馬場信浩(龍造寺 信)のブログ

ブログ始めました!龍造寺 信は馬場信浩の筆名です。よろしく。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

『一期一会』

      『一期一会』

 昔の話しです。
 小学5年の時でした。枚方市駅から次の御殿山駅までの間、我ら悪童達は車両の一角に陣取っていました。と、急行から乗りかえてきた米人が入ってきました。彼は席に着くと僕らにほほえみかけてきました。人の良さそうな白人中年おじさんでした。平服ですが軍人だろうなと思いました。額が日焼けしていました。ちょうど朝鮮半島での戦争がたけなわで休暇に日本に来る兵隊が多かったのです。後で知るのですが、朝鮮での戦闘は地獄で、休暇が日本と決まると兵達は大喜びだったそうです。
「ババ、俺達には韓国人と日本人は同じ顔に見えるんだ。しかし、全く違う。朝鮮半島が地獄なら日本は天国だった。三沢に行っても横須賀に行っても笑顔があった。日本人の顔は仏陀のよう見えた」...
 これはゴルフ仲間のビルがよく漏らした言葉です。

 その米人の笑顔に魅きつけられた僕ら悪童はそろそろと接近します。
「このオッチャン兵隊やろか」「ちやうやろ。色白いは」
 とワイワイ。そのうちぶら下げているカメラに気がつきました。「Ar(l)ugush」とカメラ名がありました。「アルガッシュ」と声に出してみました。すると米人の目が驚きに変わりました。矢継ぎ早に英語が飛び出します。きっと「英語ができるのか」と聞いているのでしょう。さっぱり分かりません。
 と、隣に座る中年の日本人が米人になにやら話しかけました。普段、市役所のボンクラと噂されてるオッチャンでした。お前がなにさらす、と思いました。
「おいみんな。人を指さすなよ。失礼やぞ。それからお前、どこで英語を習ったと聞いとる。中学生か」
「小学5年や。英語、習ってへん。ローマ字読みや」
 とまたオッチャンがなにやらぼそぼそ。
「この人な。アメリカのミズリー州の人やねんて。国に君らと同じくらいの子供を残してきてはる。思い出してはってん。何か聞きたいことあるか」
 そう聞かれてみんな黙りました。アメリカなんか遠い遠い国のこと。それよりガムかチョコレートをくれんかなと。それまで国道をジープで行く米兵にくれと言ったことはなかったのです。子供でも日本人のプライドが物乞いを許さないのです。ところがこの時だけは甘えて見たい気持ちになっていました。不思議です。
 しかし、サヨウナラです。御殿山は一駅です。一期一会、米人は去りました。でも、私の脳裏に残ったのは米人ではなく市役所のオッチャンでした。その後、会うこともありませんでしたが、彼との十分間は、私に予断と偏見を戒め、英語への強烈なパンチを食らわせていたのです。後に悪童仲間は中学へ参りますが、よく勉強しました。特に英語はみんな得意科目にしていきました。私を除いて。

         下の写真は米兵のチョコレートに群がる子供達。今も心が痛みます。
イメージ 1

【ちょっと息抜きを】

    【ちょっと息抜きを】

 と言っても悲劇なんです。ロスの詐欺話です。色んな詐欺が横行しますが、まず身分詐称です。宮家につながる家系、これが多いです。つぎに学歴詐称。東大出が多いのもロスです。いずれも調べられなかった時代の名残です。今はインターネットの時代。調べる気になれば瞬時に分かります。
 ある詐欺師の話です。詐欺をする数々を目撃し、知らずにつきあっていた経験から一編の物語が書けそうなのです。しかし、書く前にいかがわしい人物を見抜けなかった自分の不明を恥じなければなりません。
...
 私に某県の高校野球ロス訪問を取り仕切る仕事が持ち込まれました。
「自分は引退したい。これからの仕事をすべて譲りたい」
 と持ちかけられたのです。この仕事は労多くして何とやらなのを知っています。しかし高校スポーツには興味があり日米親善のためになるならばとその気になったのです。荒唐無稽な話ではなく県の国際親善課も連絡を寄越しました。
「Aさんに代わってやっていただけるなら大歓迎です」
 と言ってきたのです。「スクール☆ウォーズ」の威光がまだ生きていた時代だったのですね。国際課の物言い(大歓迎)に、エッ?、とならなかった自分を今は責めています。甘いです。で、話は順調に進みました。ところが突如A氏の態度が豹変したのです。
「お前は俺の仕事を横取りする気か」と言ってきたのです。ええっ?です。
「引退したいとおっしゃってたじゃないですか」
「言ってない。勘違いだ。高校野球は俺の生き甲斐だ」
「分かりました。私の本業は原稿用紙に向かうことです。お別れしましょう」
「そうだよ。それが良いんだよ。身の程を知らなければ」
 とお説教をくらいました。

 実はその頃、県の国際課は野球だけではなくバスケット、ソフトボールなどの交流にも輪を広げ、県の特産物をアメリカに売ろうとしていたのです。こうなりますと高校野球どころの騒ぎではなくなります。数百万円の仕事から数千万円、あるいは億単位の仕事になる可能性があります。この話がA氏に漏れたのです。A氏の目の色が変わったのもうなずけます。県の国際課から、
「エッ、おやめになるのですか」と電話です。
「首を切られました」
「ええっ、無二の親友だと言ってましたが、違うんですか?」
 ここで正体がばれました。
 その後、日本アニメ大会で「風の谷のナウシカ」を借りてきてやるとの大ボラこいてこけました。その時、わずか数百ドルの小切手詐欺事件を起こし、ロスを逃亡しました。今は生死のほども分かりません。
 今、ロスの詐欺師はパイの小さくなった日系社会では棲息ができず目を日本に向けています。あらゆる巧妙な手をつかって東京に訴えています。同情を買うような話にはのらないでいただきたいのです。

 某町のモールです。空き部屋ばかりでガラガラ。米景気回復? 駐車場にはぺんぺん草。一時前までは賑わっていたんですがね。これでは詐欺師が横行するわけです。
イメージ 1

『し残したこと』

      『し残したこと』

 以前住んでいた団地にテニスコートが一面ありました。私どもはこの一面のコートを取り合いで使いました。険悪な雰囲気になりました。で、テニスクラブを発足させクラブに入ればいつでもプレーができるように改善したのです。この時、会長のなり手はすぐに見つかりましたが、会計や書記などが決まりません。特に会計はいやがられました。仕方がない、誰もなり手がなければ私が引き受けるかと覚悟を決めました。
 会員の中に得手勝手だと悪口をされてるSさん夫婦がおられました。団地に生活クラブ生協というのがありみんながお金を出し合いボランティアで経営していました。その生協に何の協力もせず良品はうけとり、妻は車の運転教習に明け暮れ、夫はほとんど団地活動に関知しない人でした。
...
 テニスクラブの会合にそのご主人が現れたのです。ずいぶん珍しいこともあるもんだと思いました。しかし、その日も会計と書記のなり手が決まりません。会計は私がやることにして書記を誰かにと思いながら、
「私の先祖は平家の落ち人でした。三重県の南島町と言うところに流れ着いて潮を焼いて生計を立てていました。彼らが残した記録を読ませてもらったことがあります。先祖はこうして生きてきたんだという記録でした。塩がどれだけとれたか、炭がどれだけ売れたかなどの地味な記述です。でも、私には誇らしい物でした。鎌倉、戦国、安土桃山、江戸と生きてきた先祖の記録です。いつの世に読まれるか分からない記述を代々、書いてきたのです。でも誰かが読むんです。テニスクラブの記述も皆さんのお子さんが大きくなって読むかも知れません。父や母が書いた物だと認めた時どんな気持ちになるでしょうか。きっと誇らしいと思うでしょう」
 ととりとめもない話をしてしまいました。皆さんに反応はありませんでした。あきらめかかりました。会計も書記も両方やれば良いかと覚悟を決めた時です、
「馬場さん。書記は私がやりましょう」
 と言ってくれたのが評判の悪いS夫婦のご主人でした。ありがたい、そう思いました。
 半年たちました。Sさんはパッタリ姿を見せなくなりました。癌で入院中だ、との話が届きました。見舞いに病院へ行かせてくれとS夫人に頼みました。しかし、堅く辞退されました。癌は容貌を変えます。そのために会いたがらないという話を良く聞きます。それより書記を引き受けさせた自分が責められます。すまない。そんな気持ちで一杯でした。
 葬式は団地の集会所で行われました。テニスコート葬にしたかったのですが2時間借り切って無人にすることにしました。心のこもった惜別の辞がテニスクラブ会長から述べられ一人一人がお別れをしました。幼い子供を二人残し、まだ若き妻を残して逝くのはどんなにか辛いことだろうかと涙があふれてなりませんでした。
 四九日を過ぎた頃、奥様とばったり出会いました。そこで無理を言ったのが死期を早めたのではないかと言い頭を下げました。
「そのことですが。主人は生きていた証しをたくさん残そうとしたんです。それは馬場さんに言われてハッとしたと言ってました。何でも良い。残せる物は残そうと。主人が書いた物をいつか子供達に見せたいと思いますのでコピーを下さいね」
 と涙ながらに言われたのです。
 その時、車の運転についてはなされました。自分が居なくなった後の生活に困るだろうとご主人に執拗に言われて習得に通ったので、今の仕事に、子供の送り迎えに役立っていると言われたのです。心ない陰口に私も同調しかかっていたのを深く反省しました。人は余命を悟った時「し残したこと」を必死に達成しようとします。そんな折り、少しでもお手伝いしたいと今、強く思っております。
 団地のコートです。懐かしい。写っているのは友人の吉村氏で私ではありません。彼が写真を送ってくれました。
イメージ 1
    『甘いで甘いで、ヒヤコイで』

 本格的な夏がやってきました。こちらも長くぐずついていたのですが、青い夏空が広がりました。メキシコ人の氷売りが出る季節です。氷売りを探しながら歩いてみたのですが、今日は違う場所に出店を構えたのか見当たりませんでした。
 私には重度の障碍をもつ五つ年下の従弟がいました。名前は正広、みんなはマー君と呼んでいました。私は父が戦争に行く前に生まれてます。マー君は叔父が戦争が終わってから復員して生まれてます。叔父の喜びは大変だったと聞いています。しかし、マー君は立ち上がることも言葉を発することもできませんでした。アアー、ウーと言うことで意思を叔母に伝えていました。

 いつかこの障碍は治る物と私は思っていました。しかし、脳性小児麻痺は治る物ではありません。体中を縛り付けるような麻痺は年々悪化しているように思えました。

   そんなマー君の慰めになったのは私の学校の行き帰りにかける言葉だったそうです。おはよう、行ってくるよ。ただ今、帰ったよ。だけだったのですが、私の声が聞こえるとアアー、ウオーと声がしました。時々、叔母が私を呼び止め、コッペパンをごちそうしてくれたりしました。そんな時には学校でこんなことがあった、こんなことをしてきた、とマー君に話をしました。ケンカをした時には息を詰めて聞いてくれています。そして勝ったと話しますと声をあげて喜んでくれるのです。負けたと言いますと硬直した体をいっそう固め唇をへの字に結んで涙を浮かべてくれました。

 そうそう夏の話でしたね。
 小学六年の夏休み、アイスキャンデーを従兄の英一さんと売りに出たのです。アルバイトです。大きな自転車を後ろから押す役です。またチリンチリンと鈴を鳴らすのも私の役目です。淀川の堤防を釣り人の姿を求めて売り歩くのです。いくらも売れません。その時に、
『甘いで甘いで、ヒヤコイで』と売り歩くのですが、この声が出ないのです。売れなくて帰りますと叔母が待っていて必ずマー君と叔母ちゃんの分、と言って二本買ってくれました。その時に、「おおきに」と大声で言って鈴をチリンチリンとと鳴らすのです。マー君は大喜びです。そこでもう一つ、『甘いで甘いで、ヒヤコイで』とやってみました。マー君は私の声を聞くと体をばたつかせ興奮状態になりました。
「ノブちゃん、もう一度やってやってんか」と叔母。

  叔母さんが泣いてます。その前で何度もやりました。翌日、『甘いで甘いで、ヒヤコイで』は難なく口から出ました。マー君、上手いやろ、と叫びそうでした。完売した日はそっと二本のアイスキャンデーを仕入れてもって帰り、
『甘いで甘いで、ヒヤコイで』と鈴をチリンチリンと鳴らしました。

 大学を東京にとると言いに行った時、マー君は横を向いたままでした。顔を見ないのです。どうしても首を曲げてしまう。
「夏には帰るから」と告げたのですが、二度とチリンチリンを聞かせることはありませんでした。15歳の大台をマー君は越えられませんでした。腸が弱り、衰弱死のようだったと言います。

   今も苦しい時に、先が見えなくなった時に、『甘いで甘いで、ヒヤコイで』、とつぶやきます。と、どこからかチリンチリンと鈴の音が聞こえてくるのです。

  写真はNETから借りました。私ではありません。
イメージ 1

『あじさい』

       『あじさい』

 練馬の小さな貸家の庭に一株だけあじさいが根を張っていました。僕はあじさいが好きではありませんでした。理由はないのです。淡彩なのが気に入らなかったのでしょうね。
 一緒に暮らしていた女が体調を崩しました。毎日、あじさいを見て暮らすだけになりました。病名が分かりました。子宮内膜症。医者から、
「癌の恐れがある。もし癌ならあなたに知らせる。絶対に口外しないと約束して下さい」...
 と厳命されました。また「子宮摘出なら母親になれない」とも告げられました。梅雨の真っ最中でした。暗鬱な中、あじさいだけは咲いていました。

 夏の到来でしょうか雷が鳴っている昼下がり、東南アジアへのスケジュールが決まったと電話がありました。少しでも実入りの良い仕事をして手術代を稼ぎたかった私は多少のリスクを覚悟して受けたのでした。日程が決まったことを彼女に告げますと小さくうなずきました。
 しばらくして顔を上げた彼女は「お願いがある」とつぶやくように言いました。
「何だい」
「飛行機に乗るんでしょう」
「ああ、乗るよ」
「雲の上を飛ぶでしょう。そしたらね。虎皮パンツの雷の子を網ですくってきて」
 言われた瞬間、何を言っているのか分かりました。自分の病状を知っていたのです。胸がふさがれました。でも素知らぬ顔をして、
「虎皮で一本角のを二匹、捕まえてくる。網ですくってくる」
 と言って笑いました。彼女も、
「そうして」と苦しい笑顔を作りました。

 短時日のギャラにしては多い三〇万円は間に合いませんでした。庭のあじさいは透き通るような青から鮮やかな紫に色合いを変えていました。そのあじさいに向かって、
「虎皮パンツを捕まえ損なったよ」と私は報告していました。

イメージ 1

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事