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『あじさい』
練馬の小さな貸家の庭に一株だけあじさいが根を張っていました。僕はあじさいが好きではありませんでした。理由はないのです。淡彩なのが気に入らなかったのでしょうね。
一緒に暮らしていた女が体調を崩しました。毎日、あじさいを見て暮らすだけになりました。病名が分かりました。子宮内膜症。医者から、 「癌の恐れがある。もし癌ならあなたに知らせる。絶対に口外しないと約束して下さい」... と厳命されました。また「子宮摘出なら母親になれない」とも告げられました。梅雨の真っ最中でした。暗鬱な中、あじさいだけは咲いていました。 夏の到来でしょうか雷が鳴っている昼下がり、東南アジアへのスケジュールが決まったと電話がありました。少しでも実入りの良い仕事をして手術代を稼ぎたかった私は多少のリスクを覚悟して受けたのでした。日程が決まったことを彼女に告げますと小さくうなずきました。
しばらくして顔を上げた彼女は「お願いがある」とつぶやくように言いました。
「何だい」 「飛行機に乗るんでしょう」 「ああ、乗るよ」 「雲の上を飛ぶでしょう。そしたらね。虎皮パンツの雷の子を網ですくってきて」 言われた瞬間、何を言っているのか分かりました。自分の病状を知っていたのです。胸がふさがれました。でも素知らぬ顔をして、 「虎皮で一本角のを二匹、捕まえてくる。網ですくってくる」 と言って笑いました。彼女も、 「そうして」と苦しい笑顔を作りました。 短時日のギャラにしては多い三〇万円は間に合いませんでした。庭のあじさいは透き通るような青から鮮やかな紫に色合いを変えていました。そのあじさいに向かって、
「虎皮パンツを捕まえ損なったよ」と私は報告していました。 |
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