馬場信浩(龍造寺 信)のブログ

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ラグビー酔話

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      『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

  少しお休みさせていただきました。またよろしくお願いしますね。

「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」という映画が今、話題ですね。大ヒットで記録を塗り替え中とか。映画が好きな私なのですが、最初の「スター・ウォーズ」から今まで一本も見たことがないのです。理由は単純です。「スクール☆ウォーズ」こそ私の覚醒だと思っているからです。これ嘘です、冗談ですよ。
 私、あの手のSF物は苦手なんです。キャラクターを設定すればどんなストーリーでも作れちゃう、というのが先ず頭にきてしまいますので、で受け付けないんです。
 
  今日はそんな話ではありません。
  私に娘がいます。目に入れても痛くないという言葉がありますが、その通りに育ててきたつもりでした。それがある時、鳶に油揚げのようにある男が現れ、娘はその男が好きになり、さらわれてしまったのです。私の悪態の付き方は常軌を逸していました。
 そして十数年音信が切れてしまいました。娘は十八歳までのイメージでストップさせました。それ以上は思い出さないようにしたのです。高校生の頃、可愛く美しかった姿で終わりです。こうするしかありませんでした。
 
 ところがです。SNS(フェイスブックやツイッター)はその一五年の歳月を飛び越えさせてくれたのです。孫娘が生まれていたんです。孫の動画が送られてきてハートを揺さぶられました。
 「暮れにディズニーランドに娘を連れて行く。会えないか」
  とメッセージが娘から届いたのです。ただし、条件がありました。一五年前と同じ感情でいるなら会わない方が良いというものでした。もちろん亭主も連れて行くとのことでした。
 
 その昔、娘が彼氏を連れて来た時、
「映画の仕事をしている? どんな部門だ」
  と詰問したことがありました。彼は美術を担当していました。映画美術とは、つまり撮影用の背景描きだと思いこんだのです。その瞬間、私になーんだという蔑みが生まれたのです。私の知る映画の美術屋さんってろくな技術をもっていなかったからです。それともっと映画作りのコアな部分(演出、脚本、企画、プロデュース)で関わり合ってもらいたかったのです。それが私の表情に出たのですね。それっきりでした。娘は彼氏とサンフランシスコに去っていきました。そこにあるルーカス映画スタジオに職を得たのです。それからどんな苦闘があったのか知りません。
 
 スタジオでは「スター・ウォーズ」の美術を担当し、それなりの実績を上げていたのです。知りませんでした。
 「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」ではエンドロールに美術スタッフの一員として名前が載るようになっていたのです。MASAHIKO TANIが娘婿の名前です。探しにくいかも知れませんが見つけられたら日本人で頑張っているのが居ると認めてやってくれませんか。
 
 去年、多くの友人からプレゼントをもらったのですが、これは私にとって最高のプレゼントになりました。孫娘は娘の小さかった頃を思い出させてくれました。娘からこんなプレゼントがもらえるとは思ってもいませんでした。
  その夜、娘夫婦と寿司を食べておやすみなさいと分かれました。今まで食べた寿司の中でもとびきり味が心にしみいるものでした。私のわだかまりは消えました。後は娘にかけた重圧をどう取り除くかにかかりました。それには孫娘を可愛がるしかありませんね。どうでしょうか。そして許してもらえるなら人生捨てたものじゃないですね。
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『あきらめるな』

     『あきらめるな』

 息子が少し長い日本滞在から帰ってきた時のことです。
 土産話が途切れたのでコーヒーを煎れて一息継いでいました。と、
「子供だったけど人間扱いしてくれた、そう言ってた」...
 とつぶやいたのです。何の話か分からなかったのですが、昔、息子達がラグビーを楽しんだ時、主将にしていたヒデという子の話でした。子と言っても今はもう四〇前の大人です。その子が私のことをそう言ってくれたのです。
 私はけっして良い指導者ではありませんでした。孫の手でお尻をパチンと引っぱたく指導をくり返していました。他の子より主将は倍です。息子は割を食って三倍の尻パッチンを食らわせていました。第一の理由は、指導を開始した時期が遅く、他のチームに追いつかなければなりません。それにサッカー、野球の落ちこぼれを集めています。ずいぶんと厳しかったでしょう。今は子供達にすまないことをしたと反省しています。まあ、その結果、チームを結成して半年で県大会三位ですから許して欲しいのですが。(笑)
 ヒデを主将に据えた時、他にもっとリーダーになれる子はいないのかと思ったものです。ですが、やはりこの子にしようと決断したことがありました。それはこの子の変化です。それまではぐうたらな子供でした。チャリに乗って遊びまくっていたのです。ところがわずか数ヶ月で目の色が変わりました。夢中になっているんです。
「あきらめるな。ボールを最後まで追え」
 これが私の口癖でした。ラグビーは人生のすべてに通じるから、と口を酸っぱくして言ってました。ある試合でボールがこぼれて転々としました。追いかけてボールに飛び込んだのがいました。ヒデでした。追いついてきたフランカーが相手を押し込めハーフが球を出すという一連の理想的な動きをやって見せてくれたのです。これは相手チームからも絶賛されました。偶然かも知れません。でも涙がこぼれました。
 多くの指導者達は子供達のやる気をボキボキに折ってくれます。ヒデも中学に行って折られてしまいました。私と再会した時、やる気をなくしていたヒデは漫然と高校生活を送っていました。
「将来シェフになりたい。なのに物理や数学が要るのか」
 と問うてきました。私は黙って聞いていましたが、
「物理や数学がなんだ。やりたいことがあるのなら苦手を乗り越えろ。あきらめるな」
 そういった覚えがあります。どう受け止めてくれたかは分かりません。
 あれは決勝に出る試合に負けた時でした。整列させて、
「ヒデ、前へ」
 と命じました。みんなは負けて尻パッチンではなく本当にビンタを食らうと思っていたらしいのです。父兄に緊張が走ります。そんなことはしません。やったらドラマの見過ぎです。私の書きすぎです。負けた言い分けはいくつもありました。でも、負けは私の責任です。
「みんなご苦労さん。いやな監督に、良くついてきてくれました。さあお前達のキャプテンに拍手だ」
 ヒデに前をむかせ後ろから羽交い締めにしました。そして「ヒデ、ありがとう」と言ってました。ヒデは泣きじゃくっていました。

  「俺、会ったらまた泣くだろうな」
 とヒデは息子に言ったそうです。聞いていて喉が詰まりました。
 そのヒデが今、神奈川県藤沢市辻堂で近江牛レストラン「ひゃくいちや」を任されています。あきらめずに目的を追いかけた結果ですね。
 お近くに行かれることがありましたら覗いてやってくれませんか。

 日本料理店・ステーキ専門店「ひゃくいちや」
神奈川県藤沢市辻堂元町3-15-25 (店長酒井秀和)
 +81 466-33-1013
  https://www.facebook.com/hyakuichiya

『バーベキュー大会』

     『バーベキュー大会』

「何やってる。しっかりボールを取れ」
とラグビーの練習で怒鳴ったことがありました。ラグビーでボールを前に落とすことをノックオンといいます。これは味方にとってガッカリする失策です。敵ボールになってしまうからです。

  ある少年にそれが頻繁におきました。ついにたまりかねた私は少年の拳をつかみました。少年は堅く握って指を開きません。「明けろ」と無理やり開かせました。アッ、そこに見たのはひび割れ、血の付着した手のひらでした。皮膚が引きつってまっすぐ指が開けないのです。
「お前」
私は思わず少年の手を握りました。肌がかさかさです。これではボールがすべっただろう。それだけではなくボールを受けるのが痛かったろう。取れないのは当たり前だ。そんな子になんと心ない言葉を吐いたのかと自分を殴りつけたかったです。
「すまんかった」
「ううん」

 この子の手はアトピー性皮膚炎だったのです。原因は食生活にあると見た私は、
「さあ、バーベキュー大会をやるぞ」と子供達に声をかけました。
「おにぎりも作る。家から、お米をワンカップ持ってきてくれ」
とやりました。それには主将ヒデの母親から待ったがかかりました。
「馬場さん。持ち寄りの米では美味しいおにぎりは作れません。私が買ってきます」と申し出てくれたのです。さあ、それからです。男親達は炭の買い出しからドラム缶の横割り(バーベキューの炭釜造り)とみんな総出でバーベキュー大会の準備をしてくれました。主将宅の座敷にはおにぎりが数百個並びました。
花火大会、肝試しと楽しい夜が更けていきました。

「みんな親の助けがなければできなかった。特にお前の母ちゃんの助けがなくてはな」
2月20日、私はその当時の主将ヒデにいいました。すると、
「やっと突然のバーベキュー大会の意味が分かりました」
とうなずきました。ヒデこと酒井秀和はレストラン「ひゃくいちや」のシェフになっていました。
 2015年2月18日は私の朝日新聞訴訟の訴状提出日、
「母ちゃんの命日だから、その日、母ちゃんはカントクと一緒に行ってると思う」
とヒデは連絡を寄越しました。私は泣きました。
 この話を原告団にしますとみんな粛然となりました。俺一人の戦いじゃないんだ。多くの仲間と一緒に戦うんだとそう決意しました。みなさん応援よろしくね。

     「ひゃくいちや」のシェフ酒井秀和です。ごひいきに。
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『天よ! 何をする』

     『天よ! 何をする』

 戸嶋秀夫を召した天よ、今度は井沢義明を連れて行くのか。井沢を召すのなら俺が代わる。もうなんてことをしてくれるんだ。

 先ほど谷藤尚之さんから連絡をもらいました。まだ詳細は分かりませんがあの名フランカーが亡くなりました。
...
「俺だけ怒るんだよな。怖かったな」
 ニュージーランドのウエリントンへ向かうバスの中で井沢義明は、大西鐵之祐さんの背中を見つめながらつぶやきました。
「最も怖かった思い出は?」
「……ジャージーを試合前夜に大西監督から渡されます。灯を落とした部屋に呼ばれ死ぬ気がなければジャージー返せ、と言われたのです。怖かった。震え上がった」
 それはどの試合でのことですかと聞くのも忘れて呆然としていました。
 あのオールブラックスJrを破った試合の前夜だろうか。六対三で負けたイングランド戦でのことだろうか、ある早明戦でのことだろうか、とあまりのすごさに聞き忘れてしまったのです。

 いずれ聞こうと思って年月が経ってしまいました。今、強烈に後悔しています。なぜ、聞かなかったのだろうかって。そして思い直しています。きっと井沢さんは残しておいてくれたんだと。

 井沢さん、今度、そちらに伺った時、じっくりお話聞かせてください。長くは待たせません。 
 
                                                        突進する井沢   
                                                         
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     合掌!
馬場 信浩さんがリンクをシェアしました。
     『信じられない。彼が逝くなんて』


 ウェールズ戦の原稿を書き終えて読み返し、もうこれで良いかと思ったのですが、アッ、欠けている、と気がつきました。もう一人の選手がいたのです。それは戸嶋秀夫でした。彼はウェールズ最終戦の選に洩れたのです。その口惜しさはどうであったのか。もう、いてもたってもいられません。周りからの取材です。本人には内緒の隠し球にしました。これには理由があります。テストマッチに洩れた選手はその気持ちを率直に言いません。そして最終戦に15人を送り出すの...はどんな心境でしょう。多くの取材でその口惜しさは知っていました。それをどう書くか。

 戸嶋は一人一人に頑張ってくれと送り出していたのです。どんなに出たかったろうと思いました。戸嶋は泣いていたと思います。
 拙作「栄光のノーサイド」が出て数日後、秩父宮のスタンドで、
「馬場さんですね」
 と声がかかりました。振り向くと戸嶋秀夫君でした。彼は怒っているだろうと思いました。ところが、
「本、読みました。俺は書けません。でもあの通りです。俺は出られませんが、代わりに戦ってくれと祈って送り出しました。ありがとうございました」
 と言ったのです。私は思わず涙ぐみました。

 ウェールズははるかに遠くなりました。今残るのは秩父宮で固く握ってくれた戸嶋秀夫君の手のぬくもりだけです。

 さようなら、戸嶋秀夫。もう会えないね。先に逝くなよ。                                       合掌

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140629-00010001-rugbyrp-spo

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