沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設現場では、昨年12月14日から、数百台ものダンプカーが満載した土砂を次々に海へと投げ入れた。美しいエメラルドグリーンの海面は、土色に染まった。県知事選で示された民意はどこへ行ったのか。
美しい海に囲まれた沖縄が「基地の島」へと変貌していく始まりは、「ありったけの地獄を束にした戦争」あるいは「鉄の暴風」ともいわれ、県民の4人に1人にあたる約12万2千人が犠牲となった沖縄戦であった。
日本の本土への攻撃は空爆が主であったのに対して、沖縄は空と海と陸からの総攻撃であったことから住民の多くが悲惨極まりない状況に置かれた。
一般的には、日本本土では8月15日にポツダム宣言を受諾し無条件降伏、天皇が「終戦の詔書」を放送し、戦争は終結し、戦後へと動き出していく。
しかし、沖縄ではまったく違う経緯をたどった。
そのことについて、川平成雄著「沖縄 空白の1年 1945〜1946」(2011年・吉川弘文館)が克明に明らかにしている。
1944年10月10日、朝から夕方まで5次までで、のべ1396機が沖縄本島・奄美・宮古・八重山の南西諸島全域に空爆を加え、沖縄の政治経済の中心である県都那覇で甚大な被害を被り、主要な港湾、船舶、食料や弾薬などの軍事物資なども相当数が破壊された。
この「10・10空襲」が沖縄戦の“前哨戦”となった。
翌年45年3月25日、慶良間諸島に艦砲射撃を加え上陸。上陸した翌日の26日、ただちに米国太平洋艦隊及び太平洋区域司令長官兼南西諸島及其近海軍政府総長C・Wニミッツは、「米国軍占領下ノ南西諸島及其近海住民ニ告グ」とした、米国海軍軍政府布告第一号を発令し、日本帝国政府のすべての行政権の行使の停止と日本裁判所の司法権の停止を命じ、沖縄の「占領統治」を開始した。
川平氏の著書では、この45年3月26日のニミッツ布告第一号の発令から、1946年4月15日の貨幣経済が復活するまでのほぼ1年間を「空白」と捉えて、焦土の下での経済復興がどのようにすすめられたのか、沖縄で米軍がどんなことをしたのかを、詳細なデーターも含めて解き明かしている。
その中で、他の沖縄問題を取り上げた著書でもなかか取り上げられてこなかった、興味深い史実がある。
それは、米軍は沖縄戦の戦闘をすすめながら、同時に沖縄住民の強制収容を同時に展開していったということある。
「空から」「海から」「陸から」の総攻撃から逃げまどい、戦場を彷徨し、かろうじて生き残った住民たちが、次々と米軍が県内につくった12カ所の収容所に強制収容されていった。
1945年4月1日、米軍の沖縄本島中部西岸上陸から本格化した。そして米軍による住民の収容は3ヵ月間で以下のように増えて行った。
3月26日〜31日 1195人……3月25日、米軍が慶良間諸島に上陸。
4月1日 21人……4月1日、米軍が沖縄本島中部西海岸の読谷村・北谷に上陸。
4月30日 12万4395人
5月22日 14万4307人……5月22日、第三軍が首里の司令部を放棄して南部へ撤退
5月31日 14万9550人
6月23日 22万2309人……6月23日、牛島満司令官が自決
6月30日 28万4625人……6月30日1日だけでも、日本軍の戦死者5686人、日本軍の捕虜2838人、沖縄の保護住民は6万2316人にのぼった。
1945年8月頃の沖縄本島及び周辺離島の人口が33万4429人であったことから、実に85%の住民が収容されていたことになる。
日本軍及び本土の人々にとっての終戦日と、沖縄の住民にとっての沖縄戦終結は同じではない。
沖縄の住民にとっての戦争終結は、各個人が捕虜になったその日である。つまり、本島上陸の4月1日に捕虜になった住民にとっては、その日が戦後の始まりなのである。
日本軍は住民の土地・食料を奪い捕虜になることを認めず自決を強要したが、米軍は住民を収容すると衣食住を与えた。これは沖縄住民の心に「日本軍は奪ったが、米軍は与えた」という思いを抱かせた。4月1日の本島上陸後、戦闘が続くわずか1ヵ月後の5月7日にはいくつかの収容所内で子どもたちのための学校もつくられた。
しかし、問題は、住民の多くが収容所に収容されている間に米軍は何をしたかという問題である。
米軍が、住民を収容所に入れたのは、戦闘の危険から保護するために行ったわけではなかった。
米軍は12の収容所に住民を囲い込んでいる間に、広大な民有地を軍用地とてして強制的に収容していったのである。
2016年11月に放送された川平氏の著書と同名の、NHKスペシャル「沖縄 空白の1年〜‟基地の島”こうして生まれた〜」では、こんなことが明らかにされていた。
たとえば、米軍の沖縄本島の最初の上陸地となった読谷村には、戦前1万5000人が暮らしていたが、米軍は集落や農地のあった平野部に滑走路をつくるために住民を収容所に入れておく必要があった。
米軍が建設を計画していた滑走路は18本だったそうで、人口が集中していた中南部に建設されていったという。平野部に飛行場が建設された後、住民たちは山がちな北部の収容所に押し込まれていった。
宜野湾市で暮らし、戦前2500坪もの農地で芋や大豆、さとうきびなどを栽培していた玉那覇祐正さん(83歳)は、終戦から1年間、収容所に入っていて、出て見たら故郷は普天間基地に変わっていた。田畑も土地も奪われ生活の糧を失った玉那覇さんは、米軍基地の中で米兵の身の回りの世話をする仕事に就いた。
無償で行われた食料の配給が有償へと切り替えられ、新しい貨幣が導入され貨幣経済が復活し、人々は現金収入がなければ生きていけない状況に追い込まれていった。家や土地を壊され、奪われた人々は、米軍基地の労働力として取り込まれていった。
沖縄の日本本土からの分割・占領は、「日本の敗戦の結果」のように見えるが、実際には、そのはるか以前の1943年頃に計画立案され、沖縄上陸ともに実行されたものだった。
機密指定が解除された米公文書によると、米軍は沖縄戦が始まる1年半前の1943年10月の段階で、すでに地形図などを研究し、沖縄本島を占領した上で嘉手納基地、普天間飛行場、那覇空港と同一か近接地に、滑走路を持つ米軍航空基地の建設を検討していたことが明らかになっている。
普天間飛行場の建設についても戦闘の“どさくさ”ではなく、民間地だった事実を把握した上で綿密に計画されて、占領後につくられたのである。
米軍は、飛行場建設の造成に適した、平たんな人口が密集する民間地や「サトウキビ畑」を物色し、収奪する計画を記していた。そこには、地上戦によって甚大で苛酷な被害を受けることが確実だった沖縄住民に対する配慮はまったくなかった。
米国にとって、沖縄戦と沖縄占領・統治は、「アメリカのアジア・太平洋地域における軍事的戦略拠点」を置くことを位置づけた、用意周到な計画の下ですすめられたものだったのである。
前記の、沖縄戦開始から3ヵ月余で、実に85%の住民を収容所に収容し、囲い込んで、家や土地を奪い基地をつくっただけでは、悲劇は終わらなかった。
1952年にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は“形式上の独立”を回復するが、同時に沖縄だけは切り離されて米軍統治下に入った。
ソ連との冷戦の開始、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発、ベトナム戦争……米軍は、沖縄をアジアにおける戦略拠点として、核兵器や毒ガスも使える基地を沖縄に建設していった。
さらに、講和条約が発効したころ、朝鮮戦争の予備部隊として日本本土に配備された海兵隊員が各地で事件を起こす。そこで日米両政府は、海兵隊を本土から沖縄に移すことを決定。
その頃、土地所有者から補償を求める声が上がったため、1952年11月、すでに接収した土地の所有者と賃借契約を結ぶための米国民政府布令第91号「契約権について」が公布さた。しかし、契約期間が長く、土地の賃料もタダ同然の低廉であったため、契約に応じる人はほとんどいなかった。
そこで、米軍は53年に「布令109号」によって「土地収用令」を公布した。この布令では、接収された土地の補償額についてのみ米国民政府民政副長官に訴えることができたものの、土地収用の是非については争うことができないという一方的なものだった。
米軍は、今度は、武器を持たず必死に抵抗する住民に対して、銃剣で武装して追い出し、ブルドーザーで家屋を押しつぶし、耕作地を敷きならして基地の拡張と新たな基地建設をすすめた。
例えば、小禄村(現・那覇市)では、装甲車15台、機関砲10数門と350人の米兵が1万5000坪の田畑を略奪した。伊江島では上陸用舟艇3隻で300人の米兵が上陸し、民家を焼き払った。
宜野湾村の伊佐浜では、数百人の米兵に守られたブルドーザー数十台が農地を踏み荒らして民家を破壊し、「沖縄一の美田」といわれた12万坪の土地を強奪した。
しかし、戦勝国だから何をやってもいいということではない。
これらの行為は明確な国際法違反する蛮行であることは、何度も指摘されている。
戦争に勝った国が敗戦国の国民の私有財産を奪ってはならないという「ハーグ陸戦条約(法規)」がある。1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議で採択され、1907年の第二回万国平和会議で改定され今日に至る「陸戦ノ法規慣例二関スル条約」の事である。
約44カ国が加盟し、米国も日本もその中に入っている。
戦闘状態や占領などに関する取り決めである「ハーグ陸戦条約」は、第46条で「私有財産、之を没収することを得ず」、第47条で「略奪は之を禁ず」と定めているなど、戦争中の民間地収奪を明確に禁じているのである。
米側の公文書で、米軍が沖縄戦前から民間地に狙いを定め、人口密集地に基地を建設する意思があった計画が明らかとなったことでも、国際法違反は明白である。
いま、辺野古新基地建設について、日本の政府をはじめ推進派の人たちが「反対派が抵抗しているから、辺野古基地建設がすすまず、普天間基地(宜野湾市)の移設ができない」という論がある。「普天間基地の危険性の除去」は、「辺野古への新基地建設」が引き換え条件のようになっている。
しかし、普天間基地も、住民が収容所に入れられ隔離されている間に、集落があった土地を米軍が奪って造った基地である。普天間基地が建設された場所は戦前、役場や学校、病院、郵便局などがあった。当時の宜野湾村には22の字(あざ)があり、普天間基地はそのうち14の字にまたがる村の中心部に建設されたのである。収容所に入れられたり、疎開していた村民は終戦後、帰村を許されるが、米軍基地へと変わり果てた古里に戻ることができず、基地を取り囲むように家を建て生活せざるを得なくなった。
ところが、米海兵隊の司令官や米関係者らによって、これまでも米軍普天間飛行場について「建設当初に、数キロ以内に住む人はいなかった」「普天間飛行場建設後に住民が周辺に住み着いた」「住民の方が危険な基地に近づいてきた」という発言が繰り返されてきた。日本でも、一部月刊誌の論壇で同様の主張が書かれたり、作家の百田尚樹氏が2015年に、自民党若手国会議員の勉強会で「普天間基地は田んぼの中にあり、周りには何もなかった」などと言い放った。それに対して宜野湾市議会が本会議で、全会一致で抗議決議を可決した。
歴史の真実は、米国の公文書でも記述されている通り、普天間基地の建設が、前もって人口密集地に基地を建設する意思を持っていて、しかも、住民を収容所に囲い込んでいる間に、民家を壊し、土地を収奪したことは明白な事実であり、国際法違反の行為によって作られた基地なのである。辺野古の新基地をつくる、つくらないの前に、国際法と、国際基準に照らせば、普天間基地は即刻撤去すべきものなのである。
日本政府は、つねに米政府のしもべのように「普天間に変わって辺野古」と言っている場合ではなく、沖縄の米軍基地がいかに国際法に違反してつくられたのかを主張し、普天間基地の撤去を求めるべきである。それこそが、主権国家のあるべき姿である。
名護市の辺野古新基地建設についても新たな動きがある。
「東京新聞」や沖縄の「琉球新報」などが取り上げ、先日の国会でも沖縄問題に詳しい野党議員が質問していたが、政府がすすめている沖縄県名護市辺野古の米軍進基地建設に関して、埋め立て区域の“軟弱地盤”が大きな問題となっている。
“マヨネーズ状”といわれる辺野古北側海域の超軟弱地盤は、160ヘクタールとされる埋め立て面積のうち、57ヘクタール、埋め立て面積全体の3分の1にも上るという。しかも、地盤改良のために、直径2メートルもある砂杭を3mおきに、なんと6万3155本も打ち込み、しかも海面から70メートルの深さまで打ち込む必要があるとされてきた。
さらに今朝(9日)の報道によれば、沖縄防衛局の報告書によれば、船を使って海底に打ち込む杭は、浅瀬でも1万3544本の杭を打つため、杭の合計は7万6699本に上ること、最深部は90メートルに及ぶことも明らかとなっているという。専門家からは「70mまで杭を打ち大規模工事は経験がないし、水深90メートルなど想像もつかない」という驚きの声があがっているという。
辺野古の大浦湾の海には、多種多様なサンゴや国の天然記念物のジュゴンなどの絶滅危惧種を含む多様な生物が生息している。辺野古沿岸部では、これまで周囲で大規模な開発もなく、手つかずの自然が残っており、現場海域での防衛省の調査では、5806種の生物が確認され、うち262種が絶滅危惧種だったとされ、さらに新種の発見も相次いでいる。
この自然の宝庫の海に、7万6千本もの砂杭を打ち込めば、多様な生物が生息する辺野古の自然が破壊されるのは明白である。なぜ、ここまで強引に工事を強行する必要があるのだろうか。
米軍の辺野古新基地は、日本の国民の税金で建設される。昨年末に沖縄県が辺野古埋め立て工事にかかる工費が、防衛相が示していた2400億円の10倍の2兆5500億円に膨らむと試算している。しかし、費用は、どこにどれだけの予算がかかるか、工事の内容も予算の規模も明らかにされず、軟弱地盤の実態も、どんな改良工事が必要なのかも、なにもかもが不明のままである。
戦前も戦後も米国の思うまま、つねに日本本土とは切り離され、沖縄は捨て石とされ、住民には問答無用で古里が傷つけ壊され、奪われてきた歴史は、今も繰り返されている。在日米軍基地の74%が集中する沖縄に、さらに「移転」を口実に海を埋め立て巨大な新基地を押し付けようとしている。
川平氏は、「沖縄に『戦後』はない」と繰り返し指摘する。
川平氏の著書の最後で、沖縄戦終結後の未収骨者数は18万8136柱。この未収骨者数の中で、2009年3月までに収骨したのは18万4111柱で、未収骨者数は4025柱だとしている。(その後17年度末の県の発表では2886柱となっている)
また、不発弾も、沖縄戦で投下された爆弾のうち1万トンが不発弾となったとみられ、17年末で、当時の5分の1に相当する2千トン2の不発弾が残っていると推定され、完全に処理するには、あと「70年かかる」といわれている。
昨年1月に、那覇市の観光客のメッカである国際通りで、ホテル建設現場から米国製不発弾が見つかり、国際通りが閉鎖され、周辺の1000世帯2500人が避難対象となった。他の県であれば大きなニュースとなるだろうが、毎年800件も不発弾の処理がされている沖縄では、こうしたことは珍しくはないのである。戦争はまだ終わってはいないのである。
川平氏は、「基地の完全なる撤去」「不発弾処理の完全撤廃」「未収骨の遺骨の収集」──このどの一つが欠けても「沖縄にとっての戦後はない」とする。
沖縄に「戦後」がないという状態について、今一度日本の国民みんなで共通の認識にして、それを前向き変えていくために日本と米国の政府に求めていくために知恵と力を尽くす時ではないだろうか。
昨年12月8日にスタートした、米ホワイトハウスの請願サイト「We the People」でトランプ米大統領に辺野古工事の一時停止を求める電子署名が、わずか1ヵ月で米政府の正式な回答が得られる要件であった10万人の倍以上の20人を超えて集まった。
そして、2週間後の2月24日には辺野古新基地建設のための埋め立ての賛否を問う県民投票が行われる。
沖縄の「戦後」が近づいていくことを願い、見守っていきたい。