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 渡辺敬一郎の名著・『日本ダービー 平成名馬伝説』 第七話 北の大地で見たダービーの夢
 

 ★ダービーにつきまとった「3」という数字 

 そしてダービー当日。牧場のほぼ全員が、場外馬券場詣でをすませ、迫りくるその時をテレビの前で待っていた。疑いもなくみんな、タニノギムレットの勝利を信じている。

 一方、東京競馬場では、西山場長が谷水オーナーとともにいた。
「ことここにいたれば、オーナーも勝利を信じたし、わたしも絶対に勝つと思いました。牧場の全員にたいし、負けられないと。かつて、こんなふうにプレッシャーを感じたことはなかった。一頭の馬の勝敗で、自分や従業員のみんなの人生が変わってしまうかもしれない。そんなこと、考えもしなかったんですよ、これまでは。
 しかしそうそう緊張してもいられないので、いろいろなことを考えました。誰かが、タニノギムレットのこのダービーでは、【3】という数字に縁がある、と言ってましたが。たしかにそうだと思いました。まずギムレットのダービーの枠順が、ゼッケン3、武豊騎手が33歳。
それにわたし自身が三代目。これでうまくギムレットが勝てば、カントリー牧場、3頭目のダービーになり、武豊くんも3頭目のダービーになります。でも怖いのは、皐月賞、NHKマイルに続いて、3度目のまた3着です」(西山場長)

 レースは、タニノギムレットが怒濤の追いこみで、勝利した。ついにカントリー牧場3頭目のダービー馬が誕生した。武豊騎手は、3回目のダービージョッキーになった。

「もうまわりはたいへんな応援で、特にオーナーはすごかった、らしいんですが、わたしは覚えていません。もっともオーナーも覚えていないって言ってますけどね。
 ただわたしの覚えていないわけは、オーナーとはちょっと違って、夢中になって、我を忘れたわけじゃなく、そういう状態とは逆に、静かな夢の中に入っていたみたいなんです。

 いつもそうですが、スタートから比較的冷静に見ていたつもりです。でも最後の直線は自分
でもほとんど意識がありません。先頭でゴールに入ったことはわかりましたが、まるでスロー
モーションの画像をみているみたいでした。ああ、終わった、これでみんな終わった、という
安堵感がありました。嬉しいとか、感動するとかの感情はいっさいなかった。
 その代わりというか、牧場のほうはすごかったらしい。全員がたちあがって応援をしたらしいです。それで声を枯らした、という人もかなりいたらしい」(西山場長)

 競馬場全体が、ダービーの興奮に包まれ、お祭りのムードに揺れ、やがて幕が下りたとき、やっと西山貴司場長は、我に返った。

「レースが終わって、タニノギムレットが勝ったことは見ていてわかっていましたが、しばらくは、なにも考えられなかった。ほっとした気持ちがいっぱいで、本当によかったな、とは思うんですが、それだけ。ダービーを勝った、というような爆発的な喜びとか、興奮はありませんでした、長い時間。
 それが夜になり、もう一度事実を確かめ、まちがいないとわかり、それからじわじわ喜びが体に伝わっていきました。牧場でもそういう経験をした人もけっこういて、夜に祝電を見たり、翌日近隣の牧場から花束を送ってきたのを見て、ようやくダービーの勝利を実感した者もいたみたいですね」
 西山場長は言う。
「ひとつの大きなお祭りは終わりました。あとはまた他の牧場との激しい競争があります。その中でいつも思っているのは、タニノギムレットの産駒で、クラシックレースを勝ちたい、ということです。これがいまいちばんの夢です」 第七話 了。                      
 

 この1章を長々と引用・紹介したのは、昨日の天皇賞の直線でウオッカが外から追い込んできた

 姿にダービーのタニノギムレットを見た、という理由からです。

 最後にもう一話だけ。第六話 牧場から鍛えて馬をつくるータニノギムレット から。

  ・・・(ギムレット)の次走は、明け三歳の1月半ば、京都のシンザン記念。このとき、鞍上にはじめて武豊騎手を迎えた。谷水オーナーの持論「いい馬には、一流の騎手を乗せる」が、最高のかたちで実現したのだ。
 この武豊騎手へのこだわりは、松田調教師にもあった。「調教師として、まだ6、7年という浅いキャリアを補うものとして、いくつかのポイントがあるんですが、騎手への依存も正直ありました。武豊くんなら、結果が必ずしもいいとは限らないとしても、調教師としてやることはすべてやったと、納得できますから」

 このレースで、ファンもタニノギムレットの存在を、強く意識した。1番人気になったのだ。
 「これは嬉しいことでした。やはり1番人気というのは、大方のファンが一番強いと認めてくれたものですからね」(谷水オーナー)
 結果も勝って、その存在感をアピールした。オーナーも調教師も、これは嬉しいには違いないが、オーナーにはそれも中くらいだったようだ。「勝ち方が100%とはいえなかった。内からそつなく抜けて、馬が案外器用な脚を使えることと、武豊くんのレースのうまさは目立ちましたが」と谷水オーナー。本当の馬の強さで勝ったのではないということだ。贅沢な注文といえばいえるのだが。

 そのやや不完全燃焼のオーナーの気持ちが、次走の、アーリントンカップ(2月末、阪神)の勝利で一掃された。「このときも1番人気でしたが、この勝ち方がすごかった。シンザン記念とは違い、直線で外に出し、どーんという感じで抜けたからね。同じ勝ち方でも、エンジンのかかりが違った。また乗り役の意志に応じて、瞬時に反応したのも、大きな進歩でしたね。それにレースが終わったあとも、ほとんど息が上がってない。これは本物だと思いました。武くんも他に有力馬もいたけど、これでこの馬の真価がわかったみたいです」と、谷水オーナーの意気があがる。

 その後のタニノギムレットのローテーションは、もちろん松田調教師の青写真にそったものになった。3月に入り、いよいよクラシックが現実化し、その第一歩をスプリングステークスにした。
 そのことはまったく予定通りの進行だが、さすがに武豊騎手の落馬負傷(骨盤骨折。2月24日、中山)は、予測できないアクシデントだった。このことは、タニノギムレット陣営にとって、大きなマイナスポイントになった。谷水オーナーがいうように、アーリントンカップの強さから、武豊騎手ももう、この馬への騎乗は、ほぼ確定の了解事項だったのだから。

 代って鞍上は四位騎手。すでに未勝利戦勝ちのキャリアもある。なによりも松田調教師の、彼にたいする評価が高い。これまであまり強い馬に恵まれず、GI勝利の数もすくない騎手だが、その実力は早い時期から認められていた。松田師もその意味では、ピンチヒッター四位は迷わなかった。
 そしてスプリングステークスも、16頭の一番人気に推され、これも勝って四連勝。2着テレグノシスとの差はクビだが、内容的には完勝といってもよかった。

 タニノギムレット自体は、二歳時北海道でちょっと脚がもやもやしただけで、三歳になってからはほとんど怪我も病気もせずに、頂点ダービーに向かって、確実に強くなっていた。


 ★惨敗、馬の実力を信じすぎた皐月賞  


 クラシック第一弾、皐月賞。4月14日、中山競馬場。断然の一番人気だ。18頭の11番だから、枠順もいい。しかしタニノギムレットは後方におかれた。スタートもあまりよくなかったし、終始後方をまわる展開になった。四位騎手は三コーナーから外をまわって追いあげ、直線も伸びたが、勝ったのは伏兵ノーリーズン。二着は一馬身四分の三差でタイガーカフェ、ハナ差三着タニノギムレット・・・。

「これで、四位騎手にはノーと言いました。多頭数のあの位置では、いかに追いこんでも届かない」(松田師)
「もし、それなりの理由があってあの位置からしか追い込めなかったのなら、それからも、少なくとももう一度は、四位くんに頼んだでしょう」と松田師はフォローしているが。

 筆者は当レースを見ていて、こう考えた。スプリングステークスの強さが、あまりに四位騎手の脳裡に焼きついてしまっていたのではないか。この馬の実力を信じ、まかせ過ぎたのでは。事実四位騎手もレース後、「自分の馬がいちばん強いと思い、じっくり乗ったんだが」と、コメントしている。
 四位騎手は個人的に好きな騎手だけに、このレースは、向こう正面からもう悪い予感、不安に襲われ、結果も最悪に出てしまった。素人考えだが、四位くんが、馬への信頼もさることながら、もっと自分の技術で乗ってもよかったのではないか。
 四位騎手がだめだといって、では誰にするか、松田調教師にはそれが問題だ。こういうときにそれなりの人々には、幸運という神様があらわれるのである。エース武豊騎手が驚くべき早さで回復し、4月末から(4月20日復活)早くも騎乗できる状態になったのだ。・・略・・
 
 


 渡辺敬一郎の名著・『日本ダービー 平成名馬伝説』 第七話 北の大地で見たダービーの夢
 

 ★クラシックを期待する馬だったか?

 それではと、馬ではなく、西山場長のマイナスポイントを探りにかかった。カントリー牧場のスタートが華々しかったので、その後の眠りで、三代目の彼には、それが重いものに感じるようなことはなかったか。

「いや、それも特にありませんでした。というのも、わたしをふくめ、牧場の従業員みんな、いちばんいい時のことは、まったく知らないんです。たしかに記録にはあるんですが、わたしたちにはよくも悪くもそれだけで、直接感じることはなかった。
 ただ、これはどこの牧場もみんなそうでしょうが、強い馬をつくり、クラシックを勝ちたいとは、常に思っています。その意味では、長い間勝たないとつらいんですが、過去どうだから勝たなければならない、といった重圧はありませんでした」

 これは、「歯をくいしばって」というオーナーのコメントから受けたイメージとは、だいぶ違う。考えればこういう感覚は、経営者や上層部のきわめて象徴的な感慨で、現場はそんな精神論は抜きで、淡々と実行しているのだ。それがまた、タニノギムレットには、いい空気になったのだろう。変にトップが責任を感じ、勝たなければならない、といったような気合の入れ過ぎをすれば、どんな世界でもそうだが、しばしば裏目に出るからだ。

 谷水オーナーは、精神論だけを言う人ではない。この人のすごいところは、歯をくいしばりながらも、現場の施設を充実させていったことだ。直接的には、故・戸山調教師の助言を聞きいれ、繁殖牝馬の数を制限し、育成場の面積を拡大し、土地を肥やし、すべての馬にとっての環境整備を、長い時間と費用をかけて、やりぬいたのだ。

 このことは、のちタニノギムレットを管理した松田国英調教師が、谷水オーナーの努力を、何げなく言った、「谷水さんも、お金をかけていますから」のひと言が、筆者にはオーナーの実行力の、裏づけになっているような気がする。

 谷水オーナーが牧場を訪れる回数も、谷底の時代はさすがに少なかったが、時とともにしだいに多くなった。谷水氏にしても、牧場が蘇生していくさまを、実際に自分の目でたしかめたい、というのが人情だろう。
「オーナーとはよく話します。現在牧場にいる馬の様子とか、この繁殖牝馬にはこの種牡馬にしたらいいのでは、とか。また牧場の土地の状態や、全体の環境についての意見を交わしたり。オーナーも長い時間をかけて、ずいぶん勉強したらしく、自分の意見を持っている人ですから、こちらも真剣です。

 タニノギムレットを、オーナーも生まれてすぐ見ましたが、骨太で丈夫そうだから、いい子供が生まれた、と喜んでいました。その意味では期待はしましたが、あとでマスコミで伝えられる、はじめからクラシックの期待をしたようなことはなかった。そういう話は結果で従いてくるものですね」(西山場長)

 では、タニノギムレットは、どんな鍛えられ方をしたか。なにせ【谷水式スパルタ調教】の、栄光の記録がある牧場である。
 それについても、西山場長は、変わりない口調で言う。
「うちの牧場の方針として、基礎体力をつけるような鍛え方に努力しています。これはまあ、初代からの伝統ともいえますが、隣り近所の牧場でもそういう考え方は、ごく当たり前でしょう。
 ギムレットもそういう意味では、ごくふつうに、他の馬と同じように鍛えました。もちろん期待はしていました。この丈夫な体、すなおな気質で、順調に育てば、必ず走るという確信みたいな期待はありました。でも、それも、全部の馬に同じような気持ちを持つんですよ、育てるほうとしては」


 ★考えもしない、負け


 そしてクラシック第一弾、皐月賞。タニノギムレットは一番人気に推された。多くの人たちが、タニノギムレットをもっとも強い馬と認めたのだ。谷水オーナーも西山場長も、中山競馬場にいて、それを実感した。

「ここでは、タニノギムレットが一番強いと、確信してました。だから、皐月賞も勝てると信じていました。中山二千は、ギムレットの脚質でみれば、多少の不安はあると思いましたが、それでもパワーで押し切ると信じていました」(西山場長)

 しかし結果は、なんということ、三着にとどまった。多少スタートもミスったが、四位騎手は終始、後方にかまえて動かない。三コーナーから外に出て、直線も外を通って追ったが、短い中山の直線では、届かなかった。

 西山場長は、声もなかった。信じがたいシーンを見た。考えもしない、負けだった。しかしこれが現実なのだ。悔しさで体をふるわせたが、それをぶつけるところがない。
「それは、悔しかった。言葉に言い表せないぐらい。最初のクラシックレースが目の前にあったんですから。それを逃がしてしまったわけです。ただこのとき、つらかったけど、心のどこかで、怪我をしなくてよかったという思いもありました。こういう負けをするときは、どこか怪我をしたり、骨折という悪い副作用もともなうことがよくありますから。そういう最悪の事態にならなかったのは、幸運だったと、思いました。
 その点が大丈夫なら、あらためてダービーヘの期待ができるわけです。この悔しさを全部ダービーでひっくりかえせるチャンスが残るわけです。負けたとはいえ、皐月賞の直線の脚はすごいと思いました。あの脚をもう少し前にいて使ってほしかったと、何度も思いましたが、それは言ってもしょうがない。それよりも前向きに考えました。故障もなく再度東京のダービーで走れるんですから」(西山場長)

 牧場サイド全員も、一度は落ち込んだ。勝つと疑わなかった、我らの馬が三着に負けたのだから。それに連勝を続けた、単勝式馬券も、もろくも消滅した。が、それもわずかな時間で、すぐ、それにも増した期待と確信が、牧場の空気になった。

 皐月賞後の、谷水オーナーと西山場長、および牧場サイドの空気は、対照的だった。オーナーの落胆は大きく、言葉も少ない。一方、場長はともかく、逆に牧場では従業員みんな、「しかしダービーは絶対勝てる」という盛り上がりになっている。
 西山場長もその両方の空気を吸い、[わたしもそうとうに落胆していたんですが、一方牧場の空気も心強く、ダービーは絶対に勝つ、という気持ちも膨らんでいました」

 皐月賞から、あっという間に時間が過ぎていき、これは予定外のローテーションらしいが、タニノギムレットは、NHKマイルに出走した。そしてここも一番人気になったが、再度三着に敗れた。しかも、武豊騎手が驚くべく早期回復で復活し、彼を背にしての結果である。

「このNHKマイルは、個人的には距離が短いと思いましたが、敗因はそれではなく、他の馬の妨害をうけた、レース中の不利です。皐月賞のような敗北感はなかったですが、やはりつらかった。オーナーの落ち込みも、激しかったし。これがダービーに尾をひくかもしれないと思いました。
 ただこのときも、妨害があっても事故につながるようなものではなく、馬自体はすごく元気だというのは幸運だと思いました。それに牧場は、いぜんとして元気です。このNHKマイルはどうでもいい、目標はダービーだ、というような盛り上がりがいぜんとしてありました」(西山場長)

  続く。

「・・・いつもそうですが、スタートから比較的冷静に(レースを)見ていたつもりです。

 でも最後の直線は自分でもほとんど意識がありません。

 先頭でゴールに入ったことはわかりましたが、まるでスローモーションの画像をみている

 みたいでした。

 ああ、終わった、これでみんな終わった、という安堵感がありました。

 嬉しいとか、感動するとかの感情はいっさいなかった。・・・」(略)

 西山場長は言う。

「ひとつの大きなお祭りは終わりました。あとはまた他の牧場との激しい競争があります。

 その中でいつも思っているのは、タニノギムレットの産駒で、クラシックレースを勝ちたい、

 ということです。

 これがいまいちばんの夢です」

 ************


 渡辺敬一郎の名著・『日本ダービー 平成名馬伝説』(PHP研究所2005年5月)、

 第七話 北の大地で見たダービーの夢
     −タニノギムレット(カントリー牧場) の終章です。


 以下、紹介していきます。

 ★カントリー牧場の栄枯盛衰

 ★クラシックを期待する馬だったか

 ★クラシックの期待は牧場の空気まで変える

 ★考えもしない負け

 ★ダービーにつきまとった「三」という数字

 (続く)

 因みにギムレットの皐月賞(あの物議を醸した)の騎乗者は四位騎手でした。          

 ***********


 ★カントリー牧場の栄枯盛衰


 昭和45年秋から、平成12年までカントリー牧場は、長い眠りのなかにあった。当牧場の生産馬タニノムーティエが、第37回日本ダービーを制したあと、実に30年間という沈黙である。

 この間、タニノの馬名を持つ同牧場生産馬は、タニノチカラという遺児の活躍(昭和48年天皇賞、49年有馬記念)を唯一の例外として、ダービーどころか、他のクラシックにも、目覚める気配もなく眠り続けた。

 カントリー牧場の登場と、それに続く生産馬の大暴れは、衝撃的だった。

 昭和38年、長い歴史を持つ、北海道静内、牧場地帯の一隅に、谷水信夫氏という牧場経営には素人のホースマンが、突然、30ヘクタールという広大な牧場をつくってしまったのだから。

 それにこれまた、サラブレッドの生産経験もない、元国鉄職員の西山末吉を場長にすえたのである。これだけでもう、周囲の嘲笑が聞こえる。
 やり方は、谷水式スパルタ調教。馬は牧場時代から鍛えなければ、という信念だ。この一念で突っ走ったのである。

 「そのハードさは、語り草です。なにしろうちの牧場に豚をもってきて、それも馬と同じように走るようにしろ、と先代が冗談を言ってるのを聞きましたからね。とにかくきつい調教でした」と、かつて先代の場長、西山清一さんは言っている。

 この猛烈調教がいきなり開花し、カントリー牧場が、初年度生産馬でダービー(昭和43年タニノハローモア)、皐月賞(同年マーチス)を制したのだから、みんな驚いた。

 でもまだ半信半疑で、ただの幸運という評も多かった。その冷たい目を打ち砕いたのが、昭和45年クラシックに名をとどろかせた、タニノムーティエである。このカントリー牧場の最高傑作は、なんなくダービー、皐月賞の二冠馬になった。

 しかしこれが事実上の最後の花火で、カントリー牧場産、タニノの馬は、クラシックから遠ざかってしまった。
 その第一の原因は、昭和46年冬の、谷水信夫氏の不運な交通事故死である。子息・雄三氏が受け継いだが、カリスマ的大将を失ったタニノ軍は、言ってみればナポレオンを失ったフランス軍だ。四散はしないまでも、すべての力も幸運も失い、眠りについてしまった。それがなんと、30年も続いたのである。
 その間オーナー(も牧場の人たちも)は、「歯をくいしばって耐えた」(谷水オーナー)というが、ふざけて言うのではないが、歯も30年くいしばれば、ぼろぼろになるだろう。ものみな起伏あり、栄枯盛衰は世の理だが、なんと長い枯衰だったことか。

 タニノギムレットは、そんな深い眠りをむさぼるカントリー牧場で、平成11年春、生まれた。ただこの馬の幸運は、眠りといっても、すでにカントリー牧場は、もっとも深い、真っ暗の時間は過ぎ、オーナーや場長の意識も活性化した、いわば目がさめ、立ち上がる目前のひとときにあったことだ。

 「5月4日の夜でした。予定通りの出産で、まあ安産でしたね」(西山貴司現場長)
 その第一印象を、西山場長は、「生まれたときから、骨太の丈夫そうな馬だな、と思いました。そして顔は母親似、体は父ブライアンズタイムゆずりの、いかにもがっしりとした体型でした」 この印象は、谷水オーナーのコメントでもわかる。特に顔、中でも目が、「半白がある」(谷水オーナ)ことでも、母親の血統を伝えるものだった。そして体は、場長が語るように、父ブライアンズタイムの産駒に共通する骨太で雄大な体型を、受け継いでいた。

 「このときの第一印象が、やはりその後も大きな意味を持つものになりました。がっしりとした体格で、ひと目で【力馬】だと思いましたが、このイメージがレースでも出ましたから」(西山場長)
 また牧場時代のことは、すべてポジティブな想い出しか残っていないと、西山場長は言う。「とにかく体は丈夫、気持ちも素直で、手がかからない馬でした。はじめ母親と一緒にいるんですが、このときも素直でおとなしくて、変にぐずるところもなかったし、いつも元気でした。また好き嫌いもまったくなかった。食べものもそうだし、どんな天候でも、何をするにしても、嫌がることはなかった。乳離れしたあとも、人間の言うことをよく聞いて、てこずらせなかった。大きな病気や怪我の記憶もありません」

 これを聞くと、ほんとうに順調そのもの。過ぎるくらいである。天邪鬼の筆者など、これだと個性がどうのと、書きづらいので、なにか大きなマイナス面をとしつこく聞きただしたが、西山場長は困って答えなかった。
「ただ、同期のタニノカプリースとの比較では、カプリースのほうが、トータルではいい馬だと思いました。この年、うちの牧場では牝馬が少なくて、4頭しか生まれなかったんですが、その中では、カプリースが抜けていい馬でした。サンデーサイレンス産駒ということもあり、皮膚がうすく、動きも機敏で、いかにも才能がほとばしる印象がありましたからね。それとはギムレットは対照的な存在でした」 

 続く。

●絶好のチャンス。

 ●「ものを考えるのは、ある意味で、例外的状況あるいはアブノーマルな事態から考えることです。
 たとえば、誰でも重い病気になると人生について考えますね。
 ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、ものを考える上での基本的な姿勢だと思うんです。〔略〕・・・」

 柄谷行人 『戦前の思考』の中の1章− ★議会制の問題(早稲田での講演)の冒頭である。

 以下要約すると・・

 「・・・たとえば、経済学に関して」「考えるためには、例外的な事態、つまり恐慌から見なければならない」だから「マルクスはそこから」考えた。
 心理学のフロイト、政治学のカールシュミットもそういう思考に務めた。

 カール・シュミットは(途中失脚したが)ナチの理論家であり、戦後の自己批判(弁護)は「見苦しいだけ」だが、彼には「われわれが無視できないような洞察」がある。・・・
 (*一部「読書日記」にアップしました。)

 以下柄谷はシュミットの『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)を引きながら、議会制、民主主義、自由主義、多数決について興味深い論を述べているが、それは後ほどとして、今は「経済学に関して」「考えるためには」絶好の(格好の)「例外的な事態」に見舞われているので、それについて先ず、一言。

 ●LTCM について、思い出してほしい。

 以下はウイキペディアからの引用だが、登場人物や法人に注意しながら読んでいただきたい。

 ***************
   

 ●Long-Term Capital Management(ロングタームキャピタルマネジメント、通称:LTCM)は、かつてアメリカ合衆国コネチカット州に本部をおいて運用されていたヘッジファンドである。日本語に訳すと、「長期間(long-term)の資本管理(capital-management)」となる。

 ●創業と当初4年間の成功 
 LTCMはソロモン・ブラザーズ(現在はシティグループの一ブランド)で活躍していた債券トレーダーの★ジョン・メリウェザーの発案により設立され、1994年2月24日に運用を開始した。このファンドはFRB(アメリカの中央銀行)元副議長★デビッド・マリンズや、ブラック-ショールズ方程式を完成させ、共に1997年に★ノーベル経済学賞を受けた経済学者であるマイロン・ショールズと★ロバート・マートンといった著名人が取締役会に加わっていたことから「ドリームチームの運用」と呼ばれ、当初より12億5000万USドルを世界各国の証券会社・銀行などの機関投資家、富裕層から集める事に成功した。メリウェザー自身は25億ドルの資金を集めることが目標であったが、この募集金額は、ファンド創始時のものとしては史上最高額となるものであった。

 これはマリンズの加入によって民間のファンドでは通常ありえない投資資金の流れが生まれたためである。主なものとしては、香港土地開発局、シンガポール政府投資公社、台湾銀行、バンコク銀行、クウェート国営年金基金、イタリア銀行などがある。日本では住友銀行が1億ドルをLTCMに投資していた。
また著名人も数多くLTCMに投資した。ハリウッドエージェントのマイケル・オビッツ、ナイキのCEOであったフィル・ナイト、ベア・スターンズCEOのジェームズ・ケインなどが多額の資金をLTCMに提供した。さらにはセント・ジョーンズ大学、イェシバ大学、ピッツバーグ大学なども資金を提供したことから、いかにLTCMが世間から期待され信用されていたかが伺える。

 その運用方針は、流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていない事に着目し、実力と比較して割安と判断される債券を大量に購入し、反対に割高と判断される債券を空売りするもの(レラティブ・バリュー取引)であった。コンピュータを用いて多数の銘柄について自動的にリスク算出、判断を行って発注するシステムを構築した。また、個々の取引では利益が少ないことから、発注量を増やし、レバレッジを効かせて利益の拡大を図った。その後、1995年にはM&A、1996年には金利スワップ取引、1997年には株式やモーゲージ取引のように、低流動性かつ不確実性が高い市場取引にも参入していった。

 特定の市場や国などに攻撃を仕掛けるマクロファンドと異なり、市場に対して中立的な方針をとるこのファンドの運用は1998年初めまで成功し、当初の投下資金は4年間で4倍に膨れ上がった。平均の年間利回りは★40%を突破した。結果としてLTCMへの信用が高まり、資本金65億USドル程度の会社が、UBSなど各国の金融機関の資金1000億USドルを運用するという状態にまでなった。

 ●破綻
 しかし1997年に発生したアジア通貨危機と、そのあおりをうけて1998年に発生したロシア財政危機が状況を一変させた。アジア通貨危機を見た投資家が「質への逃避」をおこしつつあったところへロシアが債務不履行を宣言した事により、新興国の債券・株式は危険であるという認識が急速に広がり、投資資金を引き揚げて先進国へ移す様になったのである。LTCMの運用方針では、このような動揺は数時間から数日のうちに収束し、いずれ新興国の債権・株式の買い戻しが起こることを前提としており、それに応じてポジションをとった。これはブラック-ショールズの式に基づいた考えであったが、これらの経済危機によって生まれた投資家のリスクに対する不安心理は収まらず、むしろますます新興国・準先進国からの資金引き上げを加速させていった。先進国の債券を空売りし、新興国の債券を買い増していたLTCMの経営は深刻な状態となった。

 結果としてLTCMの運用は破綻し、資産総額が下がり始めてから約8ヶ月の間で1994年の運用開始時点の額を下回り、同年9月18日ごろには誰の目にも崩壊寸前である事が明らかとなった。

 ●救済
 だが、前述の通りLTCMは欧米の金融機関から投資された1000億USドルもの資金を運用しており、さらには1兆USドルに上る取引契約を世界の金融機関と締結していた。そのためLTCMが崩壊すると、ただでさえ前述した経済危機により不安定となっていた金融市場に多大な影響を与え、恐慌への突入も危惧された。また、その成功を見た多くの金融機関がLTCMの運用手法を模倣しており、それらも多大な損失を生み出していた状況であったため、なおさらのことであった。

 そのため、一私企業の救済は自由経済の原則にそぐわないとして反対する声を押し切り、★ニューヨーク連邦準備銀行の指示によりLTCMに資金を提供していた15銀行が、LTCMに最低限の資金を融通し、当面の取引を執行させて緩やかに解体を行わせていく事にした。またアメリカにおいては★アラン・グリーンスパンの指示により、短期金利のFFレートを1998年9月からの3ヶ月間で3回引き下げるという異常なまでの急速な対応をとり、LTCM破綻危機により拡大した金融不安の沈静化を図った。

 これらの行動を受け、日本でも同様に1999年初めに金融恐慌を発生させないため(日本長期信用銀行・日本債券信用銀行などの破綻の影響もあったが)、銀行への公的資金注入と、ゼロ金利政策の実施がなされている。
 ただし、この救済融資は、融資先がヘッジファンドという従業員個人の才覚が財産であるという性格の社団であるため、日銀特融のような単純な緊急融資ではなかった。例えば、パートナー(運用者)らは、返済まで3年間は退職することは許されず、ボーナスや運用報酬はほとんどゼロというトレーダーには屈辱的な契約を結ばされた。

 また、この危機の最中にジョージ・ソロス、ウォーレン・バフェットという世界的な投資家やゴールドマン・サックスなどの巨大投資銀行がLTCMのノウハウを独占するために、共同あるいは単独で、足元を見た買収を打診しており、この「救済」もFRB主導で行われた事実上の買収だったのでは?という見方も出ている。当然のことながら、この一連の危機でLTCMのノウハウはすっかり流出してしまった。

 ジョージ・ソロスや投資銀行が、アジア危機、ロシア危機の余波を受けて身動きが取れなくなったLTCMを陥れるため、意図的にエマージングマーケットに売りを浴びせ「質への逃避」を加速させたとの説もある。中心人物であったジョン・メリウェザーは負債清算後に開業した「JWMパートナーズ」の説明会で「自然災害に対して保険を掛けるのは理に叶っている。しかし、相場の暴落に対して保険を掛けるのは間違いである。なぜなら、★彼ら(保険の契約相手)は暴落を引き起こす能力を往々にして持っているからだ。」と意味深なコメントを残している。

 ●その後
 LTCMに対する36億USドルの緊急出資のうち、9割が1999年中に返還された。これは想定されていたよりかなり前倒しの結果である。発案者のジョン・メリウェザーは、LTCMを清算した直後「JWMパートナーズ」という新しいヘッジファンドを開業し、2007年2月に起きた世界同時株安で円キャリーの撒き戻しによる為替取引で利益をあげた。

 *************

 LTCM「自爆」の被害は日本・アジア・中南米のマーケットに及んだが、一番の被害者は各国の納税者(主に中流階級)達だった。***

 
 お薦めは●田中宇の国際ニュース解説
     http://tanakanews.com/080915Lehman.htm  
     http://tanakanews.com/080922bank.htm
 
 *************               

 以下は、主に広瀬隆の『アメリカの経済支配者』とウィキペディアによる補記。

 
 ★ジョン・メリウェザー
 元ソロモン・ブラザースの副会長で、ソロモンでの国債の不正入札が発覚して辞任に追い込まれ、LTCMを設立した。そのとき経営に参加したのが★デヴィッド・マリンズで、彼は株価暴落に関する大統領特別委員会の事務局長を務めたいた。
 マリンズはFRB副議長当時、議長のポール・ボルカーの部下だったから、マリンズから国策情報がメリウェザーに筒抜けとなって、<マリンズ=メリウェザーのコンビ>で↑の国債不正入札がおこなわれたと考えるのが自然である。
 日本の金融機関は、もちろんソロモンが扱っていたアメリカ国債を大量に買わされたが、その時に、1ドル=80円!という円高に誘導して日本の金融機関をオダテあげたのが<FRB+ソロス>であった。

 ★ロバート・マートン
 マートンはサミュエルソン理論の研究者で、日興証券とソロモンを買収したトラヴェラーズの投資部門の重役でもあった。マートンのドイツ語読みはメルトンだが、ロスチャイルド財閥のドイツ最大の金属カルテル〔メタルゲゼルシャフト〕の創業者ファミリーのメルトン家の一員である。
 またサミュエルソンの甥が、日本に圧力をかけ続け、世銀幹部からクリントン政権の財務長官にのし上がったローレンス・サマーズである。彼らは単なる学者先生ではない。

 ★マイロン・ショールズ
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
 

 『イギリス歴史の旅』から続ける。
   

 ★あたらしい眼鏡−ワーズワスの登場 

 ワーズワスの生まれた年は大陸ではベートーヴェン、ヘルダーリン、ヘーゲルの生年であり、ナポレオンはその前年生まれである。またイギリスで産業革命が始まったのはほぼこの頃であり、フランス大革命が起こったのは19年後である。コールリッジとの共作であり、ロマン派宣言となった処女詩集『抒情譚詩集』の出た1789年は、 ベートーヴェンの『悲愴ソナタ』の年であった。大陸ではすでに大革命につづいてナポレオン戦争がはじまっていた。

 ワーズワスはイギリス人の自然観をつくりかえた。イギリス人だけでなく、今日のわれわれの自然をみる眼にも、実はどこかでワーズワスの影がさしている。彼も若いときはピクチャレスク美学の影響を受けた時期があったが、やがてそこから抜け出す。「イングランドの谷やウェールズの山を見るときに、クロードやプーサンやサルヴァトール・ローサを忘れよと作家たちに教えたのはロマン派の運動だった」(マーガレット・ドラブル『風景のイギリス文学』奥原宇・丹羽隆子訳、研究社出版)が、その先頭に立ったひとりがワーズワスだった。

 ワーズワスは自然のなかに視覚的なおもしろさを発見するよろこびよりも、精神的なものを見出そうとする。自然は不完全で芸術によって補正されるような存在ではなく、あるがままの自然のなかにこそ神があるのだという見方に到達する。(参照:「ティンタン修道院の河上にて」『抒情譚詩集』収録。)・・略・・

 彼はまったくの自然児として育ち、幼時から登校前に8キロの湖を1周するという、まえにもふれた健脚を生かして、この池の隅々まで知りつくし、羊飼いの暮らし向きから小鳥の巣、果実やきのこのありかにいたるまで通じていた。夜間、ボートを失敬して湖心に出たとき、山に追いかけられて逃げるといったいくつかの幻覚体験は、こうした自然との交わりのなかから生まれている。

 1799年にワーズワスは故郷に帰るが、その前に1年を過ごしたオールフォックスデン(サマセットシァ)の丘陵地帯でも彼は憑かれたように夜も昼も歩き回った。10キロばかり離れたネザー・ストウィーに親友の詩人コールリッジが住んでいたこともあった。キャンプ用具や望遠鏡、ノートまで携えての長い散歩は彼の北国なまりとともに土地の人から怪しまれる材料となり、フランスのスパイの疑いをかけられて、当局の取り調べを受けたりもしている。

 また、それに先立って★1790年、ケンブリッジ在学中に100日間の大陸旅行を試みたときも、徒歩旅行だった。学友たちは彼の企てを狂人じみているとみなし、彼も後見人の叔父にはそのことを伏せて行動し、最も信頼していた妹ドロシーにもフランスに着くまでは何も知らせなかった。それも道理で、18世紀末というこの時代、徒歩旅行者はどこでもうさんくさい眼でみられたのである。旅は金持ちであれば自家用馬車で、それほどでなければ荷馬車、もっと下の層は馬に乗って出かけるのがふつうで、徒歩旅行というのは例外的だった。徒歩旅行者は浮浪者か無法者扱いされ、宿にありつけないことも稀ではなかった。囲い込み運動や工場の機械導入によって土地や仕事を失った人びとが激増した時代である。彼の詩に、つましい暮らしの人びととならんで、放浪者や無宿人、乞食が共感を込めて登場させられるのは、そうした時勢の反映であるとともに、彼の共感の方向を示す。彼は〔歩く人〕であり通すことによって「異界」に身を置き、そのことがなまの自然ともろに向き合うことを可能としたのではないだろうか。羊飼いはピクチャレスクのお好みの題材のひとつだったが、羊飼いの四季の暮らしをワーズワスほど知悉している文人はいなかった。それが彼の自然観の根源性を保証する条件のひとつとなったのである。

 もうひとつ、彼の精神的外傷を医(いや)してくれたのが自然、とりわけ故郷の自然だったことがある。彼はケンブリッジ大学を卒業した1791年、大革命の3年目に入ったフランスに行き、ほぼ1年間滞在するのだが、その間革命派のジロンド党に共鳴し肩入れする。しかし、革命の成りゆきは彼の希望を裏切る方向へと進み、大虐殺や大量処刑によって期待は幻滅に変わり、さらにイギリス政府の対仏宣戦によって、彼のなかの愛国心との相克に若しむ。そしてナポレオン軍が国土防衛から対外侵略に移ったことによって、彼のフランス支持の気持ちは完全に冷却する。それが1798年頃のことだが、1802年頃になるとさらに進んで反革命義勇軍の組織化に奔走したりすることになる。

 これは多感なインテリ青年にはありふれた転向体験かもしれないが、実際に幾度も流血の現場に立ったという体験はそんなにありふれたものではあるまい。それに彼にはもうひとつの心の傷があった。オルレアンでフランス語を教えてくれた6歳年上のアネット・ヴァロンと恋に落ち、妊娠した彼女を残して帰国したのである。生活資金がなくなったからとも、危険が身に迫ったからとも、さらにはアネットの実家である王党派の名門一家の、彼らの結婚への猛反対があったからともいわれる。そのすぐ後アネットは女児を出産する。彼女らのことはワーズワスにとって大きな屈託であったにちがいない。翌1793年危険を冒して短期間渡仏しているし、さらに9年のち幼な友達だったメアリ・ハッチンスンと結婚する際、妹ドロシーとともにフランスに渡ってアネット母娘と会っている。・・略・・
 
 ★救われたミル


 こうしてワーズワスは自然の力をかりて自己救済を遂げるわけだが、彼の詩と思想には他人を治癒し救済する力もあったらしい。そのもっとも顕著な例はヴィクトリア時代を代表する思想家であり、経済学者であったジョン・スチュアート・ミル(1806〜73年)である。
 
 ミルは父ジェイムズの手で徹底した早(期)教育を施され、忠実な哲学的急進主義者となった人であるが、そのせいか、20歳の頃(1826年)に非常な精神的危機に陥ったことはよく知られている。自分たちのやろうとする制度や思想の改革に意味を感じることができなくなり、何を見ても聞いても鬱々として楽しまなくなる。そうしたある日ワーズワスの2巻本の詩集(1815年)を手にし、それこそが自分の必要としているものであることを知った。それは自分の好きな田園の風物や自然の風景をうたっていることもあるが、それだけならどんな詩よりも「二流の風景画でも見る方がまし」で、「ワーズワスの詩が私の精神状態に効く薬となったのは、それらが単に外面美ではなく、その美に刺激されて生じた感情状態、およびそうした感情に色づけられた思想状態をも表現しているからだった。それこそが私が求めてきた感情の陶冶だったのだ」(「ミル自伝』は朱牛田夏雄訳で岩波文庫に収録」)。

(★注:私が引用する『ミル自伝』は、村井章子訳−みすず書房2008年1月刊−に拠ります。)
 
 ミルの自伝には複雑な成立史上のいきさつがあって、父の異常な早教育のありかたに批判的な書き方をした最初の草稿にミル自身が晩年かなり手を加えたうえ、死後遺族による改竄があったりもして、ワーズワスの影響についてもそれをどの程度重くみるべきかは必ずしも簡単には判断できない面がある(由良君美「J・S・ミルにおける文学的なるもの」『思想』1973年12月号)。ついでながらミルと父の関係、ミルの妻となったテイラー夫人やその連れ子で改竄の「犯人」と目されるヘレンの、ミルヘの影響のほどは、それ自体が、人間くさいものに興味をもつ人にはこたえられぬおもしろいテーマである。

 とはいえ、ワーズワスの詩との出会いがきっかけになって、功利主義一辺倒の思考から脱け出し、あたらしいミルが誕生したことはたしかである。また自然と人間の適切な関係をめざしてゼロ成長(「停止状態」)を経済理論のなかに組み込み、それに積極的価値を認めるようになったこともロマン派の影響を思わせる。晩年いっそう自然に親しむようになり、終焉の地・南仏アヴィニヨンで、有名な昆虫学者ファーブルとよく植物採集に出かけ、植物図鑑の作成を企画したことなどもその延長と言え またミルは土地保有改革協会の設立(1870年)に当たっての有カメンバーであった。これは共有地の私有化(囲い込み)に反対するとともに、そこでの入会権・歩行権を確保し、とくに荒蕪地や大都市近接の共有地は私利のための開発をゆるさず、野生のままに残すことをめざす最初の有力な運動体だった。ミルは当初、農業改革のため荒れる一方の共有地を囲い込んで私有下で土地改良を推進させるという立場をとっていたが、やがて考えを改めて、人間と自然とのふれあいの重要さを強く認識するようになる。これもワーズワスやコールリッジの落とした影といえないだろうか(杉原四郎『J・S・ミルと現代』岩波新書。)

  続く。

 ★この記事は「読書日記」の ●原爆投下 の紹介が一区切りつき次第そちらに移転します。
 


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