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【カミソリ】最終回
私は復員して大学へ戻りました。東京は焼け野原です。母校の講堂を見た時は涙がこぼれました。その時初めて、生きて帰ってきたんだ、と実感しました。 スイトンを食べながら大学通いです。多くの学友が帰ってきていました。中には還らぬ人もおられました。 ラグビー部へも顔を出しましたが、もう体力がないだろうとあきらめました。一年後、足りなかった単位を取って卒業しました。ちょうどあなたぐらいの歳でした。 それから仕事をと思うのですがやりたいことが見つから...ないのです。日本はまだ復興ならずで苦しい時代を迎えていました。私も茫然自失の状態から抜け出ていなかったのですね。しかたなく実家の煎餅店を手伝って糊口を得ていました。食料は幸い、庭が広かったので野菜や穀類を作って餓えをしのいでいました。 そんなある日、フランス大使館から一通の封書が届いたのです。それは仏文と英文で書かれた質問状でした。連合国はBC級戦犯の追及をやめていませんでした。にわかに緊張が甦りました。父母も、せっかく復員したのにまだ何かあるのかと不安がります。 フランスからの問い合わせがあるのは捕虜収容所のことにちがいありません。私の名前、位階、召集年月、勤務地、期間、現在の仕事などを訊いてきています。 不安におののきながら正直に書きました。狭い日本です。逃げる所などありません。コメント欄に捕虜の名前を知っているか、とありましたので、カールとジゼーの名前を書いて投函しておきました。しかし、気が気ではありません。不安から逃れるためには一人で畑を耕し体をくたくたに疲れさせて眠るしかありませんでした。 半年ほど経って問い合わせを忘れかけた頃、フランスから小包が届きました。中身を確かめます。しっかりと包装された箱と仏文と英文で書かれた書状が出てきました。 「矢橋。何か困っていることはないか。食糧事情が悪いと聞いている。貴君の家は製菓業だったね。フランス製菓など製造販売されてはいかがかな。それと私達のために失った腕時計をお返しする。カミソリを借りた友より」 と書かれてあったのです。急いで箱を開けました。クロスビーの腕時計が出てきました。もう一枚の書状はフランス大使館への紹介状でした。召喚状ではなかったのです。誰が書いたのかは明らかです。 その時、カールやジゼーが唄うラ・マルセイエーズが耳に甦りました。彼らが唄っている。二人が動いていてくれている。何故か君が代を歌いたくなりましたよ。 日本はあいかわらず貧窮に喘いでいました。統制に次ぐ統制です。がんじがらめにしないと日本経済はやっていけなかったのです。煎餅の米粉を得るのでさえ大変でした。ですから連合国の庇護が受けられる。何か特権が得られるならと父や兄弟は大のり気でした。しかし、それほど甘くはなかったのです。既存の製菓会社が再生をかけてGHQに乗り込んでいました。煎餅屋では太刀打ちできませんでした。】 矢橋さんはそう言って話を終えました。後の苦闘はいずれということでした。いつでも話は聞けると思っていました。宮益坂を下りて行く矢橋さんの背に、寒い風が追いかけて行きました。それ以降、会ったことはありません。亡くなられたわけではありません。僕が住まいを都下の東久留米に移したからです。画心亭の娘さんに振られたのが原因です。で、渋谷は遠くなりました。 やがて矢橋さんが結婚されたと聞きました。その時、矢橋さんと画心亭のマスターとの間で大変な大騒動があったそうです。二人は大学の同期生だったのです。同期生の矢橋さんが結婚した相手のことです。それは画心亭の娘さんだったのです。これは驚きました。大学の同期生に娘を取られたのと看板娘を失うことにマスターが怒ったのですね。みんなが憧れた娘です。僕もその一人です。それを取って行ったのです。父親の怒りを理解できなくはありませんでした。矢橋さんが毎週土曜日画心亭にやってきたのも納得できました。土曜日はラグビーの試合を観にきたものとばかり思っていました。娘さんに会いにきていたのですね。土曜日は娘さんの会社がお休みでお手伝い日だったのです。 その後、矢橋さんは赤坂薬研堀に「シェ ヌー(Chez Nous)」というフランス菓子店を出されたのです。繁盛してました。でも店は訪ねませんでした。憧れた女性が心惹かれる男の妻になっている。ちょっぴり胸がヒリッとするじゃないですか。店の前を車で通ることはありましたが降りることはありませんでした。 通る度に、熱心に仏印のことを聞く若い男として僕はカモフラージュに使われていたんだ、とギリと胸が痛みました。コンチクショウです。もう一つ、興味深い話を聞きました。娘さんの友人が直に聞いたと話をしてくれたのです。 「父の同期生よ、あんな小父さん、と思ってた。ところが父を殴ったと聞いて、ビックリ。父は暴君で誰も諫める人はいない。この世に父を殴れる人がいる。凄い。だってその日以来、父は温和しくなったんだもの」 と言ったらしいのです。そんな話しできすぎてる、後付だろうと思いました。 でも、すぐに思い直しました。「シェ ヌー」の意味を知ったからです。正確には知りませんが「我が家」という意味だそうです。矢橋さんは温かさを求めていたんですね。あんな苦労をしたんだ。それくらいの幸せを求めても良いのではないか。娘さんと幸せになってねと心底思うようになりました。 薬研堀のフランス菓子店「シェ ヌー」が失火で燃え落ちたのは昭和の終わりでした。今はありません。画心亭は、娘がいなくなるといとも簡単につぶれてしまいました。 今、矢橋さんの所在も画心亭夫婦の所在も僕は知りません。木枯らしが吹くと宮益坂を背を丸めて降りて行った矢橋さんの後ろ姿を思い出します。生きておられれば僕より二十歳は年上ですから、九十歳。もう会うことは望み薄でしょうかね。 おわり 復興なった当時の渋谷 |
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【デビル・ウインド】
今朝(五月三日)は鳥達が騒々しい。で、窓を開けて驚いた。強い風だ。その風が熱いのだ。とうとうやって来た。アメリカン・ネイティブ(インディアン)の皆さんがデビル・ウインド(悪魔の風)と呼ぶ風の到来だ。 急いで車に乗る。久しく行っていない旧宅(今、息子の住居)に向かう。 ヒルにあるその宅地には可燃性の物がある。まず落ち葉だ。そして木々の切れはし。それらを片付けに行くのだ。 この風に長時間こすられ、熱をもった木々はちょっとした加減で火を噴く。数年前、同じような風の吹く午後、ボンッと爆発音がして近くの山が燃えたことがあった。双眼鏡で見ると小さなビル程の火の固まりがあちこちで燃えていた。恐怖に目を引きつらせて避難したのを思い出す。 火が接近するカマリロの民家。LAタイムスの写真より
下の写真は今日のアナハイムヒル。遠くの山がサンガブリエル。その向こうの砂漠から熱い空気が谷間にそって流れ込んでくる。 これがきたら暑い、熱い夏の到来だ。日本の朝寒五月が恋しく、喉から手が、手から喉ほど欲しい、と思います。 数年前、目の前のブッシュが煙を噴き、遠くに見える崖が 焼けました。
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