馬場信浩(龍造寺 信)のブログ

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日記

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【帰ってきた消防車】

        【帰ってきた消防車】

 妙に鳥たちが騒ぐ。庭に枝振りの良い木が植わっている。その木に巣くっている小鳥たちが騒ぐのだ。
 さては蛇が侵入したか。あるいはイタチか。どっちにしても執拗にテリトリーを犯しているようだ。うるさくて眠れない。時刻は午前二時だ。何が起きているか覗いてやろうとベランダに出た。

 と、ヒョーと風に吹かれた。寒い。それにポツッと何かが額に落ちた。濡れた。雨だ。雨に鳥達が騒いでいるのか。しかし、真っ暗でまったく見えない。ベランダに拾ってきたゴルフボールがあったので枝の真ん中に向けていくつか投げ込んだ。と、クと鳴き声がした。当たったのだ。何かが動く気配だ。おい、こっちへくるなよ、と逃げ腰になる。

 どうやらオッポサムらしい。ゴソゴソと音がしていたがやがて鳥達も鳴かなくなった。しっかりと雨が降っている。助かったと思った。

 助かったと思うのはカマリロの山火事だ。これで鎮火する。一時は四千戸の住宅が危険にさらされていた。これだけしっかり降れば大丈夫だろう。眠気がすっ飛んだので気象情報サイトに入って見た。しっかりカマリロに雨が降っている。やれやれ。
 小鳥たちよお前らの敵を追っ払ってやったぞ。安心しろ。おいらも眠るから、と雨音を聞きながら眠りについた。安心したのかストンと眠ってしまった。

 朝起きると腹を満たして町に出てみた。
 カマリロから帰ってくる消防車に出会う。次々とシャッターチャンスを逸する。助手席の女性消防士が手を振ってくれている。撮れてないなあ。この人達のうち何人かは東北震災時に駆けつけてくれたアナハイム消防署の消防士達だ。写真からANAHEIMが読めるだろうか。
 消防士のみなさんご苦労さん。おいら日本人ですよ。助かりましたよ、その節は。
 とブワーッとクラクションを鳴らしてくれた。
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【デビル・ウインド】

    【デビル・ウインド】

 今朝(五月三日)は鳥達が騒々しい。で、窓を開けて驚いた。強い風だ。その風が熱いのだ。とうとうやって来た。アメリカン・ネイティブ(インディアン)の皆さんがデビル・ウインド(悪魔の風)と呼ぶ風の到来だ。
急いで車に乗る。久しく行っていない旧宅(今、息子の住居)に向かう。

 ヒルにあるその宅地には可燃性の物がある。まず落ち葉だ。そして木々の切れはし。それらを片付けに行くのだ。
 この風に長時間こすられ、熱をもった木々はちょっとした加減で火を噴く。数年前、同じような風の吹く午後、ボンッと爆発音がして近くの山が燃えたことがあった。双眼鏡で見ると小さなビル程の火の固まりがあちこちで燃えていた。恐怖に目を引きつらせて避難したのを思い出す。
 
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                火が接近するカマリロの民家。LAタイムスの写真より

 下の写真は今日のアナハイムヒル。遠くの山がサンガブリエル。その向こうの砂漠から熱い空気が谷間にそって流れ込んでくる。
 これがきたら暑い、熱い夏の到来だ。日本の朝寒五月が恋しく、喉から手が、手から喉ほど欲しい、と思います。
            
数年前、目の前のブッシュが煙を噴き、遠くに見える崖が 焼けました。イメージ 1
         【めぐる六部は気の弱り】 

 母校の同窓会に招かれて故郷の枚方入りしたのはその年六月のことでした。枚方青年会議所の有志から「一席設けるから一晩お時間をいただきたい」と声がかかっていたのです。
 青年会議所というのがどんな組織なのか知りませんでした。友人の息子さん達が近在の若い人達の絆を作るために集っているのだろうと思っていました。のんびり先祖の墓参りをすませたりして夕方の会に臨んだのです。会場は小さな居酒屋の二階でした。
「本当なら大会場で講演をしてもらうんですが急...なもので」
 と言われました。講演の苦手な私はそれがいいと思い、
「みなさんから質問をうけたりして、それを返すという形でやりませんか」
 と提案しました。けっこうだと話しが決まりました。
 後はビールで乾杯して出てくる川魚を楽しみながら歓談です。気がつくとじょじょに人数が増えて一五人くらいになっていました。その中に場違いだと思える人物が混じっているのに気がつきました。歳は七〇才くらい。体はがっしりとして女丈夫。若い頃は働き者だったろうと思える女性でした。とても青年達の仲間だとは思えません。私は故郷での年上の女性に会うと緊張するのです。ろくな想い出がなかったからです。小学校の高学年の時、近所のおばさんに、
「のぶちゃん、将来何になるねん」
 と聞かれて「小説家」と答え「成れるかい、そんなもん」と返された時の衝撃は今もあります。友達は「阪神に入る。ピッチャーやりたいねん」と言って「頑張りや」と励まされていました。ピッチャーになる方が小説家になるより数倍難しいのにと思うのですが。この衝撃はいくつもあります。靴屋に入っていきなり、
「あんたには売ったらへん」
 と浴びせかけられたこともありました。これは私の母親と靴屋のオバハンが私の父を若い時に奪りあって負けた腹いせです。そんな過去を知りませんから商売人が客を断ることがあるのだとただ驚きました。いやな思いが残って今も出てきます。ですからその女性を見ていささか緊張していたわけです。

 会もたけなわ、進行役が一人一人を紹介してくれていきます。件の女性に順番がまわりました。
「スーパー枚方のオーナー川清芳子さんです。我々の御意見番です」
 女性は立ち上がって一礼してくれました。会が終わりました。帰り際、静かに寄ってこられました。にわかに緊張が高まります。と、
「のぶひろさん。お忘れと思いますけど、私、魚や「川喜与」のおばちゃんです」
 セピア色の原風景が浮かび上がります。しかし、映像が結びつきません。と、意を決したようにおばちゃんは右腕をまくり上げたのです。そして力こぶを作りました。その瞬間です。私の目に涙が吹き上がりました。
「みなさん、座り直してくれますか」
 と私は帰り支度をしている人達に声をかけました。

 小学校五年の春でした。堤町というところに借家を得て親子四人で暮らしていました。貧乏の底です。そこへ魚を氷箱に詰めて売りに来るおばさんが居ました。いくらも買えません。サンマ、イワシ、たまに鯖の切り身、干物です。それでも週のうち何日かは寄ってくれます。夫を亡くした母はそれこそ何でもしていました。一番の生活の糧は菊人形で売る「くらわんか餅」でした。しかし、これは春と秋の四ヶ月です。後の八ヶ月は拾い仕事をするのです。ホック付けのような内職です。貧乏は絵に描いたようでした。
「何かしら置いて言ってくれるねん」
 と母は「川喜与」のおばちゃんが帰るともらすことがありました。一品でも買うと何かをつけて置いていってくれたのです。特別、私に声をかけることはありませんでした。

 ある日、小魚を買った母は他に干物を注文しようとしました。しかし、小銭が足りなかったようでとりやめました。
「はるちゃん(私の母の名前)。遠慮せんとき。これ子らに食べさし」とウルメを何匹か置いたのです。
「今度もらうから今日は」と母は断りました。
「そうか」と言って立ち上がり裏口の石畳に降り始めました。氷箱は三段になってます。とても重いだろうことは子供心にも推察できました。
 おばちゃんが持ち直そうと石畳に腰を下ろしました。私はてっきりへたり込んだと思ったのです。と、おばちゃんは腕をまくり上げたのです。右腕にははっきりと縄目がついていました。しかも赤く腫れ上がったようでした。私は思わず、
「おばちゃん重たいやろな」
 と声をかけました。その途端、おばちゃんの上がっていた腰が石段に落ちました。そして呻くように、
「はるちゃん、この子は」と言って手ぬぐいで顔を被いました。
「ねえさん、どないしたん。うちの子、何か悪さしたんか」
 と母が奥から飛んで出てきます。
「はるちゃん。この子、くれへんか。枚方一の魚屋にしたるわ」
 と泣き崩れたのです。一時、肩で息をしていたおばちゃんが、
「人は私が担ぐ氷箱を見ても何にもいわへん。まして子供が言うかいな。この子は」
 と言って顔を被っていましたが、やがて顔を私に向けると、
「のぶちゃん、何になりたい。魚屋やれ。おばちゃんとこへおいで」
 と言ってくれました。将来、作家になると決めていましたので黙っていました。
 そしていつしかそんな日々のことを忘れていきました。
 
 突如、私の瞼に右腕が甦っていました。
「お魚、ありがとうございました」
 と私は初めて故郷の年上の女から解き放たれる思いをこめて、みんなが居る場で頭をさげました。思えばサンマ、イワシからの脱却が支えでした。あのどん底の日々がないと生きられなかった、頑張れなかったと思うのです。礼を言いたいと率直に思いました。と、
「礼を言うのは私の方や。枚方にはこんな子がおる。励みになったがな。頑張ったで、おばちゃん。大川町に市場ができて小さな店を出した。それが順調に行き出すのにしばらくかかったけど他にも二店、三店と出せた。その度に思い出すのはあんたのことや。いつでも戻ってこいと思ってた。人づてに小説で賞をとってテレビの司会をやってるって聞いた。でも、関西地区はどこも放送してないがな。素通りや。なんでや放送局のアホが。東海地区なら放送してるて言うさかい伊勢まで行って宿をとった。でもテレビで観るあんたには子供の頃の面影がない。違うと思う。私の知ってる子は痩せて目だけギョロつかせていた。そこで養子にとる話しはあきらめた」
 とみんなを笑わせた。私はもう涙をぬぐわなかった。
「今夜はもう遅い。また日を改めよ。「鍵屋(江戸時代から続いた料理屋)」の二階にでもしよか」
 おばちゃんの独演会は終わりました。おばちゃんは知っていたのです。鍵屋の若旦那と私が同級生だと言うことを。おばちゃんと再会の日を約して別れました。

 そんな話しも実現することはありませんでした。おばちゃんが体調を崩したのです。私の渡米と重なりました。見舞うこともできないまま死なせてしまったのです。あの時、東京での生活を捨てて枚方へ移住して養子になっていれば死なせずにすんだだろうかとふと思うことがあります。すぐさま否定して、それは、とんだ思い上がりだ、と自分をどやしつけることでした。

             おわり      淀川を上り下りした「くらわんか舟」
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ビオラ

         ビオラ
 
 今、優しくなりたい。何もかもに優しくなりたい。そして笑いかけたい。そう思うようになりました。
 FBやツイッターやっていて、後輩に、「優しいんですね」、と言われて思わず涙ぐみました。
「俺はいつも優しかった」
 と言ってみても誰も信じてくれません。

 去年、アパートの庭の手入れにきたメキシコ人と目があったことがありました。と、帰りにビオラを一株くれたのです。とてもきれいに咲きました。一シーズン楽しませてもらいました。
 やがて冬、枯れちまったのです。で、春になって、捨てようと思って鉢を見たら、小さな小さな芽が出ているではないですか。雑草の芽かも知れない。けれど捨てずに持っていようと思いました。雑草にだって優しいんだ俺は。

 やがて一センチ、そして二センチと緑の枝を伸ばします。雑草じゃないよな、お前。ビオラだよな。水もやるからな。と話しかけます。

 咲いたのです! ついにやった。やっぱりビオラだったんだ。俺はお前を捨てなかったぞ。分かってるな。何とか言え。
 花言葉は「誠実」。おいらも誠実だぞ。ただし、実や根に毒性があるとか。
 小さいけど、花言葉に似合わぬ怖ろしい奴なんだな、お前は。
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 先日Costcoで、下の写真にある商品を見つけました。御存知の方も多いのでしょうが、ふだん厨房に入らない私は、「あっ、貼り間違いやがった」、と思ったものです。ところがすぐに気がつきました。
 
 それから感心するやら、笑いがこみあげるやら、あれやこれやと考えているうちにアメリカ人の面白さに打ちのめされ始めました。
 
 このショックは今回が初めてではありません。遠くは子供のころの衝撃があります。アメリカの戦闘機にラクガキがしてあったことです。いろんな色彩を施してありました。お気に入りの女優さんだったり恋人だったり、時にはシャークの絵だったりしました。そこに悲壮感はありません。日本の特攻機に田中絹代や恋人の絵を描いてあったなんて、ありませんね。
 
 このHEINZ社の悪戯的ラベル貼りは誰のアイデアなのでしょうかね。一社員の発想なのか、経営者の発想なのか。ちょっと調べたくなりました。
 
 要するにこれが商品として出回るのがアメリカ社会です。敵わないなと思いました。
 御存知の方も御存知でない方も、ちょっと話題にしていただければと思いまして。
 
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