馬場信浩(龍造寺 信)のブログ

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追分団子

     『追分団子』

 去年十一月、私は日本に居ました。その時、多くの方から書いた物を預かりました。いずれも貴重な物でした。日々の活動記録、父親の書き残した物、紀行文等でした。その中に便せんに走り書きのような物が一枚ありました。いつでも読めると思うと、とうとう最後になりました。
 それは亡き母の思い出として書かれてありました。誤字脱字がありましたのでそれを訂正してアップしてみます。

        ■ ■ ■...

 馬場さん。読んだら捨てて下さい。

 僕の母は亡くなりました。亡くなったと聞いた時、ホッとしました。実は母は聾唖者だったんです。小さい頃から会話のできない母にいらだちました。反抗期の頃が一番酷かったと思います。なんでこんな人が俺の母親なんだって。学校の参観日になんか来るなって思いました。実際にそう言いました。母は悲しそうでした。お前は田舎に少しある田んぼや畑を耕していれば良いんだと思いました。高校に進学する時、続柄を書く項目があって、僕の実の母ではないことが分かったんです。一瞬、そうだろうと思いました。お前なんか母であるはずがない。そう思うと母を邪険にすることはいっそう激しくなりました。家を出たかった。こんな鬱陶しい家から脱出したい。それは強烈になりました。
 大学を受験して東京で生活する。それが夢になりました。それまでの辛抱だと思いました。ところが受験に失敗です。絶望しました。田舎に帰ってきました。そんな僕に母は何かと声をかけようとしました。声にならないのですが、何か言ってます。ガンバレと言っているのです。うるさいと言ってしまいました。

 一年、頑張りました。今年は志望大学に行けそうに力をつけました。
 ところが志望する大学が授業料を値上げしました。父はそんな金はないと言いました。また絶望です。ふてくされて寝ていました。と、母が入ってきました。黙って入ってきます。声などかけません。僕が返事をしても分からないからです。背中を向けて眠ったふりをしていました。と、母は僕を揺り動かしました。母は懐から封筒を出してきました。お金でした。封筒に「だいがくいきなさい」と書いてあったのです。母は学校へ行ってません。でも、ひらがなは書けたのです。知りませんでした。

 それから4年後、僕は大学を卒業します。でも田舎に帰りませんでした。東京で就職しました。父が会いたいと言うので盆に戻りました。ふと気がつきましたお土産を買っていないのです。時間がありません。近所の団子屋に飛び込んで、
「包んで下さい」と頼んでいました。

 母はそれを開けるなり声を出して、と言っても獣のような声を出して泣きました。
「…さんが初めてお土産を買ってきてくれた」
 と父に言ってたそうです。親孝行は何もしていません。父が死に、母を介護に預けたのも親戚がしてくれました。僕のことをあしざまに言う親戚が居てもしかたありません。来年は思い切り、罵声を浴びに帰ろうと思います。

 ■ ■ ■

 これだけです。美談ではありません。手を取り合って生きたという話でもありません。ついに折り合うことのなかった男の悔恨記です。ため息が出ます。でも、よく書いたなと思いました。
 皆さんのご意見を賜りたいです。

                                追分団子
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クッキー

      『ベルエアガーデンの住人達』
        クッキー
 土曜日の晩、スープ&サラダ・バーがあったのです。その時、大量のクッキーがあまりそうになりました。私は知り合いの子どものためにこのクッキーを安く買おうと思ったのです。また、それがこのコミッティーへのドネーションになると思ったからです。

「子ども達は何をしているのだ」
 と世話役のメリーが聞いてきます。...
「リトルリーグで野球をやっている。練習後、何か食べさせてやりたい。心が和むのだ」
「どんな構成だ?」
「アメリカ人の子、コリアンの子、メキシカンの子、それと日本人の子ども達だ。みんな仲良くやっている。弱いチームだ」
「お前はコーチをしているのか」
「いや、カメラマンだ」
 話はそれだけでした。サラダ・バーが終わるとクッキーが私のテーブルに届けられました。(下の写真です。)

「いくら払えば良いですか」
「何の話だ。クッキーをお前が食べるならお金をもらう。でも、野球をする少年になら、ここに居る者は喜んでもっらてもらう。もっていけ」
 全員が笑っています。さあ、そこで一言スピーチです。嬉しくなって、
「五十五年前、私は野球少年だった。その姿を見せたかった。イチローみたいだったんだよ」
 と言い、ゴロを取り逃がすパントマイムをやって見せました。大爆笑でした。いい夜がふけていきました。嬉しいことはまだ続きました。

 今朝グロリアに呼び止められ、
「次の試合日には私がマフィンを焼いて上げる。持って行きなさい」
 と言われたのです。
 またこの住まいから出て行くことができなくなりました。
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       『母の握る白いおむすび』
  オリンピック東京開催に寄せてー父への思い

 父さん、二度目の五輪だよ。一度は僕の23歳の時、今度、生きて迎えれば79歳だよ。
 そこで頼みがあるんだ。それまで僕を生かしてやってくれないか。スポーツを書くのは僕の生きがいだ。もう少し書きたい物があるんだよ。

 父さんは1940年の東京オリンピックに出られたかもしれなかったんだよね。甲子園大会で一〇〇メートルを制した父さんは次の神宮大会で勝てばオリンピック候補だったって母さんから聞いた。京阪商業(守口高校→廃校)に通う父さんに母さんは、毎日おむすびを持たせてやってたそうだね。
「腹が減っては走られへん」
 そう思って旅館の娘だった母さんはおむすびを竹の皮に包んでこっそり枚方公園駅まで届けに行ってたんだって。爺ちゃんに見つかったら天秤棒で殴られる。その恐怖より父さんに良く思われようとしたんだね。でもオリンピック大会は迫り来る戦争のために中止になった。父さんは泣いて悔しがったそうだね。

 それまでは指一本触れなかった母さんに父さんはまるで狂ったように体を求めたって。そして翌々年召集され大阪の第8聯隊に入った。所属は椿部隊。「椿なんぞ縁起の悪い。椿はハラと散るやないか」と周りは言っていた。母さんなんかそれを聞くのがいやで耳をふさいでいたそうだ。

 戦争が終わって枚方公園駅に帰ってきた父さんを迎えたのは僕だったよ。大きなリュックにひげだらけの男。それが父さんだった。僕は急いで家に帰り「父さん、帰ったよ」と母さんに告げた。母さんの頬がパーッと赤くなった。そんな母を僕は美しいと思った。

 なぜ公園駅に出迎えなかったのかって父方のおばさんらに母さんは虐められた。けれど僕は知ってる。母さんは白いご飯を食べさせようと一升瓶に玄米を入れて搗いていたんだ。母さんの飯炊きは日本一だからね。
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 4歳になっていた僕は父さんが怖くてそばに寄れなかった。妹が二人生まれたところで父さん、あなたは命がつきましたね。正直、僕はあなたになじめなかった。いつも殴ってばかりだったもの。未だに僕は布団を目深にかぶらないと眠れない。殴らなければならない気持ちが分かるようになったのはほんの最近だよ。病に冒され、死んでいく身にいらだちしかなかったのだろうと思う。恨んでなんかいない。それより陸上競技をやらなかった自分が親不孝だと思う。

 僕が一度、マラソンに出て一番で帰ってきた時、大きな声で「腕をふれ!」と言ってくれたことがあったよね。また叱ってると思ったけど、
「お父さん、あんなに声をからしたことなかったのよ。肺結核で喉もやられていたけど必死だったのね。お前がゴールした時、泣いてたもの」
 と聞いたのも最近のことだよ。
 僕がアスリートになってオリンピックに出るという父さんの夢は叶えてあげられなかった。だけどスポーツから多くのものを得たよ。許してね。

 これから毎日、仏壇の扉を開けるから孫達の走る姿を見てやってくれないか。そして僕には一〇年、命の余裕をくれないか。書きたいものがあるんだ。母さんの握る白いおむすびを供えるからさ。
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藍染めの女

   藍染めの女

 昭和の中頃、「セ・パリ」というレストランが東京麻布にあった。 一軒家を借り切ってレストランにしたものであった。 絨毯、シャンデリア、カーテンとどれも一級品を使いゴージャスな雰囲気を醸し出していた。 二階は居間になっていて普段は経営者夫婦が住んでいた。
  経営者の川田が一週間、ヨーロッパを視察してくると言うので店が休みになった。 その間、水回りや諸設備の点検をするということであった。
  点検業者がやってくるので管理を任されたのが私である。 もう一つ役目があった。 それは川田のワイフのことである。 片時も離れず留守中の行動を見張れというのである。 その間の寝泊まりは一階のレストランでするのである。 実の良いアルバイトだった。
  ワイフの名は幸田あやか。 芸名だとピンと来る人は私と同世代だ。 ミス東京から東宝。 主演作は一本。 才能がないと自ら引退し、川田と一緒になった。 川田は強引だった。 幸田あやか、若き実業家と結婚と週刊誌を賑わせた。 この川田と私は18の時から一緒だった。 腐れ縁である。
  泊まり込んだ晩はあやかは解放感で興奮していた。 夫が旅立った。 一人になった。 そんな気分だったのだろう。
  夕食は二人で銀座の仏料理店「フルル」でとった。 それから赤坂の「ボンジュール」で飲んだ。 夜更けて帰り着くとさすがに眠く上下に分かれた。
  翌日からは二人で買い物をして昼食や夕食の用意をした。 コーヒーや紅茶も買った。 コーヒーはマンデリン。 紅茶は台湾の鶴岡紅茶、これが好き、などと丸でママゴトだった。 でも、おもしろかった。 だが、はしゃぐあやかが、なんとも痛ましかった。
 「ババちゃん。 知ってんでしょう。 川田が誰とヨーロッパに行ったか」
  とあやかは知っていた。 名前を言ったが図星だった。 私は知らないと言い通した。
  三日目になるとすることがなくなった。 トランプ占いをした。 これは7カードの変形で私が編み出した占いだった。 よく当たると言われた。 出てくるカードででたらめを語るのだが説得力があると言われた。
  あやかの顔色が変わり始めた。 私の言葉が何かを言い当てたのだ。
 「やめた」とカードを置こうとした。
 「ダメ。 続けて」と厳しい声で言って続けさせた。
 「誰かほかに男が現れると待っている」と言って終わった。 あやかはしずみこんだ。 そして、
 「ババちゃんの彼女の話をして」
  と言った。
  その頃、私は大阪の貧しい女と幼い恋愛をしていた。 未来があるのだろうかと不安だった。
 「でも愛してるんでしょう」
  私は黙っていた。
 「なんで黙っているの?」
 「自信がないんだよ」
 「自信か。 私も自信はないわ」とあやかは言った。 しばらく黙っていたが、急に、
 「踊ろうか」とあやかは言った。
 「ダメ。 踊れない」
 「まさか。 役者の修業をしてるんでしょう」
  してる。 でも踊りは苦手だ。 あやかは好きな音楽をかけて私を立たせた。
  踊りながらあやかは私に「唄って」と言った。 歌も唄いたくなかった。 声楽のレッスンが金欠で続けられなかったのだ。 映画「慕情」の主題歌が流れた。 これは唄いたくなかった。 あやかはこれよ唄って、と促した。 耳元で唄った。
  その夜、あやかは何度も泣いた。 あやかは私の体をとらえて離さなかった。 私に罪悪感はなかった。 どこかで雷が鳴っていた。
                            当時の赤坂
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 レストラン「セ・パリ」から火が出て川田と愛人の女が焼け死んだのはそれから二年後のことだった。 あやかが火を放ったのではないかと世間は噂した。 しこたま保険金が降りたから出た噂だろう。
  その頃、私はすでに所帯を持って苦労していた。 そこへあやかが訪ねてきた。 そして女を見ると小さくうなずいて「これお祝い」と100万円を置いて外へ飛び出した。 おいかけて行った。 歩きながら返そうとした。
 「とっとけよ。 恥かかせんな」とすごい剣幕で怒鳴りつけてきた。 そして
「馬鹿。 待てなかったのか」
  とタクシーを拾うと「東京駅までやって」と消えた。
  それから小説で賞をもらうまで私は七年かかった。 すでに二人の子持ちになっていた。 生活は楽にならなかったが、受賞を機にテレビの司会の仕事も舞い込んだ。 そんな忙しい日々、徐々に潤いが枯れて行った。 心が殺伐としてくるのであった。
  テレビの番組で「藍を訪ねて」という企画があがった。 日本全国で藍染めをやっている職人を訪ねる企画番組だった。 私は漫然と受けた。 その第一回が「伊豆に染む」だった。
  伊豆急行にのって修善寺で降りる。 そこから車で山間に入る。 金剛寺まで行く。 民家が点々とある。 その一軒が「伊豆に染む」の主人公藤井浩也だった。 藤井の年齢は、もう五〇に近かった。 かなりやせさらばえている。 眼光だけが鋭かった。 癌かなと思った。
  なるほど仕事は匠だけあってすばらしい藍を染めていた。 カメラがそれらをとらえる。 インタビューして行く。 伊豆の風景を挟む。 この繰り返しだった。
  その時だ。 カメラは一人の女人をとらえた。 アッと私は思わず声に出しそうになった。
  藍を染めている女は、間違いなくあやかだったからだ。 見とれた。 あれから何年の月日が立つのか。 雷の鳴る中で泣いた女だ。 今も形の良い乳房が私の瞼に明滅する。 そして100万円を投げ、私を罵倒して去った女だ。 しかし、あの100万円は助かった。 小説への足がかりをつかんだ。
 「待てなかったの」と言った声が耳によみがえった。
  あやかが歩いてきた。 挨拶を交わそうとした時、あやかは藤井浩也の手をとった。
 「縁側にお座りなってごらんになっておられれば良いのに」
 「そうも行くまい。 こうして遠くからおいでなのだからせめてもの」
  と藤井は言った。
  あやかは一度も私を見なかった。 ひょっとして他人のそら似かなと思った。 しかし、藤井が、
 「あやか、お茶を入れてさしあげなさい」
と言った。 間違いなくあやかだった。
  私だけコーヒーが入っていた。 懐かしい香りがした。 それはママゴトをした時に買ったマンデリンコーヒーの香りだった。 きっとまろやかな舌触りだろうと思った。 ゆっくり飲んだ。
  撮影は終わった。 藤井は「取材を受けて大満足だ」と言った。 妙に頑固な職人風をよそおうよりよほど素直で好感が持てた。
  伊豆を降りると、一枚絵はがきを買って「マンデリン、美味かった」と書き、投函した。
  番組は五週続いた。 それぞれに立派な藍染めだった。 番組は終わった。 藍を染めてた人のことも忘れ始めた。
 「あなた、伊豆の藤井浩也さんから小包よ」と家内が郵便物を持ってきた。 開けてみた。 藍染めの手ぬぐいだった。 四本あった。
 「縁起が悪いわね。 四本だって」
  私は黙っていた。 あやかは家族四人だと言うことを知っているのだ。
 「お礼の電話をしなくちゃ」
  と家内が言った。
 「いいよ。 番組の制作から連絡させるから。 司会者は出ない方が良い」
  と私は訳の分からないことを言っていた。
  あれから三〇数年が立つ。 今も、あの山中で藍染めが続けられているのだろうか。 誰かご存じの方がおられればそっと教えてくれませんか。
 
    終わり
                        紅葉の美しい修善寺
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         ベルエア・ガーデンの住人達
             『メリー・ウルラニ・ワトキンス』

 先ほどバースデーランチが終わりました。
 月曜日の朝、ラスベガスから帰るとその足で我が家を訪ねてきたメリー・ウルラニ・ワトキンスさんは、
「明日のお昼、私のバースデーランチをやります。ついてはブラウンボールを作ってくれませんか。これはスキンを買うお金です」...
 と10ドル差し出してきた。
 この人には世話になっている。そんなものは要らない。で、ここでちょっと茶目っ気を出して、
「10ドルは、ラスベガスで勝ったのか」
 と聞いてやった。とたんに笑い転げた。
「私たちのラスベガスは息抜き。ギャンブルじゃないわ。10ドルを得ようとしたら大変よ」
 という。それで安心した。儲けたと言ったらとるしかない。かたくなに払おうとするのをとめてマーケットに走った。ブラウンボールはお分かりですね。スキンも。

 今朝は6時起きだ。もう一つ隠し味として水ようかんを作った。没頭できるものが欲しい。忘れたいことがあるのです。
 12時から質素だが心のこもったランチ会が始まりました。もう忍び寄る老いを隠さない人たちにふと涙がこぼれそうになる。
「ババ、いつもブラウンボールをありがとう」
 とメリーに言われた。今日は水ようかんを褒めて欲しいんだけどな、と思っていました。

                                           ご機嫌なメリー・ワトキンスさん
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