居 ミカの田中模索

なかなかお返事書けなくてごめんなさい。ちょっとずつお伺いいたします。

日本

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日本って、どんな国でしょう?
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『南京事件』、今回が最終回であります。

やむをえない事情があったにせよ、そして松井岩根という陸軍古参の中国通をもってしても、南京攻略・占領は、結局のところ失敗だったといわざるを得ません。
戦略は徹底できず、補給は間に合わず、司令官の命令は通達されても守られない。陸軍は、軍内部の統率すらとれていなかった。そもそも松井自身が、政府や陸軍上層部の指針に従わず、南京攻略に踏み切っている。
私は門外漢だし、現場の人にはまた別の意見があるでしょうが、軍隊というところでは、まず上からの命令に従わなければいけないんじゃないですか?もちろん、命令と自分の考えが食い違ったり、どうみてもあっちが間違ってる、という場合もあるでしょう。人並みはずれて賢いとか、個人として非常に高い能力を持っていたりすると、特にそうかもしれません。

しかも、兵隊は封建時代の武士でなく、庶民です。性質が軍隊に向いてる人にはいいけれども、武士のたしなみなんてものが、身についているはずはない。単に人手が要るからという理由で徴兵されただけで、国には家族が待っている。戦争が長引けば長引くほど、精神的にまいってくる。
上層部の人も、そういう兵隊を率いて戦争をしなければいけないのだから、たいへんです。現地で兵を見ていた松井が、決戦を焦って南京に向かったのは、そのせいかもしれません。しかし、結果的にはこれで中国側の反日意識をあおってしまい、かえってその後8年もかかってしまうことになりました。

つまり、日本の軍隊は、上から下まで、実のところ軍隊になってなかったんです。
もともと明治政府が列強からの自衛のために、無理をして急造したものですから、もろい軍隊だったのです。あまりに未熟で、近代の戦争では、とても通用しなかった。

内容はもっといろいろあったんだけど、長引いちゃったので、これで終わります。
先般、官でなく民の責任かも、と思った私でしたが…それ以上に、戦争ってむずかしいなあ、とめまいを感じてしまいました。
中国の方でも、急に戦争になって、困ってたみたいだし。かといって戦争準備が完全に整ってから、さあ戦争しよう、というわけにもいかないしね。だいたいこういうことは、今はまずいんだけどな、って時にかぎって起こるものみたいで。
日本は再び戦争をしようなんて気はまあないだろうけど、中国の人も北朝鮮の人も、戦争はやめようよね。どうせろくなことにはならないんだから。

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『南京事件』の本の続きです。
「南京大虐殺」という言葉は、どうも扇情的なので、英語にしました。この本の著者もこの言葉をつかってます。あしからずご了承くださいませ。

コメントにもありましたが、この事件については、真偽取り混ぜた情報が入り乱れ、政治的偏見も入り込んでおります。
そういうとき、必要な情報の取捨や評価のしかたというのが、歴史学にはあるようでございます。ま、そうでしょうな。でも、同じ資料を使っていてさえも、色眼鏡で見たならば、正反対の結論を導き出すこともある。
犯罪事件ならば、確実なクロの証拠をいくつかそろえれば有罪と宣告することもでき、その場合は、あいまいなシロの証拠をいくら積み重ねてもだめです。とくにこの事件では、クロと思われる人は概して沈黙、シロらしい人だけが発言する傾向がある。

で、著者が何を資料としているかの解説。興味ない人は、飛ばしてください。

 <第一次資料>
 A/公文書記録
  これは、事件に関わった日本軍の司令部や作戦命令、報告などですが、実は、終戦時に処分されてし  まったものが多い。
 B/指揮官クラスの業務日誌やメモ類
  ただし、公表に際して部分削除・改ざんされているものもあるので、注意を要する。
 C/一般軍事従事者の私的日記やメモ類
  Bより信頼度はやや落ちるが、中には指揮官の目の届かない末端の実情をとらえた価値の高いものも  ある。
 <第二次資料>
 D/戦後の研究書や論文
  たくさんありますが、けっこう思想的だったりして、第一次資料に当りなおさないと危険。
 E/従軍者の戦後における回想記・回想談
  これもたくさんある。ただし、場所や日付が間違っていたり、ばらつきがある。

 そこで、まずA、Bを軸にして、C、D、Eのセレクト分を加えて骨組みを作り、さらに被害者側、第 三者である外国人記録・回想などを照合することにしました、とのことです。

ここからが、つづきです。
陸軍中国通の最長老だった現地軍の松井指揮官は、首都南京を占領すれば中国は屈服すると信じていました。
けれどこの予想は狂い、戦争は泥沼になってしまった。
兵士について言えば、日本軍は、日露戦争ではたいへん規律正しい軍隊として知られていた。少し前の上海戦でも、苦戦し多数の犠牲者も出したのに、日本居留民の保護という明確な目的があったので、規律は崩れていなかった。
しかし南京攻略は、ほぼ松井の独断であり、皆が納得できる目的がなかった。もう故郷へ帰れるとばかり思っていた兵士は、さらなる苦戦を予期して、ヤケになった。
しかもこの追撃戦は、急だったので、弾薬や食料の補給が追いつかず、兵士たちが現地調達を余儀なくされた。規律がなくなってくる。
これに驚いて、軍司令部は禁令を発し、取締りを始めたが、補給が改善されたわけではないので、禁令は無視された。

上海の初陣ではブルブル震えていた臆病者も、古兵に叩かれ戦友と競ううちに、すぐに一人前の兵士に成長し、どんなことでもやるようになる。
けれど戦闘が終わって気持が落ち着けば、街角の子供に菓子を与える優しい兵隊さんになる。

しかし、だからといって、すべての責任を松井だけに押し付けるわけにはいかない。
実は、松井の下には、公然と反抗する師団長や、勝手な命令を乱発する参謀もいたのです。
しかし、健康な組織なら、たとえトップの目が届かない末端部分でも、自制がある。何人かが暴走しても、それが全体に及ぶことはないものだ。
一部の暴走がエスカレートしていったのは、なぜだったのか。つづく。

南京事件 ちょっと横道

南京事件について二回ほど書いたのですが、ちょっと補足したいとおもいます。

私の場合は、戦争の流れにそって本を読みながら、南京陥落に到ったのですが、これは日中戦争では外せない事件だと思います。なんたって敵国の首都が陥落したんですから、ドイツに占領されたパリみたいなもので、山場です。避けて通れません。
世には自虐史観という見方もあるようですが、私は日本はそんなにひどい国だとは思ってません。
日本はアジアで独立を保った唯一の国です。
当時から世界を見る目があって、外国の侵略を絶対に許さないと決心した人たちがいたおかげです。そして、うそみたいな政治的はなれわざで、国内を統一しました。
押寄せるヨーロッパ列強に比べて、日本は武力ではどうしても劣っていた。だから軍隊を作る必要があったんです。武力でなく外交で侵略を止めようとして、結局植民地にされてしまった国だってあるんですから。国連軍だって、紛争地域には武装して行きます。戦地に丸腰で行っては危険です。
私はよく分らないけど、結局は、列強に脅かされたためにこうなったのではありませんか?
ほんとは、中国とケンカする理由なんて、別になかったんです。

この本の著者は、あとがきでこう書いています。
「中国は第二次世界大戦終結後、百万を越える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引き上げを許した。昭和47年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。」
「もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が「多すぎる」とか「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。」
耳を傾ける値打ちはあると思います。

南京大虐殺・その2

『南京事件―「虐殺」の構造』の続きであります。

日中戦争の発端、盧溝橋事件は、日本にとっても中国にとっても、予期しないことでした。

日本の陸軍上層部では、このうえ中国と事を構えるべきではないと主張する、石原莞爾のような不拡大派が優勢だったのです。中国は中国で、共産党が力を持ち始めて政府が内部分裂しているし、まだ軍備も整備段階。いずれ日本と戦うにしても、もっと先のことだと思っていた。

ところが、日中両国の軍が隣り合う地点で、お互いに相手に対する反感がつのり、どちらからともなく一発の銃弾が撃たれた。そして、宣戦布告もしないうちに日中戦争は始まってしまったんです。
驚いたのは、両国の上層部。事態を収拾しようと、ああだこうだと右往左往したあげく、次第に紛争が長引いて長期戦になりそうな気配となり、死者は増える一方。日本の内地は大量の戦死公報に憤り、殺気立ってくる。中国でも反日感情がいよいよ募って、政府にも抑えがきかない。
そこへ、ドイツの仲立ちで、講和条約を結ぼうという話が持ち上がります。そして、両国とも、じつはこれに乗り気だった。

しかし、そうは行かなかったのです。上海軍の指揮を執っていた松井岩根は、どうしても首都南京を攻略しなければならないと、執念のように思いこんでいた。彼はそのために、すでに受けていた不拡大路線の命令を変えて欲しいと、陸軍上層部に頼んだほどです。上からの命令に従わねばならないはずの軍隊で、これは異例のことでした。
そして、両国が講和しようとしているうちに、松井が南京を攻め落としてしまったのです。

けれども、敵国の首都攻略に勝利したからといって、戦争はそれで終わりになりません。
日本は講和するつもりだったので、前線に対して、食料などの後方支援の準備ができていませんでした。兵隊はそれまでも強行軍だったし、どうにかしなければ飢え死にします。やむなく現地調達です。また、投降してきた捕虜を、本当なら殺してはいけないのですが、日本軍には捕虜まで養う余力がない。それまでの戦闘で、自分たちの戦友を殺されてきた恨みも噴出します。中国人に対する偏見や蔑視もある。軍内でも反対した人は多かったにもかかわらず、多数の捕虜が殺さる結果となった。
一方、南京を守っていた将軍はいち早く逃げてしまうし、南京に住んでいた人たちも、自分たちで占領下の治安維持や行政を行う体勢ができていなかった。
徴発、略奪、強奪、処刑も、毎日やってると、日常化して罪悪感もなくなる。上官の制止も鼻先であしらわれるようになってしまった。松井も兵隊の前で泣いていさめたようですが、皆の反応は冷ややかで、効果はほとんどなかった。もう、どうしようもなくなっていたのです。

というところまで、読みました。つづく。

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南京大虐殺・その1

『南京事件―「虐殺」の構造』(秦 邦彦著、中公新書、1986年)を読みました。私の読んだのは1993年の13版分ですから、これ、売れてる本なんだな。

「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった…」と、アメリカ人記者によって、ニューヨーク・タイムズにレポートされたのは、1937年の12月のこと。
これが事件の第一報で、一般市民の殺害、略奪、婦女暴行、捕虜の処刑などが記されていた。しかし他にも大事件があったせいで、この記事は、そのころは意外と話題にならなかった。

南京事件には、諸説ある。
「大虐殺だった」という意見から「小規模だった」「デッチアゲだ」という意見まで、いろいろ。
こんなに意見が分かれるには、理由がある。
まず、事件が起こってから東京裁判で裁かれるまでに、8年もたっていたこと。被害者側の証言はたくさんあったものの、多くの加害者がすでに死んでしまったり、生き残った人も口を閉ざして語ろうとせず、事実の確認が困難だった。
次に、南京占領の責任者、陸軍大将の松井石根が、東京裁判で「自分は南京事件には責任がない」と答弁したうえに、陣中記録や調書など関係記録の一切を焼却したとして、提出しなかったこと(後で発見された)。ここで徹底的に検証されていたら、後で30万、40万規模の「大虐殺」論争にまで発展しなかったかもしれない。
また、そのころはまだ、中国の発言力も弱かった。

中国が非難を始めたのは、1972年の日中国交回復後、1982年に教科書問題が起こってから。
しかし、これを内政干渉と受け止めた日本のナショナリストは反発し、論争は、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまった…

というところまで、読みました。つづきます。

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