今回(その11に相当する)で、ようやくこの演説の紹介の最後にできそうである。
こういう不愉快な演説について、記事を書くのは、決して楽しい作業ではない。
安倍首相は、11番目の『日本が掲げる新しい旗』という章で、大好きな『積極的平和主義』という『旗』を掲げて見せている。
<いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。>
彼は、『新しい旗』と言っているのだが、では、『古い旗』(これまでの旗)とは何だったのだろうか?
私は、『憲法』、つまり第9条がその中身を象徴的に表わしている、『日本国憲法』こそが、これまでの『旗』だったのではないかと思う。
ここで、(少なくとも)安倍首相の心中においては、『日本国憲法』の『改悪』をアメリカに対して約束してみせた、そのようにとらえているのではないか。
それだけ、『歴史的』な演説と考えているのではなかろうか。何せ、自分や、岸信介のやったことをすべて、『偉大な人々の偉大な行為』と考えたがる、(幼稚な)人物のやることである。
そうとでも考えなければ、彼の芝居がかった、思い入れたっぷりの仕草や、演説の口調を理解することはできない。
いずれにしても、『安保法制』を成立させることは、『憲法』を実質的に『改悪』していく大きな一歩になる。
徳川が豊臣の大坂城を落城させていく一連の行為、慶長19(1614)年の『大坂冬の陣』の勝利の後に、徳川が大坂城の本丸を残して、二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めたという行為、それと同様の行為である。
つまり、昨年の『集団的自衛権の行使容認』の閣議決定に引き続き、今回の『安保法制』の成立を実行することこそが、『大坂冬の陣』の勝利を意味し、残るは、『本丸』=『日本国憲法』の条文自体を改悪していくことになってしまう可能性が強い。
(もちろん、ここの反撃の仕方次第では、残るは、本丸だけでないかもしれないし、外堀の埋め方も、中途半端なもので終わらせることができる。まだ、『敗北感』に陥るには、早すぎる。)
安倍首相の演説の馬鹿げていることは、彼が、次々と『言葉の意味』を逆転させていることである。
彼はこの演説の最後の章、12番目の『未来への希望』と題する章で語りかける。
繰り返すが、この演説の中で、彼は、『全体として継承する』などといっている村山談話など、全く、引用していない。その代わりに引用するものと言えば…。
<まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
「落ち込んだ時、困った時、目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。
2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。
そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子どもたちに、支援の手を差し伸べてくれました。私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。
そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれました。――希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかによい場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。>
原発事故の問題に対しても、まじめに取り組もうとせず、福島の被災者に多くの『絶望』を与えた男。
沖縄の辺野古新基地建設についても、沖縄の人たちに、『絶望』をプレゼントしようとする男。
そればかりでなく、『貧困』『格差』『差別』『いじめ』などなど…。
さまざまな人たちの『絶望』に対して、目を向け、手を差し伸べようとしない総理大臣が、このような形で、『希望』という言葉を使って見せる。
この男は、徹頭徹尾、『自己本位』で岸ファミリーの栄光に、自己陶酔している人物である。
ただし、多くの国民が、彼の『希望』どおり動いてくれないので、心の中は、『不安』がしょっちゅう、影を指している。
『3・11』を何とかしなければという思いがあるならば、『原発事故』の克服、『脱原発』の道を、日本の国力全体を挙げて追求するべきであろう。
そのことに対する、アメリカ、ドイツ、その他世界の国々の協力を要請すべきであろう。
『3・11』の問題は、単に『原発』だけの問題ではない、『大地震』の問題でもある。そして、人類は、『大地震』に対して現状では、根本的な対策など持ちえない。
いつ、どこで、どのような『大地震』が起きるかも予測できない。
それなのに、『地震の巣窟』である日本で、しかも地震の『活発に活動をする時代』に入りつつあるというのに、安倍首相は、『原発』を手放そうとしない。
それは、おそらく『原発』が『核武装』に直結する技術であるからなのだろう、と多くの人が感じている。
彼は、結局、『核武装』を通じて、日本が『列強』となって、これからの世界の支配を巡る争奪戦の中で、主導的な役割を果たすことに、『希望の未来』を描いている。
そして、(部分的には)『戦争』をも覚悟したそうした総路線を、『積極的平和主義』と称している。
だが、この路線は、それほど緻密なものではない。
安倍首相は、自衛隊について、そしてその個々の隊員の状態について、自分の『希望』のままに考えているだけである。
北朝鮮との『拉致問題』を巡る交渉でも、あるいは『イスラム国』に日本が狙われることについても、あるいは例えば『首相官邸ドローン事件』といった、ささいな事件でも、いつも『希望的な観測』しか行わない。また、もちろん、アベノミクスもそのような思考法のもとで実行されている。
何か、まずいことが起きれば、それはすべて、『想定外』の出来事である。
そして、本当に何か、マズイ事態に陥ってしまったときは、いつでも、自分の『病気の再発?』を口実にして、さっさと総理を『辞任』すれば良いのだろう、そのくらい(の『未来』)しか彼は考えていないのであろう。
こうした総理大臣を、『偉大な人物』と考えて、彼の『総路線』のままに、日本が『漂流していく』ことを認めるのかどうか、それは国民の一人一人にかかっている。
『安倍の未来』だけでなく、『日本の未来』が無惨なものにならないようにできるかどうか(しかも、『安倍の未来』はどっちにしても、気楽な『隠居生活の未来』、ゴルフと観劇、美食三昧の未来になるのだろう。諸外国の独裁家たちのように、悲惨な末路をたどりそうにもない。いわば、『いいとこどり』の『気分は、独裁者』というのが、彼の姿だ)、それが、今後、問われることになると、安倍首相のこの演説を読み通して、改めて感じた。
この演説、日本語バージョンをぜひ、日本の国会で、『再演』していただきたいものである。