居 ミカの田中模索

なかなかお返事書けなくてごめんなさい。ちょっとずつお伺いいたします。

日本

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日本って、どんな国でしょう?
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せっかく東京に行ったから、どっか観光に回ろうと思って、考えてみました。
そんで、泊まるホテルの周辺図見たら、なんと、靖国神社がすぐそばではないか。
そうだ、ここに行ってみよっと!

で、行きました。初めてです。
近くにある大学の卒業式だったみたいで、周りには、振袖に袴の若い女性がたくさん。なんか、いいムードでありますぞ。
すごくでっかい鳥居をくぐると、正面に大村益次郎の銅像がそびえたつ。はは、鳩なんかにとまられてる。かたなしだね。
桜など咲いておりまして、なかなかキレイな所であります。
結構お年を召したおじい様が写真を撮っておられたり、三味線で「日本男児」を弾いてたりする。うむむ。なんか、それらしい。外人さんも、結構多い。
お社は、大きくて立派です。お参りしたあと、遊就館に行ってみた。もともとのは、確か、焼けたんだよね(違ったかな?)。外には何か舞台ができてて、演劇のチラシを配ってました。

入るとまず、ゼロ戦や当時の大砲が展示してある。入場券を買って(800円)、エスカレーターを昇る。
高校生らしき制服を着た孫娘のそばで、おじいちゃんが展示品について何か説明してたり、うむむ、ますますそれらしい。
展示品には日本刀とか、昔の鎧兜なんかもあるが、主眼はやっぱり、明治以降の戦争でありました。
列強の世界進出地図、ペリー来航、明治維新の富国強兵政策と続いて、そのころの軍装などがある。
日露戦争の映画が、面白かったです。乃木大将とステッセルがでてくる。勇壮なものじゃ。当時の戦争映像もあるけど、銃の硝煙であたり一面真っ白なのね…それがなんかすごい。でも乃木大将って、靖国神社に祀られてないんだったっけ?
次の展示場で、ドイツ人の男性と日本人が口論していて、理由は知らないけど、場所柄、ちょっとこわかった。そのおかげで、何の展示か、忘れちゃいました。
第二次世界大戦中に日本で作られた広報映画もありました。モノクロだが、思ったより古臭いものではない。内容は日支事変で、当時の兵隊の映像が興味深い。相撲をとってたり、ひげをそってたり、進軍したり、水さかづきを回したり…中国の子供たちが集まって、ニコニコした日本軍の兵隊さんから、お餅を貰ってるシーンがある。辮髪の中国人男性が、満足そうにしている顔のアップ。
終わりのほうに遺品があるのですが、私、実はこういうの、怖くて見れないんです。遺骨収集のときに拾ってきた、銃撃で破れた飯ごうとか、錆びたヘルメットなど。
手紙もあるが、たいへん心のこもったものです。昔の人はどうしてあんなに字がうまいのだろう。

しかしメインは、何と言っても、戦死された方々の写真の展示でありましょう。延々と並べられた写真には、やはり若い人が多く、生きていてしたかったこともたくさんあっただろうにな、という無念の思いが伝わってきます。
私はもとより、ひとさまの信仰や信条にケチをつける気は、全くない。それでも名前の下に全部「命」がついているのが違和感あるのは、やはり私はここでは異教徒だということであろう。だけど、政治的立場とか主義主張を抜きにして、このようにして戦死された方々を悼むというのは、自然な心の動きではないでしょうか。「靖国神社で会おう」と約束して亡くなった方々が、たとえ姿は見えないにしろ、ここに来ているはずだと信じるのは、人情かと思われます。

来館者の感想ノートがあって、書き込みを見ると、やはり政治的な意見の対立もある。
ここら辺を統一するというのは至難の業なので、どうにもしかたがありません。
特に軍事的なことというのは、どうしても男の人のものらしくてね。私は女ですから、そういうのは正直言って、コワイし、よくわからん。
何があってももう戦争はいやだなあ、と思いました。

「南京アトローシティ」のことを書いていたら、「南京攻略時に殺戮などなかったと主張する側のことも書いて欲しい」というコメントを頂きました。
で、探してきたのが『歴史を裁く愚かさ―新しい歴史教科書のために』(西尾幹二著、PHP文庫、2000年、単行本刊行は1997年)であります。
カバー紹介では、
「自虐史観と隣国にへつらう謝罪史観で塗りつぶされた、世界にも類のない偏向した歴史教科書の存在を鋭く論難し、語り継ぐべき歴史観を提示する。(中略)教科書論争の口火を切った力作評論集。」
ということですので、これにしました。
えーと、今、「第三章 慰安婦問題の国際的不公平」まで読みました。

私は、歴史っていうのはいろんな見方ができると思うんです。価値観は時代によっても変わるし、西洋人からみたら東洋史なんてわけが分らないとか、ありますよね。数学みたいに、1+1=2、っていうわけにはいかない。
だからいろんな意見があって、それでもこれまでは学説とか、史観とか、学問内のことで済んでいた。
ところが今は、情報は世界を回る。知らなきゃなんとも思わなかったことが、そんなの冗談じゃないよ!っていう話になる。
特に、国が義務教育で教える一般教養=常識ともなれば、あんたんとこじゃウチの国のことそんなふうに教えてるの、間違ってる、侮辱だ、変えろ!っていうことになる。
これが年号や名前なら「すんません、書き直します」で済むのでしょうが、史観となると、そう簡単じゃない。哲学論議みたいになってしまう。
たとえば唯物史観の共産圏じゃ「アメリカは資本主義の地獄」って教えてたそうだけど、ピューリタンのアメリカじゃ「神を否定するソ連こそ悪魔の国」って思ってただろうし。この場合、両者の間に、妥協点はないよね。
その上、政治が絡むと、また問題が増える。そこにお金が絡んでくるとさらにいろんな思惑が…現近代だと、情報や関係者が多すぎてまとめきれない。
両国とも一致協力して、納得いくまで研究したら?と思うの。いつまでかかるかわかりませんけど。
とりあえず今は教科書がいるってことなら、確実なことだけ書けばいいんじゃないのかな。年号とか。
ひとさまに投票していただきながらこう言うのも何ですけど、南京事件とか「関係者の証言に食い違いがあり、まだ解決していない」って記述じゃダメなのかなあ?と思うんだけど。
はいご退屈様。僭越ながら、私の意見でございました。

ここからが、本題でございます。
著者は、証言に食い違いがあるから一概には言えないというものの、中国側の受けた被害について、完全に否定してはいません。私の投票で言うなら、2番くらいかな。
ただし「極左史観」が、中学校教科書の内容を完全に支配しているのには、強く抗議しています。
「侵略戦争」というが、日本には戦争にいたる条件や、そこからのさまざまな経緯があったのだ。他国からの抗議があるにせよ、その部分が全く無視されるのは自国の歴史を見失うに等しい。それではかえって歴史に対するまっとうな自己批判も、正しい評価もできない。そういう意味では、歴史は民族によって異なっても、不思議ではないのだ。
戦争に伴う被害はやはりあっただろう。しかしそれはいつ、どこの国の戦争にも必ず起こっていた悲劇であって、日本軍のみが行ったこととして教科書に特記するべきことではない。従軍慰安婦問題のあたりは、ドイツの例を挙げて、比較しています。

というところまで、読みました。

ここまでの感想。
「日本には戦争にいたる条件や、そこからのさまざまな経緯があった」というのは、納得。
でも、「歴史は民族によって異なっても、不思議ではない」は、世界的な常識なの?
「いつ、どこの国の戦争にも必ず起こっていた悲劇」でも、被害者側はそんな感じで流せるわけがなく、この自分が受けた悲劇だ!と思ってるだろうから、それを認めさせるのはむずかしいのでは。
と、思いました。つづく。

升本少年が、陸軍幼年学校の二年生になったのは、昭和20年の4月。
この年度から、陸幼生徒は軍人となり、給料が出るようになりました。
空襲がはじまり、サイパン・グアムが玉砕し、戦艦大和が沈んだあとの日本です。それまでと違って、勉強時間が減り、実践的な戦闘訓練が俄然多くなった。食料の確保のために、農作業もするようになった。
でも、世間の子たちは、食べるものもないし工場に動員されたりで、ぜんぜん勉強どころじゃなかったそうですから、わりと、恵まれてる。
空襲はますます激しくなる。戦局が切迫していることは、彼らにも分っていた。それでも、俺たちが国を守らずして誰が守る、という高揚感は変わらなかった。
学校の近くの「黒石原」というところに、特攻隊の中継基地がありました。出撃するところは鹿児島の「知覧」で、ここではまだ訓練だけです。陸幼の生徒たちは、休みの日にこの訓練を見に行って、将校たちに可愛がられた。飛行機の編隊が学校の上に飛んできて、みんな喜んで手を振ったりしたそうです。
8月のはじめ、西南の方向に、変な形の雲を見た。長崎に落ちた原子爆弾です。

そして迎えた8月15日。
防空壕を掘る作業をしていた生徒たちの所に、伝令が来たのは、午前11時ごろ。
「第一装」(軍服の中でいちばんフォーマルなもの)で、本部正面に集合せよ、という。
みんなは、いよいよ本土決戦か、ロシアへの宣戦布告かと思った。
天皇陛下のラジオ放送はよく聞えなかったが、そばにいた教官将校が、泣き出した。
「負けたんだ」とだんだん分ってきたが、皆は納まらない。決起しようと誰からともなく言い出す。
けれど担当の将校は「お前たちを預かっている責任がある。行くなら俺を斬って行け」と言った。
ここの教官士官は、情も意もある人たちだったようで、厳しくても、どこかに慈しみのようなものがある。本人も相当辛かったはずだし、生徒も激してるのに、ついに混乱にはならなかった。

升本少年は、故郷に帰りました。
もう「星の生徒」「カデット」じゃありません。帰ってみると、母親は民主主義者に豹変し、国策に応じて「立派に死んで来い」と言ったお父さんは、みんなから非難されている。世間でもまれてきた友達はいつのまにか自分よりずいぶん大人になったようで、淡い初恋の女学生は今じゃ男と同棲している。
陸幼で清らかに育てられた升本少年、何もかもが空しい。

やがて立ち直って、映画の道をめざしますが、その間は悩みが多かった。
タイトル「天皇の消えた日」は、升本少年が父と話し合っていて、今までの天皇像が、何か別のものに変わったのを感じた日のことと思われます。
聖別されていたものが、いったん落とされ、しかし自分にとってはやはり大切なものだったと見直すような感じ。この日から、升本少年は、俺はこれから何をしようかと本当に考え始めるのでした。

エリートって、やっぱりちょっと、ナイーブなんですよね。一方、そんなもんに縁のない庶民は、なりふり構わずたくましい。これがうまくあわさって、升本少年、立派な大人になりました。松竹映像株式会社の取締役になられたそうです。まずは、めでたしなのでした。

私は根っからののんびり人間で、杉浦日向子の描いていたような、江戸時代アタリを愛しております。
あのころ、黒船が来なかったらなあ…と、思わないでもない。
しかし、黒船は来ちゃった。そしてあわただしく明治維新。
私、実は、大久保利通が好きなんです。平和な江戸が好きだけど、彼らは的確な判断をしたのだと思う。
昨今、中朝批判が高まっている中、私は彼らになんの好悪もないけど、みんながこれだけ言うからには何かが起こる可能性もあるかな、という気もしています。よくわかんないけど。

『軍国の少年』のつづき。
昭和19年4月1日、熊本陸軍幼年学校に入学した、15歳の升本少年。
同期生は約330名、これが6クラス(訓育班という)に分けられて、1クラス50人強。
これがさらに、2つの「学班」に分けられ、約25人。その単位で授業を受ける。

全寮制で、毎日の生活はとても厳格に、時間から所作、言葉遣いまで決められている。トイレに行ってて食事の時間に遅れてしまったら「脱糞しておりました!」と申告しなければならない時もある。
規律に外れたことをするときっちり指摘される。ただし、暴力は全くなかった。
だけど、反省の時間みたいなのがあって、みんなの前で糾弾されると、そうとう苦しかったとのこと。
季節によって違うが、朝は5時から6時に起床ラッパが鳴る。鳴ると同時に「起床!」と大声で叫んで飛び起きなくてはなりません。私、寝坊だから、一回やってみようかな…
寝台戦友と力をあわせてベッドを整え、5分後に校庭に整列、点呼。
たしか、自衛隊ってこうじゃなかったっけ。寝坊するとベッドかついでランニングの罰とか聞いた。
そのあと、上半身裸になって、10分間の体操。
宿舎の掃除、宮城の方角に向かって挙手、軍人勅諭の音読、雄健神社に参拝後、各自で、両親のいる方角の空に向かって挙手の礼をする。
ここらへん、軍人らしいですね。支給された軍服を着て、精一杯突っ張った升本少年の写真が載っているが、なかなかいい面構えじゃ。写真で見た石原莞爾に似ておるぞ。あの人、童顔だったんだな。
朝食は6時45分から。食事は玄米飯で、食器はすべてアルミ製。その頃の一般家庭では米は欠乏していたが、ここでは一日平均、1人5合5勺の米の飯が与えられる。いかにゴハン好きの私でも、そんなに食えん…と思ったが、食べ盛りの彼らには、足りなかったそうだ。いったいどんなお釜で炊いてたんじゃろうか。
授業の内容は中学と変わりないが、外国語がある。ドイツ語と、英語。他の陸幼では、ロシア語やフランス語を学ぶところもあった。
意外なのは、戦闘訓練があまりなかったこと。
剣道の時間というのは特別にあるんだけど、教練の時間は「不動の姿勢」「挙手の礼」「行進」ばかりだったそうな。当時はどこの中学でも配属将校がいてかなり高度の戦闘訓練があったそうですから、慮外でした。剣道も、正々堂々とやれ、という意味でメンの一本やりだったとか。
考えてみれば、彼ら、エリートだもんね。将校は堂々として居れ、という教育だったんですね。
運動会や、肝試し会もあって、ここらへんフツウの学校と同じだけど、墓場で脅かされてキャーなんて言うと、あとあとまで笑いものにされる。
関東じゃどうか知らないが、九州の伝統として、可愛い子は「よか稚児」として上級生に愛玩される。升本少年がどうだったかは書いてありませんが、ここでもそうだった。

さて、はじめはなかなか慣れなかった升本少年ですが、だんだん板についてくる。
やがて、1年を終えて、昭和20年の4月に、彼は二年生になります。
そのとき、敗戦まで、あと4ヶ月…。つづく。

今日の夕方、ラジオで「中国は、日本の首脳陣の靖国参拝などを除いて、日本との友好を深める意向がある」とのニュースを聞きました。
私のウチも、ばあちゃんのときに身内から裏切られたことがあって、お母ちゃんは今でもその親戚を恨んでおります。が、私らの代では「もういいんじゃないの、昔のことは」という気分が濃厚であります。中国の方々も代替わりするごとに反日感情を薄めてくださるといいが、というのは、あちらから見れば、どう思われるか分りません…でも、このニュースが、ほんとだといいなあ。

今日は『軍国の少年―天皇の消えた日』(升本喜年著、光人社、1997年)を読みました。
これは昔「カデット」と称された、陸軍幼年学校の生徒の、その日々を振り返っての自伝であります。

作者は、昭和4年、熊本生まれ。叔父の海軍少尉に憧れて、海軍兵学校に入りたいと思っていましたが、母親のすすめで、昭和19年に熊本陸軍幼年学校に入学。
父親は元来、軍人嫌いで「お前は軍人には向いてない。死に急ぐな」と反対でしたが、息子の入学試験合格を機に、人が変わったように「天皇陛下のために、りっぱに死んで来い」と言うようになります。それでも、作者が陸幼に入学するために家を離れる前夜、父親は、泣いていたそうです。音楽の先生をしていて、可愛がっていた教え子が次々に死んでいくのもショックだったらしい。
けれども、当時「星の生徒」と呼ばれた陸幼の生徒は、少年たちの憧れでした。社会的にも、エリートコースです。彼はやはり、陸幼に行きます。

入学時、身体検査があります。軍人だから、健康であるかどうかはもちろん重要ですね。
しかし、この時の検査は、フンドシだかパンツだかわかんないけど、何も着てはいけない。全くのハダカで生徒監の前に立って、質疑応答もしなければならないのだ。すごく恥ずかしいけど、これで生徒監との親近感が深まるのだそうです。
うーん、言われてみれば、そんな気もする…かな。
合格が最終決定すると、生徒舎へ行き、それまで自分が着ていた服はすべて脱いで、支給された軍服に着替える。この時は「褌のつけ方から」上級生が丁寧に教えてくれる。

と書いてあるの。やっぱり軍隊はフンドシだったのかな。軍装マニアの方も、凝ればやっぱりそこまで…
でも、売ってるんですかっ!? 私は、イナカのほうで、干してあるのを見たことがあるけど。

衣類のほか、用具や教科書、文具なども、ほとんどのものが学校から支給される。
今だと、よく知らないけど、防衛大みたいな感じでしょうか。
その夜は、生徒監の訓示の後、寝室のベッドに寝ます。
寝台は二つがくっついた形です。隣に眠る学友を「寝台戦友」といって、毛布とシーツでベッドを整える作業を協力して行います。これはきっと、連帯感が深まりますね。
ただし、当時の日本人の習慣では、畳の上にフトンが普通。ですから皆、夜中に何度も、ベッドから落ちたそうです。

翌朝は、ラッパの高らかな響きで起床。
入校式の前に、一人一人名前を呼ばれて、それぞれ剣(30年式短剣。柄の鉄の部分に、小さな鉄の紋章と通し番号がついている。ゴボウ剣と呼ばれた)を与えられる。これを、軍服の革帯の横につける。
なんとなく、武士の元服みたいですね。男らしい感じ。
小銃(九九式)は、二年生にならないともらえない。この後入学生代表が入学申告を行い、校歌斉唱。
その歌詞も載ってますが「天の八重雲押し開き…」とはじまる。たしか神道の祝詞にあったね。

かくして入学した15歳の喜年少年。…つづく。

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