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『親父のカレー』
親父の作るカレーは正直言って美味くなかったです。単純シンプルを絵に描いたようなカレーで、ちょっとグリーンピースを数個のせているだけでした。それでも食べるものがない時代はお代わりをしたものです。
親父は調理師で免許を持っていました。出身は三重県鈴鹿にあった航空隊の炊事兵です。長じてきますと学生食堂のカレーの方が美味いと思うようになります。家で食事をしなくなった私は親父の作るカレーの味を忘れて行きました。 映画『雁の寺』で主演をした友人高見国一君が家に遊びに来ることになりました。たまたま映画のロケ地が親の実家の近くだったのです。
「親父さん、お袋さんに挨拶に寄る」 と言い出したのです。仕方ありません。 「これから寄っても良いかな」と母親に電話しますと、 「何にも食べるものがないがな。ビールはお父さんの買い置きがあるけど」 それでええわ、と寄ることに。 初対面の挨拶がすみますと屈託なく話しかける高見君に親父は気後れするのか黙りが続きました。空腹をビールで満たすことはできません。急いで用意をしてくれている魚や肉が上がってくるまで、
「どうやカレーライスでしのいでみたら」 と母親が言いました。そんなもの出すな、と言おうとしたのですが、友人の高見国一が、 「カレー下さい。食べたい」と遮ったのです。 もう気が気ではありません。親父の料理の腕は一〇年一日のごとく進歩がありません。親父のカレーを食べて美味いと言うはずがないからです。と、
「生卵をくれませんか」 と高見君が言ったのです。隣は養鶏場でしたからいくらでも買えます。高見君、ポンと卵を割ってカレーの上にかけました。そしてスプーンを使っていたのですが、 「懐かしい。千日前のカレーや。夫婦善哉、織田作のカレーや」 と叫ぶように言ったのです。親父ののど仏が上下します。なんのこっちゃ。 「馬場、お前は河内やから知らんやろけど、おれらはこのカレーで休日を楽しんだんや。親父さん、懐かしいわ」とパクパク食べ始めたのです。 親父の目が真っ赤です。さんざ私にまずいと酷評されたカレーを私の友人は美味いと言って食べているのです。 親父が作っていたカレーは真性のカレーだったのですね。大阪の老舗レストランで出しているカレーです。タマネギとビーフだけの具。しかし、それこそ本物のカレーだと言わんばかりに親父は作っていたのです。知りませんでした。
「お前はええなあ。大阪千日前のカレーがいつも食べられて」 と高見君は言いました。その夜は親父も良く呑みました。明け方まで三人で呑んで泥酔。夢にまでカレーが出てきて往生しました。 この二人、親父も高見国一君もこの世にはいません。今頃、どこかで親父の作るカレーを高見君が食べているだろうと想像しますとちっとうらやましく思うことがあります。
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小品集
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『五百円札』
今はもうないと思いますが五百円札というのがありました。インフレ抑制策のために作られたと聞きます。インフレにどんな効用があるのか知りません。ところが五百円札では効果がなかったから後に硬貨になったとか。親父ギャグです。
雨の降る夕方、学校の帰りに天ぷらを五人前買って帰るよう母親に言われてました。関西医大牧野病院の前に天ぷら屋さんがありイカ天、イモ天、アジの揚げたのを買って五百円札を出したのです。天ぷら屋の爺さんは強度の近眼。釣り銭に注意するより新聞紙にくるんだ天ぷらの方が気になり確かめもせず歩き出しました。しかし、すぐに気がつきました。ポケットの膨らみが違うのです。貧乏人の子ですからそういうのはすぐに分かります。で、確かめてみました。七百三十円ありました。...
「千円札と間違えよった」 返すのは明日にしようかと思ったのですが、雨の中、元来た道を戻りました。 「おっちゃん、おかしいで」 と店にいる近眼爺さんに声をかけました。爺さんには釣り銭にいちゃもんをつけに戻って来た高校生に見えたんでしょうね。 「なんか文句あんのんか」 と声がとげとげしい。何をと唇をとがらせそうになります。そこを押さえて、 「うん。ちょっと多いねん。千円札と間違えたやろ。僕が出したんは五百円札や」 「あっ……」と絶叫に近い声が飛び出します。五百円札を返しました。 「おい、またんかい」 「なんか用ですか?」 「売り物やないけどな家族用にタラの芽揚げたんや。もって帰れや」 と新聞紙にもう一つくるんでくれました。タラの芽というのを当時の私は知りませんでした。くれるもんはありがたく頂戴して帰りました。 「信浩。これどないしてん。タラの芽やないか」
と母親になじるように詰問されます。ちょろまかしてきたと母は思ったのでしょうか。お前、自分の産んだ子を信じろよと言いたかったです。 「天ぷら屋のメカンチがくれよった」(差別用語です。当時平気で使ってました) 「ほんまかいな」 家族でいただいたのですが美味でした。珍しい物だと父も母も言いました。翌日、母親が礼に寄りますと、 「雨の中、五百円札や。タラの芽なんかナンボのもんや、てメカンチ泣いとったわ、意味わからへん」 よく分かるじゃないか、母ちゃん。 二十年後にその店の前を通りましたが跡形もありませんでした。今、日本はタラの芽の旬ではないですか。食べたいなあ。
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『床屋のサブ』
まだあるかどうか知りません。故郷の枚方に【式田】という散髪店がありました。同級生の父親が経営しておりました。同じクラスになったことはないのです。しかし、どことなく虫の好かない奴で式田三郎が彼の本名でした。仲間からは「床屋のサブ」と呼ばれていました。
校内マラソンに出た時のことです。私は短距離選手の父親に似ず、短距離は苦手でした。が長距離は母親に似たのか得意としていました。3kmほどのコースを走るのですが途中の起伏が激しくけっこう泣かされました。4年生、5年生と走ってコースを飲み込んだ私は6年最後の校内マラソンに賭けていました。...
冬のある日、一斉に校門を飛び出しました。集団がバラケますと後は先頭を行く五人を追いかける展開になりました。ここはじっくり追うことだと言い聞かせました。 1kmを過ぎた辺りでした。前を行く少年が石につまずいたか腰を落としたのです。見るとサブです。汗を額にかいています。まだ元気そうです。しかし、うずくまったままです。追いつくと、 「立てんのか」と声をかけました。 「……」 返事がありません。嫌な奴だなと思いました。 「座り込んだら立てんぞ。そうなったら走れへんで」 と立つようにうながしました。しかし、弱々しくクビをふるのです。 「立たんかい。男やろ」 そう言ってお節介にもクビのシャツを引き上げました。サブは立ち上がりました。それを見て私は先行組を追いかけました。そのせいか先頭集団に追いつけず、その年も負けてしまいました。 後年、やっと食っていけるようになって故郷へ墓参り。その時、どうしてるかなと式田散髪店に寄ってみました。店番をしている爺さんがいました。その人がサブの父親でした。顔を当たってもらう頃に話しかけました。
「サブは元気ですか」 返事がありません。 「同級生なんです」 「…死にました」 まだ30をいくつか超えた歳でしたので人の死にはなれていませんでした。カミソリの刃がなければ驚きで飛びはねていたと思います。そこでマラソンの思い出を語りました。聞き終えると爺さんは、 「あなたでしたか。中学へ行って、高校へ行って、マラソンがあるたびに話しをするんです。助けてくれた奴がおったと。名前を言わんのです。何でかなと思ってました」 「きっと僕が嫌いだったんですよ」 「まさか。あなたに見てもらうんだって駅伝の選手になったんですよ。そして区間優勝を果たした翌日、突然死をしたんです。死因はわかりません。どこも異常はなかったんです。今日、来てくれはったと報告しまっさ。よう来てやってくれました」 線香を上げさせてもらい多くを語ることなく床屋を去りました。あの時、声をかけなければ早死にさせることはなかったのではと長く苦しみました。今も、その思いは消えません。でも、もうすぐや、待っとれよ、サブ。今度は天国で一騎打ちじゃ。 写真は枚方マラソンから借りました。本文とは関係ありません。
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『鹿笛の聞こえる夜』
「上手くいったら家族で一緒に暮らせるねん」
と言うので両親について行きました。冷たいみぞれの降る晩でした。下の妹を母と父がかわりばんこに負ぶって私と妹が手をつないで後を追います。腹が減ります。父と母が何を考えているか分かります。親戚の家に夕食時にたどり着いて夕飯をいただく。そして借金を申し込むのです。
「村で蔵を見つけた。そこに住むのに七百円要るねん。貸してくれへんか」 と一軒目の親戚で父が切り出しました。けんもほろろに断られて追い出されました。二軒目は母方の親戚でした。そこも無言で迎えられ放り出されると伯母の声が聞こえました。 「子供を連れて来たら借りられると思たんかいな」
これは私の肺腑をえぐりました。妹たちに聞かせたくなかったです。暗くなった道を駅に向かって歩きます。住んでる小屋に戻っても食べる物はありません。父と母はどうするのだろうかと思ってました。 戦争で夫を亡くした母、大阪爆撃で妻を亡くした父。そんな二人が親戚中から猛反対されながら再婚したのです。私もこの義父がいやでいやでしかたありませんでした。意地っぱりの母が実家を飛び出し着た切り雀のような男と女が所帯を持つ。しかも子供が三人。絶望的な出発でした。
薄暗い枚方市駅前にたどり着きました。空腹はピークでした。下の妹は三歳です。わけもなく泣き出します。風も出てきました。屋台の支那ソバ屋の前を通ります。醤油の出汁の匂いがします。もう情けなくて。その時、
「おい、久保とちゃうんけ」 と暖簾の向こうから声がかかりました。久保とは父の姓です。 「オッ、遠山」 と父が応じます。父が遠山と呼んだ男は戦闘帽をかぶっていました。後に知りますが屋台の主は父の戦友だったのです。父の目に不思議な色合いが浮かびます。助かったというのとみすぼらしい姿を見られたという戸惑いです。 「食べていけ」と戦友の遠山さんは言いました。 「いや、けっこうや」 と父は強がりを言います。その見栄に腹が立ちました。とたんに私の腹がグーッと鳴ったのです。 それから私たちは鳴門とシナチクだけのソバを汁まですすりました。 その後、父は大阪アベノ周辺で支那ソバの屋台を引いて商売をするようになりました。一度だけ母とその姿を見たことがありました。下手なチャルメラを吹いて遠ざかる父を思い出すたびに瞼が濡れてきます。
写真は私の後輩岡田桂子さんからいただきました。冷たい奈良の歩道を鹿の家族が歩いて行きます。どこへ行くんでしょうね。鹿たちには食事を知らせる鹿笛が聞こえているのでしょうか。無事に寝床へつけよと声をかけたくなりました。
奈良へ行かれたら「おちゃのこ」という店に寄って「鹿はどうなりましたか」とお尋ねくださいませんか。「おちゃのこ」は私の後輩が経営しているカフェです。 |

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『見ていてくれたか』
寄りに寄ってこんな時期に訪日したのかとは思います。
解散するかもとの報を聞いたのはロスから羽田へ向かう機中ででした。これで政治家とは誰とも会えなくなると危機感を持ちました。 早朝、羽田を出た私は一路。九州に向かいました。そこでの懇親会に出席するためでした。この懇親会は楽しく終了しました。しかし、東京へ電話を入れると慌ただしい政局に我々の報告と今後の方針を告げることができませんでした。
七日後、全ての日程を終えた私は訪日は無駄であったかと失意のまま荷造りをしていました。はて、忘れものはないかと考え、ハッとなりました。イカンッ。忘れるところでした。市ヶ谷のホテルから急ぎ九段へ。
靖国神社は参拝をされる方々で賑わっていました。参拝を日程の最後にしたことと忘れかけていたことわびました。神社内には秋鳥の啼く声がこだましていました。その声は父や伯父の声かと耳をそばだてました。
靖国から帰るとロビーで御茶を飲んでいました。トロッと眠りに誘われました。どれだけ眠りに落ちていたか分かりません。誰かが呼ぶ声がします。目を開けました。まさかです。今回帰国の目玉、某議員の秘書が立っていてくれました。
「どうかなさいましたか」と思わず聞きます。 「お帰りになる前にお話しを伺おうとやってきました」 もう後は夢中でしゃべりまくりました。すでにメールで知らせてあるのですが一年間の活動報告です。そして今後の支援を依頼しました。 選挙は水物、どうなるや分かりませんが、私なりの活動をやっていこうと思ったものです。そして糸を切らずにつなげてくれたのはさっきお参りした英霊たちのお計らいかと去って行く秘書殿の向こうにある靖国神社に深く頭を下げていました。 十一月十八日の靖国神社です
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