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【これはアカンやろ】
久しく出てこなかった話題ですが、盗作問題です。盗作にも色々あってシチュエーションを借りるもの。セリフだけいただくもの。まるごと写して人物名だけ換える幼稚なものまで千差万別です。一時、アメリカの売れない作家の小説を翻訳して日本語にする奴が居るというのを知って注目していたところ一人引っかかりました。これらは新人賞レベルです。しばらく新人文学賞のアラ読みを担当したことがあったのです。その時の経験からです。今はデータベースが充実してきましたから瞬時で見破られるかも知れません。
ところで韓国の申(シン)京淑(ギョンスク)と言えば国を代表する女流作家と言うじゃありませんか。読んだことはありませんが。これは新人賞応募などとはレベルが違います。ここまでパクリ体質が韓国人社会では一般化しているのか、というのは真面目な論調。もっと言ってみれば韓国そのものじゃないか、パクリは珍しくも何ともない。日本のテレビドラマのパクリ、バラエティのパクリに始まって、ありとあらゆるパクリをやってのけます。アメリカで小さな発明展を開くと翌年には韓国で...商品化されているという話も聞きます。
数年前ですが、こちらで七輪BBQをやるのが流行りました。炭火BBQです。これに注目した韓国人Son氏が私に七輪を買いたいと言ってきました。探しますとマルカイ店にありました。いくつあるかと聞いてくるので直接、店に行って聞けばと答えますとマルカイにある七輪を全部買ってきました。それからです。
「石川県にある七輪製造業者から輸入したい。アメリカで販売したいのだ」 と言ってきました。私が紹介状を書きました。私の問い合わせには反応があり、石川県の製造業者も乗り気でした。ところが代表者がSon氏だと分かったとたんメールも電話も反応がなくなったのです。私には理由が想像できました。 後に真相を知ります。石川県の製造業者は韓国に七輪を輸出したことがあったのです。韓国の業者は七輪を解体して構造を調べ粗悪品を作って売っていました。Son氏と韓国名を晒したとたんシャットアウトはそれが理由でした。親日韓国人Son氏に今も真相を告げることができないでいます。 これから韓国人作家というだけでアウトになるか疑惑の目でみられます。真面目な韓国人作家には気の毒なことです。日本も大きなことは言えません。パクリ体質は日本の放送局にもありますよ。オイラの小説をパクった某放送局、オイラは監視の目を緩めてないぞ。ここは笑ってください。
写真は作家の申(シン)京淑(ギョンスク)女史
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『親父のカレー』
親父の作るカレーは正直言って美味くなかったです。単純シンプルを絵に描いたようなカレーで、ちょっとグリーンピースを数個のせているだけでした。それでも食べるものがない時代はお代わりをしたものです。
親父は調理師で免許を持っていました。出身は三重県鈴鹿にあった航空隊の炊事兵です。長じてきますと学生食堂のカレーの方が美味いと思うようになります。家で食事をしなくなった私は親父の作るカレーの味を忘れて行きました。 映画『雁の寺』で主演をした友人高見国一君が家に遊びに来ることになりました。たまたま映画のロケ地が親の実家の近くだったのです。
「親父さん、お袋さんに挨拶に寄る」 と言い出したのです。仕方ありません。 「これから寄っても良いかな」と母親に電話しますと、 「何にも食べるものがないがな。ビールはお父さんの買い置きがあるけど」 それでええわ、と寄ることに。 初対面の挨拶がすみますと屈託なく話しかける高見君に親父は気後れするのか黙りが続きました。空腹をビールで満たすことはできません。急いで用意をしてくれている魚や肉が上がってくるまで、
「どうやカレーライスでしのいでみたら」 と母親が言いました。そんなもの出すな、と言おうとしたのですが、友人の高見国一が、 「カレー下さい。食べたい」と遮ったのです。 もう気が気ではありません。親父の料理の腕は一〇年一日のごとく進歩がありません。親父のカレーを食べて美味いと言うはずがないからです。と、
「生卵をくれませんか」 と高見君が言ったのです。隣は養鶏場でしたからいくらでも買えます。高見君、ポンと卵を割ってカレーの上にかけました。そしてスプーンを使っていたのですが、 「懐かしい。千日前のカレーや。夫婦善哉、織田作のカレーや」 と叫ぶように言ったのです。親父ののど仏が上下します。なんのこっちゃ。 「馬場、お前は河内やから知らんやろけど、おれらはこのカレーで休日を楽しんだんや。親父さん、懐かしいわ」とパクパク食べ始めたのです。 親父の目が真っ赤です。さんざ私にまずいと酷評されたカレーを私の友人は美味いと言って食べているのです。 親父が作っていたカレーは真性のカレーだったのですね。大阪の老舗レストランで出しているカレーです。タマネギとビーフだけの具。しかし、それこそ本物のカレーだと言わんばかりに親父は作っていたのです。知りませんでした。
「お前はええなあ。大阪千日前のカレーがいつも食べられて」 と高見君は言いました。その夜は親父も良く呑みました。明け方まで三人で呑んで泥酔。夢にまでカレーが出てきて往生しました。 この二人、親父も高見国一君もこの世にはいません。今頃、どこかで親父の作るカレーを高見君が食べているだろうと想像しますとちっとうらやましく思うことがあります。
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『穴あき靴下』
恩師の家を訪ねたときのことです。玄関先で「上がれ」と言われるのを固辞して「何だお前は」と叱られたことがありました。上がれない理由は靴下に穴があいていたからなのです。家を出るときにチェックすれば良かったというミスではありません。穴あき靴下しかなかったのです。恥ずかしい思い出です。今日は別件です。穴あき靴下でずっと思い悩んでいたことがありました。
短いブレークに、息子が友人を三人連れて大学から帰ってきたことがありました。小躍りして迎えました。何故ならみんな有望な日本からの留学生で将来活躍の期待できる青年だったからです。その一人R君は屈託がなく出す料理はみんな平らげ将来は環境整備学をやると夢を語ってくれました。環境整備学とはどんな学問分野か知りません。はつらつとした語る姿が頼もしく思えました。
その彼の靴下に目が行きました。遠路、交代しながらと言ってましたが車を運転してきて疲れていたんでしょう。足を投げ出しソファーで昼寝をしていました。と靴下の底に丸い穴を見つけてしまいました。とたんにあの恥ずかしかった昔を思い出したのです。
我が家ではコストコで安価な靴下をダースで買ってきております。その一足を出してそっと彼の足下に置いておきました。目が覚めて気がつけば履くだろうと思ったのです。しかし、起きてきても靴下はそのままでした。しかたありません。プライドを傷つけるかも知れませんが、
「次の訪問先では靴を脱げないよ。古い靴下を捨てなさい」 とやってしまいました。R君は黙って履き替えました。どんなに恥ずかしい思いをさせたかかと気が気ではありませんでした。思い出しては悩む日々を過ごさなければなりませんでした。こんな場合、若い日の貧乏時代、穴あき靴下くらいは良い経験だと目をつむっているのが普通なのでしょうかね。 そんな日から十年ほどたちました。みんな学校を卒業してそれぞれ職につきました。研究者の道を歩む者、実業界に身を投じる者、様々でした。ある一報が届きました。R君がニュージーランドへ都市環境の研究に旅立つことになったと言うのです。東京で壮行会があり偶然帰国していた息子も激励に駆けつけました。帰ってきて、
「靴下の礼を言ってた。カズ(私の息子の呼び名)の親父は直裁に物を言う人なんだな。おかげで一冬もった、って。あれから自分も良いと思ったことは臆せず言うつもりになったと言うんだよ。昔からずけずけ物を言ってた奴なのにね」 そんなことを笑いながら報告してくれたのです。バークレー大のあるオークランドは冬が厳しいです。あの靴下一足ではもちますまい。でも一助にはなっていたんだなと思うとホッとしました。それと悪く思っていなかったのだと知って胸の重しがとれた気分になりました。 今、R君の発信する環境情報は3.11の後、引っ張りだこです。彼の前途、幸い多かれと祈っております。また、この話はR君の許可なく書いております。よってR君の詳細はご勘弁願います。
私のくたびれた靴下です。白は汚れ目がすぐにわかります。清潔な白の木綿靴下、愛用しています。
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『五百円札』
今はもうないと思いますが五百円札というのがありました。インフレ抑制策のために作られたと聞きます。インフレにどんな効用があるのか知りません。ところが五百円札では効果がなかったから後に硬貨になったとか。親父ギャグです。
雨の降る夕方、学校の帰りに天ぷらを五人前買って帰るよう母親に言われてました。関西医大牧野病院の前に天ぷら屋さんがありイカ天、イモ天、アジの揚げたのを買って五百円札を出したのです。天ぷら屋の爺さんは強度の近眼。釣り銭に注意するより新聞紙にくるんだ天ぷらの方が気になり確かめもせず歩き出しました。しかし、すぐに気がつきました。ポケットの膨らみが違うのです。貧乏人の子ですからそういうのはすぐに分かります。で、確かめてみました。七百三十円ありました。...
「千円札と間違えよった」 返すのは明日にしようかと思ったのですが、雨の中、元来た道を戻りました。 「おっちゃん、おかしいで」 と店にいる近眼爺さんに声をかけました。爺さんには釣り銭にいちゃもんをつけに戻って来た高校生に見えたんでしょうね。 「なんか文句あんのんか」 と声がとげとげしい。何をと唇をとがらせそうになります。そこを押さえて、 「うん。ちょっと多いねん。千円札と間違えたやろ。僕が出したんは五百円札や」 「あっ……」と絶叫に近い声が飛び出します。五百円札を返しました。 「おい、またんかい」 「なんか用ですか?」 「売り物やないけどな家族用にタラの芽揚げたんや。もって帰れや」 と新聞紙にもう一つくるんでくれました。タラの芽というのを当時の私は知りませんでした。くれるもんはありがたく頂戴して帰りました。 「信浩。これどないしてん。タラの芽やないか」
と母親になじるように詰問されます。ちょろまかしてきたと母は思ったのでしょうか。お前、自分の産んだ子を信じろよと言いたかったです。 「天ぷら屋のメカンチがくれよった」(差別用語です。当時平気で使ってました) 「ほんまかいな」 家族でいただいたのですが美味でした。珍しい物だと父も母も言いました。翌日、母親が礼に寄りますと、 「雨の中、五百円札や。タラの芽なんかナンボのもんや、てメカンチ泣いとったわ、意味わからへん」 よく分かるじゃないか、母ちゃん。 二十年後にその店の前を通りましたが跡形もありませんでした。今、日本はタラの芽の旬ではないですか。食べたいなあ。
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『床屋のサブ』
まだあるかどうか知りません。故郷の枚方に【式田】という散髪店がありました。同級生の父親が経営しておりました。同じクラスになったことはないのです。しかし、どことなく虫の好かない奴で式田三郎が彼の本名でした。仲間からは「床屋のサブ」と呼ばれていました。
校内マラソンに出た時のことです。私は短距離選手の父親に似ず、短距離は苦手でした。が長距離は母親に似たのか得意としていました。3kmほどのコースを走るのですが途中の起伏が激しくけっこう泣かされました。4年生、5年生と走ってコースを飲み込んだ私は6年最後の校内マラソンに賭けていました。...
冬のある日、一斉に校門を飛び出しました。集団がバラケますと後は先頭を行く五人を追いかける展開になりました。ここはじっくり追うことだと言い聞かせました。 1kmを過ぎた辺りでした。前を行く少年が石につまずいたか腰を落としたのです。見るとサブです。汗を額にかいています。まだ元気そうです。しかし、うずくまったままです。追いつくと、 「立てんのか」と声をかけました。 「……」 返事がありません。嫌な奴だなと思いました。 「座り込んだら立てんぞ。そうなったら走れへんで」 と立つようにうながしました。しかし、弱々しくクビをふるのです。 「立たんかい。男やろ」 そう言ってお節介にもクビのシャツを引き上げました。サブは立ち上がりました。それを見て私は先行組を追いかけました。そのせいか先頭集団に追いつけず、その年も負けてしまいました。 後年、やっと食っていけるようになって故郷へ墓参り。その時、どうしてるかなと式田散髪店に寄ってみました。店番をしている爺さんがいました。その人がサブの父親でした。顔を当たってもらう頃に話しかけました。
「サブは元気ですか」 返事がありません。 「同級生なんです」 「…死にました」 まだ30をいくつか超えた歳でしたので人の死にはなれていませんでした。カミソリの刃がなければ驚きで飛びはねていたと思います。そこでマラソンの思い出を語りました。聞き終えると爺さんは、 「あなたでしたか。中学へ行って、高校へ行って、マラソンがあるたびに話しをするんです。助けてくれた奴がおったと。名前を言わんのです。何でかなと思ってました」 「きっと僕が嫌いだったんですよ」 「まさか。あなたに見てもらうんだって駅伝の選手になったんですよ。そして区間優勝を果たした翌日、突然死をしたんです。死因はわかりません。どこも異常はなかったんです。今日、来てくれはったと報告しまっさ。よう来てやってくれました」 線香を上げさせてもらい多くを語ることなく床屋を去りました。あの時、声をかけなければ早死にさせることはなかったのではと長く苦しみました。今も、その思いは消えません。でも、もうすぐや、待っとれよ、サブ。今度は天国で一騎打ちじゃ。 写真は枚方マラソンから借りました。本文とは関係ありません。
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