雲機動部隊のごく近距離で行動していた[25]。日本海軍はこれらの教訓を生かせず、後にミッドウェー海戦でも同じミスを繰り返し、大敗北を喫する事になる。
ウェリントン爆撃機の接近に気付くのが遅れ、回避運動などもろくにとれなかったことは日本軍に衝撃を与え、現在の見張り設備では高高度の敵機を発見するのは極めて困難であり、対策として対空見張り用の電波指信器や空中聴音機の設置が必要といった戦訓が出されることになる[26]。
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