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『安倍総理主催の昼餐会』
ただいま戻りました。安倍総理は疲れも見せずサンフランシスコからロサンゼルスに入られました。昼餐会には約600名のロス在住の方々が招かれていました。もちろんアメリカ人も多く、アジアの方々の姿も見えました。
総理は自信に満ちあふれた表情で日米のこと、ロスのことなど話され、時折混ぜられるジョークにアメリカ人を笑いに誘っておられました。
この姿を見て日米の「希望の同盟」が実現しつつあるのを感じました。 会場にいる日本人の誇らしげな顔顔。嬉しい限りです。ホテルの入り口を封鎖して「反対」と日本語で叫ぶ韓国人、中国人たちもいました。何が反対なのかわかりません。彼らの日本語が痛々しく感じられてなりませんでした。
さあ、新しい時代の到来です。上下院での演説の余韻もさることながら集まった日本人には自信を、アメリカ人やアジア系人には安心を与える演説内容でした。
安倍総理、ありがとうございました。いただいた肉料理は日本人の口には合いませんでしたが、その分、しっかりかみしめることができました。これから今日の日のことを思い出して頑張りますね。 安倍総理と左ケネディ駐日大使。破顔一笑、自信にあふれてますね。
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日記
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『なさぬ仲』
世は選挙でもちきり。私の話など聞いてはもらえますまい。でも書いておこうかなと思います。 練馬の関町ってところに住んでた頃でした。六畳と四畳半の二間。すごいぼろ家。ミカン箱とまでは行かないのですが粗末な机に原稿用紙を広げていたと思ってくださいな。... そんな私の日課は夕方になったら近くの銭湯へ子供を連れて行って夏は汗疹(あせも)の予防、冬は冷えた体を温めてやることでした。 洗い場でギャーギャー泣く子がいました。矢先、父親風の男が子供の頬をピシリ。湯船に引きこんで首までつからせます。ああ、いやな物を我が子に見せたなと思って横を向きました。男の子はまだビービー泣いています。 「おい、坊や。こんなの知ってるか」 と私は石けん箱に濡れ手ぬぐいをかぶせ突き出してやりました。男の子は首を振ります。その目の前で手ぬぐいに石けんをぬりこみ息を吹き込みます。と泡がブクブク。私の顔が隠れてしまいます。と、ケラケラと笑い声が上がりました。泣いていた男の子が笑ったのです。うちの子供達も笑いました。 「おじちゃんは手品師かい」 「難しい言葉を知ってるんだな」 「手品、大好きなんだ」 すっかりうちとけ子供同士で遊んでいました。 「よろしかったら一杯」と父親らしいのに誘われました。青梅街道沿いの寿司やに入ってビール。子供達はジュースでした。 「あれとはなさぬ仲でして」 と父親にボソリと言われたのです。瞬間、身が引き締まりました。私自身、血の通わぬ父親に育てられています。難しさはよく分かります。 「どうすれば良いですかね」と聞かれました。 「手品師になることですよ」と口から出任せを言いました。子供が興味を持っていることをともにしてやればというつもりだったのでしょうか。男はため息をついていました。 それから二人には会いませんでした。越していったのかなと思っていました。 上石神井の盆踊りに娘が行くと言って聞かないので連れて出た時のことでした。娘はすぐに踊りの輪の中に飛び込みました。踊りに合わせてついていきました。その輪の外に例の親子がいたのです。その夜は三人連れでした。父親が私を見つけました。しかし、私は目で制して挨拶をさせませんでした。男も頷きました。やがて男の子が、 「父ちゃん、踊っていいかな」と恥ずかしそうに言うのが聞こえました。 「ああ、行っておいで」と穏やかな男の声がしました。 これだけの話しなんです。もう上石神井には盆踊りのできる空き地は残っていないでしょうね。耳を澄ましますと娘の唄う「ちょいと東京音頭、よいよい」と言う声がまだ春になったばかりなのに聞こえてきそうなのです。 |
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『初体験、罵詈雑言』
18日の夕方から、12時近くまで、ツイッターにおりました。そこで激しい罵倒の嵐に見舞われました。
「この糞作家」、「まだ生きていたのか」、「自分でアメリカに行って調べろ」等です。イヤー、あれは左派のヘイトですよ。凄まじい物がありました。在特会の肩を持ちたくなりました。でも、面白かったですよ。 フェイスブックでは私がロスで慰安婦問題に取り組んでいるのを知ってもらってると思っておりました。うぬぼれですね。自戒しなければ。ところが外に出ますと誰も私のことなど知りません。リベラルの人たちにとって単なる老害ゴミです。痛感しました。
私の例の調子で軽く、
「朝鮮人からイジメられているなら実例を教えてくれないか」 とやったのです。サア、大変。その反応たるやボロクソでした。右の陣営からももちろん左の陣営からもバッシングです。以前の私なら、「表に出ろ」と切れてたと思うのですが、そこはぐっと我慢して一人一人丁寧に対応しました。 その結果ですが、大半は自分の思い込みを認めてくれました。中には己の口汚さを恥じてかツイッターから退かれる方が出ました。気にしなくても良いのにね。
バトルは12時頃にど終わりましたがリアルでご覧になった方もおられるかと思います。思わぬ副産物もありました。お陰様でフアンが増えたのです。(笑) ストレスきついや。下の絵は逃亡された痕です。
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『もうまったなし』
寒く厳しい冬でしたね。お前が何故分かる? と怒られそうですが2月17日の早朝より降り出した雪に直撃されましたよ、私。震え上がりました。
前夜、ロスを発つときは摂氏二七度でした。調子よく薄着で機内に乗り込み、そのまま羽田で放り出されたのです。幸い航空機会社のお姉様の好意で暖かいセーターを用意していただき、航空機会社のカウンターに返す約束をしたのですが、脱いだりして風邪を引いたりしてはいけませんと、
「そのままお持ち帰りください」 と言っていただきました。人徳ですかね。辛いなあ、僕は。ええ、年寄りには日本人はみんな親切なんだって? 嘘でしょう! 写真を見てください。はげっチョロケの芝生です。いよいよやってきました。先祖返りです。ロサンゼルスは元々が砂漠地帯でした。そこに家を建てました。石油が掘り出され、多くの企業を招き発展してきました。
郊外には大農業地帯が広がります。それには積雪地帯から水を引かなければなりませんでした。水路に成功するとカリフォルニアは大農園地帯になり、アメリカ全土の穀物や野菜、果物を一手に生産するようになりました。それは豊富な水が引けたからなのです。 ついにカリフォルニア州知事は二五パーセントの節水制限を命じました。雨頼みですが降っても乾いた土地は地下にすいこむことなく水は海に流れ出ます。これを阻止するためには巨大な貯水池を作るか、新たな水路を作って積雪地域から水を運ぶことです。残るは海の水を真水に換える技術の大型化です。これには日本の技術が必要です。
ジェリー・ブラウン加州知事は先の選挙で水対策を訴えていました。ひからびる前に帰国したいです。カリフォルニア州に必要なのは豊富な水であってしょうもない銅像ではありません。しまいめにまじめなアメリカ人が怒り出します。地方のアホ市長がどこかから銭をもらって銅像など建てていたら怒った農民に焼き討ちにあいますよ。保証します。
ハゲた芝生。朝夕に水をやれないのです。いずれサボテンに変わるでしょう。
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『間違っていたのか』
まだ走れる頃でした。ランニングをしていてふと目に入ってくるのはチャリンコに乗って遊んでいる小学生でした。見るとサッカーや野球の落ちこぼれです。みんな顔見知りです。「サッカーはどうした」と声をかけます。
「やめちゃった」 「どうして」 「面白くないんだもの」と答えが返ってきました。答えはどの子もみんな同じです。サッカーや野球の練習を見に行きました。これでは面白くないと思いました。サッカーならシュートです。野球ならホームランです。それをサッカーではドリブルとパスばかりやらせていました。野球は素振りと守備練習。しかも怒鳴り声つきです。 「ラグビーやらないか」は自然と口をつきました。みんなやるともやらないとも言いません。しかたなく息子と二人でボールを蹴り始めました。気がついたら五〇人にもなる大所帯になっていました。
子供を指導するのに掟としたことは依怙贔屓をしないことでした。とりわけ厳しく当たったのは息子です。これには私の見聞があります。某国のラグビーチームの監督は父親がしてました。息子を国の代表に選んでしまったのです。この依怙贔屓は選手の気持ちを萎えさせてしまいました。それを見ていましたのでことさら私は自分の息子には厳しくあたりました。割を食わせたのですね。それが原因なのか私と息子にはしこりが残って長く溶けませんでした。息子は思い出したくないのか祖国日本とも疎遠になるようでした。 何十年ぶりか息子が一人、育った神奈川に帰りました。かつての仲間と会っているはずです。でもなんの頼りもありませんでした。やがて日本を発ってこちらに帰る時、一つのメールが届きました。それもローマ字です。日本語が走らない成田空港備え付けのPCから打ってきたのです。
「ロス到着は遅れる。嵐襲来。みんなに会った。涙涙の再会だった。日本万歳」 とありました。 「間違っていなかった。おまえには苦労かけたな」 とつぶやくと長い戦いに一息ついたと胸が一杯になりました。 みなさん、今日も一日がんばってね。写真は不忍池の桜です。日本です
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