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●1945年6月1日、略奪金塊財宝で戦後日本は成り金大国に!
その瞬間の場面を前述のアメリカ人作家シーグレーヴは★著書で次のように紹介している。
地下貯蔵サイトに仕掛けたダイナマイトは予定時刻に爆発した。地下およそ70メートルのトンネル「8号サイト」と呼ぶ地下倉庫。その地底には「万歳!」を叫び、別れの宴に酔い痴れる175名の陸軍将官たちがいた。日本陸軍がフィリピン全域に設けた175ヵ所の地下貯蔵サイトの責任者たちだ。彼らはおのおのの持ち場サイトを爆破処理した上で、最後に残されたメインの8号サイトに全員集結していた。そのサイトの出入口が予定時刻どおりに爆破されたのだ。
出入口は崩壊、175名の将官全員が、倉庫内に山積みした金の延べ棒入りの木箱や青銅製の頑丈な箱に押し潰され土砂に生き埋めにされて死んだ。騙し打ちに会ったに等しい彼らにとっては、意図せざる殉死だった。爆発直前に地下倉庫からエレベーターで地上に昇り、地鳴りを感じながら山道を足早に去る3人の男たちがいた。終戦直前の1945年(昭和20年)6月1日深夜の出来事だった。この場面はシーグレーヴが生き証人から聞き出した話をもとに書いたものだ。
日本は敗戦を認める2ヵ月前のこの瞬間に、世界史にも類を見ない知られざる。成り金大帝国の地位を確定づけたとも言える。日本陸軍がアジア12力国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヵ所のトンネル地下サイトに隠し終えたからだ。最後に爆破した地下倉庫8号サイト1ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦特に世界1の金塊保有量(公称3千数百トンを誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定になる。
残る174ヵ所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。2008年(平成20年)2月現在、175ヵ所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は末確認だが、現地の信頼できる筋は、アメリカClAとイギリスの情報機関MI―6がここ15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。バチカン名義分1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン(後述)だと私に語っていた。ちなみに1945年の終戦から、ほぼ40年後の時点で世界の金の公称総生産量は年間約1900トンだ。
世界が為替の固定相場、金本位制(1971年ニクソン大統領が金本位制を廃止)を続ける限り、日本は戦争の勝敗とは無関係に国民は路頭に迷うこともなく、廃墟の中に埋没もせずカネには困らない国になる。国際法上はこの略奪巨大金塊は、連合軍、フィリピンの所有になる。だが、1945年(昭利20年)6月1日深夜は、戦後の成り金大国日本をトリッキーに保証するという象徴的な夜になった。が、このトリッキーな事実は戦後半世紀を過ぎても国家の主権者であるはずの日本国民には何一つ明かされていない。つまり、表面的には金塊財宝の秘蔵は国民を裏切ったままなのだ。何も知らない国民は敗戦でカネも私有財産も失い、食い物にもありつけず、貧困の極みの中で路頭に迷いながら必死に生きつづけてきたというのに。
だが、実際には日本政府はこの隠し金塊を密かに換金運用してきた。そうやって日本は戦後の経済大国に伸し上がった。しかし、政府はそんな事実を隠しつづけた。
60年前に蓄積した巨額な金塊と財宝は、殉死した将官たちが描いた戦後日本繁栄の夢を裏切らなかったが、戦後の国民は裏切られたままなのである。
●175名将官の生き埋め爆破現場から立ち去った陸軍中佐・竹田宮(キムス)と山下奉文大将
さて、8号サイトを爆発処理した深夜の現場の情景を証言した人物は、フィリピン人のベン・バルモス・ハーミン。地下倉庫地が予定どおり爆破される時刻の直前まで、日本人2人と地下倉庫にいて、足早に去った3人のうちの1人だ。ベンのこの体験談を公開したのが、アメリカ人報道作家スターリングとペギーのシーグレーブ夫妻たち。2人は2003年(平成15年)発刊の著書『ゴールド・ウオリアスー山下財宝のアメリカ秘密回収』(末邦訳、『黄金侍たち』とても呼んでおこう)で、爆破場面を、ぞっとする生き埋め事件と表現した。
ベンは一緒に8号サイトから一足先に立ち去った2人の日本軍人の名前も明かした。戦後半世紀余り日米間に潜みつづけてきた日本成り金大国の秘密が今、公の場に曝されたのだ。この事実を公開したアメリカ人作家達は金塊と財宝のみならず戦後史を今も私物化している正体不明の組織と人物たちから今、脅迫を受けていると嘆いている。
ベンの話では1945年6月1日深夜、ベンと連れ立って8号サイトから立ち去った2人の軍人のうちの1人は昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐・竹田宮恒徳(つねのり)。もう1人は連合軍からフィリピン防衛を指揮した陸軍大将・山下奉文(ともゆき)だったと作家たちに語った。
8号サイトを破壊したその日からおよそ3ヵ月後、山下陸軍大将はキアンガン山中の本拠地を下山、米軍のジャック・ケンワンジー陸軍中佐に軍刀を渡して投降、マニラ郊外のビバリッド刑務所に収監され、竹田は6月に潜水艦で日本へ帰国した。・・・略・・・
●アジア全土から略奪した金塊財宝の秘匿作戦総司令官が陸軍少将・秩父宮
秩父官は1943年にマニラで開かれた会議に、キムスにお供して出向いた際にベンが会った人物だった。アルバムには東久邇宮稔彦の顔もあった。キムスやほかの宮たちが陸軍少将秩父宮をチャコと呼んでいた記憶もベンは思いだした。秩父宮は時折真っ白なハンカチを口に当てていた。咳込むごとにそのハンカチが鮮血に染まる場面も思い出した。喀血なのだろうか。マニラで開かれた会議の目的をベンは最初知らなかった。
会議の内容は天皇の名のもとに、陸軍と組織化された日本のヤクザ集団たちが中国の地下組織と組んで、アジア12カ国の政府の金庫や民族の祖先を祭る墓所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所を漁っては略奪してきた金銀財宝(「金の百合」)をフィリピン全域の地下施設に隠す手順と進捗状況を確認するためだった。
キムスがチャコと呼んだ秩父官はアジアで金塊と財宝の秘匿作戦の総司令官を務めながらマニラ市外の地下サイトの監督責任者も兼務していた。キムスこと竹田宮は日本軍がアジア大陸と南アジアの島嶼国から強奪してきた財宝類を最後の集積地フィリピン全域に設けた175ヵ所の地下サイトに退蔵する作業を監督する第二司令官を務めていた。第一司令官はアジアの陸地と島嶼から集めた財宝をシンガポールに集めて管理指揮する秩父宮だった。
ベンとキムス(竹田宮)の出会いは偶然だった。
シーグレーヴの筆法によれば、初対面でキムスが即座に信じたのはベンの家族に対する素朴でひたむきな思慕の念や何よりもベンの実親に対する絶対的服従熊度にあったようだ。当時17歳のベンの日常は平穏だった。フィリピン山間部のバンガシナン集落で家族と暮らしていた。
しかしある日、米陸軍の新兵として地方軍に動員されたベンの父親エスティバンは、射撃訓練中に薬莢が左目に当たって失明した。
その後、寒村バンガシナン周辺は日本軍に制圧され、父エスティバンは捕虜となる。父親がわりの長男ベンは家族を連れて村を離れ、伯父の住むデュラオの村へ疎開することになる。
1943年1月、ベンがいつものようにサトウキビを刈っていると、突然目の前に現れた日本兵に銃を突きつけられて「サン・アントニオ部落へ行くにはどう行けばよいのか」と聞かれ、その方向を指すと「そこまで案内するように」と上官らしき男はベンに命令した。
「父の許しがないと行けない」と断ると上官は「ならば、父親のところに案内せよ」と言う、ベンは頷いた。この上官がアダチこと山下奉文で、このとき一人だけ白い軍服をきた青年軍人がキムスこと竹田宮だった。(一部、略・要約しています)
●明かされたフィリピンー175ヵ所の金塊財宝の秘匿地下サイトの実体
ベンはその前線基地で異様な光景を見た。サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵の数よりも争い民間の専門家たちが寝起きするのが目についたのだ。軍隊本部なのになぜこれはどの数の民間人が働いているのか。ベンは日を重ねるうちにその理由が飲み込めた。天然洞窟の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人たちだった。鉱山技師、地質学者、建築家のほかにも多数の専門家たちがいた。セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の化学者などだ。
また作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する日本の国公立と私立の大学教授や博物館の学芸員。
それに仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧たちまでがいた。アジア全域の地形や地理に通じた専門家もいた。ベンはよく知らなかったが、つまり日銀、三井、三菱、住友それに、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債券類や紙・貨幣、それに財務資料や帳簿類を丹念に調べる行員たちだ。
民間人たちは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするため働いていた。彼らは日本兵に警護されながらフィリピン全土に175ヵ所のサイトで仕事をする民間の専門家たちだったことがベンには分かってくる。
ベンの目には1000人を超える朝鮮人、中国人、フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜の姿も映った。彼らは裸で両手を適当な長さの繩で縛られ、両足は逃亡を防ぐための鎖で繋がれていた。財宝類を入れた何百個の青鋼製や木製の箱を運んだり、スコップを使って土砂を掻き分ける作業に動員された。<奴隷>たちだ。彼らを見張る多数の、<日本人ヤクザ>たちの姿もあった。本部周辺を毎日数百台のトラックが砂ぼこりをあげて走り回っている。荷台はいつも捕虜たちか、または木製や青鋼製の箱を満載している。
サン・フェルナンド本部周辺に隣接したトンネル8号サイトの地下空間の規模は大型のフット・ボール球場ほどだとベンはアダチ(山下奉文)から聞いていた。トンネル8号サイトはさらに周辺の自然洞窟とトンネルで結ばれていた。1キロ先のトンネル9号サイトは別の陸軍野営地の付近の地下にあり、「墓地サイト」と坪ばれる別の地空間とも地中で繋がっていた。つまり、トンネル8号サイトの出入口を爆破してしまえば、ほかの空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。1945年(昭和20年)6月1日深夜、トンネル8号を爆破して、立ち去ったキムス、山下、ベンの3人は当然その地下構造を知っていた。
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