居 ミカの田中模索

なかなかお返事書けなくてごめんなさい。ちょっとずつお伺いいたします。

日本

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日本って、どんな国でしょう?
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今日は『昭和精神史』(桶谷秀昭著、文春文庫、1996年)を読んでいます。
歴史とともに、文学者もたくさん出てくる。今、盧溝橋事件が終わったところまで読みました。

先日の石原莞爾『最終戦総論』で、中国と協調を望みながら戦争をしかけるなんてあるのか、と書きましたが、それは私の誤解だったみたい。
石原は、最初は中国人に政治能力がないと思っていたから強硬手段をとったけど、実際に中国に渡って中国人の賢さに接してのち、考えを改めて協調路線に変えた、ということだったんですね。
彼は中国に対してより以上の侵略はいけないと考えたため、新たに関東軍に赴任してきた東条英機と衝突して、陸軍をクビになった。石原は怒って日本に帰ってしまいます。けれど石原の後任の影佐禎昭だって、「このように諸外国から侵略されていれば、中国人が反発するのは当然のこと」と考えていました。中国に居た関東軍の人は、だいたいそうだったみたい。
でも、日本から来たばかりの人は、違った。日本は戦勝に酔っていたし、日露戦争で勝ち取った満州に進出することは、日本にとっては当然のことと思われていた。
続く不況でどん底生活になっていた人たちが日本にはたくさんいた。考えてみれば、明治維新からこっち、日本人はずっとウソみたいに貧乏だったんです。共産主義者が社会問題になるくらい多かったっていうことは、そうだよね。だって、あんなもの、金持ちの国じゃはやらないはずだもの。結局、共産主義は治安維持法で弾圧されちゃったけど、みんな、もうどうにもならなくて、なんとか道は無いのかと必死だった。
日本は満州を得たじゃないか、どうしてそこから利益を出してはいけないのか?
一方中国では、なぜ外国人と戦って追い出してしまわないのか?
そう思ったのは、政治家や軍人よりも、どうやら一般民衆の方だったらしい。

私は漠然と、戦争を起こしたのは政治家や軍人の暴走だったんじゃないか、と思っていたんです。
でも、そうじゃなかったみたい。むしろ、中国でも日本でも、上の人はいろいろ考えていい方向に進めようと思っていた。彼ら、頭がいいからね。
でも、中国民衆の反日感情や、日本民衆の進出欲求は、もうどうにも止められなかった。理論で感情は救えない。明日食べるものもなかったら、考える余裕なんかない。
満州国境で起こった盧溝橋事件は、結局、日本の中国進出を決定的なものにしたけど、このころだって石原は戦争に反対している。わかっているのは、国境でにらみ合っていた中国軍か日本軍かのどちらかが発砲したのがきっかけになって、いきなり戦争が始まったこと。そして、宣戦布告は当時もその後もとうとうなかった。つまり、なしくずしに戦争になってしまった。いかにカリスマ石原でも、この流れは、止められなかった。
こうなったのは「官」でなく「民」のせいだったのかと思うと、苦しい。
だって、軍人とか政治家なんて知らないけど、「民」なら私らのことだもん。

このあとは「南京大虐殺」に続くんです。あああ…
くすん。今日は、もう寝よう…

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戦争の本を読んでると、何かっていうと出てくる名前がいくつかあります。
その一人が、石原莞爾でした。宇垣一成組閣失敗、満州事変、2.26事件にも陸軍の鎮圧側の人間として出てくる。いったいどんな人なの?と疑問に思い、一冊だけだけど、著作を読んでみました。
『最終戦争論』(2001年、中央公論新社刊、ただし石原莞爾が昭和16年に決定稿を書いたもの)。

話題はナポレオンだの日蓮上人だのいろいろ飛んでて、なかなか追いにくいんですが、要約すると…
「世界はこれから、東洋と西洋のに二大勢力の戦いになる。だからアジアを同盟させなければならない。その中で日本は東洋のリーダーになる。その世界戦争は結局、大量破壊兵器を先に作り出したものの勝利に終わるだろう。そしてそのあと徐々に、人類全部が待っていた平和で幸福な世界が来るだろう」
ということらしいんですね。
時代的に「天皇をアジアの中心として」という但し書きがついてるにしても、それ以外は、けっこう当ってるな、と思う…

しかし、それじゃあ、彼は、中国と同盟するために満州事変を起こしたってことになるんですか?
しかし彼の同盟希望がウソでなかった証拠に、彼は満州に『建国大学』という学校を作って、日本人、中国人、朝鮮人を含むアジア人の学生を平等に教育しようと試みてる。この本の中でも、中国人を軽蔑してはいけない、というようなことを書いている。

他国と同盟するために戦争をしかけるってことが、あるんだろうか?
ずいぶん変わったやり方だと思うんだけど、あの頃はそんなもんだったんですか?
あれで石原莞爾の考えていた同盟の意思が、中国側に伝わったとはとても思えない。
なんかとっても不思議な気分になってしまった一冊でした。

うれしーい!荒川静香ちゃんが金メダルを取りました!
スランプで辛い時代もあったみたいだけど、優雅で、おおらかで、とってもキレイ。日本にはこんなにステキな女性が居るんだぞ、といばったりして。アジアン・ビューティーというのでしょうね、静香ちゃんは英語の先生のアレックスの日本人の奥さんに似てるのだ。うーん、なんだか納得。

というところで昨日のつづきです。私は、くどいでしょうか。

中国に行った関東軍については、なにしろ評判が悪い。
けれど一方では、東南アジアあたりでは日本軍は感謝されたっていう話もよく聞きます。列強に全アジアが植民地化されるところで、一人日本だけが独立を保ち、おかげで独立のきっかけになった、とか。嫌韓流派のかたも、ここらをとりあげて反日思想に反論なさるようです。
会田雄次さんは、第二次世界大戦中に出征し、終戦後は英軍の捕虜になり、ビルマの捕虜収容所に入れられた人ですが、ここでも英軍が地元のビルマ人に嫌われていたのと反対に、日本人はとても好かれていたらしい。これは体験談だし、ホントだと思う。
それとね、雑誌で読んだんですが、1936年にビルマで作られた『にっぽんむすめ』(ウー・ニイプ監督)という映画では、主人公はビルマ人の兄弟で、ヒロインはあこがれの(?)日本娘なのだそうだ。(『ノーサイド・総特集キネマの美女』文藝春秋、平成3年9月号、高尾光子の項)。日本じゃ公開されてないし、もちろん私も観てません。でも今でも東南アジアじゃ、日本は人気があるそうですね。

となると…日本人には二種類いたのでしょうか?

前々回に、陸軍大将宇垣一成が、同じ陸軍の石原莞爾のせいで組閣に失敗した話を読みましたが、陸軍って、なんだか分裂してたみたいですね。(そんなの常識!なのかもしれませんけど、詳しくないのです。まちがってたらごめんなさい…)
『大日本帝国の戦争1・満州国の幻影』を読むと、
「日本の兵士は多くが農村の子弟であり、将校の多くも中産階級以下の出で、兵とともに訓練に励む隊付の下級将校であった。他方、予算や人事を扱い、軍部内の政策を実行する軍官僚ともいえる高級軍人が存在した。この二つの軍人層が皇道派、統制派と呼ばれる陸軍の二大派閥の源流となり、1930年代の日本陸軍部内で激しく抗争していくことになった。」
って、陸軍部内ってわざわざ断ってある。
2.26事件で刑に服した青年将校たちも、だいたい陸軍の人のようなんです。それも、エリートコースじゃなく、下級将校中心の。だけどこの人たちは結局、同じ陸軍に鎮圧される。
このあたりが、なんだかよくわかりません。そして、中国方面と東南アジアでのこの評判の差。なんだか妙にばらばら感があるんだけど。

つづきます。私は、くどいでしょうか。

最近、新聞で、日本と中国が共同して歴史を調べるという企画の記事を読みました。
いいことですよね。だってあの戦争については、もう国家レベルの研究だよ。ともかく、私ごとき一介のトウシロの手に負えるもんじゃない。
もうねー、いろんな資料がありすぎて、わけわかんないの。
大好きな故・司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んだとき、さすがの司馬さんも資料の膨大さに四苦八苦してるように思ったんですよね。明治だと時代が近いもんだから、なんたって記録が多いでしょ。それにまだご存命の関係者とかいらっしゃるし、東京から鹿児島まで距離も相当あるし…どうもいちいち場所まで確かめられたようで、宮崎で西郷の宿舎だった所とか出てくるんだけど、とっても詳細で見に行ったとしか思えないの。やっぱり司馬さんはすごいねえ。
で、今日もひとさまの文章の受け売りです。文句がある方は宮崎に石を投げてください。

前回、日本はかくして戦争に突入した、というわけでしたが、
その行く先が、どうしても中国だったのはなぜでしょう?
日本が中国に侵攻したときのスローガン「満蒙は日本の生命線」。
これは具体的にどういう意味だったんでしょうか。

日露戦争の直後、韓国はまだ日本の植民地ではありませんでした。
そのころ、ロシアはすでに満州・蒙古にまで侵入してきていた。ロシアと朝鮮の国境は韓国の皇帝もロシアの保護下にあり、このままだと、やがてロシアが韓国を支配し、日本にまで攻め入る危険がある。だから、韓国でなんとか食い止めなくてはならなかった。
一方、イギリスとアメリカは、満州に新しい市場ができることを望んでいて、日本が満州からロシアを追い出してくれることを期待していた。
で、日露戦争。そして、日本はロシアに勝った。この時の講和条約には、アメリカのルーズベルト大統領も参加しています。

その当時は、戦争に勝ったら賠償金を取るものでした。でも、相手は負けたとはいえ大国です。だから、かろうじて勝った日本がロシアから得たものは、お金ではなくて、現物。樺太の南半分、韓国の保護権、遼東半島の租借権、それからロシアが南満州に建設した鉄道つまり満鉄でした。
鉄道を手に入れたならそこからすぐに中国侵略に行きそうなものだが、実は、日本にはまだそれができなかった。なぜかっていうと、お金が無くて満鉄が維持できなかったんです。それに、日本は市場開拓をしても、そもそも産業がまだそんなになかったわけだから、商品がない。いっそ満鉄をアメリカに売ろう、という話まで出たくらいです。それくらいお金が無かったっていうことですね。だからイギリスやアメリカと違って、侵略してもあんまり意味がない。

ふうん。それなら、なんで中国に行ったの?
ここから先は、ちょっと、ショックでした。
日本が日露戦争で得た現物は、自分たちには意味のないものだった。死に物狂いで得た勝利とは、がっかりするようなものだったのだ。その中で、強いて言えば「あんな大国に勝った」という栄光だけが意味のあることだった。
勝って得た、満州。それは軍人たちにとって、栄光の記念碑となった。
だから「満蒙は日本の生命線」。
その記念碑を守るため、栄光の記憶を信じるために、日本は満州に侵攻したのだ。

へええ…どう思います?
出展は『大日本帝国の戦争1・満州国の幻影』(毎日新聞社、1999年)。ムック本で著者は多数ですが、ここでの出展は「満州戦争の勃発・年頭言」で、著者は橋本 治。
私の感想を言えば、全く信じられないことでもない。むしろ、何が何でも侵攻を進めたがった石原莞爾や、ブキミな甘粕正彦のことを考えると、そりゃありそうなことだな、という気さえする。でも私は女なので、正直言って、軍人である彼らのことはよく分からないんです。
私のブログのお客様には男性の方が多いようなので、ご感想、ご批判等、ありましたらお願いしますです。

今日はお母ちゃんとトリノオリンピックのフィギュアスケートを観てました。キレイだねえ。日本の女の子が美しいので私はうれしい。私は、安藤美姫ちゃんが可愛くてスキ。坂本龍一の大好きな曲がBGMだったせいもあるな。8位だったけど、まだ若いから次もあるさ。ウチのお母ちゃんは興奮して「ジングルベール♪」と歌っておりましたが、日本人におけるクリスマスの意義というものを垣間見たような気がいたしましたです。

昨日は中国が戦争に勝てなかった理由でしたが、今日は、日本がなぜ中国を侵略したか、です。登場するのは、第二次世界大戦直前にただひとり軍部の暴走を止められるはずだった、当時の陸軍大将、宇垣一成。有能な政治家で、陸相を五回つとめ、首相候補にも何度かなっています。

日本は明治維新後、急に国際社会の仲間入りをしましたが、そのころはまだ列強が弱肉強食の凄まじい争いをしているころでした。
その中で、日本はほんの弱小国です。ぼやぼやしてるとインドや東南アジアみたいに列強の植民地にされちゃいます。現に日本は1860年にロシアの圧迫で千島・樺太条約を結ばなければならなかったし、外交能力に頼っていたビルマが、結局イギリスの侵略に負けた先例もある。
だから、一刻も早く軍備を整えて自己防衛能力をつけなければなりませんでした。「富国強兵」政策です。そしてとうとう日露戦争に勝ってロシアの侵略を防ぎ、列強に日本の独立を認めさせるまでになりました。

ところが、その頃の日本は、とても貧乏。だいたい産業らしい産業もなかったのに、そこに軍備を充実させようというのだから、民衆は働きに働いて、しかも暮らしは非常に貧しかった。
このまま軍備を拡大していけば、対外的には安心かもしれないが、いずれ必ず民衆が耐えられなくなる時期がやってくる。現に、国民の不満も高まっている。破滅を防ぐには、軍備拡大にどこかでブレーキをかけなければならない。
と、このあたりで、第一次世界大戦が起こります。
戦争が終わってみると、ヨーロッパの人たちはその戦禍の大きさに驚いた。国土が荒廃し、人的・物的損害は計り知れない。そこで、平和がいい、軍備拡大戦争を抑えねば、という機運になる。
日本でも「宇垣軍縮」と言われる軍縮が行われました。
これは宇垣一成が陸相のときにしたんです。当時の日本の軍事費は、国の一般会計とほとんど同じくらいの金額でした。日本国民の所得が、たぶんイギリスやフランスの十分の一くらいだったのに、これ以上の軍拡はとても無理だったんです。彼は軍部の反対を押し切って、軍内部の改革を進める。
ヨソの国の戦争の軍需景気で潤ってたこともあり、軍縮で日本の民衆もやっと楽になります。「大正デモクラシー」の時代です。

けれども、大戦後の恐慌と不景気は日本にもやっぱり来ました。銀行が次々と破産し、米騒動、ストライキ、関東大震災も起こる。町にも村にも失業者があふれ、財界もうまい手を考えつかない。それから脱却するために、政財界も民衆も、やっぱり戦争がいいんじゃないか、という考えが芽生える。歴史上、世界中どこでも、そういう傾向があるみたい。
軍縮で大量整理・リストラされた不満軍人たちはそれを捉え、1931年に満州事変を起こして中国侵略に向かいます。「満州は日本の生命線」という陸軍のアジテーションに、大新聞もこぞって便乗。軍部が成立させた満州国に反対する国連決議はかえって日本の世論を硬貨させ、日本はとうとう国際連盟を脱退。
この間に、軍部の暴走にブレーキをかけようとした政財界の人が、たくさん暗殺されています。5.15事件や2.26事件も起こっている。しかしこうなると、民衆は不安になります。社会のムードが暗くなり、日本人の多くは、なんとなくこれは危険な方向なんじゃないかと思っていた。
そこへ、天皇から、宇垣一成に内閣組閣の大命が下った。
天皇の命令ですから、本来、当時ならば絶対のものです。これに表立って反対することはできない。しかし陸軍急進派の指導者、石原莞爾はこれをなんとか妨害しようと、現役将校全部に圧力をかけて、陸相の就任を誰にもさせなかった。それで、宇垣内閣は作れなくなってしまったんです。
宇垣は激怒して、陸軍を辞めようとまでしたらしい。
その後、1937年に近衛文麿内閣ができますが、この人は軍部から全く相手にされませんでした。すぐに日中戦争、そして大戦へ突入。
宇垣はその間も日中戦争の解決に努力しましたが、これも陸軍の反対で挫折し、宇垣はとうとう陸軍を辞め、社会の表舞台から姿を消しました。

宇垣には、日本の暴走を止めるチャンスがあったのに、どうしてできなかったのか?
日本の針路を変えるべき首相の候補者として、日本にはそのとき彼しか居なかったんです。だけど、彼には決死の覚悟がなかった。彼はこの重大時にも、官僚でしかなかった。今だってときには命をかけても、っていうものがなかったってことですね。でもそれで殺された人もたくさんいる時代だからな。命がけで組閣して、命とられてたかも。
「死を賭してこの場に対処すれば血路が開かれる可能性はあったと思う」と、筆者は記しています。

出展は、尊敬する故・会田雄次さんの『歴史を変えた決断』(角川文庫、平成元年)でした。

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