馬場信浩(龍造寺 信)のブログ

ブログ始めました!龍造寺 信は馬場信浩の筆名です。よろしく。

日記

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『非常識野郎』

      『非常識野郎』

 九月十四日の早朝でした。日本との交信・交流のため朝4時に起きていた私は、6時を少し回ったところで車のクラクションに驚かされました。これよくあるんです。マンションの窓がシャシャと開く音がします。まだ惰眠をむさぼりたい日曜日の早朝です。住民は舌打ちしているんです。しかし、誰もとがめようとしません。後難を恐れて沈黙してるんですね。
 なおもホーンが執拗に鳴り響きます。見ますと男が車をいじっています。こいつが音の犯人です。泥棒ではなさそうです。どうやら自分の車のクラクションをいじって動作を確かめているようです。

 ようよう三階から「Fuck!」とののしる声が聞こえました。みんな起き出したようです。しかし、「止めろ」という声は上がりません。傍若無人に男は音を鳴らし続けます。ここまでです。駐車場に躍り出ました。

「Hey! Stop.(おい、止めろよ)」と声をかけます。
「なんでだよ。俺の車が故障してんだ。お前なおせんのか」
 と男はきました。私、これでブチきれました。後はブロークン英語で、
「この野郎、ぶっころしてやろうか。今、何時だと思ってんだ。てめえのどたまはりたおすぞ!」
 さんざ怒鳴り上げて証拠にと車と本人の写真を撮ってやりました。
「なんで写真を撮るんだ」
「うるさい。証拠だ。このバカ」
 とやってやっとクラクションを止めさせました。男はむくれていましたが、作業を止めました。それを見て安心したのか住人達のサッと窓を閉める音がしました。ア〜ア、誰も助けてはくれない。これが人の世の常だな。お前らには集団的自衛権は発動しないのか? と愚痴りながらオイラはまたやっちまったか、と自己嫌悪。
 でも御同胞よ、間違ってますかいオイラ!

                   朝からうるさかった車と非常識野郎
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       『現代の刷還使』を切望す!

 その昔、秀吉麾下の軍勢が朝鮮半島を攻めた時、連れてきた朝鮮の捕虜がおりました。その捕虜を徳川家康に還せと朝鮮が言ってきたことがありました。それこそ日本に強制連行された人達です。中には使役のためだけに連れてこられた人達もいたでしょう。しかし、大半は腕に技術を持った人達です。有名なのは陶工と儒家です。陶工の名は九州、中国地方に今なお残しています。

 第一回目の刷還使(回答兼刷還使)がやってきたのは慶長12年(1607年)でありま...した。どっと約三千人が帰国したのです。そして二度目の刷還使がやってきた時は、帰国者数が激減します。遂に三度目で刷還使は中断されてしまったのです。捕虜が帰りたがらないのです。理由は帰国しても優遇されないのが分かったからです。特に儒家は冷遇されました。敵国に仕えた儒家など相手にしてもらえなかったのです。

 朝鮮陶工は別格です。長州藩では朝鮮陶工を士分として遇しました。薪を求めて放浪する必要をなくすため薪山をあてがいなどして優遇したのです。これは白丁(奴隷)の身分であった陶工にとって驚くべき厚遇でありました。誰が帰りたいと思うでしょうか。
 刷還使達は「日本残留の朝鮮人は日本大名に脅されているか、あるいは甘言でつられているかだ」と本国に報告しています。しかし、実体は、もう子供達は朝鮮語を忘れ、日本での生活に慣れている。これから本国に帰っても苦労するだけだ、というのが圧倒的理由だったのです。中には朝鮮に帰ったものの差別に耐えきれず、再び日本に入国した者もいたと言います。この話は400年もの昔の話しです。

 どうでしょう韓国政府さん、「現代の刷還使」を差し向けて強制で連れてこられたという在日の方々の帰国を促していただけませんでしょうか。400年前と違い、国力を増し日本など屁のカッパになり差別のなくなった韓国なら喜んでお帰りになると思うのですがいかがでしょうか。

                          親しく日本人と鶏の取り合いをして親善を深められる朝鮮通信使
 
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     『四十年ぶりの集団的自衛権』

 今から十年ほど前。四十年ぶりの中学同窓会に行ったときのことです。とりわけ私に良くしてくれる友がおりました。理由がわからないのです。私の会費は彼が払い、ホテル代も負担してくれ、土産を買って帰れと小遣いまで手渡そうとするのです。どれも要らぬと辞退したのですが、あれもこれもみんな支払い済みでした。
「こんなにしてもらう理由がない」
 そう言ったとたんです。
「あるねん。黙って受けてくれや」...

 十九 歳の頃でした。京阪京橋駅の片隅で、その友は恐喝を受けていました。中学を出て働きに出た彼は家族のために懸命でした。そんな彼が、100円、200円とチンピラにむしられていたのです。たまりかねた彼はとうとう断ったのです。と、お決まりのリンチです。通りがかった私は放ってはおけませんでした。
「やめたれや」と入ったのですが相手は二人です。
「なんやねん」と矛先は私に。とっさに左を放っていました。のけぞるのを見て鼻ぱしらに右フック。うずくまる相手。もう一人はすでに逃走。
「はよせんか」と友をやってきた電車に乗せてトンズラこきました。京橋には週二回、ボクシングの練習に通っていたのです。プロボクサーへの夢は捨てられませんでした。でもこの日で夢は捨てました。ケンカをしたらアカンのです。

「あれから、俺、ダンプの運転手になってん。それまであった俺の劣等感が消えた。一段高い運転席から世間を見たら気持ちがエエねん。運送会社もこしらえた。仕事も上手いこと行った。落ち着いたら、お前のことが思い出されてきたんや。お前が助けてくれなんだら今日の俺はあらへん。勇気をもたなアカンと教えてくれた。お前に会って一言、言いたかった。でも、お前はキラキラしてるがな。もう見向きもしてくれへんやろ。会えるだけでええわ、そう思って今日を待ってたんや」
「なんも変わるかい。河内のヤンチャのまんまじゃ」
「ほんまか。うれしいなあ」
 故郷河内の夜は更けて、夜空には本物のキラキラ星が輝いていました。

 七月一日、集団的自衛権が閣議決定した、と聞いて古い話を思い出しました。こんなんが集団的自衛権の基本と違いますのん?

            臨時閣議に臨む安倍首相。右端は太田国交相(7月1日午後、首相官邸)
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『青空マーケット』

    
『青空マーケット』 

 今日は朝から曇天。七時に家を出て近くの青空マーケットへ。知人達がちょっとした小物を売り出すのです。
 家にある小物を出す人。この日のためにせっせとキルトを作ったりする人。ちょいと商売気のある人は装飾品を仕入れてきたりするのです。等々ですが、たいした物は期待できません。でも、なぜか心が躍るのです。

 今、使ってはイケない言葉だと思いますが、故郷の枚方に「めくら市」というのがありました。夏に一晩、旧街道筋に立つのです。アセチレンの灯りで商い...をするので売られている品が良く見えない。翌朝、トンデモナイ我楽苦多(がらくた)だったと気がつく。そこからつけられた名称だと聞きます。現在は使えませんね。でも、今どんなマーケット名になっていても私にあるのは昔の名称です。夏になりますと、風鈴の音と軒下のヘチマの鈴なりとともに、ふと古市のアセチレンのニオイがよみがえってくるのです。

 さて、さすがにアセチレンはありませんでしたが、ガラクタはありました。おつきあいです。いくつか買ってみました。締めて7$。
「ハーイ、ババ。私の娘よ」
 と紹介されました。隣人タルバートさんのお嬢さんです。お母さんは白人です。お嬢さんは黒人。タルバートにどんな物語があったのだろう。どんな喜び、苦しみがあったのだろう。いろいろ想像が広がります。そんな自分の性惰が嫌いではありません。午前中、想像の中で過ごせました。気がついたら買った物をどこかに忘れてきていました。

                                         タルバートの娘さんと
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『寒シジミ』

       『寒シジミ』

 もう薄れかけているのですがいきなり思い出されてきました。
 それはシジミを売りに来た女の姿でした。当時住んでいた枚方のあばら家の軒先に腰掛けて休んでいるのです。疲れて髪はパサパサ。肌にも艶はありませんでした。そのうち家の土間に入り、
「シジミを買うてくれへんか」
 と母に言うようになりました。内職をしていた母には買う余裕はありません。で、断っていました。...
 やがて土間にある井戸に目をつけた女は使わせてくれと言い出しました。何をするのかと見ていますと取り立てのシジミに井戸水をたっぷりかけてやっているのです。
「カルキの入った水道水ではアカンのよ」と言っていました。

 その女と母はいつしか話し合うようになっていました。学校から帰ると時々、女が縁側に腰掛けているのを見かけました。二人で俳句の話をしていました。このおばさんがと意外でした。
 淀川の河畔を散歩中、おばさんのシジミをすくう姿を見ました。まだ寒い頃です。腰まで水につかりながらシジミ篭を引いているのです。一掬いいくらも入っていないのです。「冷たないか」と声をかけました。おばさんは無言でした。

 それからしばらくして母にシジミ汁が食べたいと言ったことがありました。ふとおばさんを思い出したのです。母は何も言いませんでした。ざる一杯五円だったのですが買えなかったのです。ところがです。夜にはシジミ汁が出たのです。
「どうしたん。買えんと言うてたやん」
「軒に一篭置いてあった」とだけ母は言いました。「食べや」と紙がそえてあったそうです。紙の裏に「寒シジミ 身を切る水の 底深く」とも。

 やがておばさんの姿が枚方から消えました。朝鮮動乱が始まったのです。噂ではおばさんは淀川の河床から金属をすくい上げ売るようになったのだそうです。シジミより儲かったのです。
「羽振りがようなってな。私らを見ても声もかけんわ」
 と母は言いました。僕はその日からおばさんのことを忘れようと思いました。シジミを洗いながら俳句をひねっているおばさんでいてもらいたかったのですね。

                                    シジミすくい(写真は本文とは関係がありません)
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