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19 瀬戸内・水物語 <続>  
 
 短い秋が終わって受験のことも考えねばならないのに、私は田舎教師の境遇もいいなと思いはじめていた。ルソーの『エミール』などを持ち歩いていて、私の保証人格の遠縁の女性教師からどやしつけられたのはその頃である。彼女は女子師範を出た30代半ばの独身、「西洋人のよう」とよくいわれた色白で彫りの深い美貌と小気味のいい発言、人目を気にせぬさっそうとした物腰で、周囲の軟弱な男たちを圧倒していた。旧弊な母は私が彼女と親しくするのを好まなかった。ついでにいえば、文部省と愛媛県教育長に何十年もいじめぬかれてついに壊滅した愛媛の日教組の最後の何十人かに彼女は定年まで属すことになる。いかなる政党的背景もなしで。

 「Tちゃん」と彼女は言った。
 「いまのきみは何にだってなれると思っているでしょう。だけど、そうはいかない。校長や教頭のことは知ってるでしょう。彼らの読む本はせいぜい吉川英治よ。教頭はこないだ『宮本武蔵』は理屈っぼくて読みにくいとこぼしていたわ。きみは逆の意味で吉川英治なんてもう読めないと思っているでしょう。確かに彼らには知性なんてない。けれど、Tちゃん、きみは逆立ちしたって彼らほど優秀な小学校教師にはなれない。教室でも、職員室の人心収攬でも、教育長に適当にゆすぶりをかけて予算を取ってくるのだって。その点にかけては彼らは最高よ。
人には持って生まれた分というものがある。ルソーを読んだからといっていい教育者になれるわけではないし、『宮本武蔵』で挫折する程度でも、子どもたちを惹きつけることはできるの。きみは別の可能性を試みるべきよ」。

 そうか、「持って生まれた分」か。どやされて自分を考え直すきっかけをつかんだ私がのろのろと態勢を立て直し始めた真冬に入って、少女はまた学校を休むようになった。
 南国には珍しく粉雪のちらつくある日、この小さな城下町のお濠端を歩いていたら、人力車に乗った彼女を見かけた。インヴァネスを羽織った父君に抱えられるようにして、いつもはじけるように明るい顔が紙のように白く、こちらを認めて弱々しくほほえんだ。「ああ、病気が重くなったのだ」と思い、その瞬間、唐突だが、私は彼女に恋をしていた。

 ずいぶんあとになって思い当たったことなのだが、若い頃の私は結核にかかっている女性、それにもかかわらず健気にというか、ふしぎに明るい女性に惹かれる傾向があったように思う。そして、それはたぶん長姉の死に原因があった。
 この姉は5つちがい、20で亡くなった。不幸な育ちで、生後まもなく祖母に引き取られて神戸の両親弟妹と引き離されたまま、女学校の入学まで父の実家の島で育った。家付き娘であった祖母の、孫を手元におきたいというわがままから出た所業で、母は烈しく抵抗したらしいが、どこか祖母に頭が上がらない父の応援が十分でなく、涙を呑んだという。

 帰ってきた姉と母はうまくいかなかった。母には乳飲み子がいきなり1人前―と母には見えたー娘になって現われたという現実が俄かには受け入れられず、また姉の些細な言葉遣いや家事のやりかたにも祖母の影を読みとらずにはいられなかった。二階へ駆け上がって涙を拭いている姉を幾度か見かけたことがある。

 この姉は読書好き、文学好きで私とはウマが合った。言葉にひらめきや独特の感覚があり、姐御的なところがあって、私が失敗するといつもユーモアに包(くる)めて救ってくれるのが彼女だった。下の姉や弟とは別の、喧嘩にならない仲のよさというものがあることを、私は彼女で知ったのである。
 女学校を出て間もなく発病した姉は、弟妹への感染をおそれた父母によって、祖母のいる島の実家に移され、終戦の年に亡くなった。汽車の切符が取れず、出棺に間に合うのがやっとだった。待っていた祖母が蓋をあけると、死化粧をした姉の唇の端から一筋の血が流れていて、その生々しさに私は血の気が引いた。「おうおう、肉親がきてくれたのでよろこんでお迎えじゃな」と、祖母が巫女のように呟きながら血を拭き取ったのが、幻景をみるようだった。

 あの一筋の血が私のなかの「女性的なるもの」への想いをどう変えたか、よくはわからない。けれど、ちょうど哲学者デカルトの好きになった少女がたまたま斜視であったことから、以来彼は斜視の少女を見ると好きになり、そういう自分に気づくまでその性癖は改まらなかったという、あの有名な心理作用に似たものが私のなかでも繰り返されるようになったという気がする。もちろん「最初の少女」は姉であり、「斜視」は結核である。

 続く。
 

19 瀬戸内・水物語  

 小さい蒸気船を乗組員ごと1人で借り切って春の瀬戸内海を西から東へ、そう、途中で碇泊もして、何百キロかの海の旅を愉しむ・・豪華客船のクルーズも遠く及ばぬ、そんなぜいたくな船旅を、そのむかし経験したことがある。
 私は18歳。当時愛媛県の西条という、母の実家に近い小さな海沿いの町にいて、京都の大学に入学が決まったものだから離郷しなければならなかった。もちろんふつうなら鉄道で行くところだが、たまたま土地の船会社の御曹司が、私の姉に熱をあげていて、しきりに好意を示したがっていた。ついでの便があるから急ぎでなければぜひ使ってくださいよ、運賃は要らないという耳寄りの話。よろずタダ話には警戒する母の反対でこじれかかったが、いくらか、たぶん形ばかりの謝礼を取ってもらうことで合意が成立したらしい。それで夢の航海が実現した。

 船はほんとに小さいポンポン蒸気、つまり焼玉機関を装備した沿海回りの貨物船で、それでも操舵室のうしろ、船の最上階に畳2帖ほどのこざっぱりした部屋があって、そこを1人で占領した。船は西条の港を出て、途中多度津港で荷役を行い碇泊、翌日淡路島の西岸沿いに北上し、午後に神戸港に着くというコースをとる。御曹司のお声がかりのせいか、乗員は皆親切だった。ただトイレのタンクがなく、直接海に放散する仕組みなのはちょっと尻の辺が涼しかった。

 灯ともし刻になって夕食が運ばれてきたのに箸をつけると、米飯に程よく塩味がついていて、ふっくらと美味しかっと。若い機関助手にそういうと、「そうでしょう。船の飯は海水で炊くから美味しいのです」とニコニコした。
 しかし、と首をひねった。日本海運(ママ)が壊滅したあの大戦争から5年もたっていないにせよ、瀬戸内海は交通の大動脈で、まったくきれいな海とはいえない。現にこの船も糞尿を撒き散らしながら進んでいるではないか。いったいどこで水を汲むのかと聞いたら、沖へ出て深いところまでバケツをおろすときれいな水が流れているのだという。

 それはそうとしても、海水で飯を炊くなんて塩辛くて食べられないのではないかと、うかつな私は後年気づく。友人に商船大学の教授がいたので、どうなんだと実情を聞いてみた。彼のいうには、船では節水が大原則だから、練習船では米を研ぐときは海水を使い、最後に真水を適当に足すぐらいにする。その船もそうだったのではと。風呂も海水で、真水はシャワーだけという。

 それで遠い記憶を甦らせた。瀬戸内の小島には船と変わらぬ条件のところが少なくない。
 父の実家のある広島県の大崎下島も水にめぐまれなかった。実家には井戸が2つあり、中庭にある浅い井戸の水は海水交じりで洗い物や散水用、台所の井戸は深くて塩分が少なく、調理や洗濯用というふうに使い分けられていた。祖母に言い付かって、百メートルばかり離れた船着場までバケツで海水を汲みにやらされることもあった。魚をおろすときがそうで、それくらい水は大切にするものだった。台所の水さえ神戸育ちの私にはどうにも違和感のある不味さで、それが夏休みの楽しさを翳らせた。

 いや、水についてはもっと条件の悪い四阪島のようなところもある。ここは住友別子銅山の精練所が煙害防止の決め手として移った先、新居浜から海上20キロの岩の島で、いくら深く掘っても水は出ない。新居浜から毎日出る水船が最盛期で5千5百人の人口を支え、通勤者だけの無人の島となった今も通っている。

 妻は生粋の京都っ子だが、たまたま小学生時代、夏休みをここの叔母夫妻のところで送ったことがある。さぞ水には不自由しただろうと聞くと、ノンキャリアとキャリア組では状況はまるでちがったらしい。ノンキャリア組は海水使用の公衆浴場へ行き、掛かり湯の真水はバケツー杯、社宅でも5人家族で真水は1日1斗(=10升=18リットル)しか使えなかったのに、キャリア組の社宅は風呂水を含め無制限に供給されていたという。水使用量の格差は給与格差以上に身にこたえただろう。

 何で読んだか、「背負い水」伝説というのがあって、人間はみな一生に呑む水の分量を背中に負って生まれてくるという話を聞いたことがある。呑み尽くすと寿命がきて死ぬ。長年ここで暮らしたノンキャリアの人びとはせめて人並みの分量の背負い水にめぐまれて、ここで十分呑めなかった分長生きできるといいのにな、と思う。

 これに比べると同じ西瀬戸内でも西条は水については天国だった。大きな川があるうえに、南に聳える石鎚山という西日本一の高峰の伏流水が町中いたるところで自噴する水の都で、街のあちこち、思いがけぬところに水路が顔をのぞかせた。
 私が縁故疎開で神戸の学校から途中入学したここの旧制中学(現高校)はその水路の一部であるお城の濠のなかにあった。広々と水をたたえた濠をわたり大手門を潜って学校に入るのは藩校時代に戻ったようなちょっとした気分であった。四国の瀬戸内側は弘法大師の昔から、夏は旱魃に悩まされることが多かったが、ここだけは別天地なのである。
 話を貸切の船旅に戻す。
 いまから思えば空恐ろしいほどの贅沢な経験だったのに、もったいないことにそのときの私は片想いの恋に取りつかれていて、旅の楽しさや、さあこれから大学だといった高揚感どころか、見るもの聞くもの、悲哀感に塗りつぶされていた。せっかくの海水ご飯も泪のしょっぱさで味付けされていた。「泪とともにパンを味わったことのない人は、神よ、あなたの心を知らない」というところだったか。

 片想いの相手は小学校6年生の女の子で、私はその学校の代用教員だった。
 「代用教員」といってわかってもらえるだろうか。石川啄木がそうであり、田山花袋の『田舎教師』の主人公がそうであった正規の免許状のない教員である。

私は西条の旧制中学を出て、大阪の旧制高校を1年終えたところで、学制改革で新制大学を受けねばならぬことになり、それに失敗して翌年の受験までの間、代用教員を勤めることになった。中学4年(中学は5年だが、私は1年飛び級した)に高校1年だから計5年、いまでいえば高3で教職につく計算で、免許状どころか年限も、師範学校(教員養成学校)の卒業生に3年も足りない。教員不足の激動の時代であったから可能なことで、それに旧制高校合格者というのは田舎では「できる子」の鑑札だったのが役立った。ただ、あるとき女子師範出の23歳の正教諭より私の給料の方が高いことがわかって、それまで親切にしてくれた彼女が冷たくなったのには閉口したものだ。

 受験生がフルタイムの先生をやるなんてことは今では考えられないだろうが、当時はどうだったか、少なくとも私は、のんびりと憧れの「田舎教師」の境遇を楽しんでいた。
 担任は4年だったが、放課後水彩画を描いているところを6年の先生に見つかって、その先生のクラスの図工の時間をもつよう頼まれた。「(美術に)才能のある子がいるのだが、私では伸ばせない」というのが理由で、「才能のある子」というのがその子だった。新米の私の耳にも評判が聞こえているほど何につけても飛びぬけた子であったのに、肺結核で学校を休んでいてちょうど出てきたばかり。早速引き合わされて、この子には会った覚えがあると思ったとき、彼女も気づいて「ああ」とにっこりした。

 その頃私はロマン・ロランに凝っていた。彼のベートーベン論を読んでいていちばん困ったのは地方の小都市ではレコードを聴く場がないことで、たとえばロランが「マルヴィーダのソナタ」と愛称した晩年の名曲についての魅力的な叙述を読むときなど、口惜しい思いをした。可愛がってくださった中学時代の恩師にそうこぼすと、土地のことを知り尽くしている先生は、任せておけとばかりにレコード・コレクターである旧地主や住友の上級管理職の屋敷を連れ歩いてくださった。その1軒が彼女の家で、しつけの行き届いた家らしく、きちんとその子が挨拶に出てきたので顔は知っていたのである。

 彼女の兄は中学の同級生で、恐るべき早熟の読書家。1年の終わりに転校してきたばかりの私を質問攻めにし、ルパンでは『奇岩城』や『813』ぐらいを、子供向けの抄訳でしか読んでなかった私をせせら笑って、この誤解されやすい作家には堀□大学訳の、ゆうに大人の鑑賞に堪えうる作品群のあることを知らしめた男である。彼に会うたびに、田舎の素封家によくある蔵一杯の本とレコードを想像したものだ。柳田國男における辻川の三木家の蔵のような・・ただ、そこでの主人公は私ではなく、彼の面憎い姿だった。
   続く。 
 

 昨年末に、「年末になると、あちこちから「今年の一冊は?」という話し声が聞こえてくる。
 そんな時、私は迷わず、次の本を挙げる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/27566040.html として紹介した、

 ★高橋哲雄・『東西食卓異聞』ーミネルヴァ書房 2007.4.20刊 だが、
 「まだ紹介したい、著者・高橋哲雄氏の自伝とも言える、<19.瀬戸内水物語>など、ありますが、
  ここで、一区切りとします。」と書いた19.瀬戸内水物語 と、その前編というべき
  18.野ゆき山ゆき海辺ゆき を落すと何のための紹介だったのかという思いが強くなり、
  以下にアップしていくことにしました。
   

 *************

 18。 野ゆき山ゆき海辺ゆき

  あのひどく暑かった敗戦の日、中学2年だった私(著者・高橋哲雄)は、ほとんどの日本人とちがって天皇のラジオ放送を聴きそこねた。当時私と家族が仮寓していたのは愛媛県の西条という小さな町からすこしはずれた農村の大きな農家であった。村には集会所も理髪店もなく、皆が集まってラジオを聴くのに恰好の場所がなかったからでもあり、われわれ疎開者はやや情報から疎隔されていたからでもある。学校は夏休み中だったのか、私は部屋で飛行機のモデルを削っていた。

 庭に父がいて、そこに父と親しい、村では変人と呼ばれている本好きの農夫が現れ、「日本、負けましたよ」と声をかけてきた。プロ野球のひいきのチームの成績を告げるような淡々たる調子だった。父も穏やかな声で「とうとう負けましたか。ほんとにバカな戦争を始めよって」と応じ、2人して東洋をはじめとする指導者をこきおろし、連合艦隊はとうに海の底だのにどこまで続ける気かと思っていたが、まあ、これでよかった、と祝杯でも挙げかねない勢いであった。

 私は2人の非国民の話を聴きながら、これは少々やばいことになったと思った。父は浮世離れしたところがあるから気にもしていないようだが、占領軍による略奪、暴行、殺戮があるかもしれない。いや、それがふつうと考えた方がいいだろう。そうすると四国山脈の山中にでも逃げ込み、時がたつのを待つしかない。どこへ、どんなふうに立てこもればいいのか、自活のためにはどういう用意をすればいいか、仲聞にはどれくらいの範囲の友達を引き込めばいいだろうか。

 私はかなり風変わりな夢想家肌の少年だったのかもしれない。翌日から「赤とんぼ」と愛称された複葉の練習機が名残を惜しむかのように頭上を飛び回るのを見ながら、彼らは昨日までどこに隠れていたのだろう、こちらも見習いたいものだなと、候補地の物色に励むのであった。手はじめは別子銅山の廃坑や廃墟を考えた。かつては殷賑を極め、京大阪よりも早く興行を打つことで知られた大劇場まで持っていた山中の街のあることを、私は聞き知っていた。といっても碌な地図もなければ、話に乗ってくれる酔狂な友達、つまりハックルベリ・フィンもいず、そのうちに占領軍が意外に友好的であることがわかって、間もなく計画は放棄したけれども、それからも長く隠れ家の設計や食糧自給計画の作成の愉しみはつづけた。

 四国山脈には、どこかそういう「隠れ場」への夢想を誘うふところの深さがある。
 周りを海に囲まれているから、土地勘のない人には開放的な島国にみえようが、この山脈は西日本第1位と第2位の高峰である石鎚山と剣山が西と東を扼し、大きさと険しさ、深さを併せ待ったわが国でも第1級の山巓(さんてん)なのである。高知新聞社から『四国百名山』というよく売れた本が出ているが、「百名山」を本にしている地方は、東北、九州、そして信州とここぐらいのものである。

 そのいわば外周部がわが国最大の巡礼装置である四国八十八ヶ所の、1440キロに及ぶ札所巡りの舞台となった。「野ゆき山ゆき海辺ゆき」は佐藤春夫の詩(「少年の日」)から大林宣彦が借用して、彼の尾道映画のタイトルに使ったことで知られるが、これはむしろ四国遍路の、変化に満ちた行路を表現するにふさわしい。その舞台を支える骨格が四国山脈なのである。

フィクションの世界でも、この大山脈はいくつもの「隠れ場文学」を生み落とした。吉川英治の『鳴門秘帖』(1927年)はそのもっとも高名なはしりで、剣山の出牢に幽閉された幕府の隠密・世阿弥と彼が手に入れた阿波藩の謀反計画の証拠となる密書をめぐる隠密と彼を敵と狙う娘、女忍者、阿波藩の青年剣士などの入り乱れてのドラマである。法月弦之丞とかお十夜孫兵衛、見返りお綱などという名を眼にしただけで少年の血は騒いだ。

 大江健三郎の『同時代ゲーム』(1979年)は、江戸時代に幕藩体制から離脱した独立領をひそかに山中につくった民が、木蠟生産をつうじて得た富を国の収奪から守るために二重戸籍など秘策をつくし、大日本帝国の時代には国軍に対抗して50日もの戦争を戦い敗れて衰微するという神話的な物語で、舞台を著者の郷里である南予の内子町から入った肱川水系の山中にとる。

 このあたりから高知側の梼原(ゆすはら)をとおる道筋はかつて坂本竜馬が脱藩に使った路だが、「どこまで行っても山」の難路で、むかし私が車で抜けたときも、地図の表示が間違っているのではないかと幾度も疑うほど、距離が稼げなかった。つまり時間がかかった。高知出身の農業経済の碩学・山崎武雄先生にその話をしたら、「梼原? 高知の者でもあんなとこへゆくもんはおりゃせん」と、物好きぶりに呆れられた。そこもそうなのだが、四国の山中には「チベット」とか「秘境」と呼ばれるところが少なくない。

 梼原からは西、内子からは南にさがった山間の町に獅子文六が疎開をしていて、のちに『てんやわんや』(1949年)を書くが、ここも「四国独立運動」とか「求心運動」の志士がひそかに反中央の志を養っていた場になっている。

 「隠れ場文学」の極めつけは村上春樹『海辺のカフカ』(2002年)であろう。四国に地縁のない村上だのに、なぜか四国と、そこにあるはずの深い森を書きたいという気持ちがまずあって執筆にかかったということで(『少年カフカ』2003年)、おそらくは土讃国境近くであろうか、森を抜けた山中に幻想的な小さな集落をつくり出す。主人公の15歳の少年をそこへ案内するのは2人の脱走兵であって、彼らは第二次大戦直前の、シベリアの密林での対ソ戦を想定した大演習(*「関特演」のこと)のさい姿を消していた。彼らはいう。
 「この日本には、逃げられる場所なんてどこにもない。どこへ行ったってすぐみつかっちゃう。なにしろ狭い島国だからね。だから僕らはここにとどまった。ここがただひとつ身を隠せる場所だった」。ただ、この場所は現実の世界か異界か、この世かあの世か、さだかでない。・・中略・・

 野を行っても海辺を行っても、自然の豊かさがつくった人びとの柔和さに触れることが多かった。イチジク泥棒だってけっこう気付かれていたのではないかと、いまでは思う。だのに、あのギスギスしか時代でも怒鳴られることさえなかった。遍路道のかもしだす独特の施しの空気ということもあろう。それに、同じ遍路道でも伊予路は、太平洋側の土佐路とでは相当な気風のちがいがあったのではないか。高知県は、遍路道の行程が四国4県中もっとも長いのに札所の数は16寺のみ。愛媛県は26寺を数えた。寺や遍路たちを支える人口や経済力、そしてもちろん自然の苛酷さに明らかな差があったにちがいない。田宮虎彦の『足摺岬』1949年)にみる遍路宿の寒々とした情景は、瀬戸内側であればかなり違ったものとなっていたであろう。そういえば土佐は「修行の道場」で、伊予は「菩提の道場」とやさしい。

 四国山脈の山中に住むという少年(著者)の夢想は、思いもかけぬかたちで1年もたたぬ間に実現することになった。一家を挙げての山中移住「山行き」である。

 父は長いこと神戸税関で役人をしていたが、一家の縁故疎開を考えねばならぬことから、西条に近い新居浜のS鉱山に職を求め、敗戦の夏まで汽車で通勤をしていた。これはきつかったらしい。通勤時間帯にはすし詰めはおろか、デッキにぶらさがり、石炭庫の上に乗り、という状態も珍しくなく、それが鉱山の電車に乗り換えるともっとひどくなる有様で、もう50に近い父にはこたえたようだった。職場でもうまくいかなかった。役人暮らしが身についた父にはS財閥の気風はなじまなかったようで、上司と衝突を繰り返している様子は、夜洩れてくる母とのやりとりからそれと察せられた。父はあんな卑劣漢どもとはやっていけないといい、母はじゃあどうして食べていくのとやりかえした。

 続く。(字数制限のため)
 


もう一書から紹介しておきます。

『ジャパン・ハンドラーズ』より。
 副島隆彦監修 中田安彦著 2005年5月30日 日本文芸社

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 第四章 暗躍するカウンターパーツと骨抜きにされる日本

《 2004年に起きたカウンターパーツの世代交代劇 》

 ●ナベツネ・中曽根・キッシンジャー路線
 
2004年は、カウンターパーツの「世代交代」が行なわれた記憶すべき年になった。冷戦期の1970年代から2000年に至るまで、日本の戦後論壇に強い影響力を持ってきた、渡邉恒雄(読売新聞元社長、ナベツネ)と中曽根康弘(元首相)を中心にした「論壇サークル」の凋落という現象が起こったのである。

 それに代わり、台頭してきたのが、宮内義彦(オリックス会長)、孫正義(ソフトバンク会長)、三木谷浩史(楽天会長)らを中心とする、金融IT勢力である。「新政商」とも言うべきこれら日本財界人と連動する形で、竹中平蔵(経済財政担当大臣、参議院議員)のようなグローバリストたちが、アメリカ金融財界のカウンター・パーツとなり日本政財界の中枢で暗躍しはじめたのだ。

 ・・・中略・・

 投資ファンド(ハゲタカ・ファンド)が、日本をマネー・ゲームの実験場と位置づけ、従来のキッシンジャー・コネクションとは別方向から、管理するようになってきたのである。それに伴ない、カウンターパーツもガラガラポンと入れ替わり始めた。2004年に起きた日本プロ野球界のゴタゴタとナベツネの失脚も、本質はここにある。

 ●ナベツネ失脚の真実

 このナベツネと犬猿の仲だったのが、オリックスの宮内会長である。会員制情報誌『テーミス』(2000年9月号)には、その一端がこう紹介されている。

 「読売新聞の渡辺恒雄会長が、今春、『金貸しとは日本シリーズを戦いたくない』と発言して物議を醸した。金貸しとはいうまでもなく、オリックスの事を指している。今回は終始静観の構えだったが、宮内は何度も渡辺からの非論理的な口撃(ママ)を受けてきた。特にはなはだしかったのは、98年4月の頃だ。渡辺が巨人軍激励後に『オレの天敵は宮内だ』と発言」したという。同誌によれば、宮内が猛抗議し、ナベツネ側が謝ることで沙汰やみになったようだが、ナベツネと宮内の“戦争”は水面下でくすぶり続けていたのだろう。

 2004年の秋口に突如発生した明治大学の一場投手をめぐる裏金疑惑はナベツネ対宮内の最終戦争ともいえるものだった。裏金疑惑は、横浜ベイスターズ、阪神タイガースにまで飛び火し、各球団オーナーが辞任、球界全体を揺るがす大騒動にまで発展したが、この問題はどう考えても奇妙なのである。
 球界では、これまでも巨額の接待費が支出されている。現在のスター選手などに対して動いた金は、一場選手の200万円を優に超えるとさえいわれており、裏金は球界の常識ですらあった。

 重要なのは、このような慣行に常々批判的だったのが、オリックスの宮内オーナーであるという事実である。『日経ビジネス』(2004年8月30日号)には、オリックスが新人のスカウトでは契約金以外の裏金を一切使わなかったと、宮内流のプロ野球改革がわざわざ「紹介」されている。
 ナベツネと宮内は両雄並び立たず。宮内が、どうやら渡邉の寝首をかいた「張本人」であることがこの記事から、推測できよう。さらにいえば、ナベツネの球界失脚は、中曽根康弘元首相の政界引退騒動とも連動しており、旧世代の日米人脈が今、終焉を迎えつつあることをも示している。

《 新勢力・宮内義彦とはいかなる人物か?》

 ●M&Aで業務拡大

 ナベツネを失脚させた男・宮内義彦は、1935年に兵庫県で生まれている。父親は神戸の米国人商館に出入りしていた貿易商で、戦後は木材輸入業をやっていたが、決して裕福とは言えなかったそうだ。
 彼は、クリスチャンのメソディスト系の関西学院大学に入学すると、男声合唱団部に所属した。また、近所の西宮球場で熱心に野球観戦をする野球ファンでもあった。
 1958年に関西学院を卒業した後、父親が木材の輸入に使っていた貨物船の帰りの便に乗り込み、米国ワシントン大学に留学し、MBAを取得した。帰国後は、商社であるニチメンに就職したが、この会社のリース部門を拡張させるために、また渡米している。

 『文芸春秋』(2005年1月号)の記事によれば、社長となった1980年以降(特にバブル期)に力を入れたのが、不動産融資と米国仕込みの企業買収(M&A)だった。
 バブル崩壊による影響もあまり受けることがなかったオリックスは、パチンコ店やラブホテルを買収する。そして消費者金融向けの融資を手がけ、当時関西地方で有力であった、在日韓国人系の融資を担当する朝鮮系銀行などの顧客を吸収する形で、業務を拡大していったという。
  
 ●あおぞら銀行買収劇の裏側

 オリックスが、大きな注目を浴びたのは2000年、日本債券信用銀行の受け皿となった「あおぞら銀行」への出資である。このときに名乗りをあげたのが、オリックスの宮内会長と、ソフトバンクの孫会長である。
 あおぞら銀行の有価証券報告書によると、2002年の段階では、ソフトバンク(48.87%)、オリックス(14.99%)という株主比率だったが、2003年に投資フ
ァンドのサーベラスが、三井住友銀行に競り勝つことで、ソフトバンクの握っていた株式とその他の少数株主の株式を買い付けて、一気に筆頭株主にのし上がった。
 最新のデータ(2004年9月期半期報告書)によれば、サーベラスは61.84%の大株主であり、オリックスの分を加えると75%を超える。
 注目すべきは、この「あおぞら銀行」の筆頭株主となっているサーベラス・ジャパン(サーベラス日本法人)のアドバィザリー・ボード(顧問)のチェアマンに宮内が就任していることだ。
 この点について彼は、「外資が日本にあることは安全保障上も必要」(『日経ビジネス』2001年10月22日号)と自ら認めている。
 同社の商業登記データによると、設立は1997年で、現在の代表者はルイス・ホースターとなっている。そして役員には、スティーブン・A・ファインバーグという米国人が就任している。このファィンバーグは、いくつかの投資ファンドを運営しているニューヨークのファンドマネジャーである。
 彼はデラウェア州に本拠を持つサーベラスのマネジング・ダィレクターを務めており、サーベラスの他に「アブレコ」という投資ファンドの最高経営責任者(CEO)も務めている。この投資ファンドの経営陣はサーベラスの経営陣ともかなり重なる陣容だ。

 サーベラスは公式ホームページもなく、住所も一般には公開していないが、ファィンバーグを手がかりに、「アブレコ」について調べると、宮内の持つ金融コネクションの姿が明らかになってくる。

 サーベラスの会長を務めるのが、父ブッシュ政権の副大統領であったダン・クウェールである。

 また、「あおぞら銀行」の社外取締役には、現ブッシュ政権の前大統領経済担当補佐宮だったローレンス・リンゼーが宮内と共に名を連ねている。このサーベラスによる「あおぞら銀行」の買収は、未設資ファンドのリップルウッド・ホールディングズが主導した旧日本長期信用銀行(現新生銀行)の買収と同様に、ハゲタカファンドの「日本金融占領」として記憶されるべきだろう。

 付け加えておくと、新生銀行の現会長(元頭取)である八城政基(やしろまさもと)という人物は、ロックフェラー系の金融機関のシティバンクの在日支社長や、エクソンモービル系のエッソの会長などの経歴をもつ人物で、現在は中国建設銀行の社外取締役も務めている。

 この新生銀行の買収には、米欧の金融資本のオールスターというべき人々がかかわっており、デヴィッド・ロックフェラーやポール・ヴォルカーが重役会に名前を連ねるほか、イギリス・ロンドンの銀行家である、ジェイコブ・ロスチャイルド男爵も資金を出して参加している。

 ●エンロンと手を組んだオリックス

 宮内は、内閣府に設置された小泉政権の「規制改革・民間開放推進会議」という審議会の議長でも
ある。

 いわゆる「混合診療の解禁」や「株式会社による病院経営の解禁」が議論されている会議だが、医師で医療評論家の崎谷博征(さきたにひろゆき)によれば、この混合診療の解禁で宮内は、民間の保険会社のビジネスチャンスをつくり出そうとしているらしい。

 この会議では、政府業務の民間委託という課題についても実施に向けた検討を行なっている。
 彼は、「市場化テスト」という官民競争入札制度の導入によって、刑務所の運営など日本のお役所仕事を民間に開放し、外資と自分の金融会社のためにもなる新たなビジネス参入の機会をうかがっているのだ。

 彼は、いわば「外資の水先案内人」である。米エンロン社を主体とした、日本の電力事業再編にも、オリックスはエンロン小会社「イー・パワー」を通じて、参入しようとしていたこともいくつかのリポートによって判明している。

 外資の「忠犬・ポチ公」をやれば、自分たちにもビジネスチャンスが回って来るという発想なのだろうか。
 
 前出の『文芸春秋』のリポートによれば、規制改革会議の発表した「中間とりまとめ」(2004年8月)に「税金等の徴収業務」の民間開放について検討されていることから、彼のことを「ロー了帝国の徴税請負人」と批判する官僚の意見を紹介している。文春のリポートでは述べられていないが、このローマ帝国はアメリカ帝国の例えだろう。

 私はむしろ、彼は、徴税請負人というより、絶対王制の時代に国王のそばに付き添って経済政策のアドバイスをした、「宮廷ユダヤ人」というほうが正しいのではないかと思っている。この宮廷ユダヤ人たちは、国王に増税項目を献策して、その徴税業務を国王から一任された金融業者であった。

 一つ気になることは、宮内の主著である『経営論』(東洋経済新報社・2001年)の各章の扉に、「ダビデの星」があしらわれていることだ。これには一体何の意味があるのだろうか? これがブラック・ジョークであることを祈りたいものである。

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少し「寄り道」になりますが、・・・

著者・李啓充の下(前稿で引用)の発言は『週間医学界新聞』2004年1月19日号のインタビューでなされたものである。

 「・・・株式会社の医療への参入の問題ですが、これを一番強く主張しているのは規制改革・民間開放推進会議です。ここはビジネスチャンスの創出という観点からものを言っています。
混合診療についても同様です。同会議の議長は前身の総合規制改革会議の時代から、★宮内義彦氏(オリックス会長)が務めています。オリックスは医療分野に積極的に進出している企業であり、今後、医療におけるビジネスを拡大することをめざしています。・・・」

この宮内義彦とはどういう人物なのか?

先ず、【ウイキペディア】によると、

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宮内 義彦(みやうち よしひこ、1935年9月13日 - )は、兵庫県神戸市出身の実業家。オリックス株式会社取締役兼代表執行役会長・グループCEO。日本経団連副議長でプロ野球オリックス・バファローズのオーナーも務める。

来歴・人物
関西学院中学部・高等部を経て、関西学院大学商学部卒業。在学中は関西学院グリークラブに所属する。1958年に同校を卒業し渡米。ワシントン大学大学院でMBAを取得。1960年に帰国し、日綿實業に入社。1964年、日綿が三和銀行と共にオリエント・リースを設立すると、その旗揚げメンバーとして移籍。1980年、2代目社長の乾恒雄の後任として代表取締役社長に就任。2000年、同会長(2003年の委員会等設置会社移行に伴い取締役兼代表執行役会長)に就く。規制改革・民間開放推進会議議長。

政界と強力なコネクションを持ち、規制改革関連の審議会の長を10年以上歴任した。市場原理の徹底にもとづいた規制改革論者として知られ、混合診療の採用や労働保険の民間開放などを持論としている。自ら長を務める審議会において「市場経済による競争社会は強いものが弱いものを取り込む「弱肉強食」社会ではなく、優れたものは消費者に支持され、劣ったものは消費者に支持されず消えていくという当たり前の社会、「優勝劣敗」の社会である」と持論を述べた上で規制緩和を実施し、同時に自らが保有する企業規模の拡大を図った。そのため、「国民の命と健康を軽視している」との批判もあり、「政商」と揶揄される事もある[*1]。


●球団オーナーとして
財界一の野球好きとして知られる。少年時代からの野球好きを自認し、還暦を越えてなお草野球で投手を務める程(ちなみに左投げ)である。1988年、社名を「オリエント・リース」から「オリックス」に改めるのに合わせ阪急電鉄から阪急ブレーブスを買収し、それ以降球団オーナーを務めている。

オーナーとしてはビジネスライクで知られ、球団経営にかける金額を出来るだけ低く抑えようとする姿勢から「ケチックス」と揶揄される事もある。地域密着より企業の露出を優先する姿勢も目立ち、「球団を持っていれば、あのNHKまでもが連日スポーツニュース等でオリックスの名を出してくれる。それだけで球団を所有する意味がある」と発言した事がある。

球団経営に関してはその手腕とセンスに疑問が持たれるが、野球好きである事はまぎれもない事実であり、試合観戦は現12球団のオーナーの中で最も多く行っている。しかし、後述する球団合併問題や現在に至るまでチーム名の変更・本拠地の移転・球団OBの冷遇等、ファンの心理を省みない経営を強引に進めて来た結果、球団オーナーとしては「12球団で最も評判が悪く、野球ファンには良い印象を持たれていない」と評価されている[*2]。最近では渡邉恒雄以上に宮内を嫌う野球ファンも多い。


●プロ野球再編問題での評価
2004年プロ野球再編問題では球団合併の当事者であった為、新聞等のインタビューに「何がベストかわからない。1リーグが良いと言ったことは無い」と応えながらも、「1リーグ」推進論者と見なされた西武ライオンズ・堤義明、読売ジャイアンツ・渡邉恒雄両オーナー(いずれも2004年当時)と共に、プロ野球ファンからの激しい批判を浴びた。宮内自身は合併騒動に関してインタビューなどで「球団の経営基盤を強くするため。広告宣伝だからいいという考えがプロ野球の一番の問題。これでは経営の合理化や改革は出来ない」と答えている。 そうした考え故に球団合併問題の際、東北楽天ゴールデンイーグルスの加入によってパ・リーグを6球団に戻す事に最後まで難色を示していた。しかし、世論やプロ野球ファン全体からの風当たりが日に日に強くなり、最終的には宮内が折れざるを得ない状況となった。

上述の通りあまりにも強引な手法のため、合併によりオリックス側にプロテクトされた岩隈久志と中村紀洋はオリックス入りを拒否し、岩隈は義父がコーチを務めているイーグルスに、中村はLAドジャースに移籍した(後に中村は帰国しオリックス入りするが球団上層部と対立し、6度に渡る契約更改で決裂した結果自由契約となった[*3])。これらの強引な手法は球団経営と同様に現在でも疑問が持たれている。

脚注
*1: 近年問題になっている格差社会や偽装請負の問題について指摘されると「パートタイマーと無職のどちらがいいか、ということ」と発言し物議を醸した。
*2: しかも近年はチームの成績が伴っているとは言えない状況の為、評価は下がる一方である。また、野球解説者の江本孟紀からは自身の著書を通して「宮内さんは本気でチームを強くしようとしているとは思えない」と痛烈に批判されている。
*3: この一件では、中村を「自業自得」・「わがまま」と批判する意見も存在する。しかし自由契約後は落合博満・中日ドラゴンズ監督の計らいで入団テストを経てドラゴンズへ育成選手契約で移籍し、その後実力が認められて支配下登録され2007年の日本シリーズでMVPに選ばれる等の活躍を見せ、現在はドラゴンズの主力選手として復活している。

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