昭和22年(1947年)、私は国立病院の医者でしたが、労働組合の役員をしていました。
そんな私に広島の開業医の叔父から手紙が来ました。
「私が労働組合の役員をしていると知って、私に厚生大臣に会って、広島で生き残った医者は数が少ないし、被爆者の治療の方法が全く分らない。
アメリカは被爆後、日本の各大学医学部が行なった調査資料を取り上げて持っている。それを公開してもらって欲しい。
それと、治療法がわかっていたらそれを教えてくれるよう頼んでもらってくれ。
アメリカは来年、広島に病院を作るらしい(ABCCのこと)
噂だが、そこでは検査だけをして治療はしないと聞いている。」
「治療もするように厚生大臣に頼んで欲しい」と書いてありました。
私は早速、厚生大臣に会いに行きました。
当時の厚生大臣は林譲治という自民党の大臣で、私は団体交渉で始終、会っていましたから、その時も大臣が会ってくれて、こういうわけだと叔父の手紙を見せ、「GHQの担当の者に頼んで欲しい」と言うと、「そんなこと出来ない」と言下に断られました。
天皇陛下でも簡単には会えないマッカーサー総司令官にそんなことが出来るか、と動こうとしません。
それでも根気よく頼むと「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」といわれ、売り言葉に買い言葉というわけで私が行く羽目になりました。
日比谷交差点の角の第一生命ビルに星条旗が翻っていて、正面玄関に衛兵が立っています。「軍医に会いたい」というと何かベラベラと英語で言われた。早口でよく分らない。
「そのうちに「予約はあるか」と訊いていることが分り、「ない」というと「ダメ」と断られた。
陸軍病院の営門でも兵隊に面会にくる家族に、衛兵は規定を教えて断るのですが、何度も来て顔馴染みになると人情が通って、中には入れないが、相手を営門まで連れ出して会わせることを知っていたので、何回も通えば道は開けると日参しました。
三日目に同じ衛兵と顔を合わせ、「用件はなんだ」と聞くから「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「連れてきてやる」と昼食休みに若い軍医中尉を連れてきて会わせてくれました。
準備した英語のメモに身振り手振りを交えて話すと。原爆関係は軍事機密でそんな問題は自分の権限外だと言う。
困っていると、どうしてもと言うんなら上官に会わせるという。
呼び出されて会ったのは軍医の高官でしたが、医者なので紳士的に話をしてくれました。
しかし結論は「資料の公開は不可能である。被爆者の疾病を隠蔽した事実も学会の研究を禁止した事実もない。念のため調査するから二週間待て」と言われた。
やがて呼び出しがあり、「総司令部で調査の結果、隠蔽も禁止も全く事実無根である。
従って、今後、そのような言動は一切しないように。万一、そのようなことを喋る時はその責任はお前が取らねばならない」と慇懃無礼に威嚇されて帰りました。猛烈に腹が立ちました。
アメリカが落した爆弾で、死んだ者は別としても、なんとか助かっている者が診断もつかず、治療法も不明の病気で苦しんでいる。
日本の学者が苦労して調べた資料を没収し、研究を禁止した上、日本の医師の協力要請を拒否する。
理不尽な占領権力の傲慢さに、腹の底から憤りが全身に燃えあがりました。
私はアメリカの無法と闘うため共産党に入ろうと決心しました。
当時、被爆者の問題など、誰も相手にしてくれず、占領権力に真正面から立ち向っていたのは共産党しかなかったのです。
当時は、被爆者であることを知られてプラスになることは何もなかった。
まず周りを警察がうろうろする(被爆者は占領軍から広島・長崎のこと、被害のことなど、原爆に関することは一切、喋ることも書くことも禁止されていたので、地域によってはいつも警察の監視下におかれていた)
回りに人が寄らなくなる(病気がうつると言われた)
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匿名
ある日突然、縁なし眼鏡の二世がジープと共にやってきた。
そして、"血を採るだけだ"と言った。
私は、"血はあげたくない"と断った。するとその二世は"アナタ、ソンナコトイッテイイノデスカ。
グンポウカイギニマワッテモイイノデスカ"と言った。
これ以上断れば本当に軍法会議にまわされるかもしれないという恐怖心だけが残った。そして"あした一人で行くから"とこたえていた。
私は広島の生き残りのひとりです。(…中略…)ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。
これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。
このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。
(橋爪 文『少女・14歳の原爆体験記』 高文研)
世界で初めて被爆地となった「ヒロシマ」を、さまざまな女性がさまざまな視点で語った「原爆詩」。数多の映画で戦争や被爆の悲劇を演じた女優・吉永小百合が、一人の女性として朗読する「原爆詩」を、美しい音楽で綴った珠玉のアルバム