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私の原発日誌(その756)
2016年6月3日に「ヘイトスピーチ対策法」が施行されま
した。本編は最高裁でヘイトスピーチが違法とされ、損害賠償
を命じた判決が出された時の本ブログの論評である。
今だかって誰も評価していなので、再び掲載します。
差別する人、しない人(2)
差別で1200万円支払う文化
私は差別論者である。民族差別ではない。日本人を差別してい
るのである。
一例をあげれば、民族差別をする人や、被差別部落の人たちを
差別する人を差別して憎んでいる。
これはあくまで一例で、およその日本人は、心の中に、そうい
う人を差別するものを持っている。
ブログでもそういう人のブログには、そういう偏った思想の人
たちが自然と集まってくる。
自分たちだけで「あいつはよっつだ」とか「あいつはチョン
だ」とか自分たちだけがわかる言葉で、ひそかに会話してエツ
にいっている。
そういう人たちは自分の考えに同調者が一人でもいると、大い
に気勢が上がる。
天下をとったようになるのだ。自分には同調者がいる。お前に
はいないだろう。正義漢ぶるのはよせ、文句あるなら俺のブロ
グに来るな。である。
郡山方面に二人いた。一人はわからないが、一人は最高学府を
出て米国に留学していた人だ。
自分も米国で差別されてきたのか、朝鮮人に対する差別観がは
なはだしかった。
最高学府を出たものが、一部の朝鮮人の振る舞いだけで民族自
体をののしったり、差別を助長する発言をするとはとても思え
ない。
大学とはそういうことを学ぶところではなかったのか。
朝鮮人が日本を悪くいうのは当然で、名前を変えろ(創氏改
名)と言ったり、日本語を押し付けたり、理由もなく土地を取
り上げたり、土地の名称を変えたり、どこの宗主国でもやって
いない、とんでもない植民地政策をやってきたからであって、
理由がないわけではない。
そういう背景があるから、日本のすることなすがことことごと
く反発されるのである。
非は当然わが方にあるのであって悪口は千年にわたって聞かな
ければならない。それしか方法がないんである。
これからだって、朝鮮からは日本に対し、悪意のある表現でし
か言ってこないであろう。友好的なことなど言ってくるはずが
ない。上の事情による。
ほんとうは仲良くしてもらいたいのである。仲良くしてもらわ
ねば自分たちの国の将来が見えなくなるのである。
それは中国も事情は同じであって、断交して得する国などあり
得ない。
朝鮮や中国がよくなることは日本がよくなることなのである。
と、格好付けて言っているが本音は「元寇」である。朝鮮や、
中国は歴史的に、また地政学的に日本が目の上のたんこぶで邪
魔でしょうがないのである。
日本列島で取り囲まれて見通しが悪くなり、息苦しいという地
政学上の制約である。
いつか侵略しようとして狙っていたのが、逆に占領され、植民
地にされたり、属国にされたりしてしまった。
どのくらい頭にきたのかは日本人ではとても考えられないと思
う。
事実がある。元寇のときの侵略兵の大部分は高麗兵とシナ兵で
あり、モンゴル兵などたいしていなかった。
さらにモンゴルには大船を建造する技術などあるはずがなく、
みな、朝鮮や浙江省の寧波(ニンポ―)で造られたものであ
り、日本の沿岸を荒らしまわり、凌辱の限りをつくしたのは、
中国人と、高麗人たちであった。
大体元を構成していたモンゴル人は20万人ぐらいである。
日本にまで出張ってくる余裕などあるわけがない。
のちの「朝鮮の役」だって、どっちもどっちなのである。
今ではどちらも歴史上の出来事で、どうしようもないことなん
である。
「昔を今に返すよしもがな」である。
日本も占領されたが、あれだけ、やるだけやって負けたんだか
らしょうがない。という意識はあったと思うが、中国や朝鮮の
民族意識はもっともっと別のものだ。
手品のように属国にされてしまった。恨みがある。戦って負け
たのではない。
そういうことに思い至らねばいつまでも不毛の論争が続くだろ
う。
日本人同士の付き合い方でも同じで、相手の悪いところだけを
見ていて付き合っていたら、お互いに仕事にならなくなる。
日本人だって朝鮮人だってたちの悪いのは変わらない。
相手の悪いところには目をつぶって、よいところだけを評価し
て付き合うものである。
そうでなければ人間関係など幅の狭い、薄っぺらなものになっ
てくるに違いない。
要するによいところがあって悪いところがあってこそ、一つの
民族であるということである。
少なくとものっぺらぼーよりも人間的である。
早くいえば国が発展しないということで、気に食わない、癪に
触るなどの狭い視野では展望が見えなくなる。
人間差別は私には深い悔恨がある。20代の初め頃、人が嫌い
で嫌いでしょうがない時があった。
同じ空気を吸っているのも嫌になって、登山ばっかりしていた
時期があった。
人の顔を見ると吐き気がしてしょうがなくなるので、日々の生
活に支障をきたした。
だから町を歩くのにも人の顔を見ないようにして歩いていた。
つまり人の頭上を見ていたのである。
(今でも嫌いだが)ようやく克服して、ふつうに社会に立てる
ようになったのは32歳の時だった。
明るい青春の思い出などなく、社会の底辺をほっつき歩くみじ
めな青春であった。
人を差別的に見たり、馬鹿にしたり、優越感に浸ったりしてい
ては、やがてはわが身を滅ぼすことを教えてあげたかった。
人を差別したり、蔑(さげす)むことは、必ず自分の身に返っ
てくることは長い経験から確かなことなのである。
言いたいことがあっても差別につながることは黙っていること
なのである。
なぜなら自分に返ってくるからである。
衆寡敵せずと申しまして、同調者がごまんといると、自分が正
論を吐いているような気分となって、つい調子に乗り、最高裁
まで上告しても分かってもらえず、1200万円も賠償させら
れる判決がついこの間あった。
まったく馬鹿な話だ。「表現の自由だ」って。「朝鮮人をたた
っ殺せなどと言う表現の自由があってたまるか。馬鹿もの
め!」
これからいわゆる「ヘイトスピーチ」は姿を消すだろう。
徹底的に取り締まり、罰金を払わせればいい。
今度の最高裁判決で判例ができ、話が簡単になってきて世話が
なくなる。
馬鹿ものたちが憲法というもの、差別というものの理不尽さを
学ぶだろう。
そして人を差別すると損することを学んだだろう。
それは多数者たちの少数者たちに対する礼儀なのであり、愛情
なのである。
それは逆の立場になってみればすぐにわかる。
そういう目で見なければ決して「在日」の問題は片付かない。
日本人が少数者に対する余裕を失う民族とは到底思えない。
海外で自分たちの同胞が不利な状況に打ち克って活躍をしてい
るからである。
そういう有機的なつながりがあってこの世ができている。
有機的なつながりって何だ?
それは種が同じということだ。結婚ができ、子供が生まれ、と
もに笑い、ともに泣くことが出来る同士が有機的という。
つまり、愛情だ。過去から来て未来へつながってゆく、人間社
会の愛の営みを有機的といっている。
およそ人の世でこれだけが永遠なのだ。他のことはどうでもい
いことなのだ。
たぶん誰もわからないだろう。(諭吉教だからだ。)
しかし勝手を言わせてもらえば、私は死んで天国に行く機会が
あったら、日本人のご先祖とともに暮らしたいと願っている。
やっぱり、広場や公園、寺社仏閣に桜を植え、イロハカエデを
植えて喜んできた日本人のご先祖と一緒に暮らしたいと願って
いる。砂漠の民や西洋人たちとは暮らしたくない。
これって差別か?そう人間は死んでも差別だ!。
差別とはあくまで文化であって文明とはなり得ない。
文明の名において1200万円を払わされるのいたしかたな
い。
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