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 ●『私は外務省の傭われスパイだった』 から追加。
 

 【・・・ 外国籍囚人のなかで、私が一番同情したのが、韓国系米国人の金天理だった。
 私と知り合ったとき、彼はすでに60歳前後になっていた。

 彼と彼の周辺の人だちから聞いた話によると、90年代前半、中国海南省のある現職検察官が、
 死刑囚の臓器売買事件に関わったとして米国で逮捕された。
 中国当局は救出するため、社会的地位のある米国人を捕まえて、彼を交換する方法を決めた。
 そのターゲットを金に絞った。

 金はシカゴのコリアンマフィアのボス格で、いくつかの企業を所有する大金持ちだ。
 彼は中国人映画女優、コン・リーの大ファンで、周辺にいつも、
 「コン・リーと1晩を過ごせるなら、3百万元(4千5百万円)を払ってもいい」
 と豪語していたという。

 ある日、中国人の知人から、
 「コン・リーとの密会を手配できた。お金を持って北京に来てほしい」
 との連絡を受け、早速北京に向かった。

 しかし、これが中国側のわなで、空港で彼の荷物がすりかえられ、
 ホテルの部屋に着いたとたんに警察に踏み込まれ、麻薬密輸容疑で逮捕された。
 荷物の中で発見された麻薬が大量だったため、執行猶予付きの死刑判決を受けた。
 もちろん、中国測の本当の狙いは、米国との交渉で彼を海南省の検察官と交換することだった。
 しかし、その後、米国で行われた裁判で、中国人の現職検察官は証拠不十分で無罪釈放となった。

 米国人と交換する必要はなくなったため、金は中国の刑務所から出られなくなったというわけだ。
 彼はその後、減刑で無期懲役となったが、今でも刑務所の中に入っていると思う。

 彼はいつも私に、
 「麻薬は米国で高く売れるのに、リスクを冒してわざわざそれを中国に持って来る人はいない」
 と自分の無罪を主張していた。・・・中略・・・

 2005年末、報道で上海総領事館の電信官自殺事件を知った。
 上海総領事館の外交官が上海のカラオケ店の女性と親しくなり、それを公安当局に知られて、
 外務省側に言わないことを条件に、電信の暗号解読表や館内の名簿などの機密を要求された。
 その電信官は悩みに悩んだ末に、「国家を売ることはできない」として、
 総領事や国内の家族ら数人に遺書を残して、総領事館内で首吊り自殺をしたという事件だ。

 この事実を外務省は「フライバシーに関わる」などとして、まったく公表しなかったが、
 週刊誌で報じられ、その後、新聞がこぞって後追いの報道を行った。

 これらの記事を読んで、私は自分か中国の国家安全省で取り調べを受けていたときのことを思い出し、 電信官に深く同情した。
 総領事館の上司も仲間も力になってくれず、自殺した電信官は、
 「自分ひとりの力で中国の巨大な国家権力と対峙できない」という無念さがあったはずだ。

 「国を守りたい」と自ら死を遂げたが、その死も「事なかれ主義」の外務省によって隠されて
 しまった。

 私の事件がまた、繰り返されたと思った。
 私も外務省の「外交ルートによる救出」を心から期待していたが、まったく動いてくれなかった。
 中国の刑務所で過ごした7年弱の間ばかりでなく、出所後の今まで、外務省は何もしてくれなかった。

 私の行動は中国の法律に違反したため、7年足らずの刑務所生活で責任を取った形となったが、
 日本に帰ってきて、責任を逃れるため、私から逃げ回る外交官たちの姿を見て、この人たちに
 国の外交を任せられないと思った。
 当初、外務省のために情報を収集したとき、

 外交官たちが私にかけてくれた言葉は、みな嘘だった。

 「国益のため」 と言って私に近付いてきたが、結局、彼らの頭の中にあったのは、
 私に良い情報を取ってもらい、自分たちの出世につなげることだけだった。
 私が中国当局に逮捕された後、私の存在自体が彼らにとって厄介となり、まったく関係ないように
 装い、簡単に切り捨てた。・・・略・・・】  <了>

 <参考>
 http://blogs.yahoo.co.jp/karyudo111/30404141.html 
 

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                        左:『秘境西域八年の潜行』
                        右:既紹介の一冊

 ● 近刊『私は外務省の傭われスパイだった』・原博文 を読みながら、

 思いはしばしば『秘境西域八年の潜行』に記された<苦闘>へ跳んだ。

 日中戦争のさなか、軍の密命をおび、内蒙古、青海、チベットなど西域地区に潜入した

 外務省の1調査官ー西川一美。

 祖国敗戦後も孤立無援のままラマ僧の修業を続け、未踏の秘境を足かけ8年にわたり遍歴した

 想像を絶する体験記。

 昭和11(1936)年春、修猷館中学(例の『七つの金印』のあの福岡の藩校の後身)を卒業し、

 あこがれの<大満鉄>に入社、日中戦争勃発(1937年)と共に第一線の天津、北京、包頭に派遣され、

 昭和15年には大同(内蒙古)の華北消費生計所長のポストについた西川氏。

 しかし、「戦場の後方」での安穏な生活と学閥(満鉄内の)にたいする抵抗も手伝って

 「一大方向転換」をした。

 外務省のシナ西北地域に挺身する若人を養成する興亜義塾(京包線の厚和)に応募して合格。

 25人の同期の同志と共にシナ西北地方の研究に没頭する。・・・

 昭和25年(1950)6月13日「私の潜行八年の旅」が終わるまでの克明な記録で、

 興味尽きないものだが、 終章―「踏んだ祖国の大地は」に至って、ここには既に60年後の

 原博文氏が居るのが分かる。(休憩後続けます)

 ************** 
   

 『秘境西域8年の潜行 抄』  西川一美  中公文庫ビブリオ 2001・10・15 

 インド・ネパール篇
 3、初めて日本人と見破った軍人

 日本軍が前進も後退もできぬ深田のような嶮峻なこの地に足をつっこみ、もがき、足踏みしているうちに、英国はインド、ネパール人を徴発して、しだいにこの国境に軍隊を補充することができた。そのうえ米国からの兵器、物資の補充も空、海から物凄い量が投ぜられて十分防衛を固めることができ、日本軍はインド侵入に失敗したのである。(★あの、「天皇誕生日までに」で知られた牟田口主導のインパール作戦のこと)
 
 このインド・ビルマ国境の防衛に繰りだされたインド人達は、私にこんなことを話してくれた。

 「ビルマ国境の防衛に駆り出されて行って、これほど贅沢をしたことはなかったよ。家にいるときでさえもだから、君には分るだろう。食物、衣服、靴、なんでも、ないものはなく、まったく至れり尽せり、 「こんな贅沢はもう二度とできないだろうよ」
 「どうして、日本軍はビルマに進出して来たとき、嶮岨なビルマ国境の陸路を選び海路から進出して来なかったのだろうかと、私達も不思議に思っていた。もし日本軍が海路からインドに進駐して来たなら、戦わずして、あたかも無人の野を行くように、日本軍はインド平野に進出できたであろう。なにしろ当時インドには、英国兵といったらもぬけの空同様であったし、国内の民衆は独立の意気に燃えて、あらゆる好条件を揃えていたときだったからなあ・・・どうして選りに選って、ビルマから陸路を進出したものだろう?」
 
 日本の敗戦と同時にスバス・チャンドラ・ボース氏とともにインド独立を戦った将兵は故国に引き揚げて来た。当時なおインドを支配していた英国は、このインド独立軍の将兵全員を戦犯として軍事裁判にかけた。このとき終戦と同時に獄舎から釈放されたガンジー、ネール以下の幹部はもちろん、インド国民全員が立って弁護人となり、インド独立軍将兵の無罪を主張し、遂に彼らは勝った。戦犯などとは当然あるべき筈のものでない汚名を、インド人の中にはひとりとしてつくらなかった。私の会った将兵も、それらの一員であったのである。

 これらの事実と敗戦当時の日本人を比較して見ることも、また必要であろう。昭和25年インドから送還された私は、シンガポールからの祖国将兵の戦犯数名の人達と故国に第1歩を踏んだとき「ご苦労さんでした」の言葉のないのはもちろん、「俺達が引き揚げて来たときは、なにしろ石を投げつけられたのだからなあ・・・」と言う言葉を旧友から聞かされた。

 立場や勝敗はどうであろうと、いったん国のため、国民のために戦った人々を国民全員が温かい思いやりで迎え慰め合ったインドの国民と、軍隊はあたかも敵のように恨み迎えた日本の国民。これが私達の同胞日本人だったのだろうか? いったい自分は日本人なのだろうかと、疑わざるを得なかった。

 インドのパール博士が、東京の軍事裁判で、ただひとり戦犯反対論を説かれたことを多くのインド人から聞かされた。彼らはこのパール博士の説を、どれほどインド人の誇りとしていたことであろう。前述のインドの軍事裁判の結果でも分るように、インド人としては、まったくそれは当然過ぎるほど当然のことであった。
  

 4 昭和23年も暮れてゆく 略

 5 遂に捕われる      略

 6 踏んだ祖国の大地は

 4月の声を聞くと、南国の暑さはひとしお増し、囚棟内はちょうど蒸風呂に入ったように、じっとしていても汗が出てくるといった有様で、連日うだるような日を送り迎えていた。加えて、まさかとは思いながらも、特高課から、なんの連絡もないのは、私達がこのまま獄中で消えて行くのではあるまいか、という不安、あせりにかられていた。今さらのように捕えられたことを後悔せずにはいられなかった。
 しかし、5月に入って間もないある日、突然私達の上にも明るい灯がさしてきた。事務所からふたりに呼び出しがかかったからである。そこには待望の特高課の連中が、笑顔をもって迎えてくれた。それによりほぼ察しられたが、
 「長らく待たしたが、貴国から回答があったので、5月12日カルカッタから日本へ向かって船で帰ってもらうことになったから」
と聞かされ、私達の喜びはどんなものであっただろう。が、なにかしら物悲しさを覚えずにはいられなかった。ほんとうに複雑な感慨であった。

 投獄されて8ヵ月目、昭和25年5月中旬、娑婆の風を満喫したふたりはジープでカルカッタの港へ連ばれ、「サンゴラー」という英国船の船上の人となった。白衣のインド服で身を包んだ私の傍には、長年私と共にあったチベット服、インド服、経典、印、回、英、蔵、支辞典と参考書、ガオー、数珠、ダンバル、骨箱、椀、毛皮の敷物をまとめたウールグが、大陸からの唯一の土産となっていた。しかし懐は1文無しだった。

 長く尾をひく汽笛と共に、船はカルカッタの港を離れた。白く泡立つ水上を呆然と見つめていた。実に感慨無量だった。私はこうして8年さまよい歩いた大陸と、おさらばしたのである。

 船は静かにカモメの飛び交うガンガ河を下って行った。
 そして船内の生活1ヶ月・・・
 昭和25年6月13日の朝、サンゴラー号は神戸の岸壁に横づけになった。

 祖国の土、本当に生きているのだと、その大地をさわってみた。神戸復員局の人々の出迎えを受け、青畳の上に坐り味噌汁をすすったが、風呂のもてなしを受けたときは、思わずうなり、温かい祖国の味を満喫したのである。変わりない祖国の山河が私を抱いてくれたのは蒙古を出て8年、祖国を出て15年目だった。

 しかし迎えてくれた夢に画いていた祖国は、幽霊将軍マッカーサーが天皇に代わってふんぞりかえり、幾億という血税を吸った官吏が娑婆でしゃあしゃあとしているとか、職業的となった大臣、代議士が民主主義をふりまわし、古来から培われた美しいものをすべて古くさいと片付け、奔放な自由を、自由主義だとかわめいたりしていた。雀の巣のような頭をして白人、黒人の手にぶら下がり、あるいはその子供を抱えているのが、最上の文化民だと往来を闊歩して  いる婦女子もいた。溌刺たる意気のやり場に迷っている若人、芋や大根の葉っぱで苦労したとこぼす、本当の苦労を知らない人々、頭だけ大きくなって足が地についていないインテリとジャーナリストの絶叫、精神病院の鉄格子の檻の中にひしめきあっている人、人、人、人の群れ、だった。
 

  故郷への切符と1枚の千円紙幣を握らされた我々は、千円紙幣にびっくりし、

 「どうか十円紙幣の細かい金にかえて戴けますまいか」
  と係員に願い出たら、笑って相手にされなかったのもその筈。

 神戸駅前の1杯のみ屋で木村君と互いに別れの盃を酌みかわしたら

 <銚子1本百円也!>だった。
 
 ★10 聖地ラサの裏街道 は「読書日記」でどうぞ。
     http://2006530.blog69.fc2.com/

 ●1945年6月1日、略奪金塊財宝で戦後日本は成り金大国に!

  その瞬間の場面を前述のアメリカ人作家シーグレーヴは★著書で次のように紹介している。

 地下貯蔵サイトに仕掛けたダイナマイトは予定時刻に爆発した。地下およそ70メートルのトンネル「8号サイト」と呼ぶ地下倉庫。その地底には「万歳!」を叫び、別れの宴に酔い痴れる175名の陸軍将官たちがいた。日本陸軍がフィリピン全域に設けた175ヵ所の地下貯蔵サイトの責任者たちだ。彼らはおのおのの持ち場サイトを爆破処理した上で、最後に残されたメインの8号サイトに全員集結していた。そのサイトの出入口が予定時刻どおりに爆破されたのだ。

 出入口は崩壊、175名の将官全員が、倉庫内に山積みした金の延べ棒入りの木箱や青銅製の頑丈な箱に押し潰され土砂に生き埋めにされて死んだ。騙し打ちに会ったに等しい彼らにとっては、意図せざる殉死だった。爆発直前に地下倉庫からエレベーターで地上に昇り、地鳴りを感じながら山道を足早に去る3人の男たちがいた。終戦直前の1945年(昭和20年)6月1日深夜の出来事だった。この場面はシーグレーヴが生き証人から聞き出した話をもとに書いたものだ。

 日本は敗戦を認める2ヵ月前のこの瞬間に、世界史にも類を見ない知られざる。成り金大帝国の地位を確定づけたとも言える。日本陸軍がアジア12力国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヵ所のトンネル地下サイトに隠し終えたからだ。最後に爆破した地下倉庫8号サイト1ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦特に世界1の金塊保有量(公称3千数百トンを誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定になる。

 残る174ヵ所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。2008年(平成20年)2月現在、175ヵ所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は末確認だが、現地の信頼できる筋は、アメリカClAとイギリスの情報機関MI―6がここ15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。バチカン名義分1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン(後述)だと私に語っていた。ちなみに1945年の終戦から、ほぼ40年後の時点で世界の金の公称総生産量は年間約1900トンだ。

 世界が為替の固定相場、金本位制(1971年ニクソン大統領が金本位制を廃止)を続ける限り、日本は戦争の勝敗とは無関係に国民は路頭に迷うこともなく、廃墟の中に埋没もせずカネには困らない国になる。国際法上はこの略奪巨大金塊は、連合軍、フィリピンの所有になる。だが、1945年(昭利20年)6月1日深夜は、戦後の成り金大国日本をトリッキーに保証するという象徴的な夜になった。が、このトリッキーな事実は戦後半世紀を過ぎても国家の主権者であるはずの日本国民には何一つ明かされていない。つまり、表面的には金塊財宝の秘蔵は国民を裏切ったままなのだ。何も知らない国民は敗戦でカネも私有財産も失い、食い物にもありつけず、貧困の極みの中で路頭に迷いながら必死に生きつづけてきたというのに。

 だが、実際には日本政府はこの隠し金塊を密かに換金運用してきた。そうやって日本は戦後の経済大国に伸し上がった。しかし、政府はそんな事実を隠しつづけた。
 60年前に蓄積した巨額な金塊と財宝は、殉死した将官たちが描いた戦後日本繁栄の夢を裏切らなかったが、戦後の国民は裏切られたままなのである。

 ●175名将官の生き埋め爆破現場から立ち去った陸軍中佐・竹田宮(キムス)と山下奉文大将

 さて、8号サイトを爆発処理した深夜の現場の情景を証言した人物は、フィリピン人のベン・バルモス・ハーミン。地下倉庫地が予定どおり爆破される時刻の直前まで、日本人2人と地下倉庫にいて、足早に去った3人のうちの1人だ。ベンのこの体験談を公開したのが、アメリカ人報道作家スターリングとペギーのシーグレーブ夫妻たち。2人は2003年(平成15年)発刊の著書『ゴールド・ウオリアスー山下財宝のアメリカ秘密回収』(末邦訳、『黄金侍たち』とても呼んでおこう)で、爆破場面を、ぞっとする生き埋め事件と表現した。

 ベンは一緒に8号サイトから一足先に立ち去った2人の日本軍人の名前も明かした。戦後半世紀余り日米間に潜みつづけてきた日本成り金大国の秘密が今、公の場に曝されたのだ。この事実を公開したアメリカ人作家達は金塊と財宝のみならず戦後史を今も私物化している正体不明の組織と人物たちから今、脅迫を受けていると嘆いている。

 ベンの話では1945年6月1日深夜、ベンと連れ立って8号サイトから立ち去った2人の軍人のうちの1人は昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐・竹田宮恒徳(つねのり)。もう1人は連合軍からフィリピン防衛を指揮した陸軍大将・山下奉文(ともゆき)だったと作家たちに語った。
 8号サイトを破壊したその日からおよそ3ヵ月後、山下陸軍大将はキアンガン山中の本拠地を下山、米軍のジャック・ケンワンジー陸軍中佐に軍刀を渡して投降、マニラ郊外のビバリッド刑務所に収監され、竹田は6月に潜水艦で日本へ帰国した。・・・略・・・

 ●アジア全土から略奪した金塊財宝の秘匿作戦総司令官が陸軍少将・秩父宮

 秩父官は1943年にマニラで開かれた会議に、キムスにお供して出向いた際にベンが会った人物だった。アルバムには東久邇宮稔彦の顔もあった。キムスやほかの宮たちが陸軍少将秩父宮をチャコと呼んでいた記憶もベンは思いだした。秩父宮は時折真っ白なハンカチを口に当てていた。咳込むごとにそのハンカチが鮮血に染まる場面も思い出した。喀血なのだろうか。マニラで開かれた会議の目的をベンは最初知らなかった。

 会議の内容は天皇の名のもとに、陸軍と組織化された日本のヤクザ集団たちが中国の地下組織と組んで、アジア12カ国の政府の金庫や民族の祖先を祭る墓所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所を漁っては略奪してきた金銀財宝(「金の百合」)をフィリピン全域の地下施設に隠す手順と進捗状況を確認するためだった。
 キムスがチャコと呼んだ秩父官はアジアで金塊と財宝の秘匿作戦の総司令官を務めながらマニラ市外の地下サイトの監督責任者も兼務していた。キムスこと竹田宮は日本軍がアジア大陸と南アジアの島嶼国から強奪してきた財宝類を最後の集積地フィリピン全域に設けた175ヵ所の地下サイトに退蔵する作業を監督する第二司令官を務めていた。第一司令官はアジアの陸地と島嶼から集めた財宝をシンガポールに集めて管理指揮する秩父宮だった。

 ベンとキムス(竹田宮)の出会いは偶然だった。
 シーグレーヴの筆法によれば、初対面でキムスが即座に信じたのはベンの家族に対する素朴でひたむきな思慕の念や何よりもベンの実親に対する絶対的服従熊度にあったようだ。当時17歳のベンの日常は平穏だった。フィリピン山間部のバンガシナン集落で家族と暮らしていた。
 しかしある日、米陸軍の新兵として地方軍に動員されたベンの父親エスティバンは、射撃訓練中に薬莢が左目に当たって失明した。
 その後、寒村バンガシナン周辺は日本軍に制圧され、父エスティバンは捕虜となる。父親がわりの長男ベンは家族を連れて村を離れ、伯父の住むデュラオの村へ疎開することになる。
 1943年1月、ベンがいつものようにサトウキビを刈っていると、突然目の前に現れた日本兵に銃を突きつけられて「サン・アントニオ部落へ行くにはどう行けばよいのか」と聞かれ、その方向を指すと「そこまで案内するように」と上官らしき男はベンに命令した。
 「父の許しがないと行けない」と断ると上官は「ならば、父親のところに案内せよ」と言う、ベンは頷いた。この上官がアダチこと山下奉文で、このとき一人だけ白い軍服をきた青年軍人がキムスこと竹田宮だった。(一部、略・要約しています)

 ●明かされたフィリピンー175ヵ所の金塊財宝の秘匿地下サイトの実体

 ベンはその前線基地で異様な光景を見た。サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵の数よりも争い民間の専門家たちが寝起きするのが目についたのだ。軍隊本部なのになぜこれはどの数の民間人が働いているのか。ベンは日を重ねるうちにその理由が飲み込めた。天然洞窟の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人たちだった。鉱山技師、地質学者、建築家のほかにも多数の専門家たちがいた。セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の化学者などだ。
 また作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する日本の国公立と私立の大学教授や博物館の学芸員。
 それに仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧たちまでがいた。アジア全域の地形や地理に通じた専門家もいた。ベンはよく知らなかったが、つまり日銀、三井、三菱、住友それに、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債券類や紙・貨幣、それに財務資料や帳簿類を丹念に調べる行員たちだ。

 民間人たちは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするため働いていた。彼らは日本兵に警護されながらフィリピン全土に175ヵ所のサイトで仕事をする民間の専門家たちだったことがベンには分かってくる。
 ベンの目には1000人を超える朝鮮人、中国人、フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜の姿も映った。彼らは裸で両手を適当な長さの繩で縛られ、両足は逃亡を防ぐための鎖で繋がれていた。財宝類を入れた何百個の青鋼製や木製の箱を運んだり、スコップを使って土砂を掻き分ける作業に動員された。<奴隷>たちだ。彼らを見張る多数の、<日本人ヤクザ>たちの姿もあった。本部周辺を毎日数百台のトラックが砂ぼこりをあげて走り回っている。荷台はいつも捕虜たちか、または木製や青鋼製の箱を満載している。

 サン・フェルナンド本部周辺に隣接したトンネル8号サイトの地下空間の規模は大型のフット・ボール球場ほどだとベンはアダチ(山下奉文)から聞いていた。トンネル8号サイトはさらに周辺の自然洞窟とトンネルで結ばれていた。1キロ先のトンネル9号サイトは別の陸軍野営地の付近の地下にあり、「墓地サイト」と坪ばれる別の地空間とも地中で繋がっていた。つまり、トンネル8号サイトの出入口を爆破してしまえば、ほかの空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。1945年(昭和20年)6月1日深夜、トンネル8号を爆破して、立ち去ったキムス、山下、ベンの3人は当然その地下構造を知っていた。

 

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                        ★今日の1冊 三浦雅士『漱石』
                         (『出生の秘密』を脇に置いて。)
19 瀬戸内・水物語   
 
 ポンポン蒸気の旅(19、冒頭の)の前夜、私は遠縁の女性教師の宅で遅くまで過ごしていた。
 少女への想いは誰にどう語ったとてどうにもならぬことはわかっていたけれど、語らずにはいられぬこともわかっていた。彼女はいつになくやさしく聴いてくれてはいたが、同時にどこか上の空であることにも私は気づいていた。彼女も屈託を抱えていた。妻子のある同僚と少し前から恋仲に陥っていたのである。

 その日の昼前、2人と私はその同僚の家の前を歩いていた。夫人と顔を合わせる「危険」はあるが順路なので仕方なく、またそういう場合のために、暗黙の了解で私は眼くらまし役を勤めさせられていたように思う。同僚どうしといっても田舎のこと、男女が2人だけであちこち歩けば目立つ時代である。予想通りというべきか、夫人が家の前の水路で洗い物をしているのに出くわした。水温に変化の少ないこの水の都では、こういう風景は夏冬を問わず、どこでも見られたのである。
 同僚はさりげなく声をかけ、彼女は会釈し、そして夫人はほほえもうとして眼を伏せた。もともと地味で控えめ、どこかさびしげなところのある人だったが、少しの間に肩が落ち、小さくなったように見えた。私には衝撃だった。思い過ごしだろうか、「あわれ」という言葉が脳裏をよぎった。

 「Tちゃん、うち、止めようと思う」
 と、その夜彼女が切り出したとき、私は2人とも同じことを考えていたことを知った。「奥さんのあんな様子見たらつづけられない」と彼女は続け、「ああ、つらい」を繰り返した。それでも気を取り直して、験直しに私の歓送会をやろうと言い出し、酒もないこと、つまみも何もないことに気づく。もともとそうしたものを用意しておくような「女らしい」性質の人ではないのだ。これじゃ、水盃だな、水の町へのお別れにはふさわしいかもしれないね、と笑い出し「わたし、バカよね」から「きみもバカよね」の応酬のうちに、奇妙な共犯関係の解散式が執り行われた。

 後年私は、もう1人の元結核患者といっしょになり、海外の旅をともにすることが重なった。
 ある年私たちはスコットランド西方の島にいた。地主の大きな屋敷が民宿になっていて、主人が料理を作ってくれた。毎年家族でアジア中心の旅をするとかで、去年は日本へも行ったという話だった。
 部屋の水栓をひねったら茶褐色の水が出てきたので、一瞬おどろいたが、錆でないことはすぐわかった。宿への道すがら広大な泥炭層の池塘や沼地を通り抜けてきて、色は着いていても清冽な水であることは知っていたからだ。主人はゆたかな風味のある水なんだといい、これでウィスキーもつくる、つまり「生命の水」(ウスケボー)の素であるのだと説明してくれた上で、今夜はそれで日本風のご飯を炊いてみようと腕を捲り上げた。出てきたものは一種のリゾットで、奈良の茶粥を固くしたようなものだった。うすく塩味がついて、大きな鱒の乗った皿の一角を占めていた。味の方は、もう記憶にない。

 一風変わった水のご飯を食べたものだという連想からのフラッシュバックか、長年記憶の底に沈んでいた海水炊きのご飯の思い出がその夕べにはよみがえり、それにかかわる出来事や人、場所が鮮明につながった。こじつけめくが、泥炭層の地塘と同様、海もまた生きものを育む、それこそ生命の水なのだから、通じ合っておかしくあるまい。

 遠縁の女性とは船旅の年の暮れに西条に帰省したときに会ったが、おどろいたことにもう別の人と結婚したといって、夫君を紹介してくれ、彼には何もかも打ち明けているのよと幸せそうだった。彼女を亡くなった姉と重ね合わせ、生まれ変わりといつか思うようになっていた私には、それはひとつの「卒業」だった。
 少女のことは長く生死のほども知る機会がなかった。というより、その機会をつくる勇気がなかなか出なかった。それかあらぬか、私のデカルト的心理からの卒業も遅れたように思う。

 70を過ぎ病気がちになって、ようやく過去を相対化するゆとりや、自分のなかの「幼児性」とも向かい合う心構え、あるいは自分を突き放す勇気が生まれてきたように思う。親しい友人をつうじて消息を問い合わせたところでは、私の思い込みとは裏腹に、彼女はすっかり健康になり、順調に名門女子大を出て、ある中央官庁のキャリア官僚と結婚し、いまは成人した2児の母であるという。過去の空白を埋める作業は往々幻滅に終わりやすいが、幸せな例外であったらしい。あるいは生命の水の効能ででもあったのだろうか。

 19 瀬戸内・水物語 <了>
 

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