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宮崎では、気の早い山桜がちらほら咲き始めました。
やっぱり桜はいいなあ。見ると嬉しくなる。大好き。
日に日に北朝鮮から離れて中国してる今日この頃。
私がかねがね不思議だったのは、どうして中国は日清戦争で日本に負けたのか、ってこと。
だって、中国ってあれだけの大きな国で、日本はちっちゃな極東の島国でしょ。それに中国は「眠れる獅子」とか言われて、ヨーロッパ列強からも不気味な存在と捉えられていたんでしょ?
それって、キューバがアメリカに戦争しかけて勝ってしまったみたいなものじゃないの?もしくは、中学生がアントニオ猪木にケンカで勝った、みたいな。
ありえん、とか思うの。そりゃ、支配者が、よっぽどどうかしてたんじゃない?
で、本日は、日清戦争当時、実質上の清国支配者だった、西太后の登場です。
…珍しくもないか?
有名だもんね。でもこの人、おもしろいですよ。妖怪みたいなんだもん。
西太后。1835年満州の下級官吏の家に生まれる。
16歳で咸豊帝の王宮の女官になった時は、一番下の階級で、彼女のほかに3000人の女官と、さらに3000人の宦官がいた。三年後、当時の皇帝妃が不妊症であることがわかり、彼女が皇帝の寝室へ遣わされた。そして1856年、彼女はみごとに皇子を産んだ。
ここから、彼女の地位がどんどん高くなってゆく。
やがて、中国北部では清朝を倒そうとする「太平天国の乱」が起き、さらにイギリス・フランス連合軍が中国北部に侵入、やがて北京へ進撃して来た。皇帝一家は北京から逃げて山中に隠れた。その後、白人捕虜の斬首を命ずる特令が王室から出されたが、これは実は西太后の命令だったらしい。
1861年に皇帝が病死すると、彼女は皇后とともに摂政となり、後にすべての支配権力を手中に収めた。
私生活は無軌道となり、宮廷を大時代的な豪華さの中に保つため、タダでさえ食うや食わずの中国民衆にさらに重税を課した。そればかりか、自分へのワイロと引き換えに権力ある地位を売り始めた。
…大丈夫なの、そんなことしてて?でも、誰も彼女を止められない。
一方、彼女の息子(のちの同治帝)の教育は宦官に任せられ、酒池肉林の放蕩三昧。一応皇帝にはなれたけど、以前の放蕩のツケが回って病気になったあげくたったの19歳で死んでしまう。
彼には子供がいなかったので、西太后は自分の甥を次の皇帝にした。これは自分の妹の子供だっていうんだからどっこも皇帝の血筋じゃない。しかしそれに反発した人は全員追放されてしまった。
1887年に、この甥が成人して光緒帝となり、55歳になっていた西太后は引退。
ところが光緒帝は、西洋の知識や考え方を渇望し、ヨーロッパの民主主義に近いものを作ろうと考えていた。けれど西太后の頭には、ただ一つの中国、彼女の祖先たちの生きた中国の姿しかなかった。
彼女は彼を監視し続け、日清戦争を彼のせいにして非難した。やがて皇帝は監禁され、再び西太后が権力の座に返り咲く。
でも、実は西太后が軍資金を横取りしたせいで、中国海軍が日本に負けたらしいんです。なーんだ…
1900年、山東省で「義和団の乱」が起こり、「野蛮なる外夷を絶滅せよ」という彼らを、西太后は支援した。殺戮と焼き討ちが始まり、婦女子や中国人のキリスト教改宗者を含む何千人もの人が虐殺された。
「わが清国を清めるため、一人たりとも逃がしてはならぬ」
と、彼女は命令を出していた。
結局、この殺戮があったから、諸外国が清国に軍隊を派遣するって事になったんですね。
それで皇帝一家は北京にいられなくなって逃げ、そのあと諸国の連合軍と平和条約を締結する。
彼女は北京に戻り、外国人への態度を変えた。それから、自分は残虐行為には何の関係もなかったと自分に言い聞かせ、義和団を支援した布告はいっさい記録から消去するように命じた。1908年、死去。
いやー、これじゃ国が滅んでも仕方ないわね。出展は『世界の悪女たち』(M・ニコラス著、木全・岡田訳、教養文庫、1989年)、イギリスでとてもよく売れた本だそうです。
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