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『寒シジミ』
もう薄れかけているのですがいきなり思い出されてきました。 それはシジミを売りに来た女の姿でした。当時住んでいた枚方のあばら家の軒先に腰掛けて休んでいるのです。疲れて髪はパサパサ。肌にも艶はありませんでした。そのうち家の土間に入り、 「シジミを買うてくれへんか」 と母に言うようになりました。内職をしていた母には買う余裕はありません。で、断っていました。... やがて土間にある井戸に目をつけた女は使わせてくれと言い出しました。何をするのかと見ていますと取り立てのシジミに井戸水をたっぷりかけてやっているのです。 「カルキの入った水道水ではアカンのよ」と言っていました。 その女と母はいつしか話し合うようになっていました。学校から帰ると時々、女が縁側に腰掛けているのを見かけました。二人で俳句の話をしていました。このおばさんがと意外でした。 淀川の河畔を散歩中、おばさんのシジミをすくう姿を見ました。まだ寒い頃です。腰まで水につかりながらシジミ篭を引いているのです。一掬いいくらも入っていないのです。「冷たないか」と声をかけました。おばさんは無言でした。 それからしばらくして母にシジミ汁が食べたいと言ったことがありました。ふとおばさんを思い出したのです。母は何も言いませんでした。ざる一杯五円だったのですが買えなかったのです。ところがです。夜にはシジミ汁が出たのです。 「どうしたん。買えんと言うてたやん」 「軒に一篭置いてあった」とだけ母は言いました。「食べや」と紙がそえてあったそうです。紙の裏に「寒シジミ 身を切る水の 底深く」とも。 やがておばさんの姿が枚方から消えました。朝鮮動乱が始まったのです。噂ではおばさんは淀川の河床から金属をすくい上げ売るようになったのだそうです。シジミより儲かったのです。 「羽振りがようなってな。私らを見ても声もかけんわ」 と母は言いました。僕はその日からおばさんのことを忘れようと思いました。シジミを洗いながら俳句をひねっているおばさんでいてもらいたかったのですね。 シジミすくい(写真は本文とは関係がありません) |
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