余命あとわずかと宣言された老猫が再び輝きだすまでの物語。子猫を育てるという目標が彼に生きる力を与えた。 http://karapaia.com/archives/52266677.html カナダのブリティッシュコロンビア州で、衰弱した1匹の老猫が発見され、保護団体により救助された。 メイソンという名のそのオスの猫は、野生での戦いで体はボロボロ、更に末期の腎臓病を抱えており、余命あとわずかと宣言された。 だが、施設で新たなる生きる目標ができた。そうして2年たった今でも、元気に毎日充実した暮らしを送っているという。 メイソンとが自らに課したその役目とは、数十匹のみなしごの子猫たちの親代わりとなってお世話をし、その成長を見守ることだ。 2年前にボロボロの状態で保護された老猫 メイソンは、2年前に野生の猫が集まる場所にいた。フォート・ラングレーに拠点を置く猫レスキュー団体『TinyKittens』の隊員が彼を捕え、獣医に連れて行った。 メイソンはかなり年を取っていた。数々の戦歴が体をボロボロにし、しかも末期の腎臓病を患っていた。余命はあとわずか。そう医師に告げられた。 通常ならば地域猫として、治療した後に元の場所に戻すのだが、この状態では野生に戻すことはできない。そこでスタッフたちはメイソンが終わりを迎えるその日まで、施設で過ごさせることにした。 生きなければならない理由を見つけたメイソン 高齢の彼の体を病がむしばんでいく。 このまま弱っていき、施設で最期を迎えるだけなのか? メイソンを励ましたかったスタッフらは、彼の傷がすこし癒え、室内の暮らしに慣れていった頃、数匹の保護した子猫をメイソンに紹介することにした。 するとどうだろう! メイソンは子猫たちを甲斐甲斐しくお世話しはじめたのだ。 彼に「まだ絶対に生きなければならない理由」が見つかった瞬間である。 そうして600日。今日もメイソンは元気に子猫たちの親代わりに 彼は持ち前の生命力で体力を回復していった。そして、走りまわりながら子猫たちに狩りやマナーを教えた。1匹ずつ入念に毛づくろいをして甲斐甲斐しく面倒を見た。 これにはスタッフたちもびっくりした。 弱々しかったメイソンが生き生きと動き回っているのである。 (以下略) 人も一緒だと思う。自分のために生きるのでは,辛い時には生きる力も出なくなると思う。生きるための使命というか,やりがいを見つけることそれが大切だと感じました。 他の人のために生きる価値を見つけると,自分の命を長らえようとするのでは。自分の命を他の人のために使うために。 私も頑張ろうっと。 訪問ありがとうございます。 |
良いお話♪
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再掲載ですが
ピーターノーマンの人生を番組にした
オリンピック史上最も有名な写真★知られざる真実より
(写真は、最後の一枚を参照!)
あなたは、この写真をご存知だろうか? 今から49年前、メキシコオリンピックの表彰式で撮影された、オリンピック史上最も有名とされる一枚である。 拳を突き上げた、2人のアメリカ人メダリスト。 彼らはこの行いにより、世界中から非難を浴び、迫害され…壮絶な人生を歩む事になった。
だが…この写真によって、最も過酷な道を強いられたのは、ただ立っているだけに見える、2位のオーストラリア人だった。 しかもその事実は、最近まで彼の母国でさえ知る人はほとんどいなかった。 オリンピック史上もっとも有名な写真に写る、知られざるアスリートの激動の人生とは?
時は今から34年前に遡る。
12歳の少年マット・ノーマンは、叔父であるピーターの家に足繁く通っていた。
ピーター・ノーマン当時41歳。 マットは、高校で体育を教えているこの叔父が大好きだった。 マットは、叔父が出場したオリンピックのレースの話を聞くことが大好きだった。 そう、ピーターは15年前、オリンピックで銀メダルを勝ち取ったトップアスリートだったのだ。
だが…マットにはある疑問があった。
それは、誰もピーター・ノーマンという陸上選手がいたことを知らないのだ。
陸上のオリンピックメダリストともなれば国の英雄。 引退後は、大学やナショナルチームのコーチに招かれたり、政治家やテレビのタレントになったりするなど、活躍している者も多い。 だが…銀メダルを取ったはずの、ピーター・ノーマンの名前は、オーストラリア人でさえ知る者はほとんどおらず…彼は高校で体育を教える傍ら、精肉店でアルバイトをして生計を立てていたのだ。
マットは祖母に、その疑問をなげかけた。 すると…ピーター・ノーマンのことを誰も知らないのは、彼が正しいことをしたからだという。 そして、マットがピーターにそのことを尋ねると…ピーターは、驚くべき物語を語り始めた。
今から75年前。 彼はオーストラリアのメルボルン郊外で、貧しい労働者階級の家に生まれた。 走るのが大好きだったピーターは、地元の陸上チームで活躍していたものの、シューズを買ってもらえないほど貧しかった。
だが…当時のオーストラリアには、彼よりも不幸な人々が大勢いた。 当時のオーストラリアには、先住民のアボリジニやアジア系移民など、有色人種への差別が色濃く残っていた。
それは、イギリスの植民地だった18世紀に始まる「白豪主義」という政策によるもの。 何事にも白人が優先され、有色人種はオーストラリアの市民権が得られないなど、長年、法的にも迫害されていたのである。
だが、ピーターは…敬虔なクリスチャンだった両親と共に、貧しい有色人種の人々に炊き出しを行うなど、白人でありながらも、差別することは決してなかった。 他の白人たちは、そんな彼らのこともバカにしていた。 だが、父はいつもピーターにこう言い聞かせていた。 「肌の色や生まれた場所なんか関係ない。人間はみんな平等なんだ。それをいつも忘れるな。」
だがこの時、彼はまだ知る由もなかった。 父親から受け継いだ信念を、後に思いもよらない場所で試されることを…
小学校を卒業後、家計の為に精肉店で働き始めたピーター。 だが、仕事の傍ら、大好きな陸上だけは続けていた。
リレーの選手として頭角を現すと、やがて200M走に転向。 するとその才能が一気に開花! ついに…オリンピック代表に選ばれたのだ。
そして1968年、メキシコオリンピック開幕。 だがこの時、ピーターは母国オーストラリアでさえ、全く期待されていなかった。
なぜなら、当時の陸上短距離は、アメリカが絶対王者として君臨。 特にピーターが出場する男子200Mは、世界記録保持者ジョン・カーロスを始め、トミー・スミスら3名のアメリカ勢が表彰台を独占すると予想されていた。
ピーターは予選突破さえ危ぶまれていたのである。 だが…予選をいきなりオリンピック記録更新となる20秒20で走ると、その後、準決勝を突破! ついに決勝進出を決めたのだ。
そして、決勝の前日練習のこと… ピーターは、ジョン・カーロスとトミー・スミスに話しかけた。 話すのは初めてだったが、ピーターの気さくな人柄もあり、3人はすぐに古くからの友人のように打ち解けた。
だが…ジョンが「あんたは人権を尊重するか? オレら2人は表彰台に立ったら…アレをやってやるつもりだ。あんたはもし表彰台に立ったら、どうする?」、そう問いかけてきたのだ。 ピーターは知っていた…アメリカの黒人選手にとって、このメキシコオリンピックには特別な意味があることを。
今からわずか50年あまり前、自由の国・アメリカには人種差別の嵐が吹き荒れていた。 バスや公衆トイレにさえ、白人優先席が存在。 ホテルやレストランも有色人種の入店を拒否するなど、人種差別が公然と法律で認められていたのだ。
そんな中、人種差別に反対するキング牧師らの運動により、1964年、公民権法が制定。 有色人種の選挙権が保証され、公共施設での差別も禁止された。 これで人種差別はなくなる…はずだった。 だがその後も、人種差別感情が収まる事はなく…黒人へのリンチや暴行、彼らの商店や住居への放火が継続的に発生した。
そして、メキシコオリンピックの半年前、決定的な事件が…キング牧師が暗殺されたのだ。 黒人たちの精神的支柱になっていた指導者の殺害。 彼らの怒りは頂点に達した。
黒人アスリートたちは、メキシコオリンピックのボイコットを検討。 国内で横行する差別に目を背け、メダル獲得の為だけに平然と黒人選手を送り込む…そんなアメリカ社会に抗議する意志を示そうとしたのだ。 だが…逆にその動きは、スポーツの政治利用を禁じるオリンピックの精神に反するとして、国際的な批判を浴びた。
この事態を受け、黒人選手たちの意見は割れた。 ボイコットすべきだ、という者。 今後の人生を考え出場すべきだ、という者。
そして、ジョンとトミーの2人は、出場する道を選んだ。 ある決意を胸に…
いよいよ迎えた男子200M決勝。 運命のレースは…スタートした。 先行したのは世界記録保持者のジョン・カーロス。 その後をトミー・スミス。 ピーター・ノーマンは出遅れたかに見えた。 だが…ピーターは、大外から物凄い追い上げをかける!
1位はトミー・スミス。
そして、なんとピーター・ノーマンは、世界王者ジョン・カーロスを抜き、2位に入ったのだ。 自ら予選で出したオリンピック記録を上回る20秒06、1位のトミーとともに当時の世界記録を破った。 しかも男子短距離走でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙だった!
すると、コーチはピーターにこう釘を刺した。
「やつらが何をやっても無視するんだ。お前はオーストラリアの英雄なんだ…巻き込まれるな。」
オリンピックの花形、陸上短距離で銀メダルを獲得した、ピーター。 その将来はもはや約束されたようなもの。 もうアルバイトしながら走る必要などなくなるのだ。
表彰式の直前。 ジョンとトミーの二人は、すでに決意を固めていた。 表彰台の上で、メダリストたちはつかの間の自由を得る。 しかもその瞬間は生中継され、6億人もの人々が固唾を飲んで見守る。 さらに写真となるとそれこそ全世界に配信されるのだ! つまり表彰台こそ…アメリカにおける黒人の悲惨な状況を訴え、差別と闘う意志を世界に訴える絶好のチャンス!
だが、オリンピックの理念としては…全てのエリアにおいて、いかなる種類のデモンストレーションも、いかなる種類の政治的、宗教的、そして人種的な宣伝活動も認められていない。 もし実行した場合…まだ24歳と23歳、若い2人のアスリートは、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他のいかなる大会に出ることも許されず、選手生命が絶たれてしまう。 それでも彼らは、同胞たちの苦しみを世界に訴えるため、胸に人種差別へ抗議する団体のバッジをつけ…あるパフォーマンスを行おうとしていた。
すると…ピーターが2人のところにやって来て…「オレは表彰台の上で何をすればいい?」と言ったのだ。
「あの時言ったことは忘れてくれ。俺たちの問題だ。白人の君は知らないフリをしてればいい。オレたちは本気なんだ。」というジョンに…ピーターは「僕も本気だよ」と答えた。
そして、ピーターは、2人と同じバッジを胸につけることにしたのだ。 バッジを胸につけることは、2人の行為に賛同することを意味していた。
1968年10月16日、世界が注目する中、表彰式が始まった。 2人は靴を脱ぎ、黒い靴下で表彰台に登った。 これはアメリカの黒人が差別によって、貧困に苦しんでいる現状を表現。 そして、黒人であることの誇りと、彼らと共に立ち上がる意志を訴える為に…頭を垂れ、黒い手袋をはめた手を突き上げた。 そして、2人の隣には…あのバッジをつけたピーター・ノーマンが…。 この一枚の写真は「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれ、黒人の誇りと威厳を主張し、差別に抗議する意志の象徴として、世界中に配信され、大きな注目を浴びることになったのである。
この一枚の写真。ブラックパワーサリュートの反響は予想以上だった。 瞬く間に世界中に配信され、賛否両論の嵐を巻き起こしたのだ。
だが、国際オリンピック委員会は、その理念に反するとして、ジョンとトミーをオリンピックから永久追放することを決定。 2人は閉会式に出ることさえ許されず、その翌日、アメリカに強制帰国させられてしまった。
一方、その日オーストラリアではピーターの史上初の快挙が大々的に報じられ、マスコミと国民は熱狂。 2週間の開催期間を終え、晴れて彼は帰国の途についた。 だが、空港で待ち受けていたのは…母と妻、そして友人がわずかに数名のみ。 そこにマスコミやファンの姿はなかった。
実は…ピーターが表彰式で、黒人2人が行なったパフォーマンスに賛同の意志を示した事実が報道されると…賞賛は一変。 未だ白豪主義を貫くオーストラリアのマスコミは、ピーターをこぞって叩き始めたのだ。
事態はそれだけにとどまらなかった。 自宅に何通もの脅迫状が届くようになった。 そして嫌がらせが一段落ると待っていたのは…徹底した無視だった。 マスコミや国民のみならず、隣人ですら彼の偉業をまるでなかったことのように扱った。
ピーターはその後、妻とも上手くいかなくなり…離婚。 職を転々とするようになった。
だが、そんな彼を唯一支えるものがあった。 それは…走ること。 ジョンとトミーは永久にオリンピックから追放された。 だがピーターにはまだ、オリンピック出場の権利が残されていたのだ。
夢の舞台へ向け練習を重ねたピーターは…オーストラリア国内の大会で何度も優勝。 世界ランク5位を維持し続けた。
そして迎えた1972年、ミュンヘンオリンピックが開催されるこの年…。 ピーター・ノーマンは30歳になっていた。 それでも、4年間でオリンピック派遣の標準記録を13回突破するなど好調を維持、彼のオリンピック出場は確実に思えた。 だが…オーストラリアは、ミュンヘンオリンピックの陸上男子200Mに、なぜか自国の選手を派遣しないと発表した。
ピーターは、のちにこう語っている。
「ミュンヘンオリンピックには本当に出たかった。だがこの仕打ちは、私に陸上界からの引退を決意させるには十分でした。」
メキシコオリンピックから16年。 銀メダリストピーター・ノーマンの名は、オーストラリアの国民から完全に忘れ去られていた。
マットが「おじさん、後悔していないの?」聞くと…ピーターはこう答えた。
「確かにオレは得るはずだった色んなものを失ったのかもしれない。でもな、自分の信念を貫き通せた。そのことを母さんやマット、アメリカのジョンとトミーも分かってくれている。それで十分だ。」
アメリカのジョンとトミーは、メキシコオリンピックから帰国後、想像を絶する苦難を味わっていた。 2人ともに勤め先から解雇され貧困に苦しむ生活。 さらに家族への差別・脅迫も相次ぎ、ついには…ジョンの妻が自殺する悲劇まで起こってしてしまった。 それでも、3人の友情は途切れることはなく、事あるごとに手紙や電話で連絡するという関係が続いていた。
そして1970年代も半ばになると、アメリカでは次第に黒人の人権が認められるようになった。 その結果…2人を人種差別と闘った英雄として評価する声が高まり、彼らの名誉は徐々に回復されていった。 だが、ピーターの名誉だけは回復される兆しはなく…時間だけがいたずらに過ぎていった。
勇気と信念をもって、黒人差別へ反対の意思を表明した、ピーター・ノーマン。 その人生は、誰にも知られず永遠に葬り去られる…かに思えた。 しかし、メキシコオリンピックから33年が過ぎたこの年、1人の人物がピーターの名誉を回復する為、立ち上がる。
ミュンヘンオリンピックを機に現役を引退したピーターは、その後、若い頃の無理がたたったのか、ふとした拍子にアキレス腱を断裂。 大量に処方された痛み止めが原因で、以来、健康が優れずにいた。

だが、そんな彼の身にある変化が… ピーター・ノーマンのドキュメンタリー映画を制作しようと、一人の若手映像作家が立ち上がったのだ。 その映像作家とは…甥のマットだった!
ピーターの元に足繁く通っていた甥のマット少年は、テレビドラマなどを制作するフリーランスの映像作家となっていた。 マットは、叔父が払った代償、そして彼のしたことがどれほど大変で勇気がいることだったかを伝えたいと思うようになっていた。 そして、それができるのは自分しかいないと…
だがそれは簡単なことではなかった。 忘れ去られた銀メダリストの映画に興味を持つ製作会社など、どこにもなかったのだ。 だが、マットは諦めなかった。 映画でオリンピックなどの様々な映像を使用するには、多額の費用がかかる。 関係者への取材や撮影費などと合わせると、製作にはおよそ2億円が必要だった。
また、その資金を捻出するには、相当な時間もかかる。 マットは自らスポンサーを探す一方、自腹を切ってまで映画製作に取り組んだ。
製作開始から、あっという間に5年近くが過ぎ…すでに、ピーターは64歳になっていた。 そんなある日のことだった。 2006年10月3日…ピーター・ノーマンは心臓発作で、突然この世を去った。
出棺の時、その棺に付き添ったのは…他でもない、ジョンとトミーだった。 2人は急遽、アメリカから駆けつけたのだ。 そして長年の友に弔いの言葉を贈った。
ジョン「私たちは素晴らしい戦友をなくした。」
トミー「ピーターは道しるべだ。表彰式のあの行為は後世への遺産だ。誇りを持ち、信じていればきっと報われる。」
ピーターの死から2年後、マット・ノーマン監督のドキュメンタリー映画が完成。 オーストラリアで公開された。 「敬礼」を意味する「サリュート」と題された映画は、当初、わずか15館の公開だったにも関わらず、口コミで評判が広がり、観客数は徐々に増加。 反響は当初の予想を越え、遠く海外からも公開を希望する声が届くまでに… 最終的に「サリュート」はアメリカをはじめ、世界6カ国で上映された。
しかもその年、オーストラリアの国内外で8つもの映画賞を受賞したのである! こうしてオーストラリアだけでなく、世界中の人々がピーター・ノーマンの名と、彼の物語を知ることになったのだ。 マットはこう話す。 「たくさんの人にこの映画を見てもらい、ピーターの行為を伝える事はできました。だけど私にとって一番心残りなのは、ピーターにこの作品を見せることができなかったことです。」
その4年後。 あるニュースが、オーストラリア中を駆け巡る。 オーストラリア議会は、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択。 証人として、母・セルマさんを招いた。 その上で、議会は…ピーターがオーストラリアで受けた扱い、また亡くなる前に表彰台で行った行為が評価されなかったことについて、謝罪ししたのだ。
オリンピックの舞台で、自らの信念を貫いたピーター・ノーマン。 彼の勇気と信念は、半世紀近くの時を経て、オーストラリアの人々に、そして…世界中の人々に伝えられたのだ。
現在、シドニーの小学校では、授業の一環として、映画「サリュート」を子どもたちに見せている。 「ピーター・ノーマンを知ってる?」という質問に子供達は…
「ああ、知ってるよ。オリンピックで黒人を援助した人だろ?」「知っているわ、彼はとても偉大だわ」
マットはこう話してくれた。 「もし伯父が今も生きていたら『これからは僕が意思を受け継いで、世界の問題に取り組んでいく』と伝えたい。彼のしてきた事を尊敬の念を持って受け継いでいきたいです。」
議会の謝罪によってピーターの名誉が回復される7年前。 銅メダリスト、ジョン・カーロスと金メダリスト、トミー・スミスの名誉もまた完全に回復されていた。 アメリカ・カリフォルニア州にある彼らの母校に…あの表彰台の彫像が作られたのだ。 2人の勇気と信念を称え、後世に語り継ぐ為に…その除幕式には、オーストラリアから招かれたピーターも出席していた。
だが、2位の場所にピーター自身の像はない。 そこには、彼の強い願いが込められていた。 あの像を見た人に、そこに是非立って自分ならどうするか? 考えて欲しいと…
台座には、実際にこう刻まれている。
「take a stand」
この言葉には2つの意味が込められている。 1つは「ここに立ってみて下さい」。 そしてもう1つは「自分が信じたことのために立ち上がりなさい」。
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これは人類の祖先からの 遺産だ
花が捧げられた形跡がある。
Photograph courtesy E. Gerstein <花で飾られた墓は4基並び、そのうち1つには2遺体が埋葬されていた。2人の故人は、成人男性と性別不明の若者と判明。
1万5000〜1万1600年前の中石器時代、現在のイスラエル、ヨルダン、レバノン、シリアで栄えたナトゥーフ文化の時代に生きた人々だった>
(管理人挿入meの記憶は
「シャニダール4号」(Shanidar IV inイラク)だった
洞窟には炊事後に片足の歩行跡が多く残っていた
事故などで障害を分業で支えたと推察された
思いやり=ネアンデルタール人のもの=高い品性を感じる
生きてこの洞窟を見学したいものだ
ネアンデルタール人が滅ぼされずに続いたと願う
クロマニヨン人に弓矢で狩られる壁画が
あまりにもショックだから
優しいのよネアンデルタール人は
)<ナトゥーフより古い時代に花が葬儀に用いられた可能性も、まだ完全には否定できない。1950年代中ごろ、イラクで発掘されたネアンデルタール人「シャニダール4号」(Shanidar IV)の墓に、洞窟内で咲くはずのない花の花粉が見つかったのだ。しかし、この約7万年前の遺跡には複数の穴があり、齧歯類(げっしるい)が種や花を貯蔵しておくために掘ったものではないかという主張もある。
「ネアンデルタール人が栄えた中期旧石器時代から、ナトゥーフ人の中石器時代まで約5万年の隔たりがある。しかし、墓に花が飾られた例は1つも存在しない」とナデル氏は話す。 ただし、花は腐敗して痕跡が残らなかった可能性も高く、発見されていないだけなのかもしれないとナデル氏は指摘する。>
墓地に花を飾った最古の例、イスラエル2013.07.03
<この発見は、2018年8月22日に科学誌「ネイチャー」に発表された。2種のヒト族の交雑によって生まれた子どもの初の決定的な証拠であり、古代のヒト族同士の関係の理解を進めるヒントだ。
米ハーバード大学の遺伝学者デイビッド・ライク氏は、「ものすごい発見です」と言う。「交雑の第一世代の子など見つからないと思っていましたから」。同士は今回の研究には関与していない 。
母がネアンデルタール人、父がデニソワ人である彼女は、どんな少女だったのだろう? 彼女の化石は、人類の歩みの研究に、今後どんな影響を与えるのだろうか?>
少女の両親は、ネアンデルタール人とデニソワ人ヒト族の交雑を裏付ける直接的な証拠が見つかり、ネイチャー誌で発表された2018.08.24
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201801/CK2018012402000171.html?ref=rank
母と一緒に聴いたCDなどを手に、思い出を振り返る大石和代さん=浜松市中区で 認知症の親の介護で、意思疎通がうまくできずにイライラしたとき、あえて「さん付け」で呼ぶと気持ちが落ち着いた−。そんな読者の体験を昨年11月22日の本紙生活面で紹介したところ、他の読者からも、心構えやとらえ方を変えてみたら、苦しさが軽減したといった体験談が寄せられた。 (河郷丈史) 認知症の母を十五年間、亡くなるまで自宅で介護しました。他人を侮辱してはいけないと教えてくれた母でしたが、「ばか」などと、乱暴な言葉も出るようになりました。 母の認知症を受け入れることはできましたが、暴言を受けたりすると「なんでこんなことを言われないといけないのか」と、つらい気持ちになることもありました。介護だと思うと苦しいので、「高齢になって子どもに返っていく親への恩返し」ととらえると楽になりました。 また、母が好きな歌を聴かせようと、五木ひろしさんのDVDや童謡のCDを買ってきて流しました。母はとても興味を示し、笑顔を見せ、声を出して歌いました。介護する私の気持ちも落ち着き、母と一緒に歌いました。会話だと、相手の言葉に応じないといけませんが、音楽はメロディーを追うだけ。時間が自然に流れました。(浜松市中区、大石和代さん) ◆「ボランティア」と気持ち切り替え 認知症の夫を「老老介護」していましたが、二年前に施設に入所してもらいました。入所後、夫の認知症は進み、私のことも分からなくなりました。 そんな夫を見るのがつらく、「自分が面倒を見ていたら、こうならなかったんじゃないか」と罪悪感が募りました。「私が妻でなければ、夫の人生はもっと違っていたのでは」とも思いました。「自分は楽しんではいけない」と、外出を控えました。 そんなとき、夫の施設でボランティアを募集していました。できることはないかと申し出ると、相談員から「ご主人のボランティアをしてください」と言われました。ボランティアと考えると、夫の言動に左右されて感情を動かされることがなくなりました。それ以来、楽しむときは楽しみ、夫と会うときは一生懸命に向き合うようになりました。 (東京都新宿区、柳井豊美さん、八十歳) ◆東海大教授・渡辺俊之さん「関係性 変化させた好例」東海大教授で精神科医の渡辺俊之さん(58)は、認知症になるとそれまでのコミュニケーションのパターンが崩れるため、家族は意思疎通できないことにイライラすると指摘する。二つの事例はいずれも、以前からの親子や夫婦の関係を修正することで一定の距離が生まれ、気持ちが楽になったと考えられるという。 大石さんのケースについては「お母さんのお母さんとなって接した。母と娘という関係をうまく変化させた」と指摘する。
柳井さんの例については「『ボランティア』は普通、家族には使わない言葉。それをあえて使うことで距離感ができる。認知症の親を『さん付け』で呼ぶと気持ちが落ち着くのと同じメカニズム」とみる。
◇ 心にゆとりを持って介護するため、工夫していることはありませんか。皆さんの体験談を募集します。ファクス=052(222)5284=か、メール=seikatu@chunichi.co.jp=で。〒460 8511(住所不要)中日新聞生活部宛てに、郵送でも募ります。
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昨日とてもいい記事に出会えた。(下記アドレス)
この中で本田圭佑が朝鮮学校を訪問したことを紹介している。
彼のような存在が朝鮮学校を訪問すること自体が珍しいのであるが、なぜ彼が朝鮮学校を訪問したのかを述べているだけではなくて、独占告白を試み、本田圭佑本人から届いたメッセージを紹介している。その中身が素晴らしい。
本田圭佑自身の愛国心や日本人であることとはについて述べられていて、彼の人となりがわかると同時に、今の時代に臆せずこれらを語りつくす勇気に感動したのだ。
その考えもまたしっかりしていて、教育の長ならぜひ彼を講師に呼びたいものだと考えたほどである。
現職時代に、わが子供たちに感動を与えたくてショーコスギを講師として呼んだことがある。
地方の田舎の高校に交通費とわずかな日当だけで講演に来てくれた彼に応えたのは子供たちの興奮と感動と夢だった。(もちろん職員も大歓迎)
その頃のことを思い出した。
いい講師を探し当てて子供に夢を与え、現実を直視する知力を与えることこそが教育の基本である。一律のいわゆる記憶力を重視する教育の振興だけが教育ではない。そんな共通の認識が職場にはあった。
探せば彼のようないい講師が見つかるはずである。
いい話だなぁー。
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